ももすけの日記

品良きは背筋伸びたる夏帽子
ああ面白かったと言って死ねたらいいな

忘れないうちに(つづき)

2013年01月28日 00時26分17秒 | 日記

明るい日がさんさんと降り注いではいるけれど、とても冷たい金曜日の午後、おかあさんはお家に帰ってきました。

ぼくは居間でお昼寝をしていましたがすぐに気がついてかけよりました。

でも、おかあさんは部屋に入るなり南側のデッキの白に反射してか、カーテンが真っ白にまぶしく光っているのに驚いていました。

白内障日記、後半を忘れないうちに。

 

1月21日(月)   晴

9時に病室にもどる。

足下のYさん(喘息)もKさん(リュウマチ、肺)も私が外泊する前より具合悪くなっている。隣に新しく白内障手術を受ける女性Iさんが入院してくる。看護婦さんから目薬の説明を受けている。あ、忘れた!自宅に持って帰っていた目薬、持ってくるのを忘れていた。あわてておねいちゃんに電話して持ってきてもらった。

午前中の簡単な診察のあとはなにも用事がない。配膳の『メリーさんの羊』が聞こえてくるとわくわくする。昼食は牛肉細切り炒め、キャベツのレモン和え、沢庵、オレンジ。時間がいっぱいあるからゆっくりゆっくり味わって食べる。味わって食べるということが人間としてとても尊いという気がしてきた。

『犬と私の10の約束』川口 晴、読み終える。『0戦』ほど泣かなかったけれど、何度もうるうる。手術前に読み終えておいて正解。

 

1月22日(火)   雨

隣のベッドのIさんが手術を終えて戻ってきて、その次かなと待っていたが予定時刻の11:15よりまた30分ほど遅れて看護師さんが迎えに来てくれた。6階の病室から2階に降り、長い廊下をつたって手術室までの車椅子は面白いような、こわいような。手術室の扉の前ではやはり緊張感。

手術室の開閉は足で行う。向こうから助手の先生だろうか男性が迎えに来てくれ看護師さんからバトンタッチ。「片方の目の手術を終えて、やっぱり止めます、と帰る患者さんていますか?」と聞くと、やはりいますよ、とのこと。これから手術というのに彼は「手術してもあんまりかわらないでしょう」と言った。しゅん。。

2度目というのはまた違う不安感。最初のことがまだはっきり脳裏に焼き付いている状態だから、あれ、前と少し違うとか。麻酔はしているが、ぐい、っとほじくられている感触はある。背景(視界)も広く見えたし、前回はブルーの印象が強かったけれど今回はどちらかというと薄いピンクに四角いライトが紫に見えたり黒い赤に見えたり。手術時間は前回より少し短く感じた。

 

1月23日(水)   晴

病院の朝は早い。6時くらいからNHKfm、リコーダとチェンバロ、ビオラのソナタ。

トイレに行って鏡を見てひとり吹き出してしまった。手術した左目はガーゼで覆われ、先週した右目はカッペといって透明なカバーを絆創膏でやけに派手に固定され、その上にマスクをしている。カッペをはずしましょうね、とお部屋に来た看護師さんに、ちょっと待って、と、取る前に写真を撮ってもらった。こんな患者も少ないだろう。

だが、こんなに暢気でいられたのは9時の検診まで。手術した左のガーゼも取ってもらって全開。ううむ、右目と同じ程度かな、見えてよかった。

が、同じ日に片方の目を手術したIさん。「わー、遠くまではっきり見えるぅー」と。彼女は私とほぼ同年代、近視も同じ程度のど近眼で視力表の一番上も裸眼では見えない。それが、手術した方の目が飛躍的に、そう、病窓から見えるPLの塔がくっきりだって!私は輪郭すらおぼつかないのに。

人口のレンズの焦点を近くにするか遠くにするかは診察の時に事前に説明があった。私は車の運転をしたいのでと言ったら、あなたのきつい近視と乱視ではどちらにしても矯正のメガネかコンタクトレンズは必要です。遠いところに焦点を合わせたレンズにすると日常生活にほとんどの人が不便を感じます、と先生は言いきったのだった。そう言われて、遠くに合わせる勇気は無かった。でも、Iさんは遠くに合わせてくださいと言い、先生はわかりました、と。

え、え、なんで、なんで、私は近くしか見えないで、Iさんは遠くも近くも見えるの!!

