小説 おんな謙信! おんな武将上杉謙信公(加筆版)
~上杉謙信公は女性だった?!戦国時代最大のミステリーに迫れ!~
ーうえすぎ けんしんー
~「おんな武将」上杉謙信公の戦略と真実!今だからこそ、上杉謙信~
total-produced&PRESENTED&written by
UESUGI KAGETORA
上杉 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉景虎 臥竜
あらすじ
長尾虎千代(のちの上杉謙信)は1530年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による。女性だったが男として育てられた。のちの男装のおんな武将、おんな謙信こと上杉謙信である。
虎千代が七歳の時、父親の越後の守護代・長尾為景が死ぬと、兄と妹との骨肉の争いが始まる。虎千代は、兄・晴景より逃れ、家臣の新兵衛におんぶされて栖吉城へ。そこで文武に励む。やがて長尾景虎と名を改めた虎千代は、成長し、頭角を現しだす。
しかし、そんな時、黒田秀忠によって守護代(守護の代官)長尾晴景(景虎の兄)が殺されてしまう。そこで初陣。不戦勝をもぎとる。だが、若輩の景虎は、カリスマがほしかった。そこで、「われは毘沙門天の化身なり」と称し、一生不犯を宣言する。
つまり一生結婚も男とのセックスもしないというのである。しかし、それは若き頃の亡き恋人への貞操だった。いや、絆だった。
武田晴信(信玄)との川中島の合戦では、天才的な謙信の戦略によって優位に。その間、何度か暗殺されかけるが、ある忍者に命を救われる。それは、若き日の恋人にうりふたつだった。…だが、意気揚々の謙信のもとに疫病神がころがりこんでくる。関東領管・上杉憲政、である。景虎は上杉家を継ぎ、何度か上洛を試みる。しかし、武田信玄や信長の勢力におされ、遂には1578年、志なかばのまま、不世出の天才・上杉謙信は脳溢血のため死んでしまう。享年、四十九歳。最後まで男装し、おんなだと一部の者しか知らぬまま。
この物語の執筆では、上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。
では、ハッピー・リーディング!
心に物なき時は、心広く体泰(ゆたか)なり。
心に我慢なき時は、愛嬌失はず。
心に欲なき時は、義理を行ふ。
心に私なき時は、疑ふことなし。
心に驕りなき時は、人を敬ふ。
心に誤りなき時は、人を畏れず。
心に邪見なき時は、人を育つる。
心に貪りなき時は、人に諂(へつら)ふことなし。
心に怒りなき時は、言葉和らかなり。
心に堪忍ある時は、事を調ふ。
心に曇りなき時は、心静なり。
心に勇ある時は、悔やむことなし。
心賤しからざる時は、願ひ好まず。
心に孝行ある時は、忠節厚し。
心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は、人を咎めず。
謙信公の家訓
『上杉の義』とは?Ⓒマサ村田さん
2014-05-08 00:17:40
テーマ:戦国
今回は、大河ドラマなどで『義の武将』として知られる上杉謙信の『義』について考えてみました。
一般には、荒れ狂う戦国時代の嵐の中で、上杉謙信は見返りを求めないで助けを求める軍勢の為に戦を助成したり、将軍家を敬い幕府より官位官職を得て大義名分の下に行動を行った武将として知られています。
これをして、上杉家は『義』という指針を持って家中をまとめたと言うのが有名です。
さてここで、義とは何ぞや?という事を考えてみます。
儒教の教えには、五徳の精神(仁・義・礼・智・信)というのがあります。
仁は、人を思いやる心。
