3月初めごろ。平田駅に行ったとき、「寝釈迦祭り」のポスターを見た。鈴鹿市龍光寺にて、3月12日から14日まで。「春を呼ぶ」とうたっていた。「行ってみたい」と思った。
その前日、11日の午後、地震や津波が東北地域、太平洋沿岸の人たちをのみ込んだ。壊滅状態らしい。「そんなとき、お祭りかな」と気おくれするものがあった。孫たちは、テレビのニュースをちらちら見ながらも、いつものようにキャッツキャッツと遊んでいる。
12日朝、ぼくら夫婦に加えて、娘桃子と孫ら2人も一緒に行くことになった。龍光寺近くに着いてみると、たくさんの人が集まってきている。孫たちをそこで下して、離れたところにある神戸小学校の校庭に車を置きに行く。
校門をでると、すぐ商店街になる。道の両側に露店が並んでいる。店の前で子どもが寄っている。覗いてみると、薄い小麦粉かなにかの生地を型抜きしている。射撃でほしいものを撃っている。ヨーヨーを釣っている。いかの姿焼、とうもろこしを焼いている。ソーセージ、バナナ・チョコレート、せんべい、お饅頭。トルコ人の「カバブー」の店などなど。

寺の山門の外から中まで、お店が出ている。境内も人で埋まっていた。甘酒がタダだというので、並んでいただく。たしかに甘い。甘すぎると感じた。甘酒コーナーのところに「震災御見舞い」という箱が置いてあった。なにかほっとするものがあった。なにか出そうかともおもったけど、なにもしなかった。

小浪と桃子には、地獄図のところで会うことができた。小学3年の女の子と5歳の男の子は二人で露店めぐりをしているらしい。地獄図の前で、年配の男の方が地獄の案内をしてくれた。あれこれほしがる人は目をくりぬかれる。嘘をつく人は舌を切られるなど。
そうこうしてたら、孫たちがわれわれのところにたどり着く。

本堂には寝釈迦像の絵図が正面にかけてあった。和尚さんが、参拝者に話をしていた。ぼくらは本堂に入ることにした。参拝料一人500円。寝釈迦像の正面に座った。和尚から、釈迦の足元で顔を覆うっているアーナンダのことや、この図の下のほうに動物たちの描かれてるが、龍光寺のものは猫が描かれているのが特徴だと聞いた。最後に「どうぞ、その猫をごらんください」と和尚が言われた。参拝者(もちろんぼくも)は「猫はどこにいる?」と絵図の左下に集まった。「どれ?」「あれよ?」「えっ、どこ」「あそこ」「ああ、いた」
あとで思った。寝釈迦像というのは、釈迦入滅の図。涅槃、悟りの世界に入られるその瞬間が描かれている。たまたま、和尚のお話の後半にぼくらは入ったらしく、肝心のお釈迦さまに、ごろんと横になられているご本人のお姿に、焦点があたっていなかった。いまになって、お釈迦さまは、どんなお顔していたのか、そこからどんなことが感じるのか、すっかり抜け落ちていた。

本堂前にある石段の右側に俳人山口誓子の句碑がある。
寝釈迦像 人天蓋の 下なるかな

人天蓋とは、僧侶が座っている礼盤の上に吊られているもの。
「なる」は古語辞典を引くと、「生じる」とか「実を結ぶ」の意。
この句をどのように読みとるかは、いまはぼんやりしている。来年は、お釈迦さまと向き合ってみたいとひそかに思っている。ああ、もう密かではないか。
その前日、11日の午後、地震や津波が東北地域、太平洋沿岸の人たちをのみ込んだ。壊滅状態らしい。「そんなとき、お祭りかな」と気おくれするものがあった。孫たちは、テレビのニュースをちらちら見ながらも、いつものようにキャッツキャッツと遊んでいる。
12日朝、ぼくら夫婦に加えて、娘桃子と孫ら2人も一緒に行くことになった。龍光寺近くに着いてみると、たくさんの人が集まってきている。孫たちをそこで下して、離れたところにある神戸小学校の校庭に車を置きに行く。
校門をでると、すぐ商店街になる。道の両側に露店が並んでいる。店の前で子どもが寄っている。覗いてみると、薄い小麦粉かなにかの生地を型抜きしている。射撃でほしいものを撃っている。ヨーヨーを釣っている。いかの姿焼、とうもろこしを焼いている。ソーセージ、バナナ・チョコレート、せんべい、お饅頭。トルコ人の「カバブー」の店などなど。

寺の山門の外から中まで、お店が出ている。境内も人で埋まっていた。甘酒がタダだというので、並んでいただく。たしかに甘い。甘すぎると感じた。甘酒コーナーのところに「震災御見舞い」という箱が置いてあった。なにかほっとするものがあった。なにか出そうかともおもったけど、なにもしなかった。

小浪と桃子には、地獄図のところで会うことができた。小学3年の女の子と5歳の男の子は二人で露店めぐりをしているらしい。地獄図の前で、年配の男の方が地獄の案内をしてくれた。あれこれほしがる人は目をくりぬかれる。嘘をつく人は舌を切られるなど。
そうこうしてたら、孫たちがわれわれのところにたどり着く。

本堂には寝釈迦像の絵図が正面にかけてあった。和尚さんが、参拝者に話をしていた。ぼくらは本堂に入ることにした。参拝料一人500円。寝釈迦像の正面に座った。和尚から、釈迦の足元で顔を覆うっているアーナンダのことや、この図の下のほうに動物たちの描かれてるが、龍光寺のものは猫が描かれているのが特徴だと聞いた。最後に「どうぞ、その猫をごらんください」と和尚が言われた。参拝者(もちろんぼくも)は「猫はどこにいる?」と絵図の左下に集まった。「どれ?」「あれよ?」「えっ、どこ」「あそこ」「ああ、いた」
あとで思った。寝釈迦像というのは、釈迦入滅の図。涅槃、悟りの世界に入られるその瞬間が描かれている。たまたま、和尚のお話の後半にぼくらは入ったらしく、肝心のお釈迦さまに、ごろんと横になられているご本人のお姿に、焦点があたっていなかった。いまになって、お釈迦さまは、どんなお顔していたのか、そこからどんなことが感じるのか、すっかり抜け落ちていた。

本堂前にある石段の右側に俳人山口誓子の句碑がある。
寝釈迦像 人天蓋の 下なるかな

人天蓋とは、僧侶が座っている礼盤の上に吊られているもの。
「なる」は古語辞典を引くと、「生じる」とか「実を結ぶ」の意。
この句をどのように読みとるかは、いまはぼんやりしている。来年は、お釈迦さまと向き合ってみたいとひそかに思っている。ああ、もう密かではないか。
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