一週間前のブログの続き。
「川端家住宅」の調査見学のあと、時間があったので、
桐生市にある新井領一郎の実家に行くことにした。
新井領一郎は明治初めにアメリカに渡り、
日本の生糸貿易の先駆けとし移住して活躍した人物である。
ニューヨークでの日本人社会の中心となり、日本の生糸貿易がアメリカで成功した立役者である。
そして堅曹は彼のアメリカ行きをもっとも応援し、
のちに設立した同伸会社で彼をニューヨーク支店長として迎えいれた。
新井領一郎は水沼製糸所の星野長太郎の弟であるが、新井家の養子となっている。
その新井家のある場所にむかって行った。
大間々から足尾にむかう国道122号線の下田沢の交差点を左折し、
赤城山をふもとから登っていく。
といっても現在は舗装された道路で、当時「急な坂道ではって登った」という表現の
古道の面影はなかった。
「鹿角(かづの)」という場所にあるのだが、車のナビでも詳細な場所がわからず、
何度か人に聞いて探しながら走っていった。
そうしてたどり着いた場所はここである。
「西町インターナショナルスクール キャンプ 新井領一郎」というプレートが掲げられており、
現在は東京西麻布にあるインターナショナルスクールの夏季キャンプ場として使われている。
当時の蔵や住居が残っており、新しくロッジがつくられている。
昨年住居にだいぶ手を入れてきれいになったらしい。
この建物の前に通っているのが当時の道だという。
裏は森林に高く覆われ、国道から入ってきたあたりより随分涼しく感じられる。
標高はだいぶちがうのであろう。
この険しい山間の里を見ていると、ここで育った領一郎が明治初めに
ニューヨークへ行ってまだ誰もおこなっていない生糸の直貿易をしよう、と決断したことは
なんてすごいことだろう!とおもわずにはいられない。
次は来た道をくだって、水沼の星野長太郎の製糸所跡とお墓にむかった。
製糸所となっていた150年以上経つ長屋門の外壁の一部が
地震で崩れ落ちていた。
そして向いにある星野家墓地にあるお墓もおおきく倒れるまではいかないが、
少しづつずれていている石塔がたくさんあった。
暑い日であり、夕方には小雨も降り、夏草におおわれた墓地はじっとりとした空気であった。