ももすけの日記

品良きは背筋伸びたる夏帽子
ああ面白かったと言って死ねたらいいな

年の暮れ

2006年12月28日 00時59分00秒 | 日記
昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、、、

昨日も今日も同じように時間は過ぎているはずなのに、そして新しい年といっても、おなじ一日がはじまるだけなのに、用事を済ませておかなくちゃ、と毎年この時期になるとあわてるぼくのおかあさんです*(汗)*

いえ、用事といったってたいしたことはないのです。普段、片付けていないから、きちんときれいにしたいだけ。

ある方の日記に「とりたてて大掃除などはしない」とありました。
この方は、普段からきちんとされているのでしょう*(OK)*

ぼくんちはどなたかお客さんが無いときれいになりません。
だから「新しい年」さんもお客さん*(キラキラ)*
いえ、現実にお正月休みがあけるとお客さんを招いているのです*(びっくり1)*

齷齪、齷齪・・・
で、とどのつまりは”まっ、いいか、どうせ昨日も今日もおんなじだしね”

そうして、お正月は温泉で過ごすことになります*(温泉)*
もちろん、ぼくもいっしょに連れていってもらうんだ*(ラブリー)*

裸になってしまった落葉松の木々の間から日に浴びてキラキラ輝く雪を見るのが好き*(雪)*

今年もぼくんちに来てくださってありがとう。
どうぞ、よいお年をお迎えください*(ラブリー)*






メリークリスマス

2006年12月25日 00時27分00秒 | 日記
ぼくんちは一応仏教徒なので”メリークリスマス”というのがなんだか気恥ずかしいのですが、それでもイルミネーションで華やかな街に出ると胸がわくわくしてきます*(ツリー)*

なぜなんだろうね、あの灯りに心がほぐれていくような気がするするのは*(キラキラ)*

神戸のルミナリエは震災で傷ついた人々の心を元気にするために始められたそうです。

テレビでもあちこちのイルミネーションが素晴らしいけど、実際にあの光の洪水のような場面に立ち会うとなぜか知らずに感動してしまいます。

ぼくのお散歩道でもホームイルミネーションというのかな、あちこちできれいに飾り付けているおうちの前を通るのが楽しみ*(音符)*

光は希望なのでしょう。
希望と夢とは少し違うかもしれないけど、だんだん年を重ねてきて、ふと『夢』がなくなってきていることに気付いて戸惑っています。

高校生のとき、先生から「夢見る夢子」だね、と言われました。
そのことを忘れて、ずっと夢みたいに過ごしてきて、何10年ぶりかの同窓会で再度、その先生から「相変わらず夢子さんだね」と言われて、そうだったんだ、わたしは夢見る夢子だったんだと自覚。

でも、先が見えてきてしまうと『夢』は見られない。。。

年をとるということは、肉体だけでなく、こころのうえでも残酷だなぁ、と思ってしまいます*(涙)*

だけど、あの光の洪水の中で、やっぱり『マッチ売りの少女』の気分になってしまうのは、まだまだ「夢子」かもしれない*(ハート目)*





見えないもの

2006年12月18日 12時29分00秒 | 日記
ぼくの新聞を読むたのしみのひとつは本の広告です。

今朝は2つ。

見えるものばかりを追いかけていたら人はどんなことにも絶望するしかなくなるだろう。
生と死の分かちがたい関係を突き詰める傑作。

証券会社をリストラされた友人からメールが届きました。
「知り合いが自殺した」
その時に、何を書くべきか、はっきり言葉になりました。
「死ぬな」です。
会社や仕事のために、死ぬな。
僕の会社員時代、手ひどいトラブルに見舞われた時や、逃げ出したくなるような決断に迫られた時、同僚のひとりが、よくこう言ってました。
「だいじょうぶ、死にゃあしねぇよ」


本は自分が体験しえないことも教えてくれますが、同感、同感というたのしみもあたえてくれます。

いつかずっと昔にとても熱中して読んでいた灰谷健次郎が本棚にまだあるのをみつけて(彼が亡くなったというニュースを聞いて、読んでいたなぁ、と懐かしく思い出していました)昨夜からぼくのおかあさんは読んでいます。

しかし、その内容、ちっとも覚えていませんでした*(汗)*




日記

2006年12月16日 10時22分00秒 | 日記
12月、Cafeを1月から始めている人の日記欄は四角にきれいな形になっている。

ぼくは10月からだったから、どうしてもきれいな四角にはならないのでうらやましくてしょうがない。

ひとさまの目をまるで気にしているわけではない。
だが、ぼくはここに書くことで自分のこころをいさめてきた。

本を読むように、ひとさまの日記を読ませてもらって、自分ひとりが体験できないことを感じたり、なるほどと教わったりしている。

ご主人が重いご病気に罹られたFちゃんを励ますサークルに入れてもらった。

折り鶴を折りだす。
Fちゃんのご主人への願いをこめて折る。しかし、折り鶴には自分自身をかんがみる時間も作ってくれている。

折り鶴の千羽にみたず年暮るゝ     しげる

ずいぶん昔に亡くなった母のお師匠さま(当然、この方も今はいられないだろう)のお句である。もしかしたら、80歳を過ぎてからのボーイフレンドであったかもしれない。
留守をしている間にこの短冊が置いてあったそうだ。我が家には鍵というものがなかった*(家)*

今、ぼくんちの和室にその短冊はある。
午後から今年最後の句会です*(鉛筆)*





『マーリー』

2006年12月09日 13時22分00秒 | 日記
世界一おバカな犬が教えてくれたこと、という副題がついています*(ジョリー)*


>常識はずれな考え方かもしれないけれど、マーリーを失ってみてはじめて、すっかり合点がいったことがある。マーリーは良き師だったのだ。かなりいかれた、やりたい放題の問題犬が――人生において本当に大切なのはなんなのかを、身をもって示すなんて。忠誠心。勇気。献身的愛情。純粋さ。喜び。犬は肌の色や宗教や階級ではなく、中身で相手を判断する。こちらが心を開けば、向こうも心を開いてくれる。それは簡単なことなのに、にもかかわらず、人間は本当に大切なものとそうでないものとをうまく区別できないでいる。


傍若無人のエネルギーで数々の騒動を引き起こしたラブラドール・レトリーバー『マーリー』
大きな体の犬が12歳の生涯を閉じるのは壮絶でした*(涙)*

だけど、犬といってもいろいろいるからね。人間はよく犬派とか猫派とかいうけど、その分け方でなら、ぼくは猫的犬かもしれないと思う。同じヨーキーでも先代ももすけ(血はつながっていない)とは考え方も行動も違っているらしい。

でも、ペットを飼っている人間はよく似ているとぼくは思う。
人間を区別するとしたら「ペットを飼っている人間」と「ペットを飼ったことの無い人間」と分けてもいいかな。ペットから喜びや教えや悲しみや苦労や、いろいろなものが与えられるから。

本文中には載っていないけれど、作者はマーリーの死後、また、同じラブラドールと暮らしているそうです*(ラブリー)*

おかあさんはこの本を読み終えて、おねいちゃんが読み終えた「手紙」と交換。昨晩は3時まで読んでいました*(キラキラ)*