義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心。(利による行動と対比される)
礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。
智は、知識を持つこと。(学問)
信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。
という意味ですが、この中の『義』という、私利私欲で動かずに大きな志を軸に行動する。
これを上杉謙信が実行して来たとさせれていて、それがこの上杉家の家風と言われています。
これは謙信が一度、家臣達の裏切りに合い、世を捨てて仏門に身を捧げようとした事があり、慌てた重臣達の引き留めにより、自身を毘沙門天の化身であるとして、この『義の誠心』と言われる行動を取り出した事に由来します。
この後、武田信玄に信濃を追われてきた村上軍に、奪還後の領土安堵を約束して共に武田軍に対して軍を出します。
そして、将軍から関東官僚という位を拝して、その大義名分を基に関東へ兵を出しました。
さらに謙信は、海に面した領土を持たぬ武田領に対して、当時の隣国であった北条、今川が武田領に対して塩止めを行った際には、武田領への塩の交易を禁止しませんでした。
この事は後に『敵に塩を送る』ということわざになり、現代に受け継がれています。
ライバルの信玄は亡くなる際に、こういった上杉謙信の行動原理を理解していた為に『自らの死後は謙信を頼れ』と語った逸話も残されています。
その後も、将軍足利義昭からの命により、信長討伐に向けて立ち上がろうとしています。
この上杉謙信は、類まれな軍才を持っていて、戦の強さはずば抜けていました。
また、自国の民の為に金銀山を開発したり交易などにも力を入れさせて良政を敷き、人心をまとめ上げています。
謙信の死後に跡目を相続した景勝もこういった謙信の行動規範にならい、秀吉死後の家康による僭王を認めませんでした。
これにより、関ヶ原の前哨戦となる上杉討伐が起こる訳ですが、討伐軍が遠征途中で上方より三成挙兵の知らせを受けて、軍を取って返す事になった際には、三成軍との挟み撃ちを試みるチャンスにも拘わらず、後方より逃げる敵を打つのは上杉の義に反すると言って景勝は追撃を中止します。
戦国末期のこういった話しが、義の上杉というイメージを私達に伝え残しています。
この事から上杉の『義』というのは、私欲を捨てて五徳の誠心を体現するという事だと考えられている訳です。
ただし、これらの上杉の『義』という語り方は実は、江戸時代になってから称されるようになっています。
折しも、家康により天下が治められて戦の時代が終わると、戦国期の荒くれた武士達の考え方を改めさせなければならなくなり、その意識改革を推し進める為に儒教の誠心という考え方が導入されて行きました。
その導入過程において、謙信、景勝らの上杉勢の行ってきた行動規範を『義』と呼ぶことで、江戸期における一つの精神的支柱としてもてはやされた可能性が高いのです。
ですから、当時において上杉謙信や景勝の口から、上杉の『義』という言葉が発せられた訳ではありません。
むろん、数々の謙信の取った行動に対しての、リスペクトも含めた家風というのは確かにあったようですが、義を大義名分にして行動していたというのは少し怪しいのです。
上杉謙信の行動してきた事を検証してみると、先に書いた多くの遠征も、ある種の農繁期が終わった農民の出稼ぎ行動や、現地にて行われた奴隷狩りといった行動が側面にはあったようです。
また、関東官僚という関東攻めの口実(大義名文)を得た事で、再三に関東攻めを繰り返していましたが、手強い北条に対して農繁期には兵を引かなければならず、結果として攻め切ることが出来なかったというのが現状のようです。