午後、外来での診察があって、主治医にこの件をただすがIさんのことを話しても具体的にはわかってもらえなかった。Iさんもそんなに見えてないはずだと。でも、彼女は見えていると言っている。

冬の夕焼け、茜色の雲が美しかった。

『アムリタ』(上)吉本 ばなな・・・・・・1日は1日を終えるとき、何か大きくて懐かしくて怖いほど美しいことをいちいち見せてから舞台を去っていくのだ

一晩中、悶々として眠られなかった。下巻を読むも、気が入らず。以前より何段階かはよく見えているし、ご飯もおいしくて幸福感で満たされていたのに急転直下。

 

1月24日(木)   快晴

今朝のお天気のいいこと。気分も落ち着いた。最初に感じたように手近なものはよく見えるし便利になった。比較すると不幸のどん底のようなショックだったけれど、隣のベッドのIさんは3年前に62歳のご主人を亡くされている。

同室のYさん、ぜんそくが悪化して個室に。話をしていないと気分がすっきりしないというIさん。それから退院するまで何度も何度もお部屋をのぞきに行く。

Iさんは偶然にも実のお姉さんと同時に入院、同じ白内障手術という。3人姉妹になって、しばし会話を楽しませてもらった。

夕食は和風ハンバーグ。これが今回の入院中一番おいしかった、最後の晩餐。美味しいものを食べるとしあわせな気分になれる。それから、夜、入院時に担当だったT看護師さん「明日、退院ですね。おめでとうございます。」と言いに来てくださる。この病院、いや、この病院の6Fにはほんとうにいい看護師さんを保有しているな、と思った。看護婦さんにもいろいろあって、①ため口でも親身、②言葉遣いは丁寧で親身、③言葉遣いは丁寧で冷たい。

毎日担当の看護婦さんは替わるが③の人は一人いた。①の人は何人かで、あとは②が多かったと思う。看護婦さんに限らず言葉遣いは丁寧なのがいいとあらためて思った。その点、医師は言葉遣いは丁寧だが冷たいのが多いように思う。

『おはん』宇野 千代 、『玻璃の天』北村 薫 読了

 

1月25日(金)   晴

夜中に雨が降っていたようで6Fの窓から見る地面は濡れているようだ。これだって、以前の私の裸眼では見えなかった。

二上山の少し右から朝日が昇り、葛城山、金剛山と連なり、右の方には関空の海、この素晴らし景色よありがとう。

血圧や体温を計るとき、いっしょに指の先にちょこんとつけるパルスオキシメーターという酸素を測定する器械、コニカミノルタ社製だったことを発見。

さて、お昼ご飯の掻揚げてんぷらそばを食べて退院する。

最初に書いたように家の中がやたらと明るい。夕方電話してきた友人にそのことを言うと「あっら、いいお嬢さんねぇ、お洗濯なさったのね」だって。違う、違う、そんなはずは絶対ない。デッキのペンキも真っ白なのだ。驚いたことに、白いお皿も真っ白。レースのカーテンをお洗濯してもちっとも白くならないからと2年前にもともと少しベージュがかったのにしたのだったが、それが真っ白だったなんて。。

 

 

、、、そのお嬢さん(ぼくのおねいちゃん)はインフルエンザで金曜日から寝込んでいます!おかあさんは患者から看護婦に目まぐるしく変身。

そのうえ、パソコンがどうも変。ようやく続きを書き終えましたが、更新できるかどうか?とても接続に時間がかかります。

 

 

 

 


忘れないうちに

2013年01月20日 14時53分39秒 | 日記

白内障手術、片方の目を終えて、おかあさんが金曜日の夜におうちに帰ってきました。

ぼくはもう、もう、うれしくって、うれしくって体をどう表現したらいいのかわかりませんでした。

でも、もう、すぐに、普通にいつもと変わらないと思うようになりました。

おかあさんが入院中にメモしていたことを忘れないうちに書きとめておきます。

 

1月13日(日)  晴

手術予定日の前日に入院ということなのだけど、その日は祝日に当たるからその前日ということで。でも、その意味がよくわからない。

6階の12号室、4人部屋の南側。この病院は高台にあって日当たり抜群、しかも、自宅が見えそうな位置(実際は大きなお家の陰で見えないと思う)PLの塔が真正面、花火の日は特等席だろう。

でも、何もすることはないので昼食を終えて徒歩で帰宅。ゆっくり歩いても10分とかからない。

 

1月14日(月・祝)  雪のち霙のち雨

朝、再び病院へ。若い男の看護師さんが本日の担当。多分、かっこいいと思うがコンタクトをしていないのでよく見えない。

11時、病棟で明日手術を受ける人8人の診察。片方の手術を終えた人の方が多いような、、、担当のS医師の評判は良好。

昼食はすき焼き。府立病院の食事は不味いと誰かが言っていたがそんなことは無い、美味しかった。同じ府立の成人病センターより美味しいかもと13年も前になるが思い出していた。ありがたく良くかみしめていただく。

