かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

友人からの贈り物

2018-03-09 11:31:09 | わがうちなるつれづれの記

東京の友人から詩集と手紙が届いた。

友人は、いま老舗出版社の社長。大学時代の同級生。

ぼくのブログを読んでくれていて、症状を受けとめようと

してくれている。

自身も年来の喘息が酷くなったきて、夜の苦しさに悩まされて

いるようだ。息の出来ない苦しさは言葉に表せない。

 

山折哲雄さんの「私の履歴書」のコピーが同封されていた。

最近のもの。一昨年12月、心臓に不整脈が起こり軽い脳梗塞で

倒れたという。消化器系の病気は重ねてきているが、心臓の

病ははじめてだそうだ。

そのときの感覚を書いている。

「吐く息、吸う息が何となくたよりない。まるで残りすくない

ローソクの火が、少しづつ細くなり、そのまますーっと消えて

いくような感覚である」

たしかに、心臓の機能が終焉を迎え、だんだん食べられなくなり、

死んでいくという姿は、想像できなくない。そうあれば、とも

思っている。

山折さんが、そんなとき「自分はなんと多くの重苦しい荷物を

抱えて生きてきたことか]、と述懐している。

ここは、死に面したときだけのことでないようにちらりと思った。

 

贈ってもらった詩集は久保克児(女性、一昨年亡くなっている)さんの

「ある日 人は鳥になる」(春秋社)という題名。

前にも、同じ著者の「こころ菌」という詩集を贈ってもらっている。

友人はこの人の詩から響くものをずいぶん受けているようだ。

ぼくも、何回か読むうち、こころに残ったことがある。

それぞれの詩に、葉祥明さんが詩が引き立つような情感豊かな

挿絵が描かれていて、これもすばらしい。

 

最近、あれっと気づくことがあった。

人は、「聴こう」とか「聴けない」とか、「聴いてもらえない」

いとか、「聴かなくちゃ」とか忙しいけど、もともと人は

すべてのモノゴトを聴けるように出来ている?

 

詩集に「耳をたてて」という作品がある。

   耳を立てて

   幼な子よ

   君は何を聞く

   ツーイ ツーイ ツーイ

   みそさざいだ

   あの美しい声は

   ルリビタキかな

   友だちが君を呼ぶ声

    

   耳を立てて

   聞こえてくるものみんな

   大人たちのヒソヒソ話も

   何もかも

   聴きとってしまう

   幼な子の耳

   誰にでも幼ない日があった

   母よ

   はるかな日びがおもわれますか

   父よ

   幼な子のやわらかなこころが

   おもわれますか

   十年は

   あっという間です

 

人は、本来、ここからはじまっている。

これを「知ったら」、重荷を背負うこともなく、「人は鳥になり」

空を自由に飛びまわれる。

 

久保克児さんは「法華経」を読み解きながら、神通力の章を

こんな受け取りをしている。

   

   光輝くものって仏よね

   だから つまり これってね

   お釈迦さまと諸仏たちが

   それも短くない時間 語りあったということ

   ではないのかしら

   円くなってお互いの顔を見ながらね

   人間の本来を生きる

   人間の本当を語りあったという   

   そういうことではないかしら

                  (「神力」の章から)

 

作者久保さんは、法華経を経典としてだけでなく、人と人が

日々暮らしている実際の本当の姿を見つめていたのじゃな

かったかなあ。

話し合うには、「聴く」の本来の姿を知ってから。

これは、ぼくの受け取り。

一人では、見出せないもの。

 

 

友人とは、なんだかんだ長い付き合いだ。

どちらが、先に逝くか分からないけど、とても温かい贈りもの

をいただいた。

 


雛祭りの前日

2018-03-03 14:41:06 | わがうちなるつれづれの記

春の明るさだけど、外に出ると寒い風でちぢみあがる。

3月2日は、ぼくの誕生日だと聞かされておおきくなってきた。

2と3について、小さいときからどっちか分からなくて、

どうだったかな、と一呼吸入る。雛まつりの3日とあまり

区別がついていなかったからか。

娘の誕生日は、12月22日だけど、毎年「22だっけ、23じゃ

ないよね」と妻に聞いている。

孫娘は、1月23日で、123と覚えればいいだけど、どこかに

「22日じゃないよな」とたしかめる。

 

