ダッシュボードにネズミちゃんをのせて向かった磯部温泉。
ここは明治18年(1885)鉄道が高崎から横川まで開通したときに「磯部」駅ができ一躍温泉地として有名になったところです。
堅曹さんの自叙伝『六十五年記』に明治19年(1886)井上馨外相が磯部に滞在中、何度か富岡製糸場で会ったことが書かれています。
すこし調べてみると、鹿鳴館外交で飛ぶ鳥を落とす勢いの井上馨は鉄道開通と共に、磯部に広大な別荘を建てました。その他多くの政治家たちも別荘を建て、磯部は一大別荘地としてものすごい賑わいとなりました。
ちょうどその頃のはなしです。
その後、磯部は明治26年(1893)に鉄道が碓氷峠を超え、直江津まで開通したのをきっかけに別荘は軽井沢へ移っていってしまい、温泉地として残ってきました。
自叙伝『六十五年記』に書いてある事柄で、惹かれたり興味の沸いた箇所をすこしづつ訪ねたり、検証したりしています。
今回知りたかったのは、磯部はどんな感じのところなのか、富岡まではどのくらいの距離なのか、そして井上馨の別荘はどこにあり、当時の写真でもあれば、ということです。
夕方宿に着き、ご主人に磯部の明治時代のことや歴史を調べていると話すと、一冊の本を貸してくださいました。
『磯部温泉誌』限定300部 安中市観光協会 昭和57年3月31日発行
明治26年発行した『いそべ案内』を基に書かれており、私の知りたかった井上馨の別荘の場所や、当時の繁栄ぶりがよくわかりました。
夜の更けるのも忘れて読んでしまいました。
翌1月25日の朝、井上馨の別荘のあった場所を訪ね、温泉資料館で磯部の歴史を見ました。
次に向かったのは富岡市南蛇井(なんじゃい)の最興寺というお寺。
この日は堅曹さんが富岡製糸場を民間の三井に渡し、最後に去る日々の記述を基にたどってみようとおもいます。
明治26年(1893)11月12日、堅曹は送別にあたり最興寺で人々に道話をし、住職からおくられた詩に和歌を返しています。
たいへん古いお寺で、山門は富岡市の重要文化財に指定されていました。
住職にお会いして当時の住職のお名前を教えていただきました。
お寺は堅曹が和歌で「名にしおふ紅葉の錦・・・」と詠んでいるのが納得できるほど、山々が一望できる場所にありました。
次に富岡製糸場まで行きました。
ここからは製糸場から安中の駅までの行程をたどります。
同十九日我出発に臨み内は役員家族工男女小使に至る迄併列し、門を出れば(送 速水堅曹君)の大旗を翻し、有志を始め検査上等工女に至る迄二百余名別保橋際に一と先別れ、夫より人車を列する事五十余台、殊に晴天和暢の日田舎にては空前の盛挙と云ふ可し。安中停車場に百人前の弁当を用意し茲に大略別袖したるも猶数十人高崎迄来り。中にも旗を持ちたる高瀬梧助は総代として東京迄来る (自叙伝『六十五年記』 句読点は筆者)
11月19日出発に際し製糸場に役員家族もふくめ全員が門まで並び、外に出ると(送 速水堅曹君)の大旗をひるがえし、有志、工女たちが送ってくれた。200人あまりが別保橋で別れ、100人あまりは人力車50台を連ね、まさに素晴らしい晴天の日、田舎では前代未聞の盛大な事となる。安中停車場に100人前の弁当を用意し大体はここで別れた。そしてなお数十人は高崎まできてくれ、旗をもった高瀬梧助は総代として東京まで来てくれた、と書いてあります。
さて安中へいくには富岡市役所の前の道を通り10号線(安中富岡線)で高田川を渡り、下黒岩で212号線に入って山を越えていくのが妥当だと地元の人に教えていただきました。
たぶん当時も多少横道とかあっても基本的にはこのルートではなかったかと思われます。
車で走ってみました。
自叙伝にあるように晴天和暢(おだやかでやわらかく晴れ渡った)の日のようで、寒いけれどいいお天気でした。
山道を登っていくと平らな場所では左手にくっきりと妙義山が見え、ああこの景色のなかをいったんだなあ、とおもいました。
安中駅まで着きました。
現在は立体交差などが出来ていて、実際は駅近くはどこを通ったかはよくわかりません。
近くの「旧碓氷郡役所」を訪ね、いろいろ聞いてみました。
