友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛を育てることは難しい

2011年05月21日 21時23分35秒 | Weblog
 我が家のバラも満開になった。西向きのルーフバルコニーは風が強く吹き抜けるので、バラにとっては厳しい場所である。それでも今年は花の数が多いように思う。今朝も早くからバルコニーに出て、チューリップの終わった鉢をひっくり返し、土の入れ替え作業を行なった。ヒマを見つけてはやるというよりも、絶えずやり続けると言った方がよいだろう。それでも午前中の2時間はマンションの夏祭りの打ち合わせに出た。今年の実行委員の皆さんは、私の娘と同年輩かそれよりも若い人たちなので、話していても面白い。

 若いお母さんたちは子育て真っ最中の人もいるし、これから生まれそうな少しお腹が目立つかなという人もいる。「子育ては難しいわね」と言う人もいれば、もう子どもが大きくなってしまった人は「そんなに気にすることなんかないわよ。親は無くても子は育つって言うでしょう」と余裕である。「子育てよりも子ども会の方が大変よ」などと話は尽きない。私は子育てを難しいとも大変とも思わなかった。自由にのびのびと育って欲しい。私はそう思って来たので、頼まれた子育て講演でも、親の役割は子どもの自由を保障してあげることだと話した。

 毎年秋と春に、せっせと土の入れ替えを行い、球根を植えたり苗を植えたり、水を遣り、時々肥料を施す。草木は手間をかければキチンと答えてくれる。土の入れ替えの時に、土の中のミミズを別の容器に移し、出来るだけ同じ数になるように鉢に戻す。土の中を見ると白く小さなミミズがいる。卵から孵ったものなのだろう。土の中では異性に出会うことも難しいのかも知れないと思い、同じくらいの大きさのミミズを2匹かならず入れてやる。そうしてミミズが増えるようにと願う。

 「草木もミミズも、育てるのはそんなに難しくない。人と人の愛を育てる方が遥かに難しい」と私が実感を込めて言うと、「草木もミミズも言葉を発しない。でも人は言葉で心を伝えられる。言葉を発しない草木やミミズの気持ちは受け止められないけれど、人の思いは受け止められる」と反論された。そうか、人は気持ちを顔の表情で、もっと正確には言葉で表すことが出来る。草木は愛情のつもりで水を遣っても、多過ぎれば根腐れしてしまう。ミミズも栄養たっぷりのつもりで乾燥牛フンの中に入れておいたら、水気を取られて干からびてしまった。

 しかし、言葉を持っている人間も、その使い方で逆に伝わらなかったり、傷つけてしまったり、なかなか難しい。ストレートに心の命ずるままに言葉に出せば、よくもそんなことが言えると軽蔑されることだってある。誠実に生きるってことはありのままでよいはずだが、自分だけを向いた誠実なのか、相手や社会全体を含めているかで受け止め方も違ってくる。そう考えると、言葉を持っている人間も「育てる」ことはやはり難しいと思う。少なくともまずは、自分に誠実であろう。そしてそれが相手や社会とどううまく合わせられるかだと思う。
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なぜか腹立たしい気持ちだった

2011年05月20日 21時21分31秒 | Weblog
 昨夜は名演で、俳優座の『リビエールの夏祭り』を観た。舞台の幕が下りた時、周囲の人々は大きな拍手を送り続けたのに、私はなぜか腹立たしい気持ちだった。それは自分が周囲の人々と同じ気持ちになれなかったことへの怒りだったのか、舞台への失望だったのか、本当のところはよくわからない。美術は朝倉摂さんとあった。確かに凝った工夫が随所にあり、舞台は1つの絵画のように見える時もあった。そう、そこが問題だったのかも知れない。舞台は一瞬だけれども絵画のような美しさを放つけれど、それはやはり長い舞台の中では限られていた。