さらに塩止めの件も、他の大名が塩の流通を止めているのならば、武田への塩の販売は商業ベースでは実入りの良い商売という側面もありました。
また、謙信死後の跡目相続である御館の乱等は、とても『義』を受け継ぐ者達の争いとはいえません。
この争いに勝った景勝が、その後に徳川遠征軍の追撃を『義』により取り止めたという逸話に対しては、その事実すら怪しいようです。
こうして考えると私には、上杉の『義』というのは、謙信が幾度となく家臣達に裏切られて一度は仏門に入ろうとした経緯から、裏切りなく人を指揮して従えさせるには、目的や大義名分が必要だと考えた事による、合理的判断基準にしたがって行った数々の行動が、後の徳川の世における儒教の誠心普及に上手くマッチングして作られたイメージの様に感じています。
何だかこう書くと上杉謙信は、ずるがしこくて計算高い様に取られがちですが、そうでは無くて逆に、この戦国時代という中においては、常に表裏一体の考え方をする曲者達が多い中で、その者達を一定の目的や大義名分を持たせて一本化する事できちんとまとめ上げていた事を考えると、上杉謙信という人のすごさが解る気がします。
その目的や大義名分がしっかりしていたからこそ、後の世で『義』という言葉に置き換えられて上杉のイメージが生まれたのだと考えています。 おわり
愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。そして、謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。
戦国乱世の世を義を貫いて生き抜いた軍神・上杉謙信。越後の虎とも龍とも呼ばれた猛将・謙信は自らを戦いの神毘沙門天の生まれ変わり化身と信じ、「毘」の一旗を揺るがして闘った戦国最強の名将の中の名将である。上杉謙信にまつわる逸話や俗話や仮説の中に、謙信が実は女性であったという説がある。そう謙信が女性だった。
にわかに信じがたい説だがそういう説もあるということだ。
越後の春日山城で長尾為景の妻・お紺がややを腹にやどしていた。
のちに謙信となるややである。のちの仙桃院となる年上の姉・桃姫は「母上、桃もおともいたしまする」といろめ傘の母親と側近の女性に声をかける。桃姫はまだ幼い(五歳)。
「あなたはいい子ですね。でも、いまは暑いし大変だからよしといて」
「林泉寺にお百度まいりにいかれるのでしょう?母上のほうが身重で大変でしょうに…」
「母は夢で腹のややこが毘沙門天の化身として宿る夢をみた。必ず男子であるように祈るのです」
「……毘沙門天の化身?」
「そうですよ。晴景の弟です。」
「よしよし。腹をさすってやろう。」為景は妻・お紺のおおきな腹をさすった。
「いいか。お前は毘沙門天の生まれ変わりの男子じゃ。立派な武将になれ」
「殿……必ず男子にございます。毘沙門天の生まれ変わりなら男子でしょう。」
「そうか。」夫婦は笑みを交わした。
しかし、生まれてみるとそれは女子の赤ん坊だった。
しくしく泣くお紺。「申し訳ありません……わたしの信心が足りなかったのです」
為景は「おなご?!!」と歯をむいた。しかし考えた名前は「虎千代」であった。「この子供は女子ではない。男子じゃ!姫武将として男として育てる!琴も笛も舞いも教えない!武術や槍、刀、弓や学問や孫子の兵法や馬術を習わせて男として育てる!」
「しかし……おなごではありませんか。」
「いや!今日からこの赤子は姫武将……いや、男子じゃ!」
虎千代は六歳から十二歳くらいまで林泉寺に尼というより僧侶として育てられた。
おなごではなく、男として。
