長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯<維新回天特別編>2015年大河ドラマ原作アンコール連載小説2

2014年12月06日 06時22分09秒 | 日記





毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。ちなみに兄の吉田松陰に塾を開くようにアドバイスしたのも文「寅次郎兄やん、私塾をやるのはどげんと?」「私塾?僕が?」「そうや。寅にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって松門の教え子たち(久坂や高杉や伊藤博文)を集め「皆さん兄の私塾で学びませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも文「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの長州、日本国を変える人材になるのです」。姉の寿の前に小田村(楫取)を好きになるが叶わず母の死に落ち込む楫取を励まし、のちに姉寿死後、楫取と再婚し、最後は鹿鳴館の花となるのも文、である。大河ドラマとは違うのでこの作品が緑川流「花燃ゆ」なのである。

 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料や写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 多分、2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになるのではないか。そんな気がする。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿(すぎ・ひさ)と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。久坂玄瑞は神社でおみくじを引けば大凶ばかりでる不幸人・苦労人であった。しかし、文が励ました。
「大凶がでても何度でも何回でも引けば必ず吉が出ます。おみくじ箱には大吉も必ずはいってるんじゃけえ。さあ、何度もおみくじをひきなされ!」
「あんたになにがわかるんや?!おみくじだけじゃない!僕はいつも人生で不幸ばかりする!貧乏で、運が悪い、不幸な星の生まれなんや、僕は!」
癇癪を起こす久坂に文は「いいや!あなたは才能がある!私にはわかります。きっとこの長州を、日本国を回天させる人物やと思うとうとですよ、あたしは!」
「せやけど、文さんの尊兄・松陰先生に「出て来い国賊・寅次郎!この久坂が斬り捨ててやる!」と抜刀して騒動を起こしたのはただならぬ僕ですよ?」
「それは寅にい、が国禁を犯したための怒り……日本人なら当然やわ」
「日本人?」
「そうや!日本人や!長州でも会津でも薩摩でもない、これからは日本です!」
こうして杉文と久坂玄瑞の中は急接近してゆく。そしていずれ夫婦に、そして悲劇の別れ、が待ち受けているのだ。

 文や寅次郎や寿(ひさ)の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに吉田家と入江家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の吉田稔麿の妹・吉田ふさや入江九一の妹・入江すみらの御嬢さんで親友であった。
「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多(馨)などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
 黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
 唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
 またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。

 江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
 やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
 そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
 しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
 吉田松陰の首は落ちた。
 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
 高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。


  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  
  
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