 序幕はあまりにも退屈だったし、まるで高校演劇のような雰囲気だった。そして次第に物語の核心が見えてくる、いや、見えてくるはずだった。喫茶店のママには時々泊まっていく若い男がいる。ある日、ママは店の前を通っていった浮浪者の男を見てビックリして跡を付けて行く。男は橋の下に簡素な小屋を立てて、人々が捨てたものを集めて暮らしている。終戦から14年が経っているが、記憶を失った男は誰も自分を理解してくれないからと、ゴミを集めてひとりで暮らしているのだ。男が自分の夫だとわかったママは男を喫茶店に呼び、食事をしたり昔話をしたりして、過去を呼び戻そうとするが、結局男は店を飛び出して行ってしまう。

 ストリートしては単純なものだが、上演は2時間15分と結構長い。脇役の存在もなぜいなければならないのかよくわからない。いや全体に私にはわからないことばかりで、イライラが募るばかりだった。愛する夫を待つ妻が主題であることは間違いないだろうけれど、それを今、つまり終戦から60数年も経て上演するつながりが見えない。蒸発してしまった夫が記憶喪失で戻ってくるという設定でもかまわないようなテーマではないか。それに14年間夫を待ち続けた妻だけれど、たとえ慰めであったとしても、若い男とは男女の仲になっている。そういう女が昔愛し合った夫と出会いどうしたかったのか、それもよく見えない。

 夫に帰って来て欲しいのであれば、初めから「あなたは私の夫なのです。記憶が無くて理解できないかも知れないけれど、これからはここで一緒に暮らしましょう」と引き込んでしまうべきではないか。男は誰からも相手にされなかったために、乞食の生活に満足してしまっている。それを解いてあげることが出来るのは妻であるママだけだろう。しかし、ママは男が元の夫に戻ることを望んだ。元の夫でなければ受け入れられなかったのだ。元の夫に戻すことが、夫と自分の幸せになると思い込んでいる。これでは記憶を失った男の気持ちなど何も考えていないのと同じだ。

 だから、男がママのところから逃げ出しまったのも当然だ。けれども、ママにはまだ若い男がいるではないか。記憶を無くした夫のことなど忘れて、これまでどおり若い男とうまくやっていけばいい。逃げ出した夫もまた自由な浮浪者の生活を続け、いつか野垂れ死にするだろうけれど、それを不幸だと誰が決め付けられるだろう。いったいこの演劇は何を観客に伝えたかったのか、舞台の美しさとは別に、最後までよくわからなかった。
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夏目漱石の『三四郎』の世代

2011年05月19日 22時24分05秒 | Weblog
 駐車場から車を出そうとした時、向こうから知り合いが歩いて来るのが見えた。その歩き方があまりにも覚束無かったので、すれ違うのを待った。「おはようございます」と声をかけると、「おはようございます」の返事が上ずっていた。歩くというよりも転がるような足の運びだ。目の前を通り過ぎて、4から5メートルほどのところで前に倒れられた。そこの車はエンジンがかかっていたから、万が一にも轢かれてしまってはと思って駆け寄った。「大丈夫だから」と言われるけれど、どう見ても様子がおかしい。

 同じマンションの住民で、自治会長もされた先輩で、80代になられているだろう。保険会社に勤めておられ、私が自治会長の時に保険の契約を見直すことになったのだが、その時に大変立腹された。私は議員でもあったので、この人の家にも「後援会ニュース」を配布していたが突然に、「後援会に入会した覚えはない」と配布を拒否された。それまでは親しく話していただいていたのでビックリしたが、説得までして理解してもらおうとは思わなかった。以来、出会えば挨拶することはあっても親しく話すことはなくなった。

 身体を抱えると異様に熱い。頭部を見ると玉のような汗が噴出している。「大丈夫だ」と言うけれど、どうも立って歩けない様子だ。「とにかく、この前の道は車が多いので、一緒に渡りましょう」と脇を抱えて横断する。「急に右足が痛くなって、歩けなくなった」と言われる。言葉も少しハッキリして来た。マンションの入り口まで来た時、娘の同級生のお母さんが見えた。事情を話して家まで送っていただくようにお願いした。

