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中川信夫監督『妖艶毒婦伝・人斬りお勝』

2013-07-27 08:34:00 | ノンジャンル
 中川信夫監督の'69年作品『妖艶毒婦伝・人斬りお勝』をスカパーの東映チャンネルで見ました。
 農民から厳しく年貢を取り立て、抵抗する者は虐殺する旗本・塩崎に対し、旅人のおるい(大信田礼子)は農民を逃がします。おるいらは郷士の真壁の家へ逃げ込み、そこの娘・お勝(宮園純子)は塩崎に許しを請い、受け入れられます。真壁家は代々こうげん一刀流を伝える道場を構えていて、お勝の父・真壁(西村晃)は、血のつながっていないお勝がその道に長けているのに比べ、実の子である、お勝の弟の林太郎(近藤正臣)のふがいなさに呆れています。幼くして母を亡くしたため、不憫さから甘やかして育てたことを悔いる真壁。
 塩崎が幕府へ賄賂を送り江戸への帰参を急いでいることを真壁にたしなめられた塩崎は、真壁を亡き者にするため、真壁の師範代・四谷左衛次を味方に引き入れます。一方、林太郎は恋人である農民の娘・お咲から妊娠を告げられ、家を出てお咲と百姓をしようと決意します。お咲が働く飲み屋で林太郎が酔っていると、お勝がやってきて、2人のためと言ってお咲に金を渡し、自分は2人の味方なので、今後も居所だけは知らせてほしいと言います。金を見て「何だ、これっぽっち」と言う林太郎。
 左衛次はそんな林太郎に博打で金儲けしようと持ちかけ、塩崎の息のかかっている龍王親分の賭場でイカサマをし、林太郎に多額の借金を負わせます。そこへ現れたおるいはイカサマのからくりを暴き、林太郎を逃がし、襲いかかる龍王の手下のまげを次々に斬り落とします。森の中に逃げ込んだ林太郎とお咲に出会ったお勝は、大月の滝小屋に以前真壁家に出入りしていた甚句郎が猟師として住んでいるので、そこで匿ってもらえと言い、逃がします。そこへやってきた龍王は、林太郎が賭場の金を盗んだと言いますが、お勝は自分が償うと言います。
 龍王はお勝に塩崎の妾になれと言い、言うことを聞かないお勝をムチで打ち、柱に縛ります。やがて真壁が塩崎とともに現れ、自分の命と替えて娘を助けてくれと言います。縄で縛り上げられ、吊るされ、左衛次に木刀でめった打ちにされる真壁。その目の前でお勝は塩崎に犯されます。血を抜かれ、火であぶられ、最後には目に木刀を突き立てられて、「林太郎‥‥」と言って息絶える真壁。そして塩崎は南町奉行としての帰参が許され、今晩までに死か自分の妾になるか決めろとお勝に言って、先に出発します。一方、甚句郎の妻・おきわ(沢淑子)は真壁とお勝が殺されたと聞き、林太郎を殺し、お咲を売り飛ばすことにします。その晩、おるいの助けもあって逃げ出したお勝は、龍王と手下らを皆殺しにします。
 甚句郎の許を訪ねたお勝は、おきわの盛った薬で体の自由を奪われ、江戸の売春宿に売られ、そこでお咲と再会します。中絶させられそうになったお咲を、おるいとともに助け出したお勝は、林太郎が殺されたとお咲から聞き、父と弟の仇を取ることを誓います。殺人の罪で人相書の立て札を立てられるお勝。左衛次の一味は淡路屋を襲って金を奪いますが、おるいに現場を見られます。塩崎はお勝と同じ手口だとして、新たな人相書を立てますが、お勝は左衛次の道場へ殴り込みをかけ、木刀で左衛次をめった打ちにし、最後に目を突いて殺します。一旦は御用堤灯に囲まれたお勝でしたが、おるいに助けられ、逃げます。塩崎は淡路屋の娘を慰めたいと言って自宅に呼びますが、そこへお勝が現れ、雷鳴の轟く中、塩崎の背中に刀を突き立て、彼の首にかけた縄を情婦に引かせ、苦しませた末にとどめを刺します。そこへ賞金稼ぎの男(若山富三郎)が現れますが、1年後には賞金が2倍になるだろうと言って、今回は見逃してくれます。現れたおるいの馬を借りて逃げ出すお勝。そして旅姿のお勝の姿で映画は終わります。

 首や手首が飛んだり、拷問シーンや中絶シーンがあったりと、残虐な趣向が施された映画でしたが、縦の構図(手前と向こうに物が見える構図)が多用され、見事な“ショット”で形作られた、見ごたえのある映画でした。中川監督の隠れた名作だと思います。

