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マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』その2

2019-05-31 10:00:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 英語がある程度おわかりになる方には、ハックの文法の怪しさは明白だろう。まず“without you have read a book…”は正しくは“unless you have read a book…”だろうし、“that ain’t no matter”は品のない言い方であって品よく言えば“that doesn’t matter”であり、“That book was made”じゃなくて“That book was written”と書くべきだし、それに“There was things”はもちろん“There were things”……等々、語学的にはツッコミどころ満載の語りなのである。
 さらに微妙な次元の話をすると、このハックの文章、句読点の使い方が「普通」の書き方とはどうもずれている。作文の授業だったら、間違いなく直されるだろう。実際、1899年ごろに刊行された第四版ではこの特異な句読点が「添削」されており、長年多くの版がこれに倣ってきた。たとえば、廉価版ながら風変わりな作家パジェット・パウエルの秀逸なまえがきが入っているSignet版などは、いまだにこれを踏襲している━━

(英文略)

 このように句読点を直したのに加えて、もしさらに文法的な誤りも正し、全体に「どこに出しても恥ずかしくない文章」を作成して、元のハックの語りと較べてみたら、どちらが魅力的だろうか? なかには「正しい方がいいに決まってるじゃないか」とおっしゃる方もおられるかもしれないが、まあたいていの方は、「なんか元の方がイキがいいな」と感じられるのではないかと思う。文法的誤りだらけ、不規則な句読点だらけの「ハック英語」に、「間違いの楽しさ」を大方の読者は見出されるだろう。実際、作文の作法からすれば不適に見える句読点にしても、声に出して読んでみると(中略)実は大変的確であることがわかる(中略)。
 語学的怪しさにしても、まさに怪しいがゆえにきわめて雄弁である。ゆうめいな例を挙げると、civilize(文明化する)という語をハックがつねに誤ってsivilize と綴るのは、もちろん彼自身はまったく意識していないが、ハックを文明化しようとする人たちに対するさりげない皮肉になっている。
 これが逃亡奴隷ジムの、さらに怪しい英語となると、時にそれは詩的な高みに達する。(原文省略)(「なあ、いいかいボス、なんかヘンなんだよ。おれはおれかね、じゃなけりゃおれだれだ? おれはここにいるのか、それともどこに? おしえてほしいもんだね」自分がいま・ここにいることにたいする根源的懐疑をこれほど楽しく言い表した例はほかに知らない。
 とはいえ、このジムの超シュール発言に対して為された生ぬるい翻訳からも窺えるように、そうした楽しい間違い方を翻訳でどこまで再現できるかとなると、これはどうにもおぼつかない。一般に翻訳において、誤りを誤りのまま訳すのは非常に難しい。読者から見て、原作者が意図的に盛り込んだ誤りなのか、単に訳者が間抜けなだけなのか判定が困難であり、つねに隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を免れないからだ。
 したがって、本書を訳すにあたっても、誤りを誤りとして再現することは原則として試みず、あくまでハックが使いそうもない語彙を極力回避し、かつ、「ハックにこの漢字が書けるか?」とつねに自問しながら訳し進めることをとおして、語りのリアルさの再現をめざした。ハックはまったくの無学ではないし、学校に行けばそれなりに学びとるところもあるようだから(まあ六七=三十五と思っているみたいですが)、もし漢字文化圏の学校に通ったとしたら、字もある程度書けるようになって、たとえば「冒険」の「険」は無理でも「冒」は(横棒が一本足りないくらいのことはありそうだが)書けそうな気がするのである。