 私が40代の頃、この人の前に自治会長をされた人には格別に可愛がってもらった。お酒の好きな人で、隣町のスナックに飲みに連れて行ってもらったこともあった。そんな和気藹々の役員会だったので、マンションの未来図を自治会ニュースに載せたこともあった。集会場はただ会議をする場だけでなく、その一角はカフェになっていて、みんながおしゃべりや読書している。駐車場の上には広場が造られ、子どもたちがキャッチボール遊びをしている。中庭の築山はジャングルのように樹木が茂り、小鳥の楽園になっている。そんな風景だった。

 あれから20年の月日が流れた。マンションの住民も半分以上入れ替わったのではないだろうか。大和塾の長老が夏目漱石の『三四郎』を取り上げていた。残念ながら私は読んでいないが、長老が取り上げた『三四郎』は吉本隆明氏の『夏目漱石を読む』に出ていたので知っている。吉本氏を「私たちの世代では神様のような存在だった」と以前ブログに書いて、中学からの友だちから「そんな人は知らん」と怒られてしまった。友だちはもっとキチンとした説明をすべきだというのである。

 長老は、『三四郎』は日露戦争以後の青年の姿を描いた小説で、「当時の20歳前後の青年といえば、東条英機や山本五十六もその世代で、『坊ちゃん』もほぼ同世代だから、敗戦後の日本の舵取りをした世代ということになる」と言う。三四郎が東京へ向かう車中で男に富士山を見せられ、日本一の名物だが我々が拵えたものではないと言われる。そこで三四郎は「日本も段々と発展するでしょう」と反論するが、男は「亡びるね」と言う。長老はこの部分に注目している。つまり、漱石の眼力にである。
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人は自分の無力を知った方が幸せになれる

2011年05月18日 21時58分44秒 | Weblog
 火曜日の夜のNHKテレビは、おやっと思うようなドラマが続いている。来週が最終回となる『マドンナ・ヴェルデ』は代理母がテーマである。婦人科の医師である娘は妊娠したけれど、ガンのために摘出手術を受けなければならなかった。幸い(?)夫との間の受精卵が保存されていて、これを55歳の母親の子宮で育ててもらう。母親役は松坂慶子さん、医師の娘には国仲涼子さんという組み合わせであった。この役のために太ったわけではないだろうが、松阪さんの母親役はその話し方からもピッタリである。

 代理母のことはよく知らないけれど、アメリカで代理母を頼んだ日本の女優がいたのではなかったかと思う。アメリカでは代理母という子宮を貸す女性がいるのかと思っていたら、インドでもそのような女性がいると言うし、世界中で表立ってでなければかなりあるということらしい。体外受精やその受精卵を子宮に移すという医学の技術が可能にした結果らしい。医師は医術の腕を競うことに夢中だけれど、私はどうしても賛成できない。医学は確かに進歩したのだろうけれど、本来の医学が向かうべき道を進んでいるのだろうかと疑問に思う。

 私は臓器移植に賛成できないし、代理母についても賛成できない。人には人の運命がある。今日もNHKテレビの『試してガッテン』で、老化問題を取り上げていたけれど、若くありたいとは誰もが願うことだが、だからと言って老化を無くすことには賛成できない。人には人の違いがあり、同じ年齢の人でも若く感じる人とそうでない人がいる。子どもにだってそういう違いはあるのだから、それは仕方がない。若くありたいと思う人が、そうした鍛錬というか努力することを否定する気はない。