でも、あとは何もすることが無い。少し読みかけていた『永遠の0』百田尚樹を読む。

夕方、明日からお風呂に入れないのでと入浴。自宅と同じようなユニット風呂。これなら一人ひとりお湯を入れ替えるから気持ちいい。

でも、メガネもはずしているからどこがどこやらわからない。呼び出しのボタンを押してしまったのか、先ほどの男性看護師さんが飛んできた。「どうかしましたか~?」とカーテン越しにきかれたので「いいえ、押していませんけど」としらを切る。

夕食はスズキのカレームニエル、ポテトサラダ、豚肉と大根炒り煮、美味しかった。

本が面白いので読み続ける。文庫本だけれどエピローグを含めると575頁もある。解説は亡くなった児玉清さんが書いていた。

とうとう12時過ぎまでかかって読み終えた。途中、何度も泣いたから、目の手術の前に読み終えて良かったと思った。

0とは戦闘機0戦のこと。戦争を知らない私でも戦争を知っている人から直接話を聞くことができる。でも、それより若い人たちは、もっともっと戦争は遠いものになってしまう。子供たちにも読ませたい本だと思った。自衛隊が国防軍になって、軍備費が膨大にふくらみ、あれよあれよと戦争に突入、なんてことにならないことを願う。

ベッドの中でときどき、傍らにmomoがいないのを感じる。いつもはほとんど密着して寝ているから私が少しでも動くと、momoはう~っと唸る。私はいつも遠慮して寝ているのだ。

 

1月15日(火)   快晴

病院の明日は早い。何だろう♪・・・と思っていたら『エリーゼのために』はナースコールだった。

配膳は『メリーさんの羊』

7時30分、東に見える二上山の右側から朝日が昇ってきた。いいお天気のようだ。

目の手術はこわいけど、たくさんの人が受ける。死ぬことも同じかもしれない。

新しいものは買わなくていいかと思っていたのだけれど、やはり、と入院前日になってパジャマを買いに行った。グレーだけどキティちゃん柄。当然とばかりL寸にしたが少し大きい。入院時にはかった身長が159・2cm。小さくなっている、ショック。長い間、自分は160cmでL寸と思っていたけど、今は160cm(159cmでも)はM寸の時代なんだな。患者のおばあちゃんたちの中に立つと大きい方だけれど、エレベーターで若い看護師のお姉さんたちの一団といっしょになると自分が小さくなったと感じた。

手術開始、3時30分。定刻より30分遅れだが、最初から遅れるかもしれないと聞かされていた。全身麻酔ではないからキティちゃんパジャマのまま車椅子で手術室へ。緊張する。

手術台はせまい。両手を体に添わせて直立(?)状態。恐怖と狭さで体はこわばる。瞼の上からなにやらごしごしこすられ、それから顔全体を布のようなもので覆われた。それから手術を受ける方の目の部分が開かれ、いよいよ。

水晶体を取り出すと何も見えなくなると思っていたがそうではなかった。海底のような、宇宙のような(知らないけど)明るいブルーの世界がゆらゆらして、黄色や紫が動いて見えていた。

「ふむ、段があるな」「段がありますねー」医師の会話で不安を一層あおられるが、、、「はい、無事終わりましたよ」の声に安堵する。大体30分くらいだ。

再び車椅子に乗せられて病室へ。その後2時間は上を向いたままの安静。朝から腰が痛くて、その上の安静はつらかった。そんなとき、足下の2人のおばあさんたちの会話が始まって心が和み、いつのまにか安静時間が過ぎた。

Yさんは喘息で入院しているのだけれど、とても明るくて病人には見えない。もう一人のKさんはほとんど歩かないのだけれどリウマチの持病に加え肺が何かに感染して微熱が続いている、でも、声はしっかりと。カーテン越しに2人の会話があるのだけれどまるで漫才のように楽しい。

右目はカッペと言ってガーゼで覆われていた。目をつぶると(つぶっている、って!)目の奥の方に何やら残像のようなものが見えた。万華鏡の中のカラフルで幾何学模様のようなのが最初大きくて、だんだん小さくなって、しかも精密で。

 

1月16日(水)   快晴

南側の病室はまるで温室。

術後の検診でカッペをはずしてもらう。こわごわ目を開ける。以前、眼科の外来で手術を終えた人たちの話を聞いていたら、ものが白く見えると言っていたのを思い出した。診察室のカレンダーが真っ白に見えた。

生まれつきや途中失明で、網膜移植を受け目が見えるようになった人たちの喜びを想像する。そういうところに医学はもっともっと発達していってほしい。私たち見えるものが、白濁したからといって簡単にレンズを入れ替えるのがなんとなく神様を冒涜しているような気がしなくもない。そして、いかにど近眼であろうと、持って生れた自然の授かりものの水晶体が、悪いは悪いなりに遠近調整ができる精巧なものであることを改めて認識。

 