2 『ハックルベリー・フィンの冒けん』の物語について
 一人の少年が、暴力的な父親からも、彼をsivilizeしようとする善意のおばさんたちからも逃れて、やはり逃亡してきた黒人奴隷と図らずも合流し、二人で筏に乗ってミシシッピ川を旅するなか、いろんな人間に出会う。
 このいろんな出会いのなかに冒険があり物語があり、多くの場合笑いがあるわけだが、ほんとうはハックとジムは誰との出会いも望んでいない。何しろ二人とも逃亡者なのだ。王と公爵を自称するペテン師二人を筏に迎え入れたのも彼らが願ってしたことではないし、グランジャフォード家とシェファードスン家との「宿怨」もハックが望んでかかわったわけではない。彼らにとってそれらはすべて「厄介(トラブル)」でしかない。できることなら彼らは、筏という「流動する家」ともいうべき牧歌的空間に、自分たちだけで留まっていたいのである。『ハックルベリー・フィンの冒けん』におけるもっとも記憶に残る自然描写は、おおむねハックとジムが鬱陶しい他人たちから離れて二人だけで過ごす時間から生まれている。

(また明日へ続きます……)

マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』その1

2019-05-30 04:30:00 | ノンジャンル
 マーク・トウェインの1884年作品であり、柴田元幸さんが2017年に訳された『ハックルベリー・フィンの冒けん』を読みました。柴田さんの解説から一部引用させていただくと、

1 マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』の英語について
 どんな小説でも、「何が語られているか」と「どう語られているか」は両方とも大事だが、この『ハックルベリー・フィンの冒けん』という小説の場合、「どう語られているか」はとりわけ大事である。
 とくに学校にも行っていない、半分浮浪者の少年が使いそうな言葉だけを使って、少年自らに語らせることを通して、本人はぜんぜん自覚していないユーモア、叙情、アイロニーが全篇にわたって広がり、時に静謐で時に荒々しいアメリカ中西部の自然と、時にあたたかく時に残酷なアメリカの社会がみずみずしく描かれる。口語体の語りの可能性を一気に広げたという歴史的意義にとどまらず、現代に至ってもなお、一人称語りののびやかさ、しなやかさがこれほど見事に持続している例はちょっとない。アメリカで1885年に(イギリスでは84年)この小説が刊行されて以来、これに霊感を受けて多くの小説が書かれてきたし、なかにはJ・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)のようにそれ独自の価値を備えた作品も生まれているが、元祖『ハックルベリー・フィンの冒けん』の値打ちはいささかも減じていない。
 というわけで、「何が語られているか」の前に、この小説が「どう語られているか」をまず問題にしたい。そもそもこの小説、1876年に刊行された『トム・ソーヤーの冒険』の成功を受けて、まずはその続篇として構想されたわけだが、76年7月に書き出され、二度の長い中断を経て83年9月に完成した結果、『トム・ソーヤー』とはまったく違う地点まで到達する作品となった。内容的に違うのはもちろんだが、そもそも書き方からしてぜんぜん違う。物はためし、両作の書き出しを較べてみよう。
まず、『トム・ソーヤー』から━━
(原文省略)
「トム!」
 答えなし。
「トム!」
 答えなし。
「あの子ったらどうなってるのかねえ? トムや!」
 答えなし。
 伯母さんは眼鏡を下げて、その上から部屋を見渡した。それから眼鏡を上げて、今度はその下から見てみた。伯母さんは、子供なんていうちっぽけなものを探すのに、めったに、いや絶対に、眼鏡を通して見たりはしない。これは伯母さんのとっておきの眼鏡であって、自慢の種、使うためなんかじゃなく品格のために拵(こしら)えたのだ。見るだけなら、ストーブの蓋一対を通して見たって似たようなもの。伯母さんはしばし戸惑っている様子だったが、それから、荒々しいとまでは行かぬものの、それでも家具にも聞こえるくらいの声を上げた━━
「まったく、捕まえたらただじゃ━━」

