さて、岐阜の大垣の北に安八郡神戸(ごうど)という町があります。
歴史のある古い町で、建立から1200年ほど経つ日吉神社があります。
ここに国の重要文化財にも指定されている三重塔があり、これを見にいきました。
なぜかというと、原三溪の母の実家がここにあり、
幼少のころ三溪はよくこの三重塔をみていたとおもわれるからです。
幼少の記憶というか、彼の原風景がこの塔であるので、
今の横浜の三溪園の三重塔がシンボルのように建てられたのではないか、といわれています。
外祖父である南画家の高橋杏村の遺伝子と、この地でその長男から習った絵画の素養が
彼の審美眼となり、数寄者としての面を育てたとも考えられます。
このような話しをよく原三溪市民研究会でしていて、一度近くまで行ったら寄ってみたいとおもっていました。
実はこの三重塔は今年の8月に落雷で火災が起き、上部のほうが焼けたと新聞で報道されていました。
見に行こう、行こう、と思いながら果たせないうちの出来事に、しまった!とおもいました。
ですので今回はその被害がどの程度のものなのか、
もしかしたら修理が行われていて、見ることはできないかもしれない、と
不安をもってでかけました。
名古屋市内から車で1時間弱くらいで着きます。
養老線の「広神戸」という駅のあたりから旧家が目に付くようになり、旧道に大きな石の鳥居があります。
そのまままっすぐに行くと日吉神社の入り口となり、灯籠の並んだ参道が続きます。
突き当りに拝殿があり、その先が社殿となります。
三重塔はどこにあるのだろう、ともおって拝殿のところまでいくと右側にスクッと建つ塔がありました。
ああ、これが三重塔だ!
写真では見ていたけれど、実物は思い描いていたものと全く違っていました。
火災の被害もたいしたことはなく、
一番上の屋根の一部にバンドエイドをペタンと貼ったような補修が行われていました。
よかった・・・。
その苔むした桧皮葺(ひわだぶき)の屋根や、細部までしっかり組み込まれた木材の古色は
建立から500年以上という年月をしっかりと感じさせてくれ、素晴らしい!の一言です。
そしてなんともいいいようのない、畏敬を感じさせる佇まい。
語彙が少なくてうまく言い表す事ができないが、その存在感は実物を目の前にした者にしか
感じることができないであろう、とおもえた。
来てよかった。
本当にいいものをみせてもらった。
さて、次は同じ町内にある「神護寺善学院」にいきました。
ここは天台宗の古刹で歴史は古く、寺の名が表しているように、日吉神社を守るためにたてられたお寺です。
この地はまさに神仏習合の時代そのままの神社と寺が一体となって残っています。
ここに原三溪が外祖父の高橋杏村を顕彰する碑を建てています。
一昨年、三溪研究会で岐阜を訪れた時はここに寄っていますが、
そのときは、碑文の文字を確認することに追われ、しっかりお寺やまわりの景色をみていなかったのです。
それで、再度訪ねてみました。
杏村を称える「高橋景羽墓表」は森林太郎(鴎外)撰文、宮島大八揮毫の立派な石碑ですが、
それの建つ場所はまわりに池がつくられ、瀟洒な庭の風情が整えられていました。
お恥ずかしい話しが、こんなだったっけ?とおもいました。
池があったことさえ記憶にありません。
『原三溪翁伝』には
「大正八年神戸町有志と謀つて三溪翁は善学院境内の兆域を修治し園林の趣を作り
一大碑を建立した。」
「庭内に小公園の面影ある一隅に丈余の高さに聳ゆる記念碑がそれである」
という記述があります。
一昨年のときもこの部分は読んでいて、園林の面影を探すつもりだったのですが、
大勢で押しかけていって、たった10分の見学では、全くわからなかったというのが本当のところです。
よく見ると、すこし荒れてはいるが三溪園に通じる庭の面影があるようにおもいました。
門の中にはいると、やはり古い本堂があり、特に鐘楼はとても趣のあるものでした。
ゆっくりと散策をして名古屋にもどりました。
翌日は宇都宮三郎の顕彰会に豊田市まで行きます。
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