2日の朝、地元の病院に出かけた。

これまで、ずっと大学病院一筋だったが、身体の変調があったり、

相談したいというときは、敷居が高い。

最終章をどう暮らすかも含めて、近くにかかり付け医ができればなあ

と、医師と仲良くしたいと、通いはじめた。

吐き気でご飯が飲み込めないとか、便秘で苦労しているというと、

いろいろ症例など説明してくれて、薬を処方してくれる。

大学病院とは違う感じ。きめ細かい。

いわば薬漬けの身体だけど、まあやれることはやってみようと

いう気持ち。

 

診察のあと、梅を見に行った。菅原神社。

車のなかは暑いくらいだけど、降りて歩いて見ると、冷たい風に

あおられて歩けない。

梅は蕾が多く、見ごろはもう少し先だろうな。

早々に車に引き上げた。

 

午後、片山弘子さんが顔を見せてくれた。

なんか、やたら懐かしい気持ちが出てきた。

彼女は、アズワンネットワーク、<世界中のみんなとしあわせに

なろう>という熱い願いで、国内のみならず、世界各地の運動家

や学者さんと親しく交流している。

各地の願いをともにする有志の人たちと出会い、それらさまざまな

活動家とともに、<争いのないしあわせな社会>この世に実現したい

と奔走している。

「最近やっていて、自分が関わる人との間に境をつくっていないか、

振り返りながら暮らしているの。世界が一つになるのには、まず

自分の中にに分け隔てがあってははじまらないものね」

短い時間だったけど、ぼくにできることは少ないけど、自分が世界に

広がっていく、豊かな気持ちになった。

 

 

横になっていると、元気よく後輩の恒太くんが飛び込んできた。

「部屋のなかで筋トレできる自動あし漕ぎ器をもってきた」という。

恒太くんは、自分で実演して、分からぬながら使い方を伝えてくれて、

「お役に立てばいいんだけど」と言って、風のように去っていった。

オークションで探してくれたそうだ。気持ちはありがたい。

おいおい、使えるようになればいいんだけど。

 

 

今日の晩ごはんは、お稲荷さんとのり巻き。

これなら、ぼくの喉を通りそうと、つぶやいたからね。

娘が夕方きて、お稲荷さんの油揚げに酢めしをつめた。

妻は、のり巻きを巻いた。

ぼくは、その二人をぼんやり見ていた。

二人は、手も動かしているが、口もたえず動かしていた。

軽くて、楽しそうに見えた。

 

出来あがって、食卓の上を見たら、ぼくから見たたらやりすぎ

のメニューに思えた。寿司のほかに、茶碗蒸し、サラダ、

はまぐりの吸い物、手羽先のから揚げ、チキンかつ。

茶碗蒸しとチキンかつは娘が用意した。

孫娘風友(高1),弟晴空(小5)、それに40過ぎた次男。

山盛りの食卓を食べ尽くしていった。

ぼくが食べて美味しいということより、孫たちの食べっぷりが、

見ていて、わがことのように心地よかった。

 

食事が落ち着いたころ、娘が花束をもってきて、手渡してくれた。

ピンクと紫の可愛い花の束だった。

それを持って、妻と写真をとってもらった。

何やら、顔が緩んで、心が晴れやかになった感じがした。

ときどきは、ふだんもお洒落もいるかも、と思った。

 

食後の孫たちと娘(ママ)とのやりとり掛け合い漫才のようで、

久しぶりに大笑いした。

孫娘「ママ、タバコすっているでしょ?」

ママ「吸ってないよ」

孫娘「この間、おふくろさんの店の奥で、誰かと吸っているの見たもん」

ママ「そうか、1週間に1本ぐらいかな」

孫たち「そんなじゃ、きかないとおもう」

ママ「それでも、いっしょに吸う人がいるときだけね」

孫たちは納得しなかった。

ママ「そういえば、小学生のころ風友が学校でタバコ吸っていると、

命が危ないと聞いてきて、ママ、タバコやめて!って、泣いたこと

あったなあ」

実に親しみもこもった、息のあった屈託のない掛け合いだった。

 

