雨の日々。胸に吐き気があり、好きな雨の日も味わえない。
物に囲まれて暮らしている。
物なしに、暮らしは成り立たない。
物はただそこにあるわけではない。たくさんの人の気持ちが
かかわって、ここにある。
まわりにある物のなかに、毎日使うもののなかに、とりわけ届く
までの経過やそのときの背景が、心の内に記憶として、刻まれていて
使うたびに何か物として使っているだけでない気持ちが出てくる。
ある日、マンションのベランダから、牛丸純子さんが、風呂
イスを差し入れてくれた。
体調崩してから、風呂場のイスが低いので、不如意の身体には
すこしぎこちない感じがしていた。
「これまで使ってきたものだしな」「高いイスは子どもにどう
だろう」「なんか大きいと場所塞ぎになるかな」
しばらく、自分のなかで、なかなか言い出せなくて、なんとなく
日々過ごしていた。こんな習性が身に染まっている。
なんかのキッカケで妻に「風呂イス、高いのがあると、楽かな」と
呟いた。
妻は「そうだね」と反応した。
ぼくは、「でも、いろいろ考えるといいかどうか」とか煮え
切らない。
歩く目的でイオンタウンにある「ニトリ」で広い店内を
ウロウロしていた。
妻が、お風呂用具のコーナーで高い風呂イスを見つけた。
よさそうだったけど、「じゃあ、買おう」とならない。
しばらく、実際に坐ったり、妻と風呂イスについて、その
コーナーでいろいろ話し合った。
二人で一つの買い物でこんなに真剣になるのは面白いと
おもった。
妻は「これなら、近所に持っている人がいるかもしれない」と
行って、そのコーナーを離れた。
その後、妻がどんなふうにして、その風呂イスを探したか、
知らない。
純ちゃんが「今使ってるけどちょっと高くて不便なときもあるから、使うならいいよ」と
届けてくれたのだった。
高い風呂イスは楽だった。あんなにゴチャゴチャ考えていたのは
なんだったんだろう。あちこち探してくれた妻のエネルギー。
純ちゃん、「使ってくれて嬉しい」といような気持ちも伝わって
きた。
毎回、「よっこらしょ」と坐るとき、何かそんな背景が浮かんで
くる。
脱衣所の椅子も研修所にあった介護用のものを岡部さんと秀ちゃんが届けてくれた。
風呂上がりに座って一息ついて着替えをしている。
毎日使うものに、柄の長い木製の靴べらがある。
これのお世話になっている。
この靴べらについて、ぼくが勘違いしてきたことが分かった。
柄の長い靴べらをむかし、旅行に行った土産として、元同僚の
女性から贈ってもらった。そういうものが、欲しいと言ったか
覚えていない。とても、便利だった。
鈴鹿に引っ越しのときも、その柄の長い靴べらを持ってきた
つもりだったけど、妻がいうには「あれは、もういたんできたんで、
新しいものに替えといたんだよ」
そうだったのか。記憶だけが、一人歩きしていたことになる。
その靴べらを使うときは、そのむかしの気分が浮かんでくる。
こんなこと書いていたら、いつまでたっても終わらない。
最後に靴のこと。
10年前、靴の専門店で防寒靴を買った。
例によって、買うかどうか、迷っていたら、店員さんが、
「いい靴ですよ。息子に買ってあげたいくらい」と一言。
そのときは、ドキドキしながら買ったけど、温かいし、
履き心地もいい。気に入って、毎冬、愛用している。
「息子に買ってあげたいくらい」
その靴をはくたび、店員のお母さんが、息子を思う気持ちが
蘇ってくる。なんかそんな物をぼくが履かしてもらっている!
みたいな気持ち・・・
物は、人の心とともに、活かされているいるんだろう。
<吐き気が治まらない。パソコンをやっているときは、少し
気分がまぎれる。そのために、書いている?>