また昨日の続きです。
・━━(斎藤作品で初めてチーフになられた)以後、斎藤組のチーフとして2年半ですか。新東宝で斎藤監督が精力的に撮っていた時代ですね。
松林宗恵━━私は斎藤寅次郎に喜劇を学ばせてもらい、次に阿部豊監督について映画のドラマというか芝居の本道というみたいなものを学んだんです。
・━━斎藤監督から一番学んだ点というのは。
(松林さん)やっぱり現場の処理だね。東宝の森岩雄というゼネラルプロデューサーが「クニトラマキノ」という路線を作っていたことがあるんです。クニは渡辺邦男、トラは斎藤寅次郎、マキノはマキノ雅弘。この三人を1月は渡辺邦男、2月は斎藤寅次郎、3月はマキノ雅弘という順で撮らせて、また4,5,6月とくりかえす。プログラムピクチャーを作る名人が3人いたわけですよ。まず現場の処理がどこまで完璧にできるかなんです。決められた日数と予算の中で処理してくれて、とにかく絶対儲かる作品を作る。そういう監督がベースにいて、山中貞雄であるとか伊藤大輔、稲垣浩といった監督に冒険的な作品を撮らせることができるという考え方なんですね。
・━━斎藤喜劇に必ず子供が出てくるのは、なぜなんでしょうか。
(前略)子供を使うのが楽しかったんじゃないですか。ある意味では、子供を小道具に使う楽しさと言いますかね。『子は鎹(かすがい)』と言いますか、子をめぐる人間の世界の悲喜劇というのは、限りなくみんなの心に触りますからね。それを巧みに捉えたのが、斎藤さんだったと思うですね。
・━━大久保(忠素)監督は関西にいらしたんですか。
京都です。大久保監督に斎藤さんがついた時にはね、チーフが斎藤寅次郎さん、セカンドが小津安二郎、サードが渋谷実という面々だったんですよ。(後略)
・━━映画にも早くからお出になってるんですね。レコードデビューの翌年、昭和15年から映画にも出られてる。
(田端義夫)・出てましたね。ずうーっとね。始めはマキノ雅弘監督ね。マキノさんも長いんです。
━━戦後は斎藤寅次郎作品が多いですね。
多いね。いっぱい出ましたよ。何本出たか、もうわからないくらい。一番多いんじゃないかな。
・━━斎藤監督はどんな方でいらしたのですか。
そりゃおもしろい人ですよ。マキノ先生に比べたら動と静、とても落ち着いた感じの人でね。いつもニコニコしていたね。
マキノ先生の喜劇にも出ていますが、正統派の喜劇ですね。アチャラカというのがドタバタというのか、もうとにかく撮影現場が賑やかでね。どっから本番でどっから冗談なのか、わからんような感じだから。マキノ先生も台本がどんどん変わるんだけど、斎藤先生はそれ以上。台本なんかまるで覚えていかなくても大丈夫なんですよ
・━━「何かアレンジして来い」みたいなことはあるんですか。
いや、何も言わない。自由にやらせくれるんですよ。もうみんな、だいたい斎藤色に染まっちゃってるから(笑)。次々におもしろいこと、おもしろい芝居が出てくるんですよ。伴さん、アチャコさん、エンタツさん、堺さん、金語楼さん……。もう一世を風靡した人ばかりでしょ、現場は笑いの渦ですよ。
・(田端さん)前はよくやってましたけどね、テレビでね。最近はあまりやらないね。斎藤さんの作品。「寅次郎シリーズ」なんて言って、やればいいのにね。
・━━現場のペースメーカーっていうのは、その時々でいるわけですか?
