かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

軒の燕 つづき

2018-05-17 11:04:51 | わがうちなるつれづれの記

一日中、巣を留守にしていた番の燕は、夕食時には帰って

きていた。

一羽は完成した巣にすっぽり入り、もう一羽は隣の換気口の

上に留まっている。

お互い、顔は差し向かいである。

 

一日どこで、なにをしているのだろう。

子どものころは、街でも燕が飛び交っていた。

地面すれすれに低空飛行したかと思うと、次の瞬間は空に

舞い上がっていた。

カッコいいと思ったんだろう。燕のように飛ぶ紙飛行機を

好んで作っていた。

 

最近は街では燕、とんと見かけない。

わが家からすこし離れているが、伊勢湾に向かって水田が

広がっている。

もしかしたら、そこで食料の虫とりをしているのか。

巣で卵を抱く、気配はない。

 

昨日も巣から早朝にでかけて、一日もどってこない。

夕餉を終えて、軒を見に行くと、番の燕がそれぞれ、所定の

場所にいる。

「ここで、産卵するかなあ」楽しみにしている。

やさしい気持ちになる。

 

    晴天や日がな留守居の燕かな

    いくたびも見上げて見るや燕の巣

    夕餉どき番で帰宅燕かな


軒の燕

2018-05-15 16:42:51 | わがうちなるつれづれの記

 

 

ここのところ、新緑のころとはいえ、夏日のような日が

つづいている。

散歩コースの川俣公園の樫や椎も少しづつ若葉に変わり、

枯れ葉を落としている。

落ち葉を集める軽トラックがあって、おじさんが集めていた。

そこまでするのかあ。落ち葉のない公園。

 

散歩以外はほとんど部屋のなかで暮らしている。

テレビの脇に、薄紫と白い可憐な花が、可愛い花瓶に二輪差しで

置かれてあった。

妻は、偶に洒落たことをする。気持ちがやわらぐ。

二輪差しがあるのと、無いのとではそこの世界がちがって見える。

そこに、在るというだけで、世界が変わるんだとおもった。

 

 

今度は、「ねえねえ、玄関に燕が巣をつくりはじめた。どうしよう」

聞いてきた。

「へえ」と懐かしい気持ちになった。

それも、わが家の軒下に、かあ。

妻は、巣の周りがフンで汚れることを心配したのか、出入りする

燕を追い払おうとした。

「燕ほもう、ここと決めているらしく、巣作りをやめないのよね」

 

玄関にでて、換気扇の上を見たら、確かに2羽が出たり、入ったり。

つがいの燕。

人を危険視してないんだよなあ。

どこかで、人のそばにいたら、安全・安心という認識が代々

伝わっているのか。

人が人を危険視する世界とは異なるようだ。

ある夜、妻が「居るわよ、いるわよ。巣の中に」とレポートしてくれた。

「写真とっておくか」

妻は、夜中に燕の巣に、自撮り棒につけたスマホで燕を撮った。

少し巣が小さく窮屈そうである。

子どもができたら、どんな感じになるのか、心配している。

 

翌日、巣を見に行ったら、もぬけのから。

留守が気になるのである。何度も見上げた。その度に、目まいに

おそわれる。

それでも、家族の一員を受け入れたような感覚でいるらしい。

そこで暮らしてくれることに親しい気持ちが湧いている。

 

    巣をつくりわがもの顔の燕かな

 


新緑の季節を迎えて

2018-04-29 11:02:58 | わがうちなるつれづれの記

1ヶ月ぶりに退院した。

入院した3月30日ころは、陽射し春の暖かさなのに、風がつめたっか

かった。パッチもはいていた。

これからは、新緑が映えていくことになるだろう。

 

ほじめは、心房粗動を植え込まれた除細動器を人為的に電気ショックを

起させて、粗動が止められないか、4,5泊の入院の予定だった。

電気ショックでは止まらないことが分かった。

「粗動とは、付き合っていくしかないね」という結論だった。

 

この間に腎臓透析の排出液に細菌があることがわかった。

「腹膜炎に罹った」と告げられた。

3週間、抗生剤を透析液に入れ、錠剤の抗生剤をのむことに

なった。

「わあ、3週間か!」ちょっとたじろいだ。

 

病院の腎臓患者用の食事がどうも合わなかった。

つねに吐き気があって、喉のとおりが悪く食道をとおっても、

胃に下りたものが、吐きはしないがまた戻ってくるような

苦しさがあった。

「食べなかったら、衰弱していく」やっと、食べていた。

あるとき、食べたものが胃から吐き出すことがあった。

 

そのあと、ご飯を5分粥からはじめて、7分粥にした。

特別食になり、味があまり感じられないおかずや副菜が

出てきて、毎食食べるのに苦労した。

これぞ病人食じゃないか思った。

よかったのは体重が59.9~60.5ぐらいで推移しはじめた。

身体はすこしフラフだけど、つねにあった吐き気が、気がついて

みると無くなっていた。

吐き気がないことは、自分にとって平和だ。

本が読めるし、何か出来るという気持ちも出てきた。


腹膜炎は、菌が無くなったというので、ひとまず治療終了。

退院できた。

 