まるでおんな謙信という。おんな長尾景虎、おんな上杉謙信、であった。
幼少時代の謙信は腕白で手のつけられない利かん坊であったという。弓矢や刀を好み、近所の小僧たちとチャンバラをしては勝ち、泣かせる腕白坊主のような少女であった。
さすがに着物も男物。男として育てられた戦の天才、のちの上杉謙信。
「……虎千代?男子の名前ではないか……。」十八歳年上の晴景はため息を漏らした。
「兄上の二人目の妹ですが……」
「まあ、おれは生まれながら病弱で頭もよくない。おなごとて毘沙門天の生まれ変わりののだろう?父上がおなごでも…と必死になるのもわかるけどなあ。俺は……戦が嫌いじゃ。陣をどうするとか人を殺すより、歌や鼓を奏でていたほうがいい。桃、俺も女子だったら」
「……兄上。……おなごの虎に家督を奪われてしまうかも…よろしいんですか?」
「……ふん。かまわないさ。おれは弱いんだ。強いものがこの越後を春日山城を守ればいい。まさに時代は戦国…群雄割拠の殺戮の時代だ。おれは……いいよ、そんなもん」
長尾晴景は遠くの空を見るような目で言った。
このひとは歴史小説では無能で愚鈍な馬鹿者として描かれる事が多いがはたして……。
長尾晴景(長尾家の長男)は越後の市井の人々と、しかも、遊女(風俗女)に「はるさん」と呼ばせて赤子までつくり、頻繁に越後の市井の人々とふれあったというのは東村アキコ氏の漫画『雪花の虎(ゆきばなのとら)』のフィクションである。ちなみにその作品では晴景は身分を隠して、「はるさん」と呼ばせて町人のふりをする。
「だから佐渡の銀集めの人足だって…」
「嘘だあ、こんな病弱で白い肌の人足がいるもんかい」
「いや…本当だって。」
病弱で頭も悪く愚鈍であるが、遊女(風俗女)と密会して妊娠させ、その子と遊女(風俗女)が、「晴景の暗殺」を狙った水の毒をのんでかわりに死ぬ……というのは少しやり過ぎである。
まあ、漫画だからかなり演出として仕方が無いが(笑)ただひとつわかっているのは長尾晴景には夭折した猿千代という赤子がいたこと。
上杉謙信が女性だったのではないかという説の根拠に“生涯、独身を通しひとりの嫁も娶らず、子供をひとりもつくらなかった”ことと、上杉家に残る“謙信直筆の書のほとんどが優しい柔らかな筆使いである”こと。“毎月腹痛におそわれ陣を引いた(生理?)”こと。遺された甲冑の大きさなどから推測するに謙信の身長は五尺二寸(一五六センチ)程度であったにも関わらず「大柄」と伝えられている。これは“女性にしては大柄”という意味では?
そして女性説の為につくられたような越後や米沢に残るゴゼ唄(目の見えない芸能者(瞽女ごぜ)がうたう唄)が
♪とら年とら月とら日に(謙信の誕生日は享禄三年(寅年)一月(虎月)二十五日(寅日))
♪生まれたまいしまんとらさまは(“まんとら”は謙信の二番目の名前、「政虎」とも「政治をする虎様」のことだともとれる)
♪城山さま(春日山城・上杉謙信の居城の山城・現在新潟県上越市に城址がある)のおん為に 赤槍立てて御出陣 男もおよばぬ太刀無双(男性だったら男もおよばぬ…とはならない筈)
また甲斐の虎・武田信玄(晴信)だが、例のでっぷり太った髭の肖像画はあれは信玄ではなく、能登(のと)の畠山義総(はたけやま・よしふさ)という説が有力だ。で、本当の武田信玄公は若いときからの労咳(肺結核)で、細身の色白な美男子だったという。
徳川家康が天下をとり、徳川幕府をつくった辺りから幕府は「武家御法度」をつくり、女性の大名を禁じた。
ということはおなごの城主、大名も珍しくなかったのだ。
井伊直虎、立花誾千代、寿桂尼、淀君……
上杉家は初代の謙信を「男」とする必要に迫られ、江戸時代に例のひげ面の上杉謙信公肖像画が誕生する。
