かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

かけがえのない水

2011-08-12 06:03:23 | アズワンコミュニテイ暮らし
 毎日、心臓の薬を飲んでいる。もう、10年近い。
 今朝も、飲んだ。飲むときは、冷蔵庫にある2リットル入りのペットボトルに入っている
水で飲む。この水は、無くなると奥さまが補充してくれる。
 そういうものだとして、無造作に飲んでいたけど、今朝はふとこの水について、
奥さまに確かめたくなった。
 「この水って、ハンスさんから届けてもらった水を薄めているものか?」
 「そうよ。毎日コップ一杯しか飲まないから、まだあるわ」

 2007年2月、スイスにある実顕地に小浪と滞在したことがある。ぼくは体調が思わしくなかった。
実顕地の敷地の坂をのぼるにも、息切れがしていた。食事も、小浪は「おいしい、おいしい」と
食べていたが、ぼくは馴染めなかった。
 ハンスさんは、牛を飼っていた。その牛たちに、ある特別な水を飲ませていた。その水をつくる機械を牛舎の脇に据え付けていた。病気の牛にその水を飲ませたら、回復したという。
 ハンスさん自身も、食堂にその水を持ってきて、飲んでいた。
 「調子、いいよ」
 60歳をこえて、見事に肥って、頸がない、巨漢である。赤ら顔をほころばせながら、
 「ミヤチ、あなたも飲め」とすすめてくれた。
 試しに飲んだ。「生臭い」という感触だった。
 それはそれなりに、効能があるのかもしれないけど。
「ぼくはちょっと・・」と曖昧な受け答えをしていた。

 帰国する際、ハンスさんはその水を容器に入れて、持たせてくれた。
「ミヤチ、きっとこの水はミヤチの身体にはいい、飲んでみろ」
 そのハンスさんの気持ちがうれしかった。
 マジ、ぼくの身体を気遣ってくれている。
 旅行カバンはズッシリ重かったと記憶している。

 ハンスさんからの水、薬を飲む時に、薄めて飲むことにした。
 水の効用のことを思えば、そのまま飲むのがいいのだろう。
 でも、そしたら、その水はすぐ無くなる。じぶんで、つくる気はないしなあ、・・
 ハンスさんの気持ちは、有難い。

 ハンスさんの奥さま文枝さんが、その年、広島にいる母の見舞いのため来日した。
 その時も、「ハンスさんからだよ」と特別な水が届いた。
 その水を、妻小浪がずっと、薄めてペットボトルに補充し続けたきた。
 ときどき、「この水はハンスさんからの水が入っているんだよな」と心によぎっていた。

 そのハンスさんから、昨日スカイプがあった。
 彼はうれしそうだった。
 人って、うれしいことがあったとき、だれかに聞いてほしいと思ったりするよね。
 なんとなく、とりとめもない話しで終わったけど、ぼくの心にも温かいものが残った。
 
 ハンスさんは、頑固で、「こうだ」と言い出したら後に引かない、やりぬいて行く機関車みたいな男。
 ズータイはでっかいし、人を威圧するほどの貫録と自信のかたまりのような男。でも、妙に人の心をみぬいたように、親身な心の人間になったりする。
 と、ぼくは評してきた。親しみも、籠めて・・
 でも、そういうぼくの見ているハンスさんと、ハンスさんその人は、同じだろうか?

 遠く離れているし、生き方も、考えもちがうことだらけだろうが、ハンスさんに湧いてくる、
ぼくのなかの親しみの気持ちは、どこから出て来るのだろう。
 



そのコトバがまぶしかった日

2011-08-12 02:28:49 | サイエンズ研究所のある暮らし
 そのコトバがまぶしかった日、27歳だった。
 そのコトバは、ヤマギシズム特別講習会のテキストにあった。
 「真実の世界」
 たぶん、その時、ぼくは読み飛ばしていた。
 
 「絶対変わらない一つかぎりのものを目指しています」
 このコトバも、素通りしていた。
 どんなことだろうとは、思いつつ・・
 

 「工場等でも、組織そのものにも間違ったものがありますが、
  各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、
  闘争等絶対に起こるものではなく、かえって工場は繫栄し、
  自己を豊かにします」

 この一節は、日本語として、ぎこちない感じがしていたこともあるけど、
 どんなことが言われているのか、自分の身の回りに近い感じがして、
 以後、ずっと、いままで、心の片隅に、疑問府をつけていた。

 その間、そうか、そういうことか、と思うときは、何度もあった。
 疑問符は、消えなかった。

 今回、山岸巳「ヤマギシズム社会の実態 
         第一章 概要 二 かってない新しい社会」を
 検討した。

 この段落は、「ああ、ざっと読み流していたんだなあ」と知った。
 
 この段落には、「私」という表現が頻繁に出てくる。
 「私は少ない時間や、劣った知能の関係で、過去の主張や学問・理論については、
 深く究めておりませんから・・」

 「未だ幸福社会が、この世に完成されていない事実を事実として、
  私は私の知っている範囲において、かってない新しい社会のあり方を、
  組み立てたものです」

 「私はこれなら、先ず真の人間には当て嵌まる真実社会であり、
  いかなる階層の人も、立場の人も、冷静に検討してくださるなれば、
  正しい判断が下されて、闘争も犠牲も、他に迷惑も掛けずに、
  同じ考え方の人たちと率先協力して、
  案外短期間に、実現することを確信するものです」
 
 「これは私として、未だ他に行われていることを知らない社会実態であり、
  現在私の周囲に行われているほとんどの現実が、根本的に変わることで、
  人倫・道徳・経済・社会・政治機構等も形質共に大転換されることは当然で・・」

 山岸巳代蔵さんは、「私」を通して、「真実の世界」を見ている。
 それは、「私」から遠く離れて、どこかにあるものではなく、
 「私」が、いま、ここに生きる、「私の周囲に行われている現実」にある。
 「私」がいる現実とは、「私」であり、「あなた」であり、周囲の人、社会、自然、
 そしてそれらの営み。

 「真実の世界」への入り口、「真実社会」への糸口、きっかけ。
 「私」のなかに、うそ、偽りや、瞞着(だます、ごまかす)がないかどうか。
 どういう「私」から自分を見て、社会を見ているのか。
 静かに、じっと見てみなければ、知ることができない。
 ここが分岐点。
 ここで間違えたら、自分は熱願しているのに、行けども行けども、
 辿りつけないもの。

 「思う」の世界から、実際がどうなっているか、自分の目でしらべること。
 「真実かどうか」
 「真実の働きをしているかどうか」
 「真の幸福かどうか」

 難しい、遠い向こうの話ではないだろう。
 いま、ここに生きる「私」であり、「その人」のことだ。
 日々、いたらないことをやり、失敗し、場合によっては、良かれと思って、
 気がついてみると他に迷惑をかけている、そんな私であり、その人なのかも
 しれない。
 そんな「私たち」が、先ず絶対変わらない一つ限りのもの目指している。
 
 長年、「そうなっているのだから」でやってきた、頑固頭の自分でも、
 その物差しで、横道に逸れて行かないように、心していきたいし、
 気付かずに、そんな方にむかっているときには、「おいおい、どこへ行く
 おつもりですか?」とか声かけても欲しいです。

 でも、もうそういう社会実態が、すでにあらわれているのかも。
 
 

 
 
 




 

 、