退院の日の昼、お蕎麦を食べに行った。

病院食から、いきなりお蕎麦なんて食べられるだろうか。

麺つゆは、つゆの入れ物の3ミリぐらいにした。

蕎麦はさっきぽにすこしつゆを付けて、食べた。

蕎麦の喉をとおった。蕎麦のほのかな味。

天ぷらはエビだった。「いけるかな?」

食べてみると、サクサクでつゆをつけなくともエビの甘みが

感じられた。こんな感触はいままで、あったかな。

 

夜は仙台の友人たちが作った餃子を食べた。

美味しいと思う。

この餃子は入院中、友人の寄せ書きとともに贈られてきた。

 

塩っ気がほとんど感じられない病院食から、少し開放された

感触があった。

 

翌朝、体重を測ると60,75になっていた。増えている。

昨日は60,40だった。

担当医から、ぼくの場合、心臓、腎臓の働きからみて、体重は

60,0~61,0の間で調整するのがいいかな。許容範囲がせばまって

しまうけど」と聞いている。

 

新緑の5月を迎えようとしている。新緑の季節が好きだ。

少しは、ゆったりとこの時期くらしたいなあ。

できれば、平和に・・・

 

(入院は、3/3ではなく3/30でした)

 


風呂いす

2018-03-21 17:25:01 | わがうちなるつれづれの記

雨の日々。胸に吐き気があり、好きな雨の日も味わえない。

 

物に囲まれて暮らしている。

物なしに、暮らしは成り立たない。

物はただそこにあるわけではない。たくさんの人の気持ちが

かかわって、ここにある。

まわりにある物のなかに、毎日使うもののなかに、とりわけ届く

までの経過やそのときの背景が、心の内に記憶として、刻まれていて

使うたびに何か物として使っているだけでない気持ちが出てくる。

 

ある日、マンションのベランダから、牛丸純子さんが、風呂

イスを差し入れてくれた。

体調崩してから、風呂場のイスが低いので、不如意の身体には

すこしぎこちない感じがしていた。

「これまで使ってきたものだしな」「高いイスは子どもにどう

だろう」「なんか大きいと場所塞ぎになるかな」

しばらく、自分のなかで、なかなか言い出せなくて、なんとなく

日々過ごしていた。こんな習性が身に染まっている。

なんかのキッカケで妻に「風呂イス、高いのがあると、楽かな」と

呟いた。

妻は「そうだね」と反応した。

ぼくは、「でも、いろいろ考えるといいかどうか」とか煮え

切らない。

歩く目的でイオンタウンにある「ニトリ」で広い店内を

ウロウロしていた。

妻が、お風呂用具のコーナーで高い風呂イスを見つけた。

よさそうだったけど、「じゃあ、買おう」とならない。

しばらく、実際に坐ったり、妻と風呂イスについて、その

コーナーでいろいろ話し合った。

二人で一つの買い物でこんなに真剣になるのは面白いと

おもった。

妻は「これなら、近所に持っている人がいるかもしれない」と

行って、そのコーナーを離れた。

その後、妻がどんなふうにして、その風呂イスを探したか、

知らない。

純ちゃんが「今使ってるけどちょっと高くて不便なときもあるから、使うならいいよ」と

届けてくれたのだった。

高い風呂イスは楽だった。あんなにゴチャゴチャ考えていたのは

なんだったんだろう。あちこち探してくれた妻のエネルギー。

純ちゃん、「使ってくれて嬉しい」といような気持ちも伝わって

きた。

毎回、「よっこらしょ」と坐るとき、何かそんな背景が浮かんで

くる。

 脱衣所の椅子も研修所にあった介護用のものを岡部さんと秀ちゃんが届けてくれた。

風呂上がりに座って一息ついて着替えをしている。

 

 毎日使うものに、柄の長い木製の靴べらがある。

これのお世話になっている。

この靴べらについて、ぼくが勘違いしてきたことが分かった。

柄の長い靴べらをむかし、旅行に行った土産として、元同僚の

女性から贈ってもらった。そういうものが、欲しいと言ったか

覚えていない。とても、便利だった。

鈴鹿に引っ越しのときも、その柄の長い靴べらを持ってきた

つもりだったけど、妻がいうには「あれは、もういたんできたんで、

新しいものに替えといたんだよ」

そうだったのか。記憶だけが、一人歩きしていたことになる。

その靴べらを使うときは、そのむかしの気分が浮かんでくる。

 

こんなこと書いていたら、いつまでたっても終わらない。

最後に靴のこと。

10年前、靴の専門店で防寒靴を買った。

例によって、買うかどうか、迷っていたら、店員さんが、

「いい靴ですよ。息子に買ってあげたいくらい」と一言。

そのときは、ドキドキしながら買ったけど、温かいし、

履き心地もいい。気に入って、毎冬、愛用している。

「息子に買ってあげたいくらい」

その靴をはくたび、店員のお母さんが、息子を思う気持ちが

蘇ってくる。なんかそんな物をぼくが履かしてもらっている!

