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生命誌館中村桂子館長、年頭の挨拶

2018-02-06 17:26:32 | わがうちなるつれづれの記

JT生命誌研究館の館長の中村桂子さんの「2018年年頭の挨拶」に

触れて心に残りました。

 

 

  <2018年が始まりました。BRHは1993年創立ですから

  今年が25周年になります。特別の行事は考えていませんが、

  これまでの歴史を踏まえて新しい展開を考えるところにきている

  と思っています。館のメンバー全員が今大事なことは何であるか

  を考えて、自分のBRHをつくっていく挑戦の年にしたいと

  思います。

  「人間は生きものであり、自然の一部である」。

  とてもあたりまえのことですが、これをよく考えることがこれまで

  以上に大切になっていると思うのです。

 

  たとえば、これからはAI(人工知能)の時代だと言われます。

  時にはAIが人間を超えるという人さえいます。

  でも生きもの研究の立場からすると、「人間とはなにか」と

  いうのはとても大きなテーマでわからないことだらけです。

  どうしたらこのわからないものを超えたことになるのだろうと

  考え込みます。

  たとえば戦争です。戦争をするのがあたりまえであり、日本も

  あたりまえの国になろうと言われます。人間という生きものは

  戦争をするのがあたりまえにできているのかどうか。

  よく考えてみなければなりません。最近、類人猿や絶滅した人類

  との比較から、私たちの祖先はとても穏かな存在だったとも言われ

  始めています。

  とにかく、「人間」をもっとよく知らなければなりません。

  技術も政治も急がずに、慎重に考えるところから始めて欲しいと

  思います。

  今年のテーマは「容」です。いれる、ゆるす。生きものは大きな

  容れものとかんがえることもできます。

  社会としては寛容こそ今大切であると思っています。排除でなく。

  今年もよろしくお願いいたしま>



 

とても平易な語り口ですが、そこに示唆に富むもの、深さなどが無理なく

自分の心に届いてきたことを感じます。

中村桂子さんは、これまで一貫して「人間は生きものであり、自然の

一部である」と研究を続けてこられた。

こういうことは、普通の人でも理解は容易だと思いますが、実際に

現れている社会の現象は、その土台が「人間が自然の一部」だという

ことを置き去りにしている。

この点については、いろいろな意見があるだろうけど、中村さんは

先ず、「人間とは何か」を問う余裕からはじめたいと語っています。

こんな問いについて「そんなこと普段、考えたことない」という反応が

ほとんどだと思います。

各自ふりかえると。、言葉にしていないが、「人間とはこういうもの」

という自分でもはっきりしていないと思いながら、日常を言動を詰めて

みると、はっきりした考えがあるかも知れません。

 

「でも生きもの研究の立場からすると、「人間とはなにか」と

 いうのはとても大きなテーマでわからないことだらけです。

 どうしたらこのわからないものを超えたことになるのだろうと

 考え込みます」

 

そなんだよなあ、と共感します。

桂子さんが「考えこんでいる」というのは、いろいろな現象に現れて

くる人間の姿だけを「そうだ」として、「人間は争うものだ」

「人間は科学、技術を発展させれば幸せになれれる」とか、早飲み込み、

思い込みをしていないか、の問いかけかなと思いました。

「人間とはなにか」と言う問いを避けて、人間の幸福のことや、

世界中から争いごとをなくす社会はできないように思います。

「容」ということは、どんな人の考えをも受けてれていくことだと

捉えました。

どんな考えの人の意見をも受け止めるということが当たり前になる

ためには、自分の意見も他の人の意見も人間の考えに過ぎないという

認識の解明がいるのではないでしょうか。

事実実際は、人間の捉え方と関わっているけど 人間の考えとは

別にあるように思います。

それが、鮮明になってきたら、どんな人の考えもすべて検討材料

にして「人間とは何か」をあらゆる機会に探究していくことができる

のではないか。

 

科学とかに縁遠い自分だけど、これだけ人間の頭脳や技術は

進んできても、これからもっと発展していくだろうけど、

いま世界中で起きている戦争や争いごとが無くならないのは、

どうしてだろう?