 マーク・トウェインの小説において「伯/叔母さん」は社会の規範を代表する。その社会規範に呼ばれるところから『トム・ソーヤーの冒険』は始まる。そしてその後も「これは伯母さんのとっておきの眼鏡であって、使うためなんかじゃなく品格のために拵えたのだ」といったふうに、物語を外から見ている、安定した大人の語りが続く。(中略)まず語りとしては、正統的に雄弁な三人称の語りであることを確認したい。
 一方、『ハックルベリー・フィンの冒けん』の書き出しはどうか。
(原文省略)
「トム・ソーヤーの冒けん」ってゆう本をよんでいない人はおれのこと知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク・トウェインさんてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのことが書いてある。ところどころ「こちょう」したとこもあるけど、だいたいホントのことが書いてある。べつにそれくらいなんでもない。だれだってどこかで、一どやニどはウソつくものだから。まあポリーおばさんとか未ぼう人とか、それとメアリなんかはべつかもしれないけど、ポリーおばさん、つまりトムのポリーおばさん、あとメアリやダグラス未ぼう人のことも、みんなその本に書いてある。で、その本はだいたいはホントのことが書いてあるんだ、さっき言ったとおり、ところどころ「こちょう」もあるんだけど。

 いきなり「トム・ソーヤーの冒けん」という実在の書物や、「マーク・トウェイン」なる実在の人物(というか、まさにこの本の作者)が出てきて、その後もウソ/ホントの問題が言及され、『ドン・キホーテ』続篇にも通じるような形で現実・虚構間の境界線が早々と揺らぎはじめ、作品の重要テーマを予告しているわけだが、ここでは言葉自体に話を絞ろう。

(明日へ続きます……)

オーソン・ウェルズ監督『審判』

2019-05-29 00:23:00 | ノンジャンル
 WOWOWシネマで、オーソン・ウェルズ監督・脚本・出演の1962年作品『審判』を観ました。
 田舎からやってきた男は門のところで門番に止められる。門番は男にそこで待つように言う。男は何年も待ち、門番のノミを買収しようとするがうまくいかない。男が死ぬ間際に門番は「ここで待っていてもしょうがない。というのも門は初めから閉ざされていたのだから」と言う。(ここまで絵本とナレーション)。
 青年ヨーゼフ(アンソニー・パーキンス)が目覚めると、一人の男が部屋に入ってくる。青年は隣のミス・ビュルストナーは帰りが遅くなることがあると言い、隣への鍵は大家のグルーバッハ夫人が持っているとも言う。2人目の男が入ってくる。二人の男はヨーゼフを逮捕すると言う。隣室にはヨーゼフの同僚の3人の行員がいた。「誰が私のことを告発したんだ?」と叫ぶヨーゼフ。(中略)
 ミス・ビュルストナー(ジャンヌ・モロー)が帰ってくる。ノックをせず彼女の部屋に入ろうとすると、彼女は着替えの最中で、すぐにドアを閉める。無礼を謝るヨーゼフ。キスする二人。
 巨大な空間で無数の人々がタイプを打っている。支配人と従妹のアーミーに呼ばれるヨーゼフは、アーミーに職場には来るなと言う。(中略)
 劇場で観劇中にメモを渡されたヨーゼフは、劇場からロビーに出ると、刑事たちから審問のための召喚状を渡される。
 上半身裸で、番号を書いた板を首にかけて立っている無数の人々。中に入ると、そこは審問所で、判事は「1時間5分も遅刻している」と叱る。「すべて仕組まれている」と反論するヨーゼフ。「そういう態度を取っていると後悔することになるぞ」と判事。
 無人の巨大なオフィス。3人の行員が礼をすると、刑事はムチ打つ。(中略)
 「弁護士のアルバート(オーソン・ウェルズ)に会わせろ」と弁護士の秘書のレニ(ロミー・シュナイダー)に言うヨーゼフだったが、多忙だと言って会わせてくれない。
 レニは自分の手をヨーゼフに見せ、自分の手に水かきがあることを示す。「帰りなさい」というレニ。(中略)雷鳴。「協力する」とレニは言う。(中略)
 ザーザー降りの雨。レニは自分がアルバートの愛人であることを告げる。
 らせん階段を上るヨーゼフ。(中略)
 審問所で「判事の本には触らないで」とレニは言ったが、ヨーゼフがそれに構わず本を開くと、中身はポルノだった。「力になりたい」と言うレニは、高官に判事が提出する報告書がすべてを決すると述べる。
 (中略)「判事の事務局に行くしかない」と言うヨーゼフ。(中略)
 屋外に出るヨーゼフ。そこにはアーミーが来ていて、「父が心配だ」と言う。16歳になったと言う彼女と別れるヨーゼフ。
 弁護士の事務所を訪ねると、ブロックという男がレニと一緒にいる。ネグリジェ姿のレニに「あいつは誰だ?」と尋ねると、レニは「あいつは上客で情報を持ってる」と答える。ヨーゼフはブロックに「弁護士は商業関係の訴訟も扱っているのか?」と聞くと、ブロックは「商業関係では凄腕だが、執念深い。俺は彼以外に5人の弁護士を雇ってる」と言って笑い出す。つられて笑うヨーゼフ。ブロックは「唇の様子で有罪か無罪かは分かる。君の場合は有罪だ」と言う。自分は病人だと言うブロックは自分の部屋をヨーゼフに見せて、「この女中部屋で暮らしているんだ」と言う。
 ヨーゼフは弁護士のアルバートに会い、「契約は破棄する」と言うと、アルバートは「レニはすべての客と寝てる」と言い、「君は魅力的だ。なぜなら罪を負っているせいだからだ。考え直せ」とも言う。「ブロックを呼べ!」とアルバートが叫び、そそくさとブロックが現れると、「要件は何だ?」と言い出すアルバート。ブロックが困っていると、アルバートはブロックをほったらかして寝てしまい、ブロックはレニに促されるままにアルバートの手にキスをする。
レニは「ティトレリという肖像画家が力になってくれるはず」とヨーゼフに教える。
 らせん階段を上り、ティトレリを探すヨーゼフと、彼に群れる少女たち。ティトレリの部屋は好奇心旺盛な少女たちの目に囲まれている。「今は正義についての絵を描いているところだ」と言うティトレリは、裏口を開けると、そこはヨーゼフの勤める会社の事務所につらなっている。
裏口から逃げ出すヨーゼフと、それを追う少女たち。
「ヨーゼフ・K! 本人か? 被告か? 有罪は立証済みだ」という声。(中略)
 二人の刑事に両脇を抱えられながら歩くヨーゼフ。やがて巨大な穴に入れられ、ナイフを刑事は取り出すが、結局ナイフを置いたまま去る。「逃げるな! 俺を殺せ!」と叫ぶヨーゼフ。やがて彼が高笑いを始めると、刑事はダイナマイトの導火線に火をつけて穴に放り込み、大爆発を起こして、その煙が立ち込める場面で映画は終わる。

