かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

読む(3)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-03 11:37:17 | わがうちなるつれづれの記

平成22年7月、歌人河野裕子さんは、、ガンが進行し、緩和ケア

を在宅ですることを選んだ。

その頃、詠んだ永田和宏さんの歌

 

  相槌を打つ声のなきこの家に気難しく老いていくか

              (平成22年7月31日)

<相槌>

エッセイ読んで痛切に感じたのは次の一節です。

 

  「テレビなどで、伴侶の病気を「共に背負う」と言う言い方をするが

  私にはよくわからない。病人の無念さ、寂しさを当人と同じように

  担うなんて、到底できないと思う。河野が泣いて泣いて、私の

  知らないところで繰り返し泣きながら、今の自分の状況に折り合いを

  つけてきたのはよく知っている。そんな時にも、何にもしてやれ

  なかった。苦しみや悲しみを、一緒に頒かちもったなんて、とうてい

  言えない」

  

ドッキとした。自分の感覚からしたら、どういうことだろう?と、

出てきた。

何回か読んでみた。だんだん伝わってきたのは、伴侶の死はおそかれ

早かれやってくる、それは現実で、病院などで手を尽くし、すべて

やりきったあとの現実。それに周囲の人たちはどうにもできない。

永田さんは、正直に自分の心を見つめて、それを受容するしかない

状況をありのままに表現をしたのかな。

どう見てみても、そう言わずおれないもの。

事実なんだから。

 

そのことと同時に、そのような気持ちが「実は河野を失い、一人残される

<私のその後>への不安だと気づいて愕然とする。

ご夫婦はよく話したという。

裕子さんは、そのたびに「よかったわね」「それはすごいは」

と永田に相槌うってくれた。それが永田を安心させてくれ、それが

励みだった。

相槌の言葉のやりとりは、ただそれだけのことかもしれないが、

その間に通う愛情の発露を感じた。

事実はある。

そして、それとは別に関わった人たちの心情がある。

この発露は止めて止まるもはではない。

 

事実をはっきり見て、その上での気持ちは悲しみは一時は深くとも、

後には生きる力となって、その人のなかで生きつづけるのではないか。

 

 

 

今回は永田さんと裕子さんの夫婦のつながりの深さを感じさせて

もらった。

わが夫婦は、こんなつながりが、実際あるのかどうか、今は

語るべくもない感じがする。

とはいえ、普段のわが夫婦のやりとりが、いかにギクシャク

することがおおいといっても、実際の世界はどうなっているか、

「どうなんだろう?」と二人して、後になって自分を見ている

感じだ。

 

夫婦って、なんだろう?

 

 

 

 

  

 

 


読む(2)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-02 08:39:07 | わがうちなるつれづれの記

 

短歌

  お母さんあなたはわたしのお母さん、裕ちゃんごはんよと呼ぶこえがする

                      (22年3月20日 河野裕子)

エッセイは、<お袋>。

心に残ったのは、つぎの一節。

  「母が亡くなり、母のことを思わない日はない。叱られた記憶はない。

  言い争ったことは一度もない。

  そういうことは先ずわたしたちの間では考えられないことだった。

  何を言っても、文句を言ったり、批判をしない人だったから。

  わたしに何かあるとうろうろおろおろと心配するばかりで、理をたてて 物を

  考えることもない母をもどかしく思ったこともある」

 

わが<お袋>を想った。

裕子さんの母上とぼくの母は全くちがうけど、母の所作についての

受け取り方が、懐かしい気持ちになった。

ぼくの母も、子どもらに怒ったことも、やっていることに難癖つけたり、

批判した記憶がない。

母が子どもたちの所業になんとも言えない、言葉にならないけど、

「そう・・」と受けとめてくれるような、ときに微笑みを浮かべた、

微妙な表情が思い出される。

親父が怒って、ちゃぶ台をひっくり返したしたときでも、黙って

あとかた付けをしていた。

勉強しろというのも、聞いたことない。

体調が悪いと、心配しすぎというほどになり、よく母は病院に

連れて行ってくれた。

買い物に出かけて店員さんから「これ美味しいよ」聞くと、

「ああ、そう」と買ってきた。

食事のとき、「ええ、そうなの?」とか子どもたちから「それりゃ

店の人はそういうよ」と少し母を小ばかにした言葉を聞いても、

ただ微笑んで聞いていた。

そんな母を中学生ぐらいから、嫌だとおもい、邪険にしてきた。

そんなときでも、母は毎食毎食ごはんをつくり、洗濯をして、

家事をまかなっていた。

 