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マルグリット・デュラス&ドミニク・ノゲーズ『デュラス、映画を語る』

2013-07-26 08:47:00 | ノンジャンル
 ワン・ビン監督・脚本の'10年作品『無言歌』をWOWOWシネマで見ました。「楊顕恵の小説『さらば夾辺溝』と生存者の証言や資料に基づく」「1960年10月中国西部 甘粛省にある右派の収容所 夾辺溝 労働教育農場の高台県 明水分場」の字幕から始まり、食料不足から飢餓状態になり、雑草や鼠や仲間の吐瀉物まで食べ、餓死者が続出する中、死んだ夫の亡骸を探し回る女性と、脱走を図る2人をも描き、最後は「苦難の末に非業の死をとげた人と辛くも生き延びた人々に捧げる」の字幕で終わる映画で、徹底したワンシーン・ワンカショットを用い、超ロングショットや逆光のショットも印象的な映画でした。

 さて、マルグリット・デュラス&ドミニク・ノゲーズの'84年作品『デュラス、映画を語る』を読みました。ドミニク・ノゲーズが、デュラスと彼女の映画関係者に、デュラスの映画についてインタビューした本です。
 インタビューはデュラスの映画を映写しながら行われているというユニークなもので、実際に写された画面に言及しながら行われ、ノゲーズはデュラスの共犯者的な立ち位置からインタビューを試みています。したがって内容も、実際の画面そのものに対して行われていて、そういった点でもユニークな本となっています。   
 また、巻末では映画を画面に即して紹介していて、例えば『陰画の手』に関しては「ここでは、マルグリット・デュラスによって朗読されるテクストは、3万年前にスペイン北西部のいくつかの洞窟の内壁に描かれた手型を、呼びかけ、愛の祈りとして解釈している。テクストはあるときは三人称であり(『海原に面した洞窟に、男がひとりでやってきた』)、あるときは一人称である(『私は、その白い光のなかで呼びかけ、叫んでいた男なのだ』)。映像を構成しているのは、ほとんど無人のパリにおける長い流れるような移動撮影の連続である――大雑把に言うと、バスチーユ広場から、いくつかの大通り(映画館レックス座の前で掃除夫の一団が見える)とオペラ座を経由して、シャンゼリゼにかけて。冒頭はまだ夜だが、そのあと早朝になる」といった感じです。
 訳者あとがきもとても分かりやすくデュラスの映画について解説していて、そのまま引用させていただくと、「1972年から73年にかけて、デュラスは映画史を画するふたつの飛躍をなしとげた。ひとつは、もちろん、ナレーションでも内的独白でもないオフの声の特異な用法である。『ガンジスの女』では、(2人の女性と1人の男性の)あいだのスキャンダラスな愛が、不可視だが超越的な次元にいるわけでもないふたりの女性の声によって物語られるが、奇妙にも、画面中の人物たちは沈黙したまま、物語られる出来事に対応することなく、海岸を彷徨している。(改行)もうひとつは、物語られる場所とあからさまに異質な場所で撮影をすることである。冬のトゥルーヴィルの寒々とした砂浜が、ガンジス河のデルタに重ねられている。(改行)このふたつの飛躍は、明らかに関連しあっている。両者はあいまって、通常の映像と音声とが相補的に構成する表象関係を解体し、古典的なリアリズムを破壊しつくす。映像とのあいだに乗り越えられない距離が穿たれると、声は脱領土化され、途方もない越境力を発揮し、磁気か洪水のように全土に浸透するにいたる。これ以降、最後の映画作品となった『子供たち』をのぞけば、この二重の手法はつぎつぎに大胆な変奏をとげながらも、デュラス映画に一貫する定数となった」、「人物の非人称化や削減も過激に進み、『セザレ』『陰画の手』『オーレリア』二部作には、俳優がまったく登場しない。(中略)声も、散文詩のような切れぎれのテクストを朗読するデュラスともうひとりの二声か、デュラスの一声。しかも、(中略)声が語る事象の痕跡すら映像中に認められない」、「ただし、建物の姿が完全に消えてしまったわけではない。むしろ、非居住空間の拡張のなかで〈家〉が再編成され、占める位置や役割が変わった、と言ったほうが正確だろう」などなど。

 映画を映像に即して語るという点では、これほど徹底した本というのも珍しく、それはデュラス映画の特徴から来てもいるのでしょうが、いずれにしろデュラス映画の決定本とも言える本でした。