孫たち同士も学校で様子をしゃべっていた。

孫娘は、3月友だちと二人だけで、泊りがけで京都にいくのだ

そうだ。「楽しみ」というのが、満面にあらわれていた。

 

片付けは、妻と娘でやっていた。

手を動かしながら、おしゃべりが軽妙にとどめるものがない感じで

行き来している。

妻は娘といるときは、何かしら軽い話し方になり、いつも見せない

表情を見せる。娘も、何も気を使わないように、妻との話に

乗っている。楽しげだし、気持ちがほぐれている感じ。

 

雛祭りの前日は、こうして暮れた。

翌日、長男太郎から、ラインで10月に生まれた長男「裕大」の

写真を送ってきた。

めったに、近況はよこしてこない。

娘桃子が、何かいったのかもしれない。

いかにも太郎らしい反応だと思った。

裕大くんは、その頃の太郎を彷彿とさせる。

 

 

 


腹膜透析

2018-02-09 16:41:51 | わがうちなるつれづれの記

腹膜透析は、一日1回、夕方4時に透析用の液を注入し、夜9時

排液する。液は1500ccを入れ、出すときは1900ccぐらい

でる。増えた分は腎臓の老廃物や腎臓が処理できなかった水だ

そうである。

それによって、心臓の機能が極端に低下してくると、全身に血液

がまわる分が少なくなり、各種臓器にもいろいろな障害がおこる

という。

今現れている身体の現象、息切れ、立ちくらみ、吐き気、便秘なども

その影響らしい。

腹膜透析をしたから改善するかと、すこし期待したが、それは

変わらない。やはり、心不全がこれ以上悪化して、再び不整脈が

起きないようにできたら、まず成功という事のようだ。

この一年の間に、歩けていたのが、今は杖が必要となってきた。

吐き気もずっと、胸の当たりにわだかまって食欲もないし、食べもの

を飲み込もうとすると、吐き気が込みあがってくる。

だんだん自分でやれることが少なくなるし、「ああできていたのに

いまはできない」みたいな気持ちがふと、出るくるときがある。

自分では分からないが、心臓の現状というのがあり、それにあわせて

働いているのだろう。

そういう現状を受け入れようとしているが、それはできているかどうか。

吐き気が強くなったりすると、早く治まらないか、とただそれだけに

気持ちがいく。

何日か前、あまりにひどい時があり、たまりかねて近くの内科に

「どんなことが起きてるでしょう?」と聞いたが、それはどうしよう

もないと」と言われた。吐き気止めの薬をもらって飲んだ。少し、ましに

なった。

ぼくの行動は妻小浪がいなくてはできない。病院はもちろん、

部屋のなかでも、不如意なところは、手を貸してくれる。

一日中、ぼくのそばにいてくれる。

腹膜透析の際も、衛生面や管をつなぐ手技の手順など、細かく

注意してくれる。

便が出そうででないときなんぞ、座薬をいれてくれる。

夫婦といえ、はじめは恥ずかしかった。が、そうもいってられない。

これが実際かな。

一日中、ぼくのそばに居てくれるとぼくは思っているけど、妻も

いろいろやっている。孫の世話とか、買い物、書類の申し込みなど。

「ときどき、一日どこかでゆっくり過ごせる日があったらいいんじゃ

ないか?」といったら、「今はそんなことしなくても、いい」と

いうことだった。

もう少し、疾患が進めば、介護の必要になるだろう。

そのときは、妻だけでなく、いろいろな人の世話になるだろう。

いつからとは、いえないが、疾患とともにくらしていくほか

ないのかなあ、これが「言い聞かせているのか?」実際に

そくしていこうと、してるのか、すぐには分からない。

 

 


生命誌館中村桂子館長、年頭の挨拶

2018-02-06 17:26:32 | わがうちなるつれづれの記

JT生命誌研究館の館長の中村桂子さんの「2018年年頭の挨拶」に

触れて心に残りました。

 

 

