日本の神話には、女王とヒスイを用いた祭りに関連する興味深い要素があります。
古事記によれば、出雲の大国主神と結ばれ、建御名方命を産んだ母神とされる女性が治めた地域では、ヒスイを用いて祭祀が行われたと伝えられています。
この祭りは、縄文時代に栄えた「ヒスイ文明」にも繋がっており、ヒスイの原石は日本の国石として選定されています。
ヒスイは、子孫繁栄を願う古代人の祈りと願いを象徴していたことでしょう。
日本列島の骨組みを組み替えた大断層
日本列島の骨組み
日本列島は、新生代新第三紀のおよそ2000万年前~1500万年前に日本海が拡大してアジア大陸から離れました。
日本列島の大きな構造を考える時は、大陸だった時代に造られた土台を「基盤(きばん)」、日本海の拡大以降の堆積物を「被覆層(ひふくそう)」とします。
棚倉(たなくら)構造線…東北日本と西南日本の境界
日本列島の基盤は、時代とでき方が同じグループ(地質帯)にまとめられます。
日本列島の基盤は古アジア大陸に海洋プレートが沈み込む「沈み込み帯」で造られてきたので、基本的には海溝と平行に並んでいます。
東北日本の地質帯は北海道~東北へ南北に並び、西南日本の地質帯は関東~沖縄へ東西に並んでいます。
東北日本の地質帯と西南日本の地質帯は山形県酒田~福島県棚倉(たなくら)~茨城県水戸北方を通る「棚倉構造線」で切られ、連続性が断たれているので、基盤については棚倉構造線を境に、東北日本と西南日本に分けられています。
中央構造線…西南日本の内帯と外帯の境界
「中央構造線」は、日本がまだアジア大陸にあった中生代白亜紀の1億年~8000万年前ごろに誕生した長大な断層です。
西南日本の基盤は、まだアジア大陸の一部だった時代に、 中央構造線により大きくずれ動かされました。
中央構造線を境に、内陸側を「内帯(ないたい)」、海溝(現在は南海トラフ)に近い側を「外帯(がいたい)」に分けられています。
海洋プレートが沈み込んでいる「沈み込み帯」では、海溝から離れた内陸に海溝と平行にマグマが上昇して火山帯ができ、海溝付近にはマグマの上昇はありません。
内帯は中生代白亜紀にマグマが上昇した地帯で、外帯はマグマが上昇しなかった地帯です。
もともと内帯と外帯の間にあったはずの岩石は、中央構造線を境に上昇し、侵食されて失われてしまったと考えられます。
東北日本では、中央構造線がどこに続いていたのか、まだ良く分かっていません。
糸魚川-静岡構造線とフォッサマグナ
日本海の拡大と北部フォッサマグナ地域の沈降
日本列島の「もと」は、新第三紀の2000万年~1500万年前頃に、アジア大陸から離れ、太平洋へ向かって移動しました。
西南日本は時計まわりに回転、東北日本は反時計まわりに回転し、大陸との間が開いて日本海が拡大しました。
そのとき、本州中央部は折れ目になって東西に引っ張られて数千メートルも落ち込み、海底の地層が厚く堆積しました。
この本州中央部を南北に横断する、新第三紀以降の地層に覆われた地帯を、ラテン語で「大きな溝」を意味する「フォッサマグナ」 といいます。
新第三紀の変動に注目するときは、フォッサマグナ地域で東北日本と西南日本に分けています。
フォッサマグナは幅広い地帯です。
フォッサマグナの西縁の断層を糸魚川‐静岡構造線といいます。
東の縁は柏崎市から関東平野の地下の千葉付近を結ぶあたりにあると推定されていますが、新しい時代の火山岩や関東平野を埋めている堆積物の下に隠れていて東縁の正確な位置はまだよく分かっていません。
北部フォッサマグナと南部フォッサマグナ
フォッサマグナ地域は被覆層に覆われて基盤は見えませんが、関東山地には基盤が露出しています。
そこで関東山地を境に、北側の「北部フォッサマグナ」と南側の「南部フォッサマグナ」に分けています。
じつは、北部フォッサマグナと南部フォッサマグナは、まったく別の形成史をもった地帯です。
北部フォッサマグナは、新生代新第三紀の2000万年前~1500万年前にかけて日本列島が大陸から離れた時に、本州の折れ目になって東西に引っ張られ、地殻が伸びて数千メートル沈降した地帯です。
当時の海底に噴いた火山岩や海底に堆積した地層で埋まっています。
その地殻変動は終わり、北部フォッサマグナの海もすっかり埋まりました。