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サム・ペキンパー監督『荒野のガンマン』

2013-07-25 08:55:00 | ノンジャンル
 サム・ペキンパー監督の'61年作品『荒野のガンマン』(原題は『The Deadly Companions』(“生かしておけない旅の連れ”の意))をスカパーのBSイマジカで見ました。ペキンパー監督の長編劇映画デビュー作です。
 朝焼けの中、馬で進む3人と馬車を逆光で捕えた画面にオープニング・タイトル。酒場でイカサマを働き、樽に乗せられ、首に縄を掛けられているターク。入ってきたキット(ブライアン・キース)は「何の踊りだ?」と問い、タークの首を吊ろうとしていたポーカーの連中をやっつけます。そこへタークに呼ばれて出て来たビリーは、キットがタークを助けるより早く、縄を拳銃の弾で切ります。そばの町の銀行を一緒に襲おうと言うキット。キットが元北軍の兵士であることに異を唱えるタークをなだめ、キットと組もうと言うビリー。
 3人は銀行のある町に着き、酒場に向かいますが、ちょうど牧師が来るというので、酒場は営業せず、酒場で牧師の話が始まります。息子を連れて一番前の席に座った女性(モーリン・オハラ)はダンスホールで働いているということで、息子が私生児だと他の女房連中から噂されますが、毅然とした態度を崩しません。牧師に帽子を脱ぐように言われた3人でしたが、キットは頑に帽子を脱がず、女性を一目で気に入り、手に入れようと決意したビリーは、強引に女性にキスし、彼女から平手打ちを喰います。
 牧師の集会が終わり、女房連中と3人は酒場から出ますが、そこへ3人よりも先に銀行を襲った連中が外に出て来ます。銀行強盗を撃とうとする町の人々。キットも強盗を撃とうとしますが、鎖骨に弾が入ったままの右手が不自由なため、狙いが狂い、女性の息子を撃って死なせてしまいます。息子を夫の眠る墓の隣に埋めてやろうと町を出る女性。キットは先住民から彼女を守るため、彼女から拒まれるも同行し、ビリーとタークも一緒に出発します。野営した夜、ビリーは女性を襲おうとし、それがキットに見つかり、ビリーは追放されます。自分だけ残されたことに不審感を持ったタークも深夜、キットから逃げ出します。それに気づくも、あえてキットに知らせない女性。実はキットは南北戦争時、元南軍の兵士だったタークから頭の皮を剥がされそうになり、その復讐を遂げるため、タークを探し歩いていたのでした。翌朝、女性は過って馬を逃がしてしまい、馬は2頭になってしまいます。そこでキットはタークをすぐに追うことは諦め、女性の護衛を続けることにします。
 途中でヘビに馬が襲われたり、先住民に襲われたりしますが、2人は女性の夫の墓がある町に無事到着します。墓を探し、女性の夫の墓がないと言うキット。女性は「あなたは町の女房連中と同じだったのね!」と怒り、墓場を探し回りますが、やはり夫の墓はありません。絶望して町を去ろうとする女性を、倒れた木材の下から彼女の夫の墓を探し当てたキットが「見つかったぞ!」と言って呼び止め、2人は抱き合います。そこへ現れるビリーとターク。ビリーは女性を手に入れるため、邪魔なタークを殺してくれとキットに頼みます。人殺しとは一緒になれないと、頑強にキットを止めようとする女性。しかし目の前にタークが現れると、すぐさまキットは彼に銃を向けます。腕が不自由でなかなかタークを倒せないキット。ビリーは代わりにタークを撃ち、倒れたと安心したところで、タークから反撃を受け、死にます。タークの許にやって来たキットに、タークは金で先住民の傭兵を雇い、新たな南軍を作る夢を語り、キットにも制服を着させてやると言いますが、キットはタークが自分の頭の皮を剥がそうとしたことをタークに思い出させ、タークの頭の皮を剥がそうとします。「止めて!」と駆け付ける女性。タークは葛藤の末、タークを許すと、そこへビリーとタークを強盗の罪で追ってきた保安官たちが到着します。捕えられても自分の夢を語り続けるターク。キットと女性は新たな人生へ向かって出発し、夕焼けの中を進む2人が逆光で捕えられた画面で映画は終わります。

 ペキンパーが'70年にジェイソン・ロバーツ主演で撮った『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』を思い出しました。そんな静かな、しみじみと心にしみる西部劇だったと思います。

