友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

曾孫の笑い声がありがたく響く

2024年06月11日 17時34分19秒 | Weblog

 余りにもキレイな夕焼けだったので、思わずベランダに出てケイタイを向けた。私のケイタイでは拡大も縮小も出来ないし、カラー調整も出来ない。分かっていたのに、パソコンにアップするにはこのケイタイしかないとシャッターを切った(写真)。

 画面を見てみるが、やっぱり迫力に欠ける。それにしても昨日は6月10日、「時の記念日」で夏至にはまだ11日間もある。天気予報では今年の梅雨入りは遅いらしい。梅雨入りが早くても遅くても、全く関係ないヒマな毎日を私は送っている。

 「そんな幸せな!」と言われそうだが、実際に何も無い日々では退屈でしかない。何が幸せで何が不幸なのか、どうやら人それぞれであるらしい。中学からの友だちがブログに、余生つまり余りの人生について、「必死で頑張ってきた私に対する失礼極まりない言葉」と憤慨していた。

 「働か無くてもいい、余りの人生だから丸儲けじゃないか」と考える人はいるかも知れないが、多くの人は定年後も何かしら働いている。僅かなお金でも稼げるならという思いもあるが、やることが無いのは存在を否定されているようで寂しいのだ。

 何らかで社会と繋がっていたい。友だちとの無駄話でもいいし、趣味の集いでもいい、自分を受け入れてくれる場所が欲しいのだと思う。中学からの友だちのように、家族を後回しにして、サラリーマンとして必死に働き、活躍し、評価され、その生き甲斐が忘れられない人はたくさんいる。

 自分の存在がないがしろにされていると感じると、寂しさよりも怒りを抱く人もいる。保護司の下で、新しい人生を歩もうとしていた人が、保護司に刃を向ける事件が起きた。私も保護司の知り合いがいるが、きっと悲しみと恐れでいたたまれないだろう。

 人と人は、理解し合える関係なのに、実はまた、とても難しい関係でもある。出来ることなら前向きに、笑ていられる関係でありたい。せめて自分は、笑って生きていける人にならなくてはと思う。曾孫の笑い声がありがたく響く。

 

コメント (1)
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