友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

老後の楽しみ方

2011年09月05日 19時50分53秒 | Weblog
 爽やかな風が吹きぬけている。台風一過の風である。まだ雨が残っていた午前中は大和塾の9月例会だった。次の土曜日の9月17日は、第22回市民講座「老後をどう生きて、どう逝くか」である。講師は映画『折り梅』の原作者の小菅もと子さんだ。もと子さんは義母の認知症に戸惑い悩みながら、12年間介護を続けた。ところが、次に実家の母も認知症となった。この体験から、老後をどう生きるのか、どう逝くのかと模索し考えなければならなくなった。ふたりの母の介護を通して、もと子さんが何を語ってくれるのか、興味深い。

 私たち自身がどう生きて、どう逝くのか、そんな課題を突きつけられる年代になった。周りを見ても、必ず介護をしている人がいる。親の介護を通して、自分がどんな風に終末を迎えるか、いや送るかである。誰もが子どもには迷惑をかけたくないと思う。自分が親の介護で苦労して来た人は、子どもにこんな思いをさせたくないと言う。けれども先のことは誰もがわからない。なるようにしかならない。認識が出来ない状態になってしまえば、子どもに世話になるとかならないとか、それさえも考えることは出来ないだろう。

 人は長生きしすぎたと思うけれど、だからと言ってどうすることも出来ない。自ら命を絶つことは出来ない。なるようにしかならないけれど、そうなるまでの間を活かすことは出来ると思う。私たちが行っている井戸掘りも多少は世の中の役に立っていると思うし、井戸を掘る労働は身体の健康につながってもいるだろう。仲間や世間とのかかわりは楽しみや生き甲斐をも与えてくれる。四国四十八カ所のお遍路を成し遂げた人もいるし、まだまだ現役で働いている人、引退してゴルフやジョギングあるいはスポーツジム通いの人、毎日図書館に通い読書三昧の人、いろんな人が老後の楽しみ方を追求している。

 まだまだ恋愛を続けている人だっている。まるで若い時と同じように、デートの時はドキドキするそうだ。映画を観たり、音楽会に行ったり、演劇や落語の会に出かけたりして、食事をしておしゃべりをして、そんな時は充実した幸せに溢れていると言う。社会に貢献することだけが人生ではないし、そうした個人の喜びを求めることが悪いとは思わない。まるで生きているのか死んでしまったのかわからないような人生よりも毎日が楽しいと思える方がいい。後ばかり向いて、グチばかり言っていても、充実した日々にはならない。人を愛するなら、人を愛せない人よりも確実に満足のいく人生になるだろう。

 大和塾の例会の後、ポスターとチラシを持って市長や教育長の所へお礼と挨拶に回った。名古屋芸大の学長にもお会いした。いろんな人がいろんな形で生きていて、そこに文化が生まれてくることを痛感した。長になる人はその責任を負うし果さなくてはならない。けれども最後に支えるのは、市民であると思う。
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