春日山城の雪の中、虎千代と父・為景は湯を飲み遠くの海や山をめでた。長女の桃姫と長男の病弱な晴景は屋敷の部屋で琴と鼓を奏でる。
為景は、「男が鼓をうまく叩いても国は守れん。虎千代、この春日山城を越後をどう守り、どう攻める?」
虎千代は「前々から土塊(つちくれ)で春日山城の模型をつくり、われが武田の将ならばどう攻めるか策をねっていました。」
「そうか。」
「どうか……今度の戦ではこの虎をつれていってくだされ!」
「すまぬ。……虎よ。…わが軍の跡目は晴景じゃ。」
「わかっておりまする。しかし、……兄上が駄目なときはこの虎を……!」
「よかろう!そのさいには兵法三十六計を学べ!」
「はい。父上のひざのうえにのってもよろしゅうございまするか?」
「ふ、子供のようなことを……まだ赤子の気でいる」
親子は微笑んだ。これが父とムスメの最後の団らんとなった。
下克上によって謙信の父・長尾為景は主君を討ち越後を手に入れた。そのため逆臣のような為景を憎む国人衆も多く、春日山城はいつも危険と隣り合わせであった。
豪族との争いが絶えなかった。謙信もそんな父が死に寺より春日山城に戻されたのだった。
幼少の頃より寺(林泉寺)にいれられた当初の虎千代は、当時、腕白で和尚に錫杖(しゃくじょう)で叩かれまくった。さすがに耐えられず、
「おれは城に戻る!春日山城で飯をたらふく食う!」と反発した。
だが、和尚に「お前には帰る場所などない。ここだけだ!今日は罰として薬石(夕飯)抜きじゃ!」としかられる。林泉寺は謙信の祖父が建てた寺。林泉寺の六代目の和尚が名僧・天室光育(てんしつ・こういく)。我が儘腕白だった謙信がのちに冷静沈着な武将になったのもこの光育の修行の賜物だ。
林泉寺では虎千代は厳しく修行させられた。崇謙が「この本堂の床を朝から晩まで雑巾できれいに磨きなされ!」「この床は汚れてはおらぬ!ほれ、足も真っ白だ!掃除とは汚いものを綺麗にするものだろう?無駄ではないか?」
「それは違いまする、虎千代さま。益々きれいにする。掃除とは心の掃除でございまする」
「馬鹿な!おれはこんなことしないぞ!」
「わたしは庭の掃除をして虎千代さまがサボらないように見張っています。もし、さぼればお灸をすえまするぞ。」
「……お灸?」
「幽霊がいっぱいでる部屋に閉じ込めまする!」
「……」虎千代はぞっとする。
それでも掃除をして夕ご飯をもらうと反発した。粥と梅干しのみ……ふざけるな!
「おれはつかれているんだ!握り飯をだせ!」
虎千代は粥の器を手で弾く。粥は床に落ちる。
崇謙は虎千代を抱えて、罰として蔵に閉じ込めた。虎千代は崇謙の腕を咬んだ。
兄弟子の僧侶が不遜な虎千代を諫めた。
「し……城に帰りたい……姉上と父上に……母上に……あいたい!……なぜ、毘沙門天の化身のはずのおれが女子なのじゃ?」
「女は男より強い。その強さで男よりも強い力でやがては越後を守ってくだされ」
兄弟子の益翁崇謙(やくおう・しゅうけん)は虎千代を抱擁して頭をぽんぽんと優しく叩いた。
謙信(長尾虎千代→元服して長尾平三景虎→三十一歳で関東管領で、上杉政虎→四十一歳で上杉謙信)は崇謙のふところで号泣する。
「おなごなれど……できるかのう?」
「歴史は男だけがつくるとは限りますまい」
「……じゃな。わしは姫武将……おなご武将じゃな」
「…はい。」
のちの上杉謙信の「謙」の文字はこの崇謙からとられたことは有名だ。
虎千代のちの上杉謙信の人生におおきな影響を与えた僧侶でもある。
雨の日、光育と虎千代は話した。
「…虎様は何になられまする?」
「虎は毘沙門天の生まれ変わりじゃ!大将にならず、誰がなる!」
「おなごのあなたは後いくつかしたらどこか遠くに嫁にやられるでしょうなあ」
「な……何を…!虎は…嫁になどいかぬ!」
「では、何に?」