イスラエルの歴史学者「ノヴァ・ハラリ氏が「サピエンス全史」の

なかで、人間の「意識と心」のテーマを、まだ人類が本気で探究して

こなかった、と述べているます。

ぼくは、いまこれに関心があります。

 

 

 

 

読む(4)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-03 15:47:32 | わがうちなるつれづれの記

 

<短歌>

   消灯後の薄暗がり歌つくり薬袋の裏に書きゆく

 

 

<エッセイ>

河野裕子さんは、平成22年(2010年)正月に1週間、大病院に

入院している。

病院の印象をこう書いている。

 

  「・・・駅に来た人々は目的地にむかって流れていくが、病院は

  殊に入院患者はそこに留まる。駅と病院を観察していると、人間

  模様の様々が如実に見えてきて、人と人の行き交いの複雑さと

  はかなさ、面白さ、悲しさを思わないではいられない。

  病院は、もちろん病人、怪我人、入院患者たちのものであるが、

  京大病院のような病院となると、組織が巨大すぎて、工場の中に

  居るような錯覚さえしてしまう。

  病院を支え、治すため、これだけの設備を必要とし、数え切れない

  数の人たちが忙しく働いている。・・・」

 

ここは、ぼくの大学病院の

体験から同じような感想をもった。

裕子さんと同じかどうかは確かにいえないけど、疾患の治療のための

設備や人の体制は驚くほど、緻密に整っているように見える。

昨年、5回、6ヶ月入院したけど、医師や看護師さんが多忙に見えた

さまざまな疾患への対応は関心したが、その疾患をもっているその人

にたいする捉え方が薄いと感じた。

 

大組織の病院はこのような患者の気持ちを受け止めるだけの体制が

整うのはこの先なのかなと思った。

 

最初の入院のとき、たまたま永田和宏著「現代秀歌」を読んでいた。

「はじめ」のことば。

 

  「大切な人に大切なことを伝えるのは、日常の言葉は、はなはだ

  無力である。言葉に出してしまうと途端に嘘っぽく聞こえ、気障

  に見え、しかも思いが深ければ深いだけ、その何分の一も表現できて

  いないことに愕然とする」

 

とても思い当たる。

それを表現するには、短歌がふさわしいと、いうことだった。

入院中、その言葉に導かれて、ベットのなかで読んだ。

消灯は夜9時。一人での長い夜がはじまる。

不安で眠れないときなど、永田さんが選んだ秀歌を読んだ。

そのうち、うす暗い部屋で自分の気持ちを歌にしてみることさえした。

 

<短歌>

  聴診を受くるは何年ぶりのこと胸と背中をゆっくり滑る

                (22年8月  河野裕子)

<エッセイ 往診>

  「いつまで生きられるか私にはわからない」
  これが書き出しだった。
  「自宅看護を受けると決めたとき、きれいごとで済ませるわけには
  いかないと思った。
  シャワーをするときにこの身体を見せてしまうことにも躊躇しなく
  なった。座薬を入れてもらうことも」
 
 
いまの自分は、裕子さんが辿った気持や道筋を歩んでいるかな、と
思った。
この1年の間に、体力は弱り、息切れ、目まい、たちくらみ、吐き気、
便秘といわれる、身体の変化が起きている。
自宅介護の申請もやった。
ますます周囲の人たちからの手助けを受け入れることになる。
 
 
 最後の一節。
  「現状を言えば、「二,三日おきに主治医の先生が大きな鞄をもって
  訪ねてくださるし、看護師さんたち毎日チームを組んできてくださって、
  申し分のない介護をしてもらっている。
  主治医の先生が来てくださるのはとてもいい。何十年ぶりかで、家で
  診てもらうという経験をし、とても懐しい気がする。昔はお医者さんと
  いうと看護婦さんを連れてやってくるものだったし、患者の家では
  お湯を張った洗面器など出して応対していたのを思い返す。
  そういう町医者と患者の関係から身近なぬくもりのある相互関係が
  できていたし、できていくのだろう。入院していたときは、ベルト
  コンベアにのせられているような気がしたが、いまは一対一である
  問診や聴診にぬくもりがある」
 