裕子さんのエッセイの一節。

 「・・・たいていは男の人が使っているが、今頃になって、はっと

  気がついた。母親はお袋だったのだということに。

 何でもいれてくれて、何を入れても柔かく膨れて、まだ何でもいれられて、

 それが本来のありようそのものであるように、

 ゆったりと袋であり続ける袋。・・・わたしのおかあさん、あなたは

 わたしを誰よりも大きくやさしく包んでくれる袋でした。亡くなった今も」

 

ぼくの場合、小学生のころは、喧嘩で怖くなったときや、にっちもさっち

もいかないときに、最後のさいごは母がやさしく掬いとってくれると、

まじめにおもっていた。孫悟空と観音さまのイメージで。

思春期以後、中年になるまで、ふりかえれば、母にたいしての態度は

悔恨と嘘っぽい記憶だけが残っている。

それでも、母はの態度はかわらなかった。

ときどき、夫婦で住まいに訪ねたときなど、帰り際、「電車賃あるの?」

聞かれたりした。

もう特別老人ホームで衰弱してベットに横たわっているとき、

ぼくらに「なかよくしてる?」と問いかけた。そのことばの

発するところに、えもいわれぬ母の心情を思った。

 

河野裕子さんの言葉、もういちど、かみしめる。

「何でもいれられて、それが本来のありようそのものであるように、

ゆったりと袋であり続けるお袋。・・・あなたはわたしを誰よりも

大きくやさしく包んでくれる袋でした。亡くなった今も」

 

この裕子さんの言葉は いまの今、自分の中で、おふくろへの懐かしさと

と裕子の言葉に共感するとともに、しみじみと感じられる。

「本来のありようそのものであるように」

 

 


読む(1)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-01-31 11:20:31 | わがうちなるつれづれの記

(歌人河野裕子さんは、2008年7月、乳がん再発。

抗がん治療をはじめた。

闘病の末、2010年8月亡くなった。

 

短歌のことは、なんの素養もない。

家族が短歌をとおして、言葉にならないけど、こころを

通わせている。

 

関心。2017年心室頻脈で。5月入院した。

すこし安定したと思ったら、12月再発、再び入院生活。

そのときは、厳しかった。

主治医からもし、心室の頻脈とまらなかったら、命にかかわった

だろう、と聞いた。

今回の入院、退院後はつねに吐き気が胸にあり、食欲もでないし、

食事がつらい。息切れ、目まい、立ちくらみも、毎日の所作が

不如意。

腹膜透析をはじめて、それがいつまでも続けられるか。

医師から、6ヶ月から3年くらいかと聞いた。

ガンではないが、河野裕子さんのエッセイを読んでいて、

現象としては近しいものを感じた。

 

 食べることは生きるよろこびと沁みじみす 

              殺して食うことと沁みじみす

(エッセイ)

・・・スーパーに言って食肉売り場に行くのをやめて帰ってくることが

  多くなったが、そんな事いっていると食事が作れなくなる。

   ああ、以前のようにおいしいと言って食べたい。切に思う。

  食べることは、今の私には苦痛になったが、生きるために殺す

  ということの、条理と不条理の間にある答えようもないものの

  深淵を覗く。嗚呼というほか何が言えよう。

 

ぼくの受け取り方。もう先がない命。それを生かすため、他の

命を殺すこと。何も、こんなときでなくとも、日常にあるだろう。

そこから、離れたところで棲んでいるだなあ、振り返る。

 

 

 

 


物に囲まれて

2018-01-27 16:49:09 | わがうちなるつれづれの記

朝,5時に薬を飲む。妻は眠っている。

一人食堂で、しばらく椅子に坐っている。

部屋は静まりかえり、蛍光灯の明かりに照らされて周りに

いろいろ置かれている物がぼんやり目に入る。

ものたちに囲まれて、自分がここに居るって、どんなこと

なんだろう、ふと思った。

 

退院して、もう何日になるだろう?

不整脈はでないものの、常に吐き気があり、それがどういう

ことなのか、ぼくには分からない。お医者さんにどうにか

ならないか、これはどこからくるのか、何度も尋ねたが、

「うーん、心不全からくるもかなあ」

それを、減じる手立ては示してもらえない。

吐き気や息切れなどの現われがあると、長い時間、机の前に

坐っていられなく、ついベットに横になってしまう。

すこしは楽になるから。

こんな状態で日々過ごしている。

ときに、ぼくは自分の捉えた”吐き気”という意識に縛られて

いるんじゃないか、とおもうときがある。

 

朝、周りにあるものたちを一つ一つ見て、これは何だとつぶやいて

見る。

 

