長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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皇女・和宮と天璋院篤姫「大河ドラマ篤姫」ふたたびブログ連載1

2012年02月02日 11時56分29秒 | 日記
小説
  勝海舟と

     皇女和宮

                         ~幕末のヒロイン~



               ~皇女和宮(かずのみや)の「波乱の生涯」。

                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
        this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
          あらすじ
  黒船来航…
  幕末、和宮親子内親王は弘化3年潤5月10日(1846年7月3日)仁孝天皇の第8皇女として生まれた。その後、孝明天皇の命令に従い、江戸へ下り第14代将軍・徳川家茂の正室になった。それは大老井伊の公武合体と壤夷の約束のためだった。江戸で京の公家皇室の京派と武家派が対立するが、天璋院(篤姫)が義母・姑としてサポートする。しかし、時代は動く。大奥でのいさかいなど関係なく、時代は激動の幕末へと…やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。明治新政府が出来ると、和宮は官軍に睨まれ、徳川の人間として若くして生涯を終える
    おわり

         1 公武合体


今から百六十年前……幕末のヒロイン・和宮親子内親王は弘化3年潤5月10日(1846年7月3日)仁孝天皇の第8皇女として生まれた。家茂との出会い、西洋の豊かさ、その源は皇女としての誇りだった。身長143センチ、体重34キロ…麗しき可憐な美貌の女性…
 和宮は「大老井伊の公武合体」と壤夷の約束のため京から江戸へ下った。和宮は明治時代の1877年9月2日に死んだ。その頃、日本経済は長い鎖国とインフレで経済は乱れていた。戌辰戦争から百四十年……

  幕末、世は黒船来航と井伊大老暗殺などで波乱な時代を迎えていた。
 それは京の公家、天皇家でも例外ではなかったのである。
 井伊大老は桜田門外の変で水戸浪人たちに暗殺される前に『公武合体』論を唱えていた。しかし、実はそれは佐久間象山の案の盗作だった。しかし、何にせよ公家皇室から徳川将軍家・第14代・徳川家茂の正室として、壤夷派の孝明天皇の異母妹・和宮を江戸に連れてきて将軍家に輿入れさせようという考えは正しかった。これにより、水戸浪人たちや尊皇壤夷派は『人質』を取られた形となり、幕府打倒の怒りも待たれた。
 幕府は過激派がいう『壤夷』(外国の軍を追い払って天皇をたてて国内にいれない事)など無理だとわかっていた。外国からの貿易交渉などを拒めば、清国(中国)の二の舞になるだけだ。しかし、実情を知らない尊皇壤夷派は「天子さま(天皇のこと)をたてて壤夷を…」というばかりだ。外国の事情を知る幕府としてはそれは呑めない話しだったろう。       「和宮」とは誕生したときの幼名で、「親子」は文久元年(1861年)の内親王室下で送られたいみなである。号は静寛院宮。墓は元々は東京プリンスホテルの敷地内にあったが、1950年代に改築の際に発掘された。しかし、骨は見付かったものの左手から手首の骨はいくら探しても見付からずにいて謎だった。推測では幼少の時に左手首から下を損傷したのではないか? といわれた。銅像も不自然に左手首が隠されており、近年、和宮が中仙道を下って江戸に行く途中の茶屋で写したとされるガラスポジネガが見付かったが、その際の写真は両手があった。その為、替え玉ではないか? との説もあり、有名な作家・有吉佐和子が替え玉説で本を書いている。
 しかし、替え玉説は後年の流布らしい。
和宮の白黒写真が残っている。おすべらかしに襟袴で晴装。写真でも背が低く、おでこが広いのがわかる。和宮替え玉節は100%嘘らしい。平成二十年度(2008年)NHK大河ドラマは「篤姫」で「天璋院篤姫」が主人公(宮崎あおい役)で、「和宮」(堀北真希役)も出てきた。
 和宮の墓が発掘されたとき腕の骸骨の辺りに湿板写真が見つかった。長袴に直垂の烏帽子をつけた若い男子であった。「家茂か?」しかし、翌朝、膜面が消えていて写真が駄目になっていたという。その為、消えていた画像はかつての婚約者・有栖川熾仁親王では?という憶測まで広がった。が、99%の確率で「徳川家茂」だろう。
 和宮と家茂の仲の良さは史実でも知られており、実際仲がよかった。
「うつけ将軍」といわれた徳川家定が病死して、十三歳で将軍職についた徳川家茂は二十一歳で大阪城で亡くなるまで激務で、世の中は「内憂外患」状態であった。それを内助の功で支えたのが皇女和宮である。 


『惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも』
 これは和宮が、江戸に下るときの句である。
 運命に翻弄され波乱の生涯を歩むことになる和宮の心情がよくでている。