  <2018年が始まりました。BRHは1993年創立ですから

  今年が25周年になります。特別の行事は考えていませんが、

  これまでの歴史を踏まえて新しい展開を考えるところにきている

  と思っています。館のメンバー全員が今大事なことは何であるか

  を考えて、自分のBRHをつくっていく挑戦の年にしたいと

  思います。

  「人間は生きものであり、自然の一部である」。

  とてもあたりまえのことですが、これをよく考えることがこれまで

  以上に大切になっていると思うのです。

 

  たとえば、これからはAI(人工知能)の時代だと言われます。

  時にはAIが人間を超えるという人さえいます。

  でも生きもの研究の立場からすると、「人間とはなにか」と

  いうのはとても大きなテーマでわからないことだらけです。

  どうしたらこのわからないものを超えたことになるのだろうと

  考え込みます。

  たとえば戦争です。戦争をするのがあたりまえであり、日本も

  あたりまえの国になろうと言われます。人間という生きものは

  戦争をするのがあたりまえにできているのかどうか。

  よく考えてみなければなりません。最近、類人猿や絶滅した人類

  との比較から、私たちの祖先はとても穏かな存在だったとも言われ

  始めています。

  とにかく、「人間」をもっとよく知らなければなりません。

  技術も政治も急がずに、慎重に考えるところから始めて欲しいと

  思います。

  今年のテーマは「容」です。いれる、ゆるす。生きものは大きな

  容れものとかんがえることもできます。

  社会としては寛容こそ今大切であると思っています。排除でなく。

  今年もよろしくお願いいたしま>



 

とても平易な語り口ですが、そこに示唆に富むもの、深さなどが無理なく

自分の心に届いてきたことを感じます。

中村桂子さんは、これまで一貫して「人間は生きものであり、自然の

一部である」と研究を続けてこられた。

こういうことは、普通の人でも理解は容易だと思いますが、実際に

現れている社会の現象は、その土台が「人間が自然の一部」だという

ことを置き去りにしている。

この点については、いろいろな意見があるだろうけど、中村さんは

先ず、「人間とは何か」を問う余裕からはじめたいと語っています。

こんな問いについて「そんなこと普段、考えたことない」という反応が

ほとんどだと思います。

各自ふりかえると。、言葉にしていないが、「人間とはこういうもの」

という自分でもはっきりしていないと思いながら、日常を言動を詰めて

みると、はっきりした考えがあるかも知れません。

 

「でも生きもの研究の立場からすると、「人間とはなにか」と

 いうのはとても大きなテーマでわからないことだらけです。

 どうしたらこのわからないものを超えたことになるのだろうと

 考え込みます」

 

そなんだよなあ、と共感します。

桂子さんが「考えこんでいる」というのは、いろいろな現象に現れて

くる人間の姿だけを「そうだ」として、「人間は争うものだ」

「人間は科学、技術を発展させれば幸せになれれる」とか、早飲み込み、

思い込みをしていないか、の問いかけかなと思いました。

「人間とはなにか」と言う問いを避けて、人間の幸福のことや、

世界中から争いごとをなくす社会はできないように思います。

「容」ということは、どんな人の考えをも受けてれていくことだと

捉えました。

どんな考えの人の意見をも受け止めるということが当たり前になる

ためには、自分の意見も他の人の意見も人間の考えに過ぎないという

認識の解明がいるのではないでしょうか。

事実実際は、人間の捉え方と関わっているけど 人間の考えとは

別にあるように思います。

それが、鮮明になってきたら、どんな人の考えもすべて検討材料

にして「人間とは何か」をあらゆる機会に探究していくことができる

のではないか。

 

科学とかに縁遠い自分だけど、これだけ人間の頭脳や技術は

進んできても、これからもっと発展していくだろうけど、

いま世界中で起きている戦争や争いごとが無くならないのは、

どうしてだろう?