 包丁・ペットボトル・急須・箸・計量カップ・湯のみ

 ・コーヒーミル・テープ・ペンさし・カガミ・布の状差し

 テッシュ・箒・かご・紙ふくろ・・・

 ふともう少し、雑貨の周りにあるものに目をむけると、食器棚・

 冷蔵庫・食卓・椅子・窓・カーテン・・・

 

わあ、自分から離れて見てみると、限りなくものたちとともに、

じぶんが成り立っている。

こういうことは、知識では読んだり、聞いたりしたら「そうだよな」と

なるけど、早朝、一人ものたちに囲まれていると、その感がひしひしと

迫ってきた。

自分の捉え方とは別にそのものたちは、そこに存在している。

それだけでなく、自分がこうして生きていられることと、深く

関わっているんじゃないか。

そのものが見えるようになりたい。

 

 


国際電話

2018-01-24 09:03:29 | わがうちなるつれづれの記

7,8年前から、ときどき国際電話がかかってくる。

電話はニューヨークから。

かけてくる人物は、いまから60年前、横浜の高校のときの同じ

クラスで過ごした男性だ。

同じクラスとはいえ、記憶ではほとんど話したこともなく、とくに

付き合ったこともなかった。

Nという名前である。

色白で、なにか寡黙な感じだったかなあ。

その彼から、おなじ同級の友人に「宮地の住所と電話知っていたら

教えて」と連絡があった。

なんで、彼がぼくの連絡先を聞いてきたのか、そのキッカケは

わからない。

友人を介して、連絡先を伝えたら、ひょんなときに、Nから国際電話

があった。

なんとか高校時代の彼のこと思い出そうとするが、ほとんど記憶が

出てこない。

高卒のあと、どこに進んだかも知らない。

電話の話から、東京の繊維問屋に進み、途中から伊藤忠商事

の繊維部門の営業になり、その成り行きでニューヨークの伊藤忠

営業部に送り出されたという。そのころ、伊藤忠の繊維部門が縮小

されて、そのあとどんな経緯か分からないが、どうも長年、ニューヨーク

・マンハッタンのスラム街に住んでいるという。

何がなんだか分からない。

そのときも、一人暮らしという。それが楽だという。

マンハッタンの暮らしは、身に危険なときもあるけど、彼には居場所

になっているようだ。どうやって暮らしているのか聞くと、何か

よく理解できなかったが、一人で事業をしてるということ。

 

電話の話は長い。延々とニューヨークのことやじぶんのいまの

気持ちを話してくる。

「なんで、ぼくに話したくなったか」

さっぱり、分からない。

「もう、今日はこれぐらいにしよう」と声をかけて終わる。

その後もニューヨークの新聞や絵葉書や、「こんな本があるけど

読んでみたら」とか手紙が来たりする。

 

最近も、入院中に電話があった。

あまり体調は良くなかった。

彼は、そんなこと分からない。あとから、後から話つづいて

止まらない。すこし、えらいなあと思った。

 

退院して、体調がすぐれず、ベットに横になっていたら、スマホ

に国際電話がかかってきた。

とってみるとNだった。

「どこが悪いの?」

「心臓」

「そんなに悪いのか」

「もう先が見えるくらい」

「病身であっても、100歳まで生きる気持ちでやったほしい」

励ましてくれた。

「いまのやりたいことって、何?」

「世界中のみんなでしあわせになろう、かな」

「それは、ぼくも同じだ。でも、実際を見たら、なかなか難しい」

「いまの世の中をみて難しいというところではやっていない」

このあと、アズワンコミュニテイーのことを根掘り葉掘り訊かれた。

ぼくの方は、息切れがして苦しかった。

途中は、「うん」とか「そうじゃない」とかの応対になった。

ジョンレノンの「イマジン」の歌のこと言った。

「国境や所有もない、君は夢ものがたりというけど、いづれ世界は一つ

になる、この実現のために研究と実践してるんだ」

いま、横になりながら、言葉だけじゃなあ、という気持ちが湧く。

「人類はだれかが考えたことに、そんなフィクションを信じて

国や会社やお金が、実際にあるものと暮らしている。

だから、目の前のことをゼロから見直すなんて、思いもよらない」

「ポイントはフィクションだと、という点をはっきりさせることかな?」

ぼくは、しんどかったがこんなやり取りをNと国際電話で話した。

実際は、いろいろなやりとりがあったんだけど。

「もう今日ほこれぐらいにしよう」とNに伝えた。えにも不思議な

同級生との縁を感じた。

「遺言になっちゃたかなあ」

この言葉、Nに伝わったかなあ。