友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

北村透谷の自殺

2008年05月16日 23時05分57秒 | Weblog
 孫娘は来週の火曜日から中間試験となるというのに、2年生になってからは真剣に勉強をしている様子がない。どちらかといえば、大好きな水泳はこれまでどおりに一生懸命で取り組んでいるが、勉強の方は甘く見ているように思う。この頃は、朝一番に新聞のテレビ蘭ばかり見ている。「そんなに見て、何か変わったことがあるの?」と聞いてみたら、「WOWOWで真央ちゃんが出てないか、録画しておく番組はないかを見ているの」と言う。「録画しても見る暇なんかないんじゃない」と言えば、「時間は作るものなの」と答える。

 そんなことを言うものの、実際は録画する番組はほとんどないし、あったところでテレビを見る時間はわずかしかない。少しくらい好きなことに夢中になってもいいのではと私は寛容に見ている。ところが、これでは試験勉強が間に合わないと思ったのか、昨夜はひとりで遅くまで勉強をしていた。お風呂に入ったのも12時近かった。私は孫娘に付き合ってからフトンに入ったから、午前1時を回ってしまった。ところが、朝5時に孫娘は起きて、「朝食まで勉強する」と言う。結局、私は彼女に付き合ったために睡眠時間を極端に奪われることになった。

 佐藤毅氏の『新一日一言』の今日の蘭を見たら明治の詩人・北村透谷の「人間の力には限界がある。僕は世を破るつもりでいて、自分の心を破ってしまった」が掲載されていた。透谷は明治27年5月16日、25歳と6ヶ月の若い生命を絶った。政治家を志して自由民権運動に飛び込んだが挫折し、激しい文章で古い日本と対峙した末の自殺だった。私は透谷の作品を知らないが、透谷が私の歳まで生きたなら、彼が得た結論もまた違ったであろうと思う。

 電車の中にはいろんな人がいて観察するには事欠かない。先日も私の向かいのベンチに80キロはあろう30代の女性が座った。彼女は左手にケイタイを持ち、右手の小指を鼻の穴に入れて鼻糞を掘り出し始めた。小指だけではうまくいかないのか、人差し指に入れ替えたり、全く周りの人のことなど気にする様子もなく続けていた。掘り出した鼻糞を丸めて、ひょっいと親指で飛ばしたが、その行方にも関心は示さなかった。続けて鼻糞を掘り出していた小指と人差し指を口に入れ、歯茎をこすり始めた。そうかと思うと、背中の半分を露出した10代のキレイな肌の女の子が、立ったまま、いきなりバックから道具を取り出した。世の中には危険なことをする若者が多いから何事かと見ていると、その道具で自分の金髪にカールをかけ始めたのだ。

 透谷がこんな光景を目にしたなら、理想と現実の狭間で苦しむことなど馬鹿馬鹿しく思い、死をもって答えようとすることを放棄したに違いないと、私は勝手に推測している。若い時は、死など恐れるものではないし、死は自分が生きる最高の形であるように思う。けれども、還暦を過ぎてなお生きている私には特別なものという意識はない。愛することも生きることも死すことも、同様に一生懸命でありたい。
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