金語楼さんとかね、川田さん、伴さんあたりがリーダーみたいな感じですか。映画によってね、一緒に出てる場面が多ければ、よく一緒に遊んだりするけどね。(後略)
・━━夜の遊びを仕切っていたのは伴さんだったとか。
「寅次郎一家」じゃ、あの人が何かするとパッと音頭を取って仕切るんですよ(笑)。それはもう、地方のロケーションへ行くと大変ですよ。芸者の振り当てでね(笑)。清川虹子さんと一緒にね、「バタヤンは、〇〇姐さん」「〇〇ちゃんはアチャコさんへ」っていう具合にね。ロケの夜の宴会でね。もう勝手に決めちゃうんだから(笑)。
・━━「一家」の結束は堅かったようですね。
そりゃ、楽しいからね。斎藤組ってのは、必ず「一家」は総動員ですよ。外れる者はない。外れたらむくれます(笑)。「ナンで俺は出んのや!」ちゅうて(笑)。
だからね、次の台本が来るでしょう。するとみんな「今度のはいい」とか「悪い」とか言い始めるの。それをね、斎藤先生こっち見てニコニコ笑ってるの。そういう方でしたね。(また明日へ続きます……)
・━━(斎藤作品で初めてチーフになられた)以後、斎藤組のチーフとして2年半ですか。新東宝で斎藤監督が精力的に撮っていた時代ですね。
松林宗恵━━私は斎藤寅次郎に喜劇を学ばせてもらい、次に阿部豊監督について映画のドラマというか芝居の本道というみたいなものを学んだんです。
・━━斎藤監督から一番学んだ点というのは。
(松林さん)やっぱり現場の処理だね。東宝の森岩雄というゼネラルプロデューサーが「クニトラマキノ」という路線を作っていたことがあるんです。クニは渡辺邦男、トラは斎藤寅次郎、マキノはマキノ雅弘。この三人を1月は渡辺邦男、2月は斎藤寅次郎、3月はマキノ雅弘という順で撮らせて、また4,5,6月とくりかえす。プログラムピクチャーを作る名人が3人いたわけですよ。まず現場の処理がどこまで完璧にできるかなんです。決められた日数と予算の中で処理してくれて、とにかく絶対儲かる作品を作る。そういう監督がベースにいて、山中貞雄であるとか伊藤大輔、稲垣浩といった監督に冒険的な作品を撮らせることができるという考え方なんですね。
・━━斎藤喜劇に必ず子供が出てくるのは、なぜなんでしょうか。
(前略)子供を使うのが楽しかったんじゃないですか。ある意味では、子供を小道具に使う楽しさと言いますかね。『子は鎹(かすがい)』と言いますか、子をめぐる人間の世界の悲喜劇というのは、限りなくみんなの心に触りますからね。それを巧みに捉えたのが、斎藤さんだったと思うですね。
・━━大久保(忠素)監督は関西にいらしたんですか。
京都です。大久保監督に斎藤さんがついた時にはね、チーフが斎藤寅次郎さん、セカンドが小津安二郎、サードが渋谷実という面々だったんですよ。(後略)
・━━映画にも早くからお出になってるんですね。レコードデビューの翌年、昭和15年から映画にも出られてる。
(田端義夫)・出てましたね。ずうーっとね。始めはマキノ雅弘監督ね。マキノさんも長いんです。
━━戦後は斎藤寅次郎作品が多いですね。
多いね。いっぱい出ましたよ。何本出たか、もうわからないくらい。一番多いんじゃないかな。
・━━斎藤監督はどんな方でいらしたのですか。
そりゃおもしろい人ですよ。マキノ先生に比べたら動と静、とても落ち着いた感じの人でね。いつもニコニコしていたね。
マキノ先生の喜劇にも出ていますが、正統派の喜劇ですね。アチャラカというのがドタバタというのか、もうとにかく撮影現場が賑やかでね。どっから本番でどっから冗談なのか、わからんような感じだから。マキノ先生も台本がどんどん変わるんだけど、斎藤先生はそれ以上。台本なんかまるで覚えていかなくても大丈夫なんですよ
・━━「何かアレンジして来い」みたいなことはあるんですか。
いや、何も言わない。自由にやらせくれるんですよ。もうみんな、だいたい斎藤色に染まっちゃってるから(笑)。次々におもしろいこと、おもしろい芝居が出てくるんですよ。伴さん、アチャコさん、エンタツさん、堺さん、金語楼さん……。もう一世を風靡した人ばかりでしょ、現場は笑いの渦ですよ。
・(田端さん)前はよくやってましたけどね、テレビでね。最近はあまりやらないね。斎藤さんの作品。「寅次郎シリーズ」なんて言って、やればいいのにね。
・━━現場のペースメーカーっていうのは、その時々でいるわけですか?
金語楼さんとかね、川田さん、伴さんあたりがリーダーみたいな感じですか。映画によってね、一緒に出てる場面が多ければ、よく一緒に遊んだりするけどね。(後略)
・━━夜の遊びを仕切っていたのは伴さんだったとか。
「寅次郎一家」じゃ、あの人が何かするとパッと音頭を取って仕切るんですよ(笑)。それはもう、地方のロケーションへ行くと大変ですよ。芸者の振り当てでね(笑)。清川虹子さんと一緒にね、「バタヤンは、〇〇姐さん」「〇〇ちゃんはアチャコさんへ」っていう具合にね。ロケの夜の宴会でね。もう勝手に決めちゃうんだから(笑)。
・━━「一家」の結束は堅かったようですね。
そりゃ、楽しいからね。斎藤組ってのは、必ず「一家」は総動員ですよ。外れる者はない。外れたらむくれます(笑)。「ナンで俺は出んのや!」ちゅうて(笑)。
だからね、次の台本が来るでしょう。するとみんな「今度のはいい」とか「悪い」とか言い始めるの。それをね、斎藤先生こっち見てニコニコ笑ってるの。そういう方でしたね。(また明日へ続きます……)