  京では『公武合体』論で蜂の巣をつついた様な騒ぎとなっていた。
 『公武合体』は暗殺された大老・井伊直弼の案だった。
 ときの孝明天皇は公家の部下、九条尚忠の話しをきいていた。側には典待の庭田嗣子がいる。九条は「今幕府に恩を売るときではないかと…」という。
 天皇は「それで和宮と江戸の代官の家茂とをのう」と浮かぬ顔だ。
 庭田は「しつこいですえ、九条はん! 宮さん(和宮)には熾仁さんという許嫁がいなはる」
「しかし…」
「しつこい!」
 嗣子は喝破した。「江戸の代官ごときに輿入れなど宮家始まって以来あらしまへん!
あきまへん!」
 しかし、そこにて出てきたのが、身分官位こそ低いが『ご意見番』として知られる岩倉具視だった。「幕府に壤夷を約束させる好機かと……ここはひとつ和宮さんには東に下って頂いたほうが得策かと…再び帝の世に、天下泰平の為でござりまする」という。
 和宮は当然ながら反発した。「嫌でござりまする! 私には熾仁さんというひとが…」と泣いた。悲劇である。許嫁は天皇家の分家・有栖川宮熾仁親王だった。
 しかし、和宮は『壤夷するとの約束』と引き替えに江戸にいくことが決まってしまう。和宮は泣き崩れて、江戸へと向かった。

  江戸の大奥でも騒ぎになっていた。
  天璋院(第13代将軍・徳川家定正室篤姫・子はなし)は老中・安藤信正の報告に驚いていた。「なんじゃと?! 朝廷に壤夷を約束したじゃと?!」
「しかし……これは詭弁でして……8年から10年後には壤夷をといいまして…」
「壤夷など、できようもないことはそのほうもわかっておろう!」
 天璋院は義子の家茂(徳川分家・紀州藩の家福)に相談した。家茂は「わたしにはまだ嫁など早過ぎまする」という。若い将軍である。「それより……私が興味があるのは咸臨丸にごさりまする」という。
「…咸臨丸?」
「幕府がオランダに注文して作らせた蒸気船にござりまする。これから勝とかいう幕臣と会いまする。勝らは船でメリケンへと参るとか…」
 天璋院は将軍に同席して、勝麟太郎(勝海舟)と会った。目のくりりとした眉涼しい武士であった。側には木村摂津守もいたが相手にしなかった。
 とにもかくにも、これが勝の出世に繋がっていく……
(08年NHK大河ドラマではうつけ(阿呆)のふりをしていた事になっている、天璋院篤姫の夫・徳川家定は知恵遅れで、子供を作る能力に欠けてたという記録がある。篤姫が嫁いだとき家定は33歳…頭のおかしな将軍に嫁いだ。篤姫は水戸一橋慶喜派のスパイとして、島津成彬より(分家の娘を)実子として大奥に入った。本寿院ら紀州・家茂らを憚り、一橋慶喜を次の将軍へ……と工作したという。大金をバラまいて大奥の女中どもを虜にした。島津家は竹姫を一橋将軍家に嫁がせ、八代将軍・吉宗と深い仲で、篤姫もそのパイプがあり将軍の御台所(正室)になれた。島津家の十一代藩主・島津重豪の娘(定子・茂子・お篤)は十一代将軍・家斉(豊千代)の正室)        
 家定は馬鹿であったが、3度目の夫人が篤姫(のちの天璋院)であった。家定の母は本寿院(幕臣・跡部正賢の娘のお義津)。家定は子供のようにアヒルを庭でおいかけたり、蹴鞠や、鬼ごっこをする。趣味は豆を火鉢で煎って側近に食べさせることであったという。
 大奥は「水戸嫌い」であった。滝山は大番頭をつとめた大岡権左衛門の娘で、十六歳から大奥につとめ篤姫が輿入れした頃は五十代。早くから才能を認められた才媛であったがこのひとも「水戸嫌い」であった。
 篤姫の教育係の幾島は近衛忠煕の女中で、NHK大河ドラマでの活躍(松坂慶子役)のように人心をつかむ術に長けたやり手であったという。さすがは名君・島津斉彬の見込んだ女中だけあって、華道、茶道、歌道、歴史、言葉使い、所作にいたるまで篤姫に叩き込んだという。
 篤姫は江戸城ではペットを飼った。夫の家定は犬嫌いなので当時流行のペットである犬の狆(ちん)のかわりに猫を飼った。家定は「不能」であり、ペットは阿呆の夫のかわりの「話し相手」のようなものである。最初の猫は「ミチ姫」というがすぐ死んだ。二匹目の猫が「サト姫」である。阿呆の家定に比べ、徳川家茂は「八代将軍・吉宗の再来」か?と思わせるほど聡明で、幼い少年とはいえ、天が此の世につかわした「天授の君」とも讃えられた。家茂の母は操子・おみき(実茂院)である。 

