今日は、もし父が生きていれば、104歳の誕生日です。
大正10年生まれの父。
86歳で他界しています。
大変な時代を生きて、いろいろ苦労もしている父ですが、
晩年は「俺は幸せ者だなぁ~」と何度となく口にしていました。
悔いのない人生を生きた父。
そんな風に生きたいなと、思わせてくれる父です。
今日は少し父の人生を振り返ってみようと思います。
父は、12人兄弟の8男です。
生めや育てやの時代です。
戦死や結核などの病死で、私が生まれた時には、すでに4人しか残っていませんでした。
父も一度、死にかけて、三途の川まで行ったけど、
後ろから母の声が聞えたので、渡らないで引き返してきたそうです。
名前は、大雪の日に生まれた男の子だから「雪男」
それに、出生届けを出すのが遅くなり、実際はもっと早い日に生まれているらしいです。
まあ、適当ですよね。
そんな時代です。
小学校の時に意外と勉強ができたそうですが、
家は貧乏農家で、親は家族を食べさせていくだけで精一杯。
この先、「学校に行きたい」と言い出されたら困ると
勉強していると「勉強するな」と親に怒られたそうです。
尋常小学校を卒業すると、すぐ丁稚奉公に出されます。
奉公あけて帰ってくると、次の奉公先が決まっていて、また奉公に出る。
それが何回も繰り返されたそうですが、文句ひとつ言わなかったそうです。
(弟は奉公先から逃げたそうですが)
ある時、結核になり、療養所へ。
社会から隔離された場所での生活が始まります。
手術するお金がなかったので、自然治癒で結核が消えるのを待つのみ。
完治して出てこれるまで、確か、5、6年かかったと言っていました。
母とはそこで知り合っています。
父のことをひと言で表すなら「温厚」
家でも外でも同じ。
裏表のまったくない人でした。
文句を言うこともないし、怒ることもない。
いつも笑顔の父でした。
主人が私の両親と同居を始めた頃、
「あんないい人に生まれて初めて会った」と言っていたくらいです。
大工の仕事を60過ぎに辞めてからは、まあ、よく遊んでいましたね。
常に家にいなかったですから~
人生を謳歌していました。
ゲートボール、歩こう会、写真クラブで撮影旅行にでかけたり・・・
老人クラブの仲間たちとはバス旅行に行ったり、カラオケに行ったりね。
ゲートボールでは全国大会にも出場しています。
この遊びっぷり、私なんて足元にも及びませんよ(笑)
ある日、ゲートボール場で倒れ、その日のうちに帰らぬ人になってしまいましたが、
まさしく、ピンピンコロリ。
父の仲間が「皆、そうやって死にたいんだよ。〇〇さんが羨ましいよ」と言っていました。
義母は「いいお父さんだったから、こんないい死に方ができたんだよ」と。
父は多分、
自分の死になんの悔いもなく、人生を全うした。
・・・と思っていると思います。
「俺はもう思い残すことはない。いつ死んでもいい」とも言っていたので。
だから、「お疲れ様~」と言ってあげたかった。
葬儀の時も、悲しくはありませんでした。
人の死が悲しいとは限らない・・・初めてその時、そう思いました。
父が、娘の私にも悔いが残らないようにしてくれたんだと思います。
温厚で怒ったことのない父ですが、
一度だけ私のために怒ってくれました。
前の夫にね。
顔を真っ赤にして怒ってくれました。
「生まれて初めて怒った」と言っていました。
それが最初で最後でした。
その時ほど、父の愛情を感じたことはありません。
そう思うと、離婚もそんなに悪いことじゃありません。
いいことも必ずあります。
父の温厚さも、若い頃の苦労があってのことだと思います。
どんなことがあっても、あの時のことを考えたら、
今の方がずっと幸せだ・・・と思えたんじゃないのかな?
だから、どんなことも、ありがたく感じ、
生きることができたんだと思います。
私は父から、〇〇しなさい、〇〇した方がいい、〇〇はダメだぞ・・・
そういう事を言われたことは一度もないんです。
以前、書いたことがあると思いますが・・・
たまに、私が、遊んで、帰宅が夜中の2時、3時になる時があって、
その日も2時過ぎに帰宅したら、リビングに電気がついていて、
恐る恐る部屋に入ると父がいて
「メロン、冷蔵庫に入っているからな。それを言おうと思って・・・」とだけ言って
自分の部屋に戻っていきました。
夜の9時、10時に寝る父です。
多分、心配していたんですよね。
なんか涙が出てきましたよ。
心配かけちゃっているなと反省しました。
「何時だと思っているんだ~何、考えているんだ~」と叱られるより、
多分、効いたと思います。
父はいつも何も言わなかったけど、
父から学ぶことばかりでした。
私も父のように「私は幸せ者だぁ~」と死にたいなぁ~
なにげない日々に感謝ができる人生を送りたいです。
もう少し先だと思うけど、会いに行くまで、待っててね。