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照井康夫『小津安二郎外伝――四人の女と幻想の家』

2013-07-24 08:42:00 | ノンジャンル
 阪本順治監督・企画・共同脚本の'11年作品『大鹿村騒動記』をスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。村人が参加する歌舞伎のリーダーで、鹿料理屋の主人でもある主人公(原田芳雄)と、認知症になり数十年ぶりに駆落ちから戻ってきた妻(大楠道代)とその相手(岸部一徳)、性同一性障害に悩む主人公の弟子、村の総務課の女性(松たか子)と彼女に思いを寄せるバスの運転手(佐藤浩市)、主人公の妻の父(三國連太郎)らが織り成すドラマを描いた映画でしたが、時に現れる極端な縦の構図と、見事な村の全景のショットが見ごたえのある映画でもありました。

 さて、文芸誌『文學界』8月号に掲載されていた、照井康夫さんの『小津安二郎外伝――四人の女と幻想の家』を読みました。「序」から引用させていただくと、「本稿は、小津の『女性へ向かう対幻想』の変遷とその棲処となる〈家〉とのかかわりを、作品と日記から解こうとする試みる、いわば『外伝』である」そうです。
 この文章の中で特に書き留めておきたいことは、「杉戸益子は昭和32年2月に、やはり京都出身の佐田啓二(本名・中井寛一)に嫁ぐことになるのだが、佐田の死後、姓名判断によって『麻素子』と改名した。(中略)この時期の杉戸益子の存在は、きわめて重要である。もし杉戸益子に出会うことがなかったら、独身である小津に今ある姿の『晩春』の脚本は書けなかったであろうし、演出も至難であったろうと推測できるからである」、その杉戸さんの文章「とは言え先生は、父娘に間違えられると、『冗談じゃない、僕は独身だ』とご立腹、恋人みたいだと云われると、『僕は若く見られるね』とご満足。当時先生は45歳、私は20歳、倍以上も年上だったのです」、「いずれにしても、志賀のこの提言によって、『晩春』以降の小津組女優のクリーンナップが決定された。三番『原節子』、四番『杉村春子』、五番『三宅邦子』である」、『麦秋』のシーン「佐竹『ナベの奴、ガッカリするかも知れんけど、まアいいや、ハッハッハ。―しかし、もしおれだったらどうだい。もっと若くて独り者だったら‥‥』紀子(笑っている)『‥‥』佐竹『駄目か、やっぱり、ハッハッハハハ』と笑って、窓際に行き、外を眺めて、佐竹『おい、よく見とけよ』紀子『――?』佐竹『東京もなかなかいいぞ‥‥』と後姿で腰を叩く。(中略)小津は紀子の表情をアップでは写さない。構成されるカットのほとんどで紀子は後姿だ。そして、窓際へ歩む佐竹の掌を取るため追い縋ろうとするかのように、紀子の手が机の上を左へ移動する。しかし、絶妙のタイミングで二人は手を取り合わすことがない。佐竹は紀子の手の動きを知っていたとしても、見ていない。そして、ごめんよ、オレも年をとったなあ、というようにその手で腰を叩き、窓の外を眺めるのだ。このシーンだけ、佐野周二がやけに老けて見える。小津安二郎このとき47歳、原節子31歳。原節子は女優として、あの移動する手の演技を全うしたのである。(中略)二人は『麦秋』で、味わい深く訣れたのである」、「もうひとつ、『東京物語』のストーリーの核心部は、シーン#103『紀子の部屋』にある。ここでとみ(東山千栄子)は義理の娘である紀子とひとつ部屋で寝るのである。『―ええ人じゃのう‥‥あんたァ‥‥』と言うとみの科白が見るものの心にしみる。次に周吉(笠智衆)が志げ(杉村春子)の家へ深夜に泥酔して友人(東野英治郎)まで連れて巡査に送り届けられ、志げに邪険に扱われるシークエンスがあって、とみと紀子が別れの挨拶をする翌朝のシーン(#111)へと続くので、いっそう味わいが際立つように構成されている。(中略)小津安二郎は『麦秋』で原節子と、『東京物語』で(最初の恋人である)森栄と、訣れたのだ」、「成瀬巳喜男は(小津と藤本眞澄の)二人の、戦前からの親交があった共通の友人だ」、などです。
 「本稿は、小津安二郎をめぐる三人(母を含めれば、四人)の女性の存在とともに、小津安二郎その人の倫理と作品創造とのかかわりを追った。三人の女性の職業は、枕芸者、手風琴弾き、バーのホステスと、『淑女は何を忘れたか』の〈淑女〉たちからは敬遠されるに違いない階層の人々であった」とのことでしたが、実際はこれに原節子さんを含めたものでした。