 和宮は江戸に着いたが、母の観行院と庭田嗣子や女中たちと一緒だった。
 婚儀は文久2年(1862年)2月11日に行われた。…代官(将軍)は鬼だときいていたのに鬼ではない。優しい方どす。和宮は頬を赤くした。
 文久2年1月15日には、家老・安藤信正が『坂下門外の変』で水戸浪人たちに襲撃され、一命はとりとめたものの重傷を負い家老をやめて地元の福島いわきに帰るなど一悶着もあったという。天璋院と和宮の母親らと席の上座と下座も悶着もあった。
 京派と武家派との間で、大奥で熾烈な争いがあり、天璋院は苦慮した。
 武家大奥の女中らは京方の悪口をいっていた。
「何でもかんでも”さん”づけで…宮さん、観行院さん、お豆さん、庭田さん、お馬さん…。御所風と偉そうなこといってるけど公方さまから禄を貰っているだけでしょう? ねぇ~っ」笑った。天璋院は陰できいて、叱った。
「ひかえよ!」若き将軍の義母といってもまだ天璋院は若く、二十代である。
「これは…天璋院さま」女中たちは平伏した。
「京方の悪口をいって気が晴れたか? 悪口をいって諍いを起こせば新たな諍いを生むだけじゃ…京方でも同じような悪口をいっておろう。ひかえよ!」
 また天璋院は公方(将軍・家茂)が帝に証文を出したことを知る。
 老中・安藤たちに代わって、天皇に『壤夷』を約束したものだった。
(壤夷とは国内から外国人を排除して鎖国することだ)
「なぜ、公方さまが直々に証文を?」
 天璋院は家茂に尋ねた。
 若き将軍はいう。「壤夷など出来ないことは明白、それを和宮さんから天子さまに進言してほしいと思ってのことです」
 天璋院は感心した。「公方さまは大人になっていくのですね?」と微笑んだ。
 それから天璋院は和宮らがいる部屋にいき、平伏して「この前の一件は私が悪いことで御座りました。私が上座に座り、和宮さまが下座で敷物もなく着座させる無礼、何とぞご無礼お許し下さいませ」
 和宮は無言だった。庭田嗣子が「まあ、わかりしゃれば…よろしい」
「されど!」天璋院は強くいった。「和宮さまは武家に輿入れした身、そうとうの覚悟で江戸へ参られたと存じます! 和宮さまはもう徳川の人間、姑を立てて礼節をわきまえるのが肝要かと思います。 郷に入らずんば郷に従えと申します」
 京方は何もいえない。「これからは武家の人間として姑をたてて公方さまを支えて頂きたいと存じまする」
 和宮は動揺を隠した。
「わたくしも薩摩から嫁いだときには…同じでございました」
 天璋院の言葉に庭田が「あんたさんと宮さんとでは…」
「同じに御座りまる! これからは武家、徳川の人間として生きて頂きたくお願いいたしまする」天璋院はそういって去った。
 庭田や観行院らが「姑をたてて、徳川を立てよ? ……許しまへん。決して許しまへん! …このままでおわらせるものではあきまへん!」と反発する。
 和宮は物深い顔のまま「…静かにしいや」といった。
  この一件はそれだけである。しかし、和宮には相当に感慨深い出来事になった。

  少しを少し戻す。
  幕臣・小栗上野介は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により小栗の名声は世に知られるようになっていく。徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 小栗はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も小栗も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
 勝海舟と小栗は話した。
「奉行! どこへ?」勝はひとを嘲笑する癖がある。
「イギリスはムジナだ! 軍艦が足りない! 幕府には軍艦は四隻しかない。イギリスは百隻近くある。このままでは日本は植民地だ」
「……で?」
「このままでは国家百年の計のあやまりだ。造船所を造るしかない!」
 勝海舟は笑った。
「そんな大風呂敷広げたって話しにもならねぇ」
 小栗は老中・安藤信正にも造船所のことをいったが、「幕府には金がない」とハッキリいわれた。しかし、小栗には造船所……しかるのち外国との貿易が必要だと思っていた。  高野長英という男が牢をやぶって勝の元にたずねてきた。
「かくまってほしい」という。
 勝は「私めは幕臣であるため義においてかくまうことはできません」と断った。そして続けて「しかし、あなたがきたことは誰にもいいません」ともいった。
 長英は了解した。長英は何時間にも渡って勝と蘭学について口論したが、やがて萩生氏著作『軍法不審』をくれて帰った。
 勝二十八歳、高野長英四十七歳であった。
 高野長英はやがて偽名を使い医者になるが、その名声が高まり町奉行の知るところとなった。逮捕の危機がせまっていたので、長英は江戸の蕎麦屋で家族と夕食を食べ、逃げた。が、すぐ追っ手に襲われ、ひとりを殺し、短刀で喉を突いて自殺した。
 勝は長英の死を嘆いた。……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。 「高野さんはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りなかった。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 勝は参禅を二十三、四歳までやっていた。

           
 この頃、勝は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。 勝は年上であり、大学者でもある象山を尊敬していた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。
 安政二年(一八五五)正月……
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。

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