今日は何の日?ではないのですが、久々にちょっと面白い歴史日だと思って・・・。
鑑真が来日した日なんです。
754年(天平勝宝5年12月20日) - 鑑真が仏舎利を携え薩摩坊津に来日。
ということで鑑真を調べました。
鑑真(がんじん、鑒真、鉴真、688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。
鑑真と戒律
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。
律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡ってきた僧・栄叡と普照の訪問を受け、授戒のできる僧を是非とも日本へ派遣してくれるように彼らから懇願された。
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。
律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は聖武天皇からの勅命を受けて、授戒できる資格を持つ僧10名を唐から招請するべく海を渡り、当時より戒律の僧として高名であった鑑真の協力を得ようと大明寺を訪れたのである。
栄叡と普照の要請を聞いた鑑真は、弟子達の中に日本へ渡ってくれる者がいないか問いかけたが、日本への航海は危険極まりないとの理由で、希望者は1人も現れず、最終的に鑑真自らが日本へ行くことを決意し、それを聞いた弟子21名も随行を名乗り出た。その後、一行は日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗した。
唐招提寺753年(天平勝宝5年)12月26日、鑑真は太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。
763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。
数年前にたまたま九州に行く機会があってこれまたたまたま訪ねていった寺がこの太宰府観世音寺に隣接する戒壇院でした。
鑑真が植えたとされている数珠の木があってちょっと感動したのを記憶しています。
何もない殺風景の簡素な寺でしたが、仏像がまれにない不思議な手をしていました。
心を奪われたひとときで、暫く佇んでいたら「あなたは普通の人ではありませんね?」って声を掛けられこの寺の説明をされました。
ちゃっかり私は、説明だけ聞いて怖くて逃げていきました。
そんな不思議な出会いのあったお寺でしたが、また行きたいと思っているお寺さんです。
何だか原点の気がしてなりません。
機会があったらぜひお出かけ下さい。
鑑真が来日した日なんです。
754年(天平勝宝5年12月20日) - 鑑真が仏舎利を携え薩摩坊津に来日。
ということで鑑真を調べました。
鑑真(がんじん、鑒真、鉴真、688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。
鑑真と戒律
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。
律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡ってきた僧・栄叡と普照の訪問を受け、授戒のできる僧を是非とも日本へ派遣してくれるように彼らから懇願された。
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。
律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は聖武天皇からの勅命を受けて、授戒できる資格を持つ僧10名を唐から招請するべく海を渡り、当時より戒律の僧として高名であった鑑真の協力を得ようと大明寺を訪れたのである。
栄叡と普照の要請を聞いた鑑真は、弟子達の中に日本へ渡ってくれる者がいないか問いかけたが、日本への航海は危険極まりないとの理由で、希望者は1人も現れず、最終的に鑑真自らが日本へ行くことを決意し、それを聞いた弟子21名も随行を名乗り出た。その後、一行は日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗した。
唐招提寺753年(天平勝宝5年)12月26日、鑑真は太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。
763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。
数年前にたまたま九州に行く機会があってこれまたたまたま訪ねていった寺がこの太宰府観世音寺に隣接する戒壇院でした。
鑑真が植えたとされている数珠の木があってちょっと感動したのを記憶しています。
何もない殺風景の簡素な寺でしたが、仏像がまれにない不思議な手をしていました。
心を奪われたひとときで、暫く佇んでいたら「あなたは普通の人ではありませんね?」って声を掛けられこの寺の説明をされました。
ちゃっかり私は、説明だけ聞いて怖くて逃げていきました。
そんな不思議な出会いのあったお寺でしたが、また行きたいと思っているお寺さんです。
何だか原点の気がしてなりません。
機会があったらぜひお出かけ下さい。