今年は「沖縄慰霊の日」を思いながら6月23日を迎えました。
なのに,何故か慰霊式典のテレビ中継を見るのを忘れていました。
なので、黙祷のチャンスを逃しました。
そのとき何してたかというと、ヒョンなことから、沖縄戦で亡くなった
朝鮮の人たちがどうだったか、知りたいと調べていました。
故大田昌秀さんが「平和の礎」建立に汗を流したと知りました。
テレビを見ていたら、朝鮮からの人たちの名前も刻まれていました。
アメリカ人も名前も刻まれていました。
20数万人が死んだのではなく、その人がそのとき、そこで命を失った
のですね。それが 文字として刻まれているんですね。
じぶんの中で、そこの焦点が抜けていたなと思いました。
あとで、式典で高校生の上原愛音(ねね)さんの詩を朗読しました。
冒頭のコトバに感じるものがありました。
今日も朝が来た。
母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。
いつも通りの
平和な朝が来た。
こんな朝は、沖縄だけでなく、日本中、世界中で繰り返されて
いる光景ではないでしょうか。
23日の午後「この世界の片隅に」という映画を観に妻と行きました。
カマドとお釜とご飯炊きが印象に残っています。戦争に負けたあと、
気兼なく白米を炊いて、炊きたての香りを家族で吸い込むのでした。
このような現れが「平和」であり、ほんとうの現われじゃないで
しょうか。
こういう当たり前の現われが、ほんとうじゃないかとはっきりして、
その世界に立って、暮していきたいです。
沖縄地上戦戦の惨劇は、ときの政府や軍が本土防衛するための捨石
にした、沖縄の人たちからすれば、その記憶が払拭されないまま、
引き継がれているように思えてなりません。
戦争や争いは、虚しいものだと思います。
だれが、こんな虚しいこと、やりたくてやる人がいるでしょうか?
戦争や争いをじぶんの利益のために使っている人もいるかも
しれませんが、そんなことわざわざやらなくとも、じぶんが得を
したり、大儲けできるなら、そんなことには手をださないのでは
ないでしょうか。
そういう工夫ができないものでしょうか。
虚しい記憶からスタートするか、人と社会の本当の姿を見極めな
がら、それを目指して暮していくか。
近ごろ、山之口貘さんの詩をときどき読んでいます。
1903年に、沖縄に生まれ、20歳のころから上京して、詩を書き
たいがため、募集広告に「朝鮮人と琉球人はお断り」と書かれて
いた本土の空気の中、極貧の放浪生活までしていました。
詩人金子光晴の仲人で1937年、結婚しました。
山之口貘さんの詩を面白く思うのは、目に映る世界は世界とし
て、もともと人や社会とはどんなものか、そういう自問から見え
てきたところを詩で表現しているよう見えます。
どの詩もよく推敲されていて面白いですが、二つほど載せてみま
す。ぼくの覚え書きでもあります。
鮪に鰯 山之口貘
鮪の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹立ちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横をむいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅かされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ
足元の世界を離さずに、ほんものを探ろうとしています。
つぎのは、少し長いです。沖縄慰霊の日に、この詩からいろいろ
思いを馳せました。
沖縄よどこへ行く
蛇皮線の島
泡盛の島
詩の島
踊りの島
唐手の島
パパイヤにバナナに
九年母(くねんぼ)などの生る島
蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島
仏桑花や梯梧の真紅の花々の
焔のように燃えさかる島
いま こうして郷愁に誘われるまま
途方に暮れては
また一行づつ
この詩を綴るこのぼくを生んだ島
いまでは琉球とはその名のばかりのように
むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく
島には島とおなじくらいの
舗装道路が這っているという
その舗装道路を歩いて
琉球よ
沖縄よ
こんどはどこへ行くというのだ
おもえばむかし琉球は
日本のものだか
支那のものだか
明(は)っきりしたことはたがいにわかっていなかったという
ところがある年のこと
台湾に漂流した琉球人たちが
生蕃のために殺害されてしまったのだ
そこで日本は支那に対して
まず生蕃の罪を責め立ててみたのだが
支那はそっぽを向いてしまって
生蕃のことは支那の管するところではないと言ったのだ
そこで日本はそれならばというわけで
生蕃を征伐してしまったのだが
あわて出したのは支那なのだ
支那はまるで居なおって
生蕃は支那の所轄なんだと
こんどは日本に向ってそう言ったと言うのだ
すると日本はすかさず
更にそれならばと出て
軍費資金というものや被害者遺族の
撫恤(ぶじゅつ)金(きん)とかいうものなどを
支那からせしめてしまったのだ
こんなことからして
琉球は日本のものであるということを
支那が認めることになったとかいうのだ
それからまもなく
廃藩置県のもとに
ついに琉球は生れ変わり
その名を沖縄県と呼ばれながら
三府四十三県の一員として
日本の道をまっすぐに踏み出したのだ
ところで日本の道をまっすぐに行くのには
沖縄県の持って生れたところの
沖縄語によって不便で歩けなかった
したがって日本語を勉強したり
あるいは機会あるごとに
日本語を生活してみるというふうにして
沖縄県は日本の道を歩いて来たのだ
おもえば廃藩置県この方
七十余年を歩いて来たので
おかげでぼくみたいなものまでも
生活の隅々まで日本語になり
めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり
怒ったりするにも
人生のすべてを日本語で生きて来たのだが
戦争なんてつまらぬことを
日本の国はしたものだ
それにしても
蛇皮線の島
泡盛の島
沖縄よ
傷はひどく深いときいているのだが
元気になって帰って来ることだ
蛇皮線を忘れずに
泡盛を忘れずに
日本語の
日本に帰って来ることなのだ
この詩の最後は、どういう気持ちをコトバにしたんでしょう?
山之口貘さんの一人娘の山口泉さんは、2013年、生誕110年の記念講演を
那覇市でされたとき、父上のエピソードを語られたということです。
ある日、泉さんが「沖縄はいっそ独立すればいいじゃない」と言った時、
貘さんは珍しく色をなして怒り、こう言ったといいます。
「いいかげんなことを言うな。日本は自分が始めたこと(琉球併合)なんだ
から、最後まで責任を持て」
どういう真意かは、また分かる人がいたら、聞かせてほしいです。
貘さんの詩は、いまの時代にも新鮮な問いかけをしていて、古さを
感じさせません。
その問いかけは、時代の事象は違っても、今に生き生きと息づいて
いるとおもいます。