 でも、人は必ず老いるし、人は必ず死ぬ。そうでなければこの地球は人間で溢れてしまう。人は生まれ、そして死ぬ。この当たり前のことを人は変えようとしていないかと私は心配している。それは人そのものの破滅に至ると思うからだ。人の智恵には限界があるはずだ。また、そうでなければならないと私は思う。臓器移植を切望している人たちが多数いる。子どもが出来なくて、どうしても子どもを欲しいと願っている人も多くいる。けれども、私はあえて運命を受け入れなさいと言いたい。

 子宮で娘の子どもを育てている代理母が、どうするのかまだわからないけれど、聞くところでは民放でも代理母をテーマにしたドラマがあるそうだ。果たしてこんな風に人を誕生させていいのだろうか。何気なく見ていたら、『マドンナ・ヴェルデ』の原作者は『チーム・バチスタの栄光』の著者の海堂尊氏であったから、これは最後に大どんでん返しがあるのではと思った。それにしても代理母などという馬鹿なことを誰が考え出したのだろう。人は自分の無力を知った方が幸せになれると私は思う。どうだろうか。
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人生は思うようにならない

2011年05月17日 19時13分25秒 | Weblog
 2日間も続けてブログを休む結果になってしまった。昨夜は下書きが出来て安心したのか、ブログに立ち上げることを忘れてしまったようだ。友だちから「鯛を料理しているから、来ないか」と電話をもらい、出かけていった。ビールと焼酎をいただいたが、確か9時半頃にはお開きとなり、家でブログの下書きを始めたはずだ。「出来た」と思ったのに、掲載してなかったとは情けない。癪だけれど、ここに載せさせてもらおう。

 疲れたのか、何もする気が起きなかった。土曜日の井戸掘りに続いて、日曜日の午前中はマンション自治会の議会の機能を担う総代会に出席し、午後からはルーフバルコニーで鉢の土の入れ替え作業を行なった。井戸掘りは重い鋼鉄菅を使って行ったので、肉体的にはキツイ作業だったけれど、何よりも疲れを感じさせたのはまたしても掘れないという結果だった。確かに鉄管の中には砂利が入っていたから道具としての機能は果しているが、逆流を止める弁が精巧過ぎてわずかな砂利でも止まってしまう。結果としてはほとんど掘れていない、掘れていたとしてもわずかでしかなかった。

 鉄管が機能を果しているのに、どうして掘り進めて行かないのか、そこが問題でどっと疲れてしまう原因だった。総代会ではできる限り発現はしないと決めていた。自治会の会長までした者が発言すれば嫌味になり兼ねない。今の執行部に対して自分たちの時はというようなことは言ってはならない。それで黙っていたら、急に夏祭りの実行委員会に指名されてしまった。私としては、もっと若い人たちにやってもらうべきだと思っていたので、そう発言したけれど是非にと押されてしまった。これ以上無駄な時間を費やしたくないと思ったので引き受けたけれど、よりによって夏祭りの実行委員になるとは想定外であった。

 私たちはマンションの夏祭りと同じ時期に、市の夏祭りに鮎の塩焼きをメインにした屋台を出している。これで私は市の夏祭りの方には出られなくなってしまった。これも致し方ないかと思っている。いつかそういう時が来るだろうと思っていた。人生は自分の思い通りにはならないものだ。どちらかを選択しなければならない、そういう切羽詰った時が来るものだ。その時に自分が何を選ぼうと後悔はしない。それが私の持論である。そんなたわいのないことを大げさに持論などと言うべきことではないのかも知れないが、それでも人生は自分の思い通りにはならないよと受け止めている。

 好きな女性が出来た男がいた。しかし、男には妻子があったし女性も同じように夫と子どもがいた。好きになったことは仕方がないにしても、それ以上に進まないようにすることが互いの平穏を保つことは充分にわかっている男女である。だから男は決して肉体を求めないようにと努めて来た。それが功を奏して15年もの長い付き合いになったけれど、本当にそれでよかったのかと時々思うことがある。女性の方も「彼は自分にできる最大のことを私にしてくれています」と感じている。でも互いに、恋愛でずっと悩み続けているのだ。

