友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

生涯学習講座「生誕100年太宰治を読む」

2009年11月09日 21時10分19秒 | Weblog
 生涯学習講座『生誕100年太宰治を読む』の第1回目だった。私は鼻の下に吹き出物が出来てしまったから、人前に出るのはいやだった。マスクでもして行こうかと思ったけれど、それでは余計に目立ちそうで、結局何も特別なことはせずに出席した。受付の役所の女性も知った人であったし、会場へ入るとあちらこちらに知った顔の人がいる。先の大和塾で、「日本文化と欧米文化の違いについて」質問してきた先輩の隣に座る。その方が「私は太宰は読んでいないんですよ」と言われた。

 「いや、実は私も若い頃に『人間失格』を読んだだけです。最近になって、太宰を読んでいるのです」と話す。「太宰はデカダンスの作家なので、少し受け入れがたい」と先輩は続ける。戦前の教育を受け、戦後は社会改革に取り組んできた人だから、退廃的な作風のものは「ふしだら」と避けてきたのではないだろうか。戦後育ちの私は、逆に「ふしだら」に魅了された。文学青年気取りの者の中には進んで「無頼漢」ぶっていたように思う。高校生の私は、太宰のような「今風」に共感することはありながら、ドストエフスキーやジイドを理解したいと思っていた。

 講師の南山大学の細谷博教授はこの講座で、太宰の戦後の作品を取り上げている。第1回目の今日は、太宰治の履歴を大雑把に話して、『親といふ二字』に移っていった。冒頭の「親という二字と無筆の親は言い。この川柳は、あわれである」について、細谷教授は、太宰の作品はまず題名の付け方が実にうまいこと、そしてこのような書き出しこそが真骨頂であると話す。なるほど、どの作品を読んでも、どんどんと引きずり込まれてしまう。芥川賞作家だった思うけれど、その選考委員だったかも知れないが、「読ませる作品は最初の5行で決まる」とか言っていたことを思い出す。

 講座が終了して、細谷教授と話す機会があったので、「治は本名の修治からつけたのでしょうが、太宰は何からつけたのですか?」と聞いてみた。細谷教授は「大宰府からという説もあります。道真が流された地ですから。ドイツ語からという人もいます。太宰は津軽の人ですから、発音がうまく出来ない、でもダザイは濁らずに発音できたと言いますよ。井伏鱒二にペンネームはどうするのかと言われて、手のひらにダザイと書いたという逸話もあります」と教えてくださる。そうか、私はダダイズムが頭にあったのかなと思っていたが、細谷教授は「太宰は中原中也ように詩人ではありません」ときっぱりと否定された。

 私はもう一つ、ダザイは堕罪にあるのではないか、そんなことを考えていたけれど、これもきっぱりと否定されてはたまらないと思って、言うことを止めた。井伏鱒二とのつながりを尋ねたところ、井伏も太宰も落語が好きで、滑稽さを作品の中心に置いていると教えていただいた。夏目漱石のような江戸っ子が落語の軽妙さに引かれるのは分るけれど、津軽の田舎に育った太宰はどこで落語に出会ったのだろう。

 さて、次回は30日だけれど、どんな話が聞けるのか、楽しみである。
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