みたいな気持ち・・・

 

物は、人の心とともに、活かされているいるんだろう。

 

 

<吐き気が治まらない。パソコンをやっているときは、少し

気分がまぎれる。そのために、書いている?>

 


残寒や息切れ切れの身われなるか

2018-03-14 16:46:37 | わがうちなるつれづれの記

先週末から、息切れ、むくみ、吐き気で横になっている日が何日か

続いた。

 

日々の食事が気合を入れないと食べられない。

口に運び、嚥下するのに苦労する。楽しいはずの食事が、荒修行のようだ。

その1週間ほど前、週一回の三重大学病院の心臓リハビリに行ったとき、

担当の医師に相談した。

あまり苦しいから食べられるだけにしていたら、脚がヨタヨタするし

声もかすれて力が入らない。

味の濃いものや、食べたいと思っているものなら、喉を通るかも、と

呟いたら、「今は、塩分制限より、先ず食べられるもの食べて、元気を

つけることがいるかも」と担当医。

そのあと、栄養指導室に相談したら、同じことを言われ、カロリーが

足りなくなっているときは、”カロリーメイト”という栄養補給剤を

市販で売っているので、それを飲んだらいいですよ」ということ

でした。

塩分制限で、食べていなかった、ラーメンを妻と食べに行った。

「スープがどんなにおいしいか」と期待していったが、口の中が

乾いているのか、旨さを感じない。翌日、他のラーメン屋さんに

行ったが、やはり同じ感じだった。

味が濃いものを食べたが、喉を通るとき吐き気があり、ただ濃い

だけでは食べにくい。

寿司とか、お稲荷さんとか、酢が滲みているご飯は、まだましだった。

食事の楽しみは、飲みこみ飲み込みして一応ある程度食べ終わったとき

氷の入ったお茶を一気にゴクンと飲み込む。これが愉悦。

ただし、水分制限もあって、ガブガブ飲めないんだけど。

 

一週間ほどそんなことしていたら、身体が重い感じになり、足とか

顔にむくみをかんじるようになつた。

散歩に行っても、少し歩くと息が切れて、すぐに坐リ込む。

10分ぐらいは続けて歩けていたのに、大きな変化だった。

 次の心臓リハビリに行ったときそんな症状を訴えたら、「ある程度食べられて

いたら、塩分を控えめにすることをやったほうがいいでしょう」という

ご意見でした。

たしかに、この一週間、家族の食べるものを食べられる範囲で食べて

いた。スムーズに喉を通ったわけではないが、やってみた。

そうかどうかは定かではないが、塩分はぼくの身体では、微量でも

心臓の負担を生み、すぐ、むくみや息切れとなって現れてくるようだ。

塩分は、水分を心臓にためてしまうらしい。

 

しばらく、妻から「今日は何食べたい」と聞かれて、思いつきで

答えていたが、最近はそう聞かれると返事に窮する。何食べても

そんなに変わらないし、メニューを知っているわけでもないし、

自分が食べたいものが、食べられるものでもない。

妻と話あった。

「しばらく、用意されたものを食べる。食べられるだけ食べる。

残すものも出るかもしれない。それでやってみたい」

妻はいろいろ考えながらやっている。

こんな勝手な話も、一応「そだね」にしてくれた。

 

ここ2,3日は食べるとき以外、吐き気が少ない。

しばらく、パソコンのインターネットがつながらなくなり、体調も

良くないし、開いていなかった。

それが、今日、なんの弾みか動き出した。

 

身体に変調を感じるとき、「ああ、今こんな状態なんだな」と

言い聞かせながら、「なんで、こんなになったんだろう」という

気持ち、正直湧いてくる。

 

梅林に梅を見に行ったときがある。

陽射しは暖かだったけど、風がとても冷たかった。

歩くのも、息切れがはげしく、ままならなかった。

ほうほうのていで、車に戻った。

梅林で一句ひねりたかったがそれどころでなかった。

 

  残寒や息きれぎれの身われなるか

 

 

一日、排便にもてこずっている。おなかが張っていて、出そうで出ない。

前日の夜、下剤を飲んでいるが、ときどき出るが、いまは気張っても

出ないとき多い。あんまり、苦しいと妻に浣腸してもらう。

お尻を出して、浣腸の容器の先端が肛門に差し込まれる。

気持ちの良いものではない。それでも、2,3分して催してきて、トイレに

駆け込み、詰まっていた便が排泄されるのは気持ちいい。

考えてみると、一日食べることと、出すことに明け暮れている。

生きもののはじまりの状態や、生きものたちの姿が身近になっている。

他の、生き物と人間は、どこがちがうんだろう?