 
この懐かしさに共感する。
まだ、訪問診療にいたっていない。
いつまでも大学病と関係がつづくなら、最終章はどうなるだろう?
疾患の対応は技術の粋をあつめた、治療は可能かもしれない。
その人の人生については関心はいかない感じがする。
大学病院を非難するつもりはない。
人の生老病死を一環して見れる相互人間関係が育まれること望む。
  
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


読む(3)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-03 11:37:17 | わがうちなるつれづれの記

平成22年7月、歌人河野裕子さんは、、ガンが進行し、緩和ケア

を在宅ですることを選んだ。

その頃、詠んだ永田和宏さんの歌

 

  相槌を打つ声のなきこの家に気難しく老いていくか

              (平成22年7月31日)

<相槌>

エッセイ読んで痛切に感じたのは次の一節です。

 

  「テレビなどで、伴侶の病気を「共に背負う」と言う言い方をするが

  私にはよくわからない。病人の無念さ、寂しさを当人と同じように

  担うなんて、到底できないと思う。河野が泣いて泣いて、私の

  知らないところで繰り返し泣きながら、今の自分の状況に折り合いを

  つけてきたのはよく知っている。そんな時にも、何にもしてやれ

  なかった。苦しみや悲しみを、一緒に頒かちもったなんて、とうてい

  言えない」

  

ドッキとした。自分の感覚からしたら、どういうことだろう?と、

出てきた。

何回か読んでみた。だんだん伝わってきたのは、伴侶の死はおそかれ

早かれやってくる、それは現実で、病院などで手を尽くし、すべて

やりきったあとの現実。それに周囲の人たちはどうにもできない。

永田さんは、正直に自分の心を見つめて、それを受容するしかない

状況をありのままに表現をしたのかな。

どう見てみても、そう言わずおれないもの。

事実なんだから。

 

そのことと同時に、そのような気持ちが「実は河野を失い、一人残される

<私のその後>への不安だと気づいて愕然とする。

ご夫婦はよく話したという。

裕子さんは、そのたびに「よかったわね」「それはすごいは」

と永田に相槌うってくれた。それが永田を安心させてくれ、それが

励みだった。

相槌の言葉のやりとりは、ただそれだけのことかもしれないが、

その間に通う愛情の発露を感じた。

事実はある。

そして、それとは別に関わった人たちの心情がある。

この発露は止めて止まるもはではない。

 

事実をはっきり見て、その上での気持ちは悲しみは一時は深くとも、

後には生きる力となって、その人のなかで生きつづけるのではないか。

 

 

 

今回は永田さんと裕子さんの夫婦のつながりの深さを感じさせて

もらった。

わが夫婦は、こんなつながりが、実際あるのかどうか、今は

語るべくもない感じがする。

とはいえ、普段のわが夫婦のやりとりが、いかにギクシャク

することがおおいといっても、実際の世界はどうなっているか、

「どうなんだろう?」と二人して、後になって自分を見ている

感じだ。

 

夫婦って、なんだろう?

 

 

 

 

  

 

 


読む(2)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-02 08:39:07 | わがうちなるつれづれの記

 

短歌

  お母さんあなたはわたしのお母さん、裕ちゃんごはんよと呼ぶこえがする

                      (22年3月20日 河野裕子)

エッセイは、<お袋>。

心に残ったのは、つぎの一節。

  「母が亡くなり、母のことを思わない日はない。叱られた記憶はない。

  言い争ったことは一度もない。

  そういうことは先ずわたしたちの間では考えられないことだった。

  何を言っても、文句を言ったり、批判をしない人だったから。

  わたしに何かあるとうろうろおろおろと心配するばかりで、理をたてて 物を

  考えることもない母をもどかしく思ったこともある」

 