たぶん柳瀬橋を渡って旧碓氷郡役所へ突き当たる道を行き、伝馬町の交差点で中山道を左に行き停車場についたのではないだろうか。
駅は当時から中山道側にだけ改札口があるそうです。
さて、また富岡まで戻ります。
まだ確かめたいことがあります。日が暮れる前に。
『六十五年記』に書かれている「別保橋」(べっぽばし)が見つからないのです。
市役所の前の道を行き、橋を渡るのですが、その橋は「小沢橋」。
その先に「別保」という交差点はありました。
車を降りて歩いてみましたが、交差点のあたりには川もなくもちろん橋もありません。
高田川にかかる他の橋だろうか。
「小沢橋」に行き川下、川上をみると小さい橋がみえます。
土手を歩いていきました。気温が3度くらいしかなく、マフラーを首にぐるぐる巻きにしていきます。
「上小沢橋」違う。その先にも小さな橋がみえます。
「川北橋」違う。
これ以上離れると、製糸場からは安中へ行く道とは繋がらなくなってしまう。
わからない。
そこで「富岡市役所」へ行きました。
昔「別保橋」という橋はなかったか?または「小沢橋」は別保橋と呼ばれていたりしないか?
受付でいろいろ調べてくださり、わかりそうな人に聞いてくださったが誰も知らない。
あとは土木事務所ならわかるかもしれない、ということですぐに電話をしてくださり、担当のS氏を紹介していただきました。
私は富岡合同庁舎へ向かいました。
富岡土木事務所のS氏は「小沢橋」の資料を用意して、そして事務所内の地元の人に「別保橋」のことを尋ねて、待っていてくださいました。
まずは小沢橋は昭和7年以前の木の橋の時代もず~と「小沢橋」であるということ。
そして地元の人に聞いたところ、昔「川北橋」と「上小沢橋」の間に「別保橋」とか「清水橋」といわれていた橋があった、ということを教えてくださいました。
別保という地名の中で今の「登利平」の裏あたりとか。
S氏は私の持って行った道路地図を一緒にみてくださり、自叙伝の文章も興味深く読んで、このあたりに橋があり、そうすると道は安中へはこう繋がるんじゃないだろうか、などといろいろ一緒に推察してくださいました。
本当にありがとうございました。
さあ、時間がない。ここまでわかれば、明るいうちにもう一度高田川にもどり、橋のあった場所を確認してみよう。
平成11年に河川の改修工事をしているのでたぶん橋げたとかそういうものは何も残ってないでしょうといわれました。
でも行きます。
「登利平」に車をおいて河川敷に降りました。夕方になり、さっきよりもっと寒い。マフラーぐるぐる巻きに手袋もして。
降りてみるとなんと川に橋ともいえないフラットなコンクリートの渡しのようなものがかかっているのが見えました。向こう岸に渡れそうです。
地図でみた「別保橋」があった場所あたりになります。
向こう岸に渡って土手にあがっていくと工場の間に細い道があり、そこをいくと旧道の10号線につながりました。
ここだ。ここに橋があったのに間違いないとおもいました。
川岸の端の水はもう凍っていました。
車へもどり、今度は製糸場への道を確認してみよう。
別保橋のあったところに交差点があるのでそこから製糸場のほうへ向かいました。
細い道ばかりです。ぐるぐる走り回りました。
道路地図と首っ引きです。市役所前の道を通らずになんとか製糸場へ行けないか。
日本光電という会社のまえの道を横に右折してみました。
両面通行ですが、一台しか通れないほどです。そこを抜け、踏切を渡りまっすぐに行くと姫街道(254号線)のサカモト家具のところにでました。
左折してすぐのところを右折して一方通行をまっすぐにいくと、あっという間に製糸場の塀、そして門のところに出ました。
やったー! この道だ! 最短だ~!
市役所の前のところへ出るよりずっと早い。
多分この道で別保橋に行ったんですね。1kmぐらいです。
堅曹さん、ここを300人もの人に歩いて送ってもらったんだ。大旗をひるがえして。
うれしかったです。明治26年11月19日のことがたどれました。
もうとっぷりと日が暮れて。
でもとても満ち足りた気持ちで帰路につきました。
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