イスラエルの歴史学者「ノヴァ・ハラリ氏が「サピエンス全史」の

なかで、人間の「意識と心」のテーマを、まだ人類が本気で探究して

こなかった、と述べているます。

ぼくは、いまこれに関心があります。

 

 

 

 

読む(4)「家族の歌 河野裕子・永田和宏・その家族」

2018-02-03 15:47:32 | わがうちなるつれづれの記

 

<短歌>

   消灯後の薄暗がり歌つくり薬袋の裏に書きゆく

 

 

<エッセイ>

河野裕子さんは、平成22年(2010年)正月に1週間、大病院に

入院している。

病院の印象をこう書いている。

 

  「・・・駅に来た人々は目的地にむかって流れていくが、病院は

  殊に入院患者はそこに留まる。駅と病院を観察していると、人間

  模様の様々が如実に見えてきて、人と人の行き交いの複雑さと

  はかなさ、面白さ、悲しさを思わないではいられない。

  病院は、もちろん病人、怪我人、入院患者たちのものであるが、

  京大病院のような病院となると、組織が巨大すぎて、工場の中に

  居るような錯覚さえしてしまう。

  病院を支え、治すため、これだけの設備を必要とし、数え切れない

  数の人たちが忙しく働いている。・・・」

 

ここは、ぼくの大学病院の

体験から同じような感想をもった。

裕子さんと同じかどうかは確かにいえないけど、疾患の治療のための

設備や人の体制は驚くほど、緻密に整っているように見える。

昨年、5回、6ヶ月入院したけど、医師や看護師さんが多忙に見えた

さまざまな疾患への対応は関心したが、その疾患をもっているその人

にたいする捉え方が薄いと感じた。

 

大組織の病院はこのような患者の気持ちを受け止めるだけの体制が

整うのはこの先なのかなと思った。

 

最初の入院のとき、たまたま永田和宏著「現代秀歌」を読んでいた。

「はじめ」のことば。

 

  「大切な人に大切なことを伝えるのは、日常の言葉は、はなはだ

  無力である。言葉に出してしまうと途端に嘘っぽく聞こえ、気障

  に見え、しかも思いが深ければ深いだけ、その何分の一も表現できて

  いないことに愕然とする」

 

とても思い当たる。

それを表現するには、短歌がふさわしいと、いうことだった。

入院中、その言葉に導かれて、ベットのなかで読んだ。

消灯は夜9時。一人での長い夜がはじまる。

不安で眠れないときなど、永田さんが選んだ秀歌を読んだ。

そのうち、うす暗い部屋で自分の気持ちを歌にしてみることさえした。

 

<短歌>

  聴診を受くるは何年ぶりのこと胸と背中をゆっくり滑る

                (22年8月  河野裕子)

<エッセイ 往診>

  「いつまで生きられるか私にはわからない」
  これが書き出しだった。
  「自宅看護を受けると決めたとき、きれいごとで済ませるわけには
  いかないと思った。
  シャワーをするときにこの身体を見せてしまうことにも躊躇しなく
  なった。座薬を入れてもらうことも」
 
 
いまの自分は、裕子さんが辿った気持や道筋を歩んでいるかな、と
思った。
この1年の間に、体力は弱り、息切れ、目まい、たちくらみ、吐き気、
便秘といわれる、身体の変化が起きている。
自宅介護の申請もやった。
ますます周囲の人たちからの手助けを受け入れることになる。
 
 
 最後の一節。
  「現状を言えば、「二,三日おきに主治医の先生が大きな鞄をもって
  訪ねてくださるし、看護師さんたち毎日チームを組んできてくださって、
  申し分のない介護をしてもらっている。
  主治医の先生が来てくださるのはとてもいい。何十年ぶりかで、家で
  診てもらうという経験をし、とても懐しい気がする。昔はお医者さんと
  いうと看護婦さんを連れてやってくるものだったし、患者の家では
  お湯を張った洗面器など出して応対していたのを思い返す。
  そういう町医者と患者の関係から身近なぬくもりのある相互関係が
  できていたし、できていくのだろう。入院していたときは、ベルト
  コンベアにのせられているような気がしたが、いまは一対一である
  問診や聴診にぬくもりがある」
 
 
この懐かしさに共感する。
まだ、訪問診療にいたっていない。
いつまでも大学病と関係がつづくなら、最終章はどうなるだろう?
疾患の対応は技術の粋をあつめた、治療は可能かもしれない。
その人の人生については関心はいかない感じがする。
大学病院を非難するつもりはない。
人の生老病死を一環して見れる相互人間関係が育まれること望む。