わが<お袋>を想った。

裕子さんの母上とぼくの母は全くちがうけど、母の所作についての

受け取り方が、懐かしい気持ちになった。

ぼくの母も、子どもらに怒ったことも、やっていることに難癖つけたり、

批判した記憶がない。

母が子どもたちの所業になんとも言えない、言葉にならないけど、

「そう・・」と受けとめてくれるような、ときに微笑みを浮かべた、

微妙な表情が思い出される。

親父が怒って、ちゃぶ台をひっくり返したしたときでも、黙って

あとかた付けをしていた。

勉強しろというのも、聞いたことない。

体調が悪いと、心配しすぎというほどになり、よく母は病院に

連れて行ってくれた。

買い物に出かけて店員さんから「これ美味しいよ」聞くと、

「ああ、そう」と買ってきた。

食事のとき、「ええ、そうなの?」とか子どもたちから「それりゃ

店の人はそういうよ」と少し母を小ばかにした言葉を聞いても、

ただ微笑んで聞いていた。

そんな母を中学生ぐらいから、嫌だとおもい、邪険にしてきた。

そんなときでも、母は毎食毎食ごはんをつくり、洗濯をして、

家事をまかなっていた。

 

裕子さんのエッセイの一節。

 「・・・たいていは男の人が使っているが、今頃になって、はっと

  気がついた。母親はお袋だったのだということに。

 何でもいれてくれて、何を入れても柔かく膨れて、まだ何でもいれられて、

 それが本来のありようそのものであるように、

 ゆったりと袋であり続ける袋。・・・わたしのおかあさん、あなたは

 わたしを誰よりも大きくやさしく包んでくれる袋でした。亡くなった今も」

 

ぼくの場合、小学生のころは、喧嘩で怖くなったときや、にっちもさっち

もいかないときに、最後のさいごは母がやさしく掬いとってくれると、

まじめにおもっていた。孫悟空と観音さまのイメージで。

思春期以後、中年になるまで、ふりかえれば、母にたいしての態度は

悔恨と嘘っぽい記憶だけが残っている。

それでも、母はの態度はかわらなかった。

ときどき、夫婦で住まいに訪ねたときなど、帰り際、「電車賃あるの?」

聞かれたりした。

もう特別老人ホームで衰弱してベットに横たわっているとき、

ぼくらに「なかよくしてる?」と問いかけた。そのことばの

発するところに、えもいわれぬ母の心情を思った。

 

河野裕子さんの言葉、もういちど、かみしめる。

「何でもいれられて、それが本来のありようそのものであるように、

ゆったりと袋であり続けるお袋。・・・あなたはわたしを誰よりも

大きくやさしく包んでくれる袋でした。亡くなった今も」

 

この裕子さんの言葉は いまの今、自分の中で、おふくろへの懐かしさと

と裕子の言葉に共感するとともに、しみじみと感じられる。

「本来のありようそのものであるように」

 

 


読む(1)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-01-31 11:20:31 | わがうちなるつれづれの記

(歌人河野裕子さんは、2008年7月、乳がん再発。

抗がん治療をはじめた。

闘病の末、2010年8月亡くなった。

 

短歌のことは、なんの素養もない。

家族が短歌をとおして、言葉にならないけど、こころを

通わせている。

 

関心。2017年心室頻脈で。5月入院した。

すこし安定したと思ったら、12月再発、再び入院生活。

そのときは、厳しかった。

主治医からもし、心室の頻脈とまらなかったら、命にかかわった

だろう、と聞いた。

今回の入院、退院後はつねに吐き気が胸にあり、食欲もでないし、

食事がつらい。息切れ、目まい、立ちくらみも、毎日の所作が

不如意。

腹膜透析をはじめて、それがいつまでも続けられるか。

医師から、6ヶ月から3年くらいかと聞いた。

ガンではないが、河野裕子さんのエッセイを読んでいて、

現象としては近しいものを感じた。

 

 食べることは生きるよろこびと沁みじみす 

              殺して食うことと沁みじみす

(エッセイ)

・・・スーパーに言って食肉売り場に行くのをやめて帰ってくることが

  多くなったが、そんな事いっていると食事が作れなくなる。

   ああ、以前のようにおいしいと言って食べたい。切に思う。

  食べることは、今の私には苦痛になったが、生きるために殺す

  ということの、条理と不条理の間にある答えようもないものの

  深淵を覗く。嗚呼というほか何が言えよう。

 

ぼくの受け取り方。もう先がない命。それを生かすため、他の

命を殺すこと。何も、こんなときでなくとも、日常にあるだろう。

そこから、離れたところで棲んでいるだなあ、振り返る。