1月17日(木)   晴ときどき曇り

日付けを書いてはっとする、阪神大震災の日。

外来診察室で検診。視力は視力検査表の一番上と次が見える程度。0・3くらいかな。それでも私にとっては素晴らしいこと。でも、ついつい欲が出てします。もっと遠くが見えたらいいのになぁ。

昼食後、11階の展望階へ。気管支炎の一見姐御風のおばさんと、もう両目の手術を終えたおばさんと3人でコーヒーとお菓子を。この展望階は北側に面していて、はるか大阪市街が北に、南西に関空のあたりが見える(らしい、私はぼんやりとしか見えない)。とりとめのないおしゃべりは楽しい、人間を取り戻すことが出来るのだ。

 

1月18日(金)   快晴

今日もよいお天気で寒い冬を忘れてしまう。

いつかどこかで読んだか、聞いたか。ものを目で見ていると自分では思っているけれど、そんなものはあやふやなもので、、、

手術した右目でトイレの汚物入れのホーローの白さを改めて感じた。左目で見ると黄色くて汚らしい。だが、ほんとうの色はどうなんだろう。自分の脳がそうだと認識しているにすぎないのではないか。

だが、病院のトイレに行くたびに思う。消毒のにおい(匂い、臭い、どちらだろう)になにやら安堵感をおぼえる。。

病院は土・日が休診なので両方の目の手術を終えた人たちは退院する。たいてい金曜か土曜。廊下で、談話室で、2,3人であるいは5,6人で楽しそうに話しているとまるで同窓会のようだ。圧倒的に女性が多い(8人中男性は一人だった)。しかもほとんどがご主人を亡くされて一人暮らし。だから、ここでお友だちになれて良かったと異口同音。

 

これで病床日記前半を終わります。明日からまた病院に戻ります。こんなときスマホにしとけばよかったとつくづく思うのですが、ま、しかたありません。疲れました。

でも、読んでくださる方がいたら、また、うれしいです。

 

 


2013年01月07日 14時39分55秒 | 日記

初ってどんなときでも、やはりどきどきします。

今年初の日記です、どうぞよろしく。が、多分、また、しばらく来れないと思います。

ぼくのおかあさんは来週、白内障の手術をしてもらうことになりました。この手術は日帰りでも出来る簡単なもののようですが他にもよくないところがあって念のために入院します。(携帯電話じゃなく、スマホにしとけばよかった、、iPadほしいな、、)

やはり今年もスキー場でお正月を迎えましたが、刻一刻、おかあさんにもぼくにも老化の兆しが顕著になってきました。

それでもぼくは同じ宿のお客の若い女の子(1才のミニチュアダックス)とお友だちになり、彼女と出会った後、お部屋に帰ると食欲もりもりとなるのでした。

ペンションに着いた翌日は雨・・・ほんとは滑らなくてもゲレンデまでみんなと一緒に行って雪の中の喫茶店などで本なんか読むのおしゃれだと思うのですが、おかあさんはリフト代がもったいないし、お部屋にいるといつでも温泉に入れるし、本を読むのだってごろんと寝転べるし、と実利をとりました。このお部屋にはベッドが2つあって去年、ぼくはベッドからベッドへ飛びうつって遊んでいましたが、今年は自力でベッドに上ろうとも思いませんでした。

そして翌日は、前夜から冷えてきたゲレンデもしまり、粉雪が舞っていました。ようし、と一年ぶりのおかあさんは、やおら滑りだしたのでしたが頭の中のイメージと身体が合致しないのでした。

去年まではこんなではなかった・・・

そして急斜面ではころんでしまいました。ころぶのはいいのです、でも、立ち上がれない・・・

滑っているとき、2,3度ころびましたが、何にもない平坦なところで立っているときにも2、3度ころびました。そしてなかなか立ち上がれないのでした。。

なんてブザマな。。

このごろは若い人はスキーしなくてスキー人口はどんどん高齢化していますが、みなさんそれなりに不断のトレーニングをしているようです。ペンションの夕食、隣の席でお話ししていて意気投合した方は(多分同じくらいの年齢)スキーのトレーニングにと始めた自転車で、今はそれに凝っている、とか。

そうなんだな、と思ってはいてもおかあさんが次にスキーするころにはきっと忘れていると思います。そして、ああ、だんだん年をとってきたんだわと、また、思うことでしょう。

♪いつかは だれでも この星にさよならを するときが くるけれど 命は継がれていく~♪

ちょっと、聞きかじり(読みかじりかな)ですが柳田國男は霊魂はその家や田畑に還っていると言い、折口信夫は村や山に還っていると主張したそうです。

おかあさんは死んだらおしまい、人類が発生してから、ずっとその霊魂がうようよしてたらややこしくって仕方ないじゃない、なんて思っていましたが、真っ赤な太陽に向かって、生きている人間が霊魂のことを考えるのはいいことなのかもしれない、なんて思いました。