 「悩みのるつぼ」は底が深い。恋愛できるだけでもいいじゃないかと思う。先のアンケートではないけれど、いつまで恋愛できるかという問いの答えのトップは年齢に関係なくいつまでもというものだった。けれど、自分はどうかとなるともう歳だから出来ないと思っている人が圧倒的なのだ。自分の身体なのに自分ではどうにもならない、それが老化ということのようだ。私も自分ではまだまだ若いつもりでいたけれど、2日間も続けて肉体を酷使するような作業が続くとギブアップである。人生は自分の思うようにはならないのが当たり前のようだ。
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全てを公開した方がいい

2011年05月14日 22時19分41秒 | Weblog
 井戸掘りの後、私たちの車が細い路地から出てきた時だ。10メートルほど先の道路上で、黒いサングラスをかけた60代くらいの男が、10代と思われる自転車に乗った学生風の男に向かって怒鳴っていた。サングラスの男はプリウスの運転席から降りて、「オマエが悪いんだろう」と大声で言った。こういう状況になると、なぜか私のおせっかいがムラムラと湧き上がってくる。何があったのかはわからないけれど、交通事故では先手必勝とばかりに、「何をするんだ。あんたが悪い」と言わなきゃダメとよく言われる。見た目にはサングラスの男が若い男に因縁をつけているように見える。けれども実際は、自転車の若い男が横着な運転をしたのかも知れない。

 そこで、「どうされましたか。往来ではなんですから、車を端に寄せて話を聞かせてくれませんか?」と声をかけようか。それとも「どうされました?私たちは充分時間がありますから、おふたりの話を聞かせていただいてもかまいませんよ。私たちは普通の人間ですけれど4人もいますから、どちらかに偏った判断はしないと思います。それじゃーお話を伺いましょう」と言った方がいいだろうか。サングラスの男は冷静さがなかったけれど、同年代の年寄りの私たちは4人もいるから、たとえ殴り合いのケンカになっても負けることはないだろう。

 やってみるか。そう思ったけれど、男の車の後から何も知らない車が1台やってきたし、対向車となる私たちの車もあったから、男はまだ何やら若い男に向かって叫びながら車の運転席に戻ったので、事を起こすこともないかと私たちの車も発車してもらった。原因が何か、何がどうなったのかはわからないけれど、世の中には何故かすぐに腹を立てる人がいる。まあ、いいじゃないかと鷹揚に構える事が出来ないのだ。確かに命にかかわるような行為に、まあいいじゃないかとは言えないし、逆に言うべきではない。原因やその経過は洗いざらい検証することが必要だ。

 原子力発電はクリーンで安全と言われてきたけれど、福島の原発事故でそれはウソだったことがわかった。原発は安いと言うのも全くウソで、事故が起きればこれほど高く付くものもない。補償に巨額のお金がかかるだけでなく、人の命が懸かっているし、これから先も住むことも出来ない。これまで私たちは全てを公開する経験をしてこなかった。政治にしても、会社の運営にしても、地域社会の営みにしても、いつも担当者に任せてしまい、関心も持たずに来た。担当者もまた公開することのリスクというかトラブルを恐れ、あるいは責任を持って仕事に励むことを美徳と思って来た。

 小学校には児童会が、中学・高校には生徒会があって、国会を真似て審議して来たけれど、あらゆることを公開してしまう、そういう手法はとってこなかった。情報化社会というけれど、本当に全てが公開されているのかは疑問だ。それでも、これからの社会を考えれば、全てを公開してしまうことの方がうまくいくと私は思っている。
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腹時計

2011年05月13日 21時01分54秒 | Weblog
 腹時計がかなり正確な人がいる。腹の減り具合から腹時計というのだろうと思っていたが、正確には体内時計というらしい。人間をはじめとする生物には、ほぼ24時間周期で睡眠や体温、臓器の活動などのリズムを刻む体内時計があるという。生活のリズムが規則正しい人は体内時計も正確に働くが、昼夜が逆転したような生活をしている人は体内時計も狂ってくるそうだ。疲れやすく、思考力や活動意欲が低下し、それが進むと「うつ」に陥るという。不登校やひきこもりにこの傾向が見られるそうだ。