数百万年前から現在の地殻変動が始まり、北部フォッサマグナの中にも山地の隆起や盆地の沈降が生じていますが、北部フォッサマグナを埋めた地層がたいへん厚いので、上昇している山地でも侵食により失われずに山頂まで新しい時代の海底の堆積物で覆われています。
南部フォッサマグナは、1500万年前頃にフィリピン海プレート上の伊豆‐小笠原列島が、フィリピン海プレートの北上とともに本州側に次々と衝突した「多重衝突帯」で、もとは伊豆‐小笠原列島をつくっていた海底火山噴出物や衝突境界の海峡や海溝を埋めた堆積物からなる地帯です。
フィリピン海プレートは恐竜がいなくなった新生代に南洋で誕生した若い海洋プレートで、日本列島が大陸から離れるころに、西南日本の沖合まで移動して来ました。
そして西南日本の下へ沈み込み始めましたが、軽い伊豆‐小笠原列島の部分は沈み込めずに次々と衝突しています。
その衝突は櫛形・御坂・丹沢・伊豆半島の順に起こったと考えられていますが、初期の櫛形や御坂については異説もあります。
またその衝突が始まった年代も、2500万年前からという推定や、1200万年前からという推定があります。
丹沢の衝突についてはほぼ600万年前ということで良いと思います。
伊豆半島は現在衝突中で、将来は神津島が衝突すると考えられています。
フォッサマグナ地域西縁の糸魚川-静岡構造線も北部と南部で別の断層
糸魚川-静岡構造線はフォッサマグナ地域の西縁の断層ですが、前述のように、北部フォッサマグナと南部フォッサマグナはもともと別々にできた地帯ですから、糸魚川-静岡構造線も北部と南部はもとは別の断層です。
北部フォッサマグナ地域の西縁の糸魚川-静岡構造線は糸魚川~松本平~諏訪湖~山梨県の駒ヶ岳神社付近に続いています。
地表では西側の古い基盤と、東側の被覆層の境界になります。
北部フォッサマグナ地域の東縁は、柏崎‐千葉構造線などが提案されていますが、第四紀のもっと新しい火山噴出物や堆積層に覆われていてはっきりしません。
さらに東側の飯豊・朝日山地、越後山地、足尾・八溝山地には、西南日本内帯の基盤が露出しています。
また関東山地には西南日本外帯の基盤が露出しています。
関東平野の下にも西南日本の基盤が続いていることが、深さ3000mに達するボーリングで明らかになっています。
南部フォッサマグナ地域の西縁の糸魚川-静岡構造線は、山梨県韮崎市武川から~夜叉神峠付近~早川~竜爪山地稜線付近~静岡市内の線です。
富士川沿いにたどるのは誤りです。
甘利山~櫛形山~身延山は、今の地形では南アルプス側の一部ですが、地質は海底火山の噴出物や海峡やトラフの堆積物で、南部フォッサマグナを構成する岩石です。
なお、南部フォッサマグナの西縁を糸魚川-静岡構造線ではなく安倍川沿いの十枚山構造線とすべきだという主張もあります。
南部フォッサマグナの東縁は丹沢の北東縁の藤ノ木‐愛川構造線です。
北部フォッサマグナの地層に埋まっている中央構造線
西南日本の基盤を食いちがわせた地質境界としての中央構造線は、基盤になっている古い岩石が露出していなければ、地表では見えません。
西南日本外帯の岩石が露出している関東山地の北縁の下仁田~武蔵嵐山では中央構造線をたどることができます。
しかし北部フォッサマグナ地域では、岡谷と下仁田を結ぶどこかを通っているはずですが、新第三紀の地層に覆われて地表には見えず、破砕帯が侵食されてできる直線的な谷もできません。
そのうえ佐久地域では、新第三紀の地層の上をさらに第四紀の火山(浅間山と八ヶ岳)の噴出物が覆っています。
隆起して古い岩石が露出した関東山地と中央構造線
北部フォッサマグナに囲まれた関東山地には、西南日本の基盤が露出しています。
群馬県富岡、秩父盆地、五日市盆地や関東平野西部の地下には新第三紀の海の地層が残っているので、関東山地は隆起と侵食で被覆層が失われて基盤が出ていると考えます。
関東山地の岩石は、赤石山脈の岩石と同じ外帯の岩石です。
北部の群馬県下仁田には、内帯の領家変成帯の花崗岩がわずかに見られ、中央構造線が通っていることが確認できます。
比企丘陵にも花崗岩が見られ、武蔵嵐山付近の関越道が通る谷が地質境界としての中央構造線の位置になります。
これらの領家変成帯の花崗岩や変成岩は、関東平野の下に埋まっていますが、その北東の筑波山に露出しています。
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