 極端な俯瞰や仰角の画面や縦の構図が沢山見られ、映像の洪水のような映画でした。

斎藤美奈子さんのコラム・その39&前川喜平さんのコラム・その1

2019-05-28 03:26:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、新たに東京新聞の日曜日に掲載されることになった前川喜平さんのコラム。

 まず、5月22日に掲載された、「ちりめんの町で」と題された斎藤さんのコラム。その全文を転載させていただくと、
「盆地のイメージが強い京都だけど、京都府には日本海に面した地域もあり、府は『海の京都』を売り出し中だ。この一帯には自然と歴史が一体化した景勝地が多い。
 まず、日本三景のひとつ天橋立(宮津市)。全長3.6キロの砂嘴(さし、細長い砂浜)である。
 北側の丹後半島には、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定された『伊根の舟屋』(伊根町)。一階をガレージにした二百三十軒もの家々が湾を囲む風景は夢かと思うほど美しい。
 天橋立から東側に向かうと海軍ゆかりの舞鶴港(舞鶴市)。明治の赤れんが建物群が残る。
 で、天橋立のやや内側に位置するのが加悦(かや)の『ちりめん街道』(与謝野市)だ。ここも往年の機屋(はたや、ちりめん工場)などが残る重伝建だけど、同時に『女工哀史』の著者・細井和喜蔵が生まれ育った町でもある。
 十五歳で大阪に出るまで、和喜蔵はこの町の機屋で働き、資本主義の現実にたたきのめされる。地元の感情は複雑だろう。少年時代の体験は辛酸に描いているし、故郷を出ていった人だし。
 が、そのちりめん街道で26日(日)、和喜蔵の自伝的小説『奴隷』『工場』(岩波文庫)の復刊を記念した催し物が開かれる。郷土の作家の再評価をめざした画期的な試み。新緑の季節、海の京都の観光も兼ねてぜひ。私も話をしに行きます。」