「決まっておろう!虎は父上のような戦人となるのじゃ!」
「虎様、戦はあそびとは違いまするぞ。腕白が戦上手とは限りません。越後のために越後をまもるために学びなされ!」
虎千代がはじめて生理(初潮)を迎えたとき、虎千代は「病気じゃ!股から血が出た!薬師を!」と当惑した。母親は微笑んで、
「病気じゃないのよ。これはおとなのおなごになったという証……毎月腹痛と出血がくる」
「…なんで?!!」
「それは子供を産み育てるためじゃなあ。びっくりしたであろうな。母が前もって教えておれば……まさかこんなに早いとは…」「母上……この血は…??!」
「これ、着替えをもて。」
しかし、虎千代は暗い山道を駆けて林泉寺へ向かった。
門前の崇謙に抱きつく。「崇謙、大変じゃ!われがおなごになるのをとめてくれ!股から血が出た。毎月、この腹痛と出血があると……これでは戦にいけぬ!」泣き崩れる。
「ならば隠し成され!おなごは大人になれば股から血が出る。だが、それを隠さねば家臣達から「所詮はおなご」と侮られましょう。ここは男のふりで通すしかない」
基本的には「謙信を男性化する」と提案したのは本庄実仍(ほんじょう・さねより)と和尚と益翁崇謙であったという。男装させ、胸をさらしでまいて隠し、男のなりをした。
姫と知るのはわずかな側近のみ。
さらに虎千代は、十五歳で初陣で大勝利をおさめる。
のちに“栃尾城の合戦”と呼ばれることになる長尾景虎と揚北衆軍との戦いでは、景虎は十五歳にして天才的な軍略をみせる。物見の情報で栃尾城を囲む軍勢は小荷駄(食糧補給隊)をもっていないことで「これ見よがしに軍勢を誇示しているが栃尾城に攻撃しては来ない。こちらが籠城戦をするのを目論んでいる。小荷駄もない。ならば少数でも勝てる。少数精鋭の部隊で火矢を打ちかけ進撃すれば勝てる」と本当に揚北衆を敗ぶる。崇謙に林泉寺の桂の木でつくった毘沙門天像をおくられ「虎は怖い。栃尾の城の人間がひとりでも死んだら……しかし、この毘沙門像で勇気がわいた」「虎さまは死にまするか?」「いや、わしは死なない。必ず勝利する!春日山の兄上のためにも!」こうして生涯に70戦して2敗68勝の戦の天才ののちの軍神さま、上杉謙信(長尾景虎)が歴史に鮮烈な登場を飾る。
大勝利をおさめた戦では、白頭巾がとれ、長い髪をなびかせながら姫武将として闘った。
崇謙に景虎は「勝ったぞ、崇謙!われら越後が勝った!」と報告する。
さらに景虎は「虎を抱け、崇謙!虎を本物のおなごとしてみよ!」
「……虎様。あなたさまは毘沙門天の生まれ変わり。おなごになっては越後を守れないですぞ!」「……しかし…」「この場でこの崇謙に生涯不犯を誓いなされ!」
「…不犯?…崇謙…そうじゃな。」
元服を兄・晴景にやってもらい男として、平三景虎・長尾景虎となった。
のちのおんな謙信、おんな上杉謙信、である。
父親の長尾為景の葬儀の時には、虎千代は黒い甲冑をつけてハチマキを頭に巻き、男装で参列したという。隣席の兄の晴景が「泣いてもいいんだぞ?虎」というが、虎千代は、
「泣かぬ!虎は泣かぬ!」と気丈にいった。
姉・桃姫が坂戸城主・長尾氏に嫁に行くとき虎は「嫌じゃ!嫌じゃ!」と反発した。
しかし姉が「虎…わたしはね。虎、あなたが生まれたときうれしかったの。…妹が出来たら…琴や歌を教えて…でもひとつだけ夢が叶った。見て、虎」
それは花畑だった。
春日山城址の山頂側に「お花畑」という可愛い名称の土地がある。その横に上杉謙信が籠もった毘沙門堂があったという。
毘沙門天の化身、戦の天才、軍神・上杉謙信公……
武田の無敵騎馬隊が風林火山の旗印の元、上杉謙信こと長尾輝虎との対決の為に川中島に陣を進めていた。武田晴信は出家して「信玄入道」と号していた。
