東京の友人から詩集と手紙が届いた。
友人は、いま老舗出版社の社長。大学時代の同級生。
ぼくのブログを読んでくれていて、症状を受けとめようと
してくれている。
自身も年来の喘息が酷くなったきて、夜の苦しさに悩まされて
いるようだ。息の出来ない苦しさは言葉に表せない。
山折哲雄さんの「私の履歴書」のコピーが同封されていた。
最近のもの。一昨年12月、心臓に不整脈が起こり軽い脳梗塞で
倒れたという。消化器系の病気は重ねてきているが、心臓の
病ははじめてだそうだ。
そのときの感覚を書いている。
「吐く息、吸う息が何となくたよりない。まるで残りすくない
ローソクの火が、少しづつ細くなり、そのまますーっと消えて
いくような感覚である」
たしかに、心臓の機能が終焉を迎え、だんだん食べられなくなり、
死んでいくという姿は、想像できなくない。そうあれば、とも
思っている。
山折さんが、そんなとき「自分はなんと多くの重苦しい荷物を
抱えて生きてきたことか]、と述懐している。
ここは、死に面したときだけのことでないようにちらりと思った。
贈ってもらった詩集は久保克児(女性、一昨年亡くなっている)さんの
「ある日 人は鳥になる」(春秋社)という題名。
前にも、同じ著者の「こころ菌」という詩集を贈ってもらっている。
友人はこの人の詩から響くものをずいぶん受けているようだ。
ぼくも、何回か読むうち、こころに残ったことがある。
それぞれの詩に、葉祥明さんが詩が引き立つような情感豊かな
挿絵が描かれていて、これもすばらしい。
最近、あれっと気づくことがあった。
人は、「聴こう」とか「聴けない」とか、「聴いてもらえない」
いとか、「聴かなくちゃ」とか忙しいけど、もともと人は
すべてのモノゴトを聴けるように出来ている?
詩集に「耳をたてて」という作品がある。
耳を立てて
幼な子よ
君は何を聞く
ツーイ ツーイ ツーイ
みそさざいだ
あの美しい声は
ルリビタキかな
友だちが君を呼ぶ声
耳を立てて
聞こえてくるものみんな
大人たちのヒソヒソ話も
何もかも
聴きとってしまう
幼な子の耳
誰にでも幼ない日があった
母よ
はるかな日びがおもわれますか
父よ
幼な子のやわらかなこころが
おもわれますか
十年は
あっという間です
人は、本来、ここからはじまっている。
これを「知ったら」、重荷を背負うこともなく、「人は鳥になり」
空を自由に飛びまわれる。
久保克児さんは「法華経」を読み解きながら、神通力の章を
こんな受け取りをしている。
光輝くものって仏よね
だから つまり これってね
お釈迦さまと諸仏たちが
それも短くない時間 語りあったということ
ではないのかしら
円くなってお互いの顔を見ながらね
人間の本来を生きる
人間の本当を語りあったという
そういうことではないかしら
(「神力」の章から)
作者久保さんは、法華経を経典としてだけでなく、人と人が
日々暮らしている実際の本当の姿を見つめていたのじゃな
かったかなあ。
話し合うには、「聴く」の本来の姿を知ってから。
これは、ぼくの受け取り。
一人では、見出せないもの。
友人とは、なんだかんだ長い付き合いだ。
どちらが、先に逝くか分からないけど、とても温かい贈りもの
をいただいた。