昨日は24節気の小雪にあたる。今年は、節気が季節の推移に見事に重なっている。今日から明日にかけて、シベリアの寒気が日本列島に張りだし、広く雪の予報がでている。東京にには、50数年ぶりに雪が降るという予報が出た。畑が気になり、青菜を収穫して乾燥させた。少ししんなりしたところを水洗いして塩で漬け込む。山形名物の青菜漬が楽しみである。先日漬けたオミヅケはおいしく食べている。自分が育てた野菜だと思うと、愛着がわきよりおいしく食べられる。
漢詩集を見ると、小雪の季節には雪をテーマにした詩がたくさんある。畑仕事から解放されて、家にあって暖をとり、茶や酒で寒さを癒す。現代にあっても人間の営為はそれほど変わることはない。
雪 唐 寅
竹間の凍雨 密なること麻の如し
静かに聴いて爐を囲み 夜茶を煮る
嘈雑 錯って疑う 蚕の葉に上り
寒潮落ち尽して 蟹の沙に扖うかと
詩の意味は読んで分かりやすいが、転句の「嘈雑」が耳新しい。漢和辞典でみると、そうそう、がさがさ、音の騒がしい様とある。麻が密集しているような冷たい雨が、ふと音をたてて落ちだした。雪が降る音だと、作者が気付いた。その音があたかも蚕が桑の葉に上る音のようであり、砂の上を這う蟹の音のようだと類推しているのだ。大寒のしんしんと降る雪ではない。湿気を含んだ大きなボタン雪が、落葉の上に落ちて、ガサガサと音を立てる。雪の降る音など、あるかなきかの微妙な音である。詩人は夜のしじまのなかに、雪の音の表現を工夫する。それが腕のみせどころになっている。
「窓を隔てて繚乱として春虫撲つ」は、蘇軾が雪を表現した句である。こちらは春の虫が乱れ飛んで窓を打つ、と表現した。現代とやや違うのは、音を聞き分ける古代の人の耳である。音の微妙さを聞き分けるには、本当に静かなじじまのあることが必要条件である。
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