騎馬隊や歩兵部隊全4万もの大軍である。馬上に隻眼の醜い男あり。このひとが「武田の謀将」と恐れられた軍師・山本勘助である。藁の眼帯をして顔中斬り傷の跡だらけである。
それより数年前……
山本勘助、また戦いに敗れた。この人物は謎に包まれている。
わかっているのは全身に二十八の傷跡。四十過ぎの中年で、醜く裂けた片目が印象的である。
戦で三十四年負け続け、全身に傷跡だらけ。だが、この男こそのちの武田(晴信)信玄の軍師となる山本勘助入道道鬼、である。
九年後の駿府のあばら家で、その勘助は蝋燭のカスを集めて、新たな蝋燭をつくる内職のようなことをしている。
もう夜で、あばら家の長屋の一室で、醜い傷だらけの顔の男は蝋燭を削っている。
外から相棒の青木大膳が「おーい、バケモノ!いるかー?!」とくる。
「酔っておるな?」蝋燭から目も離さず勘助は言った。
「だから何だ?この化け物!いいか、俺はなあ、近々のうちに仕官の道が開けそうなんだよ。どうだ?羨ましいだろう?」
「………確かなのか?」
「おうとも!」大膳は息巻いた。「この駿府に明日の夜頃、あの武田の重臣・板垣信方さまが通られる。そこでだ、俺のこの剣を見てもらうのよ」
そういって大膳は抜刀すると、蝋燭の灯りの部分だけを斬り、剣先に火のついた蝋燭部分を載せた。すばやい太刀裁きである。
「どうだ?バケモノ!なにが天下無双の軍師で兵法に明るいじゃ!ばーか!俺に土下座するなら仕官の後、俺様の家来にしてやらぬでもないぞ」
勘助は少し黙ってから「すこし甘いのではないか?その程度の腕で、あの甲斐の国主・武田さまの重臣・板垣信方さまがなびくか?」
「じゃあ、どうすればいいっていうんだよ、この化け物!」
「お前がその板垣信方を斬るのだ!」
「あ?!何を言う!」
「いや、本当に斬るのではない。お主が頭巾で顔を隠して板垣さまに斬りかかる。そこをこの俺がたすけて、俺が仕官して、のちにお前を相棒として仕官させるのだ」
「成程、命の恩人として恩を売るのか?なるほど、やれるか?バケモノ」
「ああ。これで俺たちもあの甲斐の武田さまの家来じゃ!」「おう!ははははぁ」
首尾は順調だった。青木大膳は頭巾で顔を隠して、その夜、わずかな供回りだけの板垣信方に斬りかかった。
「板垣覚悟―!」
「まてぃ!助太刀いたす!」
山本勘助は現れて、板垣信方を守った。何と、青木大膳を斬り殺したのだ。「ぎゃーああぁ!」顔と首を斬られて、……話が違う…大膳は土手に斃れて、河に落ちた。即死らしい。
……大膳よ、成仏いたせ!お前の分までこの勘助は生きるでなあ。にやりと笑った。
当然、というかその後、山本勘助は武田家への仕官の道が出来た。
この頃、甲斐の元・国主で武田晴信(のちの信玄入道)の父親・武田信虎と勘助はあっている。密会で、信虎は駿府の今川へ追放されていた。
覆面姿なのに勘助は「もしや信虎さまでは?」とするどい。「さすがじゃのう山本勘助!どうだ、一国一城の主になりたくはないか?武田晴信、わしを駿河に追放した晴信を殺せば一國やる。どうじゃ?」
勘助は断るでもなく引き受けるでもなく、「いやいや、なんとまあ」といい杖で歩き去った。信虎の家臣は東雲(しののめ)半二郎である。
「御屋形さま、斬りまするか?」東雲は訊いた。
「いや。斬るには惜しい。バケモノだ」信虎は言った。
武田の重臣は板垣信方、甘利虎秦、飯富(おぶ)虎昌、諸角虎定、馬場美濃守信春…
信玄の弟、左馬守信繁(さまのかみ・のぶしげ)は、「兄上が駿府に駿河にいく必要はありませぬ」という。武田信虎追放のことでだった。
武田晴信(のちの信玄)は「父・信虎をとるか?それとも俺(晴信・信玄)をとるか?ふたつにひとつじゃ」という。
****続く(刊行本または電子書籍に続く)続く******