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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

再び病院へ行く

2009年11月25日 21時33分49秒 | Weblog
 長女は「午前中は出かけるから」と言っていたので、空いているのなら検査を受ける手続きに行って来ようかと、先日は保険証を忘れたために帰ってきてしまった病院へ出かけた。よく考えてみれば私は頑固で短気で自分勝手だ。保険証を忘れたのなら、取りに帰ればすむのに、「もういい。やめた」と言い切ってしまった。受付嬢だって感じが悪かったはずだ。どうしてあんなに腹が立ってしまったのだろう。あの時は、これは神様が診察など受けなくていいというお告げだなどと、勝手に解釈して、神様も驚き立腹されたに違いない。

 今日は観念して出かけたけれど、駐車場に入る時から満車で待たされた。ところがどういうわけか、駐車場の係りの人が「すみませんね。しばらくお待ちいただけますか」と声をかけてくれただけですっかり落ち着いた。総合受付もスムーズに通過することができた。「では、内科の前でお待ちください」と言われたが、そもそも内科がどこなのか新参者には分らない。分らないのでムッとした気分がまた襲ってきた。皆さんが行く方へと歩いていくと、内科の中央受付があった。そこで、総合受付からの用紙を出すと、ここの受付嬢は「申し訳ありませんね。今日は大変混み合っていまして、1時間ほど後にあるかと思います。右の6番から8番の前でお待ちください」と、言ってくれた。

 心配りのある言葉かけに、「やはり人間に必要なのは言葉だよ」などと納得して、ここは読書の時間を与えられたのだと思って太宰治を読む。文庫本をほとんど1冊読んでしまった頃、名前を呼ばれた。医師の名札を見て、ああ、この病院の若先生の奥さんかと知る。大変な病院に嫁いできて、ご苦労も多かろうなと勝手なことを思っていると、レントゲン写真を見て、「痰は出ますか?出ることはありませんか。急にそう言われても無理ですよね。CTを撮りますので、この後何時にするか決めてください」と言われる。痰?そうか、私は中学・高校からの友だちと同じように肺の白い点を腫瘍と思っていたけれど、結核が疑われているのかと知った。

 結核と言えば、文学青年がなる病気である。なんとなく嬉しくなったが文学老年では先が無いかとガッカリする。もし仮に結核だったとしても、ガンのように肺から肝臓や脳に転移し、あっという間に亡くなったとはならないから、ジワジワと長い時間がかかるのだろうか、などと勝手な想像をしていた。それからまた、長い時間待たされて、CTの予約日を決める。その担当の看護師さんが可愛い人でよかった。「検査結果を聞きにみえる日は何時がよいですか?」「えーと、何時でもいいですが」「そうですか、先生がみえる日が12月は‥、8日でいいですか」「はい、結構です」。

 後で、8日はNPO「おたすけ」の1泊忘年会の翌日と気付いたが、可愛い看護師さんには何も言わなかった。けれども、事務的な受付嬢には、「8日は一番最後の時間にしてください」とお願いした。何事も雰囲気である。ムカッと来るような人には皮肉を言えるけれど、可愛い人には「ええ、いいですよ」と答えてしまう。それが人の常というものだと太宰治も言ってなかっただろうか。会計で4,780円の数字を見て、若先生の嫁さんも大変だなと思った。
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