 また、5月19日に掲載された「高等教育無償化が変だ」と題された前川さんのコラム。全文を転載させていただくと、
「大学等修学支援法が成立した(来年度施行)。この法律は高等教育無償化法とも呼ばれる。
 無償化といっても、その実態は、住民税非課税世帯など低所得世帯の学生に対して授業料・入学金の減免措置と給付型奨学金の支給を行うもので、無償化にはほど遠い。加えて問題なのは、支援の対象者に所得以外のさまざまな条件がつけられることだ。たとえば、高校卒業後二年までに入学した者に限るという条件。これは生涯教育の理念に反する。入学年齢で差別するべきではない。
 さらに変なのは、学生個人にたいする支援なのに、入学する大学等に対して条件がつけられることだ。「勉学が職業に結びつく」「社会で自立し、活躍できるようになる」という「実践的教育」を行う大学等に限られるのだ。具体的には実務経験のある教員による授業科目を一割以上配置し、法人の理事に産業界等の外部人材を複数任命するなどの条件が求められる。文科省がそれを確認し、確認された教育機関は法律上「確認大学等」と呼ばれる。「確認大学等」以外で学ぶ学生は、たとえそこでしか学べないものがあるとしても支援は受けられない。これは法の下の平等に反する。
 この「無償化」は、学生を人質にとって、大学に対し産業界の要求に応じる教育を行うように迫り、大学の在り方を歪める政策だと言ってよい。」

 そして、「誰がために憲法はある」と題された前川さんのコラム。
「映画『誰がために憲法がある』を見た。芸人松元ヒロさんが日本国憲法を擬人化して作ったキャラクター『憲法くん』。それを女優渡辺美佐子さんが演じる。『こんにちは。わたし憲法くんです』『変な噂を耳にしました。本当でしょうか。わたしがリストラされるかもしれないっていう話』。松元さん自身の演じる『憲法くん』も見たことがあるが、コミカルに親しみを誘う松元憲法くんに対し、渡辺憲法くんはしみじみとした共感を広げる。
 映画はさらに、渡辺さんらベテラン女優たちが三十三年間取り組んできた原爆朗読劇『夏の雲は忘れない』を追う。そこには渡辺さん自身の痛切な思いも込められている。
 東京港区の笄(こうがい)小学校。僕が卒業した小学校なのだが、渡辺さんも戦時中の少女時代、笄小学校に通っていたそうだ。その少女に淡い恋心を抱く少年がいた。二人が歩いた道は僕も通った道だ。戦後三十五年を経て、少女は少年が広島の原爆で命を落としたことを知る。雨の中、少年の名を刻んだ慰霊碑に花を捧(ささ)げる渡辺さん。僕と同じ小学校に通った少女と少年の悲しい話は、原爆の悲劇を僕自身に大きく引き寄せた。『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し』。憲法前文のこの言葉を、より深く理解できた気がした。」

 2番目に転載させていただいた前川さんの文章は特に勉強になりました。

神社本庁『目には見えないけれど大切なもの 自然を想う日本のこころ』その2

2019-05-27 05:48:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

(「蛇口って?」
 川の流れは、神さまの力によるものと考えられていました。山から勢いよく流れ出る水を神さまのめぐみとして受け取り、その水を引いて田畑をうるおし、豊かな実りを祈ったのです。
 水の神さまはミツハノメ、オカミ…。川の流れを、蛇の行くさまに見立て龍や蛇の姿で表現されます。
 水道の口を「蛇口」というのは、水の神が蛇の姿をしていたことによります。