 不登校やひきこもり、あるいは「うつ」をダメだとは思えない。それは人間だからこそ陥ることだからだ。「こころ」なのか「脳」なのか、どこに原因があるのか、それもわからない。けれど、体内時計の狂いを正常にすることは出来るそうだ。それは光を浴びることだという。毎朝6時から8時に、昼間の屋外の明るさに相当する約5千ルクスの光を浴びると、1週間でリズムは改善するそうだ。確かに、海外旅行などで時差ボケに陥った時、その時間に合わせて動いてしまうとボケなくてすむ。

 光を浴びれば、「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、人間の見えない病も治すことが出来るのだろうか。規則正しい生活を送ることはその第1歩かも知れない。長女は看護師であるから夜勤もあり、準夜勤もある。規則正しい生活とは全くかけ離れた生活を送っている。長女のダンナが言うには、「その(昼夜の)切り替えができる人でなければ勤まらない」そうだからきっと長女もそうしているのだろう。そのコツを聞いた事はないけれど、子育てもあり大変だと思う。

 母親が看護師の子どもはどんな風に育っていくのだろう。高2の孫娘も小さい時は、母親が夜勤や準夜勤のために家を出て行く度に「ママー、ママー」と大泣きした。もうすぐ2歳になる下の孫娘も狂ったかのように泣く。子どもにとって母親は絶対的な存在だと思い知らされる時間である。「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、傷にはならないのだろうかと心配になる。無理なことなのかもしれないが、やはり子育ては3歳までは母親と父親がそばにいた方がいいのではないだろうか。

 原子力発電を止めたなら、電力不足は必至だという。電気は電力会社が独占しているから、データーは電力会社にしかない。「節電しなければ、夏場は越えられない」と言われればそうするしかない。「電気代を上げなくては電機を供給することも難しくなる」と言われれば、そうなのかとしか受け止められない。電気は「こころ」や「脳」とは違う。見ることが出来るものなのに、まるで「こころ」や「脳」のように見られないものになっている。どこに病気の原因があるのか、病原菌の巣がどこにあるのか、誰かが解明しなくてはならないはずなのに、見えない。
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物理の先生は正しかった

2011年05月12日 21時09分51秒 | Weblog
 大震災のテレビニュースを見た小学生がいろいろと話し合っていた。「強制避難地域から転校してきた子がいじめられたことがあった」。「自分のこととは受け止められていないからだと思う」。「節電だって、いつかはしなくてはならない。それが早まっただけのこと」。「みんなで支え合っていけば、必ず復興できる」。「支え合うって、相手の立場に立つことだろう」。「そう。それが一番大事だと思う」。今時の小学生は高校生より賢いのではないかと思った。というのも、電車から降りて改札口を出ると大きな声が聞こえた。女子高生がケイタイで「なにやってんだ。早く出ろよ。なに?声が聞こえないんだよ。まだ電車の中?!オマエバカか!」と怒鳴っていた。

 見た目には可愛い女子高生である。男の子のような口の利き方をする子には見えなかった。この女子高生も小学校にいた時は、先の小学生たちのような優しい気持ちで「いじめたらいけないと思う」などと発言していたのだろうか。それとも、小学校の頃から「バカくさ」とか言っていたのだろうか。後者であれば、しょうがないかと思うけれど、前者なら、日本の教育が間違っているのではないか、少なくともどこかに問題がある気がする。朝日新聞にサウジアラビアでは日本の教育が注目されているという記事があった。日本人の礼儀正しさや思いやりの心は教育の成果であるというものだ。

