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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

背負ってきたもの

2011年09月02日 22時39分45秒 | Weblog
 台風が接近しているというのに、今朝は晴れていた。「天気がよければ井戸掘りを続ける」と言うことになっていたので出かけた。4メートル以上も深い井戸の底から上を眺めると随分天上が狭く見える。しかし、今日の作業を終了した時点でもまだ石が出てくる。どうやら来週に持ち越すことになりそうだ。ご近所の人の話では、この辺りの井戸は6メートル以上掘っているという。となると、後わずかで水脈に到達できるはずだ。悲観ばかりしていても仕方ない。やれることをやってみることが人生の意義だなどと大袈裟に言い合って、挑戦する気持ちを鼓舞し合う。

 連続の井戸掘りに疲れ果てて、ブログのネタが思いつかない。テレビを見ていたら野田新内閣の閣僚が決まったと報じていた。カミさんが「これしかないんじゃないの」とアドバイスをくれるけれど、私がテレビを見たのは記念写真を撮るところくらいでしかない。それで何を書けばいいのだろう。野田内閣の閣僚は名前も知らない若い人が多く、当然のことだけれど、時代が大きく変わったなと思った。これからは着実に、これらの若い政治家たちがこの国を引っ張っていくのだろう。

 今朝は井戸掘りの依頼主のお母さんから話を聞いた。1町5反もある農家に嫁に来たこと、花嫁修業はしてきたが農業のことはわかっていなかった。朝早くから田に出て、野良仕事が一段落するとそのまま田の畦でおにぎりを食べた。子育てしながら、義父母に仕え、とにかく働いてきた。「一番困ったのは現金がないことだった」と言う。「百姓はどんなに働いても、不作の年があり、収入は少なく不安定で、どうしようもない」。「たまたま、お父さんが人から教えられて鉄工の仕事をやろうと言うので、お金になるならその方がいいと鉄工所を始めたの」と成り行きを語る。そのお父さんは脳梗塞で倒れてしまった。「何が幸せかはわからん」とお母さんは言う。

 今、おそらく年間の売り上げは何十億もいや何百億もあるのかも知れないが、お母さんにしてみれば、苦労して百姓仕事をし、やったこともない旋盤を動かし、今やっと普通の暮らしになってきたと思った矢先に夫が不自由な身体になってしまった。それでも自分の半生を語るお母さんの舌は滑らかだった。なあに、人生なんてものはそんなものだよと身体で語っていた。学歴や知識は息子たちの方が遥かに上だろうけれど、苦労に苦労を重ねて生きて来た日々の重さを息子たちはわからないだろう。背負って来たものは本人以外には実際わからないし、わからなくてもいいと私は思っている。わからなくてもいい、わかろうとする気持ちが大切なのだと。

 40歳そこそこで大臣となるような人もいるし、ただただ働いて幸せを掴もうとしてきた人もいる。華々しい光を浴びた人生も、全く光を浴びたことのない人生も、どこに差があるというのだろう。歴史に名を残すような人なら別だろうが、多くの人は、成功した人もしなかった人も、死んでしまえばいつか忘れられてしまう。子どもだって孫だって、それぞれが己の人生を歩くことに夢中だ。私たち自身がそうではないかと私は思う。
コメント
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