「海」
 日本を取り囲んでいる豊かな海はたくさんのめぐみをもたらしてくれます。
 海の彼方には神々の住む美しい国があり、そこから寄せる波が豊かな「海の幸」を運んでくれると信じられてきました。
 海の幸をいただく一方で、航海や漁業の安全を守る神さまとして信仰されているのがワタツミ神やツツノオ神です。人々が海の神さまとして崇(あが)めるワタツミ神は山にも祀られています。それは、古来海に生きる人々が、海の豊かなめぐみと、山のめぐみとのつながりを感じていたからでしょう。船を操るには絶えず方角を確認する必要があり、目印となる山々は彼らにとっても大切な存在だったのです。
(「ウミガメの卵」
 静岡や和歌山、そして徳島の一部の浜では、アカウミガメが夏前に卵を産みにやってきます。浜の奥に産むか、海に近い所に産むかによって、台風が来るのか来ないのかがわかる、といういい伝えがあるそうです。アカウミガメは自然との何らかの感性の交流があるのでしょう。
 そうしたアカウミガメの持つ力を漁師の人々が大切にし、その環境を守ってきたことが、、ウミガメを助けた浦島太郎の話のもとになったのかも知れません。)

「自然を感じるこころ さまざまの虫のこゑにもしられけり 生きとしいけるもののおもひは(明治天皇御製)」
 日本人の感性は日本語によっても育まれてきました。日本人にとって自然界の物音はすべて言葉として聞こえるのだそうです。例えば虫の音は「虫の声」であって、情緒的に美しく聴こえ、季節感ややすらぎを感じ取ることができますが、西洋人には雑音にしか聴こえないといわれます。
 風の音や小川のせせらぎも言葉として受け止められてきました。全盲というハンディキャップをもつあるピアニストは、川沿いを散歩した折に聞こえたせせらぎが、「何かのささやき」に聞こえ、そのささやきを曲に表したといいます。

 秋きぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞ驚(おどろ)かれぬる 『古今和歌集』

 平安時代の歌人は、秋の訪れを風の音によって気付かされたと詠みました。「訪れ」とは「音連れ」であり、目に見えない神霊の動きを、音によって感じてきた古代人の感性から生まれた言葉といわれています。この古歌からも、神々の来訪を風の音など、自然のかすかな変化から感じ取ってきた日本人の豊かな感性が読み取れます。

 人間も自然の一部であり、ありとあらゆる自然にお神さまを感じているからこそ、日本人は鳥や動物、虫の声などを、自然や神々からのメッセージとして、五感を通して感じてきたのです。

「むすびに」
 古来、日本人は自然の中に神々の力を感じ、慎みと感謝の意を抱いて、自然と共に豊かなこころを育み生きてきました。しかし現在、近代的な生活様式や考えの中で、その生き方が失われています。本当の豊かさとは、物質的な価値を求めるだけで得られるものではありません。地球規模の環境破壊が危惧される今こそ、日本人が伝えてきた精神的な価値を、そしてこころの豊かさについて考えなければなりません。

 日本には至るところに「鎮守の杜(もり)」といわれる神社の森があります。何世代にもわたって私たちを見守り続けた神の森です。日々の喧騒を離れ鎮守の杜に佇むと、その静寂さに心が洗われ、清らかな気持ちになることでしょう。
 神さまの鎮まる森の中で、自然との関わりを見直し、自然と共生してきた日本人の感性を取り戻したいものです。
 目には見えないけれど、大切なものを感じるこころ…。

 以上が町田の菅原神社で入手できた『目には見えないけれど大切なもの 自然を想う日本のこころ』という小冊子の全文でした。単にアニミズムを標榜し、単に日本を賛美し、単に天皇を政治利用しようという気持は、この文章からはまったく感じられません。それどころか、環境を破壊して近代的な生活を維持しようとしている、または拡大しようとしている人類の落ち度をしっかりと指摘し、今何が必要なのか、本来の生活というのはどうしたものなのかを、やさしい言葉を使って示唆してくれている名文だと思いました。私はこの文を読んで、神社本庁の方々を見る目が変わりました。これからは神社本庁の方々と大いに連帯していきたいと思います。

→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto