友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『葉っぱのフレディ』

2009年11月04日 22時43分10秒 | Weblog
 街路樹のケヤキが見事に色づいている。同じケヤキなのに木によって、赤く染まるものもあれば黄色く染まるものもあるのは不思議な気がする。新しい葉が芽吹いてくる時も美しいけれど、この紅葉の季節も美しい。新緑の時は、木々によって葉の出方の違いがあっても、いつの間にか緑一色になっていくのに、紅葉の時は、木々によって色が違うのが面白い。そして、新緑の時は、心が浮き立つような華やかさがあるのに、紅葉の時は、一時的には赤や黄色など派手さがあるけれど、それはやがて枝だけになり、実に寂しげな光景に変わってしまう。

 3日は全国各地で気温が下がり、所によっては雪も降った。御在所岳に登った人の話では、頂上付近の日陰には雪が積もっていたとか、氷が出来ていたとか、もうそんなにも冬は近づいていたのかと思う。それでもこの辺りの紅葉はもう少し先のようだ。春の桜の華やかさも良いけれど、五色の絨毯のように全山が色づく秋の風景もまた見事だ。友だちが長野県阿智村の『ヘブンスそのはら』へ紅葉を見に行ってきたとブログに書いていたのは10月23日だった。もうその時点で紅葉は真っ盛りで美しかったとある。私は行ったことがないが、中央道の園原インターで降りるというから、恵那山トンネルを抜けたところだから、1時間ちょっとあれば行くことが出来る。いつか、行ってみたいと思う。

 色づいた葉を見ると、童話『葉っぱのフレディ』を思い出す。何年か前に話題になったが、今も読み受け継がれているのだろうか。作者はアメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士で、生涯でただ1冊の絵本だそうだ。

 「春が過ぎて 夏が来ました。」で始まり、「また 春がめぐってきました。」で終わっています。葉っぱのフレディは、春に「大きな木の梢に近い 太い枝に生まれました。そして夏にはもう 厚みのある りっぱな体に成長しました。」 フレディはたくさんの友だちに取り巻かれて、「葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが やがて ひとつとして 同じ葉っぱはないことに 気がつきました。」 それから楽しい夏が駆け足で通り過ぎ、「10月の終りのある晩 とつぜん 寒さがおそってきました。」「緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。」

 一緒に生まれた同じ木の同じ枝のどれも同じ葉っぱなのにどうして違う色になるのだろうと、フレディは不思議に思いますが、「いる場所がちがえば 太陽に向く角度もちがう。風の通り具合もちがう。月の光 星明り 一日の気温 なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは みんなちがう色に変わってしまうのさ」と教えてもらいます。違う色に変わって、それからどうなるの?とフレディは聞きます。木からやがて離れていくと聞かされ、「死ぬのがこわいよ」とフレディは言います。「まだ経験したことがないことはこわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。」と教えられます。

 そして最後に、「大自然の設計図は 寸分の狂いもなく“いのち”を変化させつづけているのです。」と結んでいる。私の一生も葉っぱと同じだ。その時は潔く「グッド・バイ」するつもりだ。
コメント
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