 日本の学校では児童が給食の仕度や教室やトイレまでも掃除をする。そうすることで規律や思いやりを育てているが、サウジアラビアでは出稼ぎ外国人にやらせている。イスラム教では利子を認めないほどの厳しい戒律があると聞いた。「イスラム教が説く、誠実さとか清潔さといった価値観をどの国よりも体現していたのがイスラムとは無縁の日本だった」とサウジのテレビレポターは話していた。サウジアラビアをはじめとする湾岸各国は児童による教室の掃除を取り入れ始めているそうだ。日本の教育はこれほど高い評価を受けているのに、しかし、それが高校生になると一変してしまうのはどうしてなのだろう。

 小・中学校教育でやってきたことが、高校受験で大きく変わってしまう。今、日本人のほとんどが高校を出ているというが、それで高校で何を勉強してきたの?それはどのように役に立っている?と尋ねたら、どんな風に答えられるのだろう。私は高校の教員だったけれど、担任をしていて一番困ったのは数学と英語で及第点が取れない子がいることだった。それで、数学や英語の先生に特別に放課後面倒を見てもらった。私も数学は苦手で、どうしてこんな役に立たないことを勉強しなくてはならないのかと思い続けてきた。役に立たなくても卒業するためにはクリアしなくてはならない。それだけは教えて欲しいと先生たちにお願いした。

 私が高校生の時、物理の先生は「文系に行く者はこれだけは覚えておくように」と問題をひとつ板書してくれた。試験に出る問題で、解ければ及第点になった。物理や数学も大人になって面白いなと思えるようになったけれど、じゃあ解けるかと言われれば全く歯が立たない。微分や積分なんて未だにわからない。それでいいよと言ってくれた物理の先生は正しかったと、大人になって思った。
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人類は地球を滅ぼしてしまうのか

2011年05月11日 19時30分40秒 | Weblog
 エホバの証人となった友人が置いて行った冊子に、「人類はこの地球を滅ぼしてしまうのか」という見出しの記事があった。宇宙から見た地球は青と白のきらめく宝石だけれど、しかし、人間が地球を乱暴に扱ってきたので「住まいは損なわれている」が、こうした現状は2千年前に聖書の予言の中に予告されているそうだ。「これらの問題を完全に解決するのは、いかなる人間でもなく神であることも聖書に予告されている」とある。また、別のところでは、「神はなぜ悪と苦しみを許しているのですか」という記事もあった。記事には解決方法は書かれていなかったが、全知全能の神はそれゆえ、全てのものを造られ、許されているのだと私は思う。だから、どうされるかも神が決められることなのだ。

 今日は東日本大震災から2ヶ月目になる。テレビで見る限りでは復興に向けて進んでいるところと、未だに何も手が付けられないところとある。東京都の石原知事が「天罰だ」と発言してヒンシュクを買ったが、亡くなった人や被害を受けた人にすれば、私たちにどのような罪があるのかということで、全く配慮に欠けた発言である。人間の驕りが招いた災害だと石原知事は言いたかったのだろうけれど、上に立つ人はもう少し言葉に慎重でなくてはならない。だからと言って、菅首相の演説に多い「アー、アー、オー、オー」を聞いていると情けなくなる。自分の言葉で話せないほどこの人には信念がない。それがみんなに伝わってしまうのに、代わりになる人がいないことも情けない現状だ。

 世界の現実は、素晴らしい科学を人類は手に入れたのに、何一つとしてこれからの地球を救う術を見出せていない。いやむしろ、科学はいっそう人類に不安と混乱をもたらしているように私は思う。地震や火山の爆発や洪水や、これまでも人類は様々な災害に見舞われてきた。予知することまでは出来るようになったし、災害の後の復興も以前とは比べものにならない速度で行なっている。それでもやはり、自然には勝てない。神が私たちに求めているとしたなら、勝つことよりもどうやって生き残っていくかであろう。