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ジョン・カーペンター監督『エスケープ・フロム・L.A.』その3

2013-07-23 08:44:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 プリスケンを撃ったと言うエディに、だったら首を取って来いと命ずるクエボ。一方、プリスケンはロスで最初に出会った男と再会します。男は「幸福の王国はアナハイムにある。町の者が皆集まってる。ハーシーに会え。クエボを憎んでる。船がアジトだ。今はサイゴン・シャドーと組んでる」と言い、振動を感じると「やっと待ってた津波が来た!」と言ってプリスケンにサーフボードを渡し、やって来た津波に2人して波乗りします。やがて彼らと平行して車を運転するエディを見つけたプリスケンは、エディの車に飛び移り、エディをやっつけ、ハーシーのところへ行かせます。ハーシーは以前にクリーブラントでプリスケンを裏切ったことのある男が性転換した女性でした。ハーシーに「命は助けてやるから1時間以内にクエボのところへ行け」とプリスケンが言うと、ハーシーは「ウイルスの話は国民統制のための嘘よ」と言い、エディは「嘘じゃない。ウイルスを開発した奴を知ってる」と言います。プリスケンは「謝礼は100万ドルだ。クエボが呼んだ政府のヘリでロスを脱出する」と言ってハーシーを説得し、クエボの許へ行く決心をさせます。車だと2時間半かかるというので、風に乗ってパラグライダーでクエボの許へ向かうプリスケンら。エディはクエボを騙そうと、装置とそっくりな偽物を作り上げます。
 「クエボ!」を連呼し銃を突き上げる兵士たち。クエボは「新しい世界が始まる! 攻撃の時が来た!」と叫ぶと、政府のヘリが着陸し、兵士らは操縦士を降ろさせます。それをヘリからの映像で見た大統領は「専用機に給油しろ」と言いますが、参謀長は「逃げるには手遅れです。立ち向かってください!」と言います。「大統領、マイアミからの報告です。キューバ艦隊が45分後沿岸に到着します」と軍の女性。「侵攻だ」と言う参謀長。「部屋に戻って祈る」と去る大統領。参謀長は女性に「行って見張ってろ」と命じます。
 プリスケンの残り時間20分。空から爆弾を落とし、マシンガンを撃ちながら降りて来たプリスケンはクエボと取っ組み合いになり、装置を奪いクエボを失神させます。ユートピアとエディを連れてヘリに乗り込み去ろうとするプリスケンら。気がついたクエボはマシンガンを撃ちますが、防弾仕様のヘリには叶いません。迫撃砲を手にするクエボ。エディはクエボに致命傷を与えますが、クエボは死ぬ前に迫撃砲を発射させ、それはヘリに当たり、プリスケンとユートピア以外は皆死にます。運転不能となったヘリはアメリカ本土には戻ってきますが、ヘリポートには着陸できず、プリスケンはユートピアに飛び降りさせ、また秘かに彼女のポケットに装置を入れ、自分は防火スーツを着てヘリとともに地上に衝突します。炎上するヘリと、炎の中から現れるプリスケン。
 そこへ駆けつけた大統領らに「薬を打て」と言うプリスケン。微笑む大統領。10時間が過ぎてもプリスケンの体には異常は見られず、プリスケンは騙されていたことを知ります。連れて来られたユートピアのポケットから装置を見つけた大統領は、すぐにテレビ演説を始め、「我が国へ侵攻中の全ての国の軍に撤退を要求する。従わなければエネルギーを恒久的に破壊する」と言い、軍の女性から「キューバ軍進軍中」と聞くと、キューバとメキシコを目標とし、装置のボタンを押します。流れ出すスター・マップ・ツアーの音声。大統領はプリスケンから本物の装置を奪うため、彼の射殺を命じますが、彼はマシンガンの弾を浴びても倒れません。参謀長が銃で殴ろうとすると空振りし、プリスケンの姿がホログラムであることを知ります。「800m以内にいるはずだ。探せ」という参謀長に、「敵軍2分で到着!」と言う軍の女性。「どっちを狙う?」と問う大統領に、プリスケンは「どっちもだ!」と言って、666のコードを入れ、ボタンを押します。真っ暗闇になる世界。「文明が終わったわ」と言うユートピア。プリスケンのホログラムも消えます。呆然とする大統領。タバコに火をつけたプリスケンは「これで人間に戻れた」と言い、映画は終わります。

 書き割りを効果的に使った低予算映画で、ピーター・フォンダの起用にはロジャー・コーマン、クリフ・ロバートソンの起用にはオルドリッチやフラーへのオマージュを感じました。

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