 雨が降り続いているけれど、「恵みの雨だね」と言う人もいれば、「こんなに降ると心配」と言う人もいる。人はまず自分のことから考えるから、受け取り方も様々だ。それでも、互いを認め合う、互いを求め合う、そういう社会にしていかなくては生き残っていけないだろう。国境なんかいらないし、国家もいらない。軍隊もいらないし、原発もいらない。やがてはそういう社会が来るだろうが、これからは積極的にそういう社会を目指すことになるだろう。それが全知全能の神が造られたシナリオなのかは神が知るところで、不信仰な私はそう願っているに過ぎない。
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吉本隆明氏の『老いの幸福論』

2011年05月10日 20時38分55秒 | Weblog
 久しぶりに本格的な雨降りとなった。天気予報では金曜日まで続くという。我が家のルーフバルコニーにはたくさんの鉢植えがあるが、この冬の水遣りが充分でなかったのか、バラとデイゴとランタナが1鉢ずつ、未だに芽噴いてこない。たとえ冬場であっても、樹木は水を求めている。花が咲いているいい時だけ水を欲しがるのではない。人も花咲いている時だけ、輝いている時だけ、人の愛を求めているわけではない。

 デイゴは直径1メートル近くの大きな鉢に植えてある。今年の冬は厳しかったけれど、寒さに耐えられなくて枯れてしまったのだろうか。しかし、近くの学校の校庭にも地植えのデイゴの木があり、我が家と同じように風雪に耐えている。鉢を置いた場所がいけなかったのかと思いながら、とにかく水を遣り続けてきた。今朝見るとまだ本当に小さいけれど、芽が吹き出しそうな気配である。問題はランタナとバラで、ランタナは50鉢以上もあるけれど、一番花がきれいで枝の形が見事な鉢だけにこれも何とか生き返って欲しい。

 バラは背丈が高く、冬の間中強風にユサユサと揺られ続けてきた。それでも春になって新芽が出てきたのに、水遣りが足らなかったのだろう、枯れてしまった。この雨で元気を取り戻してくれないかと願っている。草も木も花も、どんなに寒い日が続いたとしても、その時がくれば必ず芽を噴き、花を咲かせる。野菜を育てている友だちが「人間は自然にどうやっても勝てない」と言っていたけれど、全くその通りだと思う。

 私たちの世代では神様のような存在だった吉本隆明氏が『老いの幸福論』を出している。凄い思想家だと思っていたけれど、やはり老いには勝てないようだ。1924年生まれだから87歳か、足腰が痛いとか糖尿病がどうとか棺おけに片足突っ込んでいるとか、なんとまあ詰まらないことを書いている本かと思ったけれど、年齢を思えば無理はないが、それなら静かに迎えた方がいいのにと思えてしまった。

 「老い先短く死が怖い」と何度も繰り返し出てくるけれど、私は20年も年下だからか、その気持ちがわからない。老いたとは思うけれど、死が怖いとは思ったことがない。「死の恐怖」は人間に宿命的なものだと吉本氏は言う。母親の羊水の中にいたものが生まれ出た時、空気呼吸をしなければならない環境の激変は心の傷であり、もっと遡れば、母親のお腹にいる時に嫌な思いをさせられたなら、そのことが無意識に残っているので死の恐怖からは逃れられないと言うけれど、なるほどとは思えない。

 吉本氏は「死がもし不幸の極みだとするなら」とか「死も含めて不幸なこと」と、死を不幸の側で捉えている。私は吉本氏の年齢に達していないためなのか、逆に死で全てが終わるわけだからありがたいと思っている。もうこれ以上恥をかくこともなければ嫌な思いをすることもない。長い間生きてきて楽しいことも苦しいこともあったけれど、死は全てを帳消しにしてくれる。やがて何年もすれば生きていたことすら忘れられる。自分が生きてきた痕跡を消してしまいたいと思っていたけれど、そんなことは自然にそうなっていくのだ。
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