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ジェイムズ・マンゴールド監督『アイデンティティ』

2013-01-09 08:54:00 | ノンジャンル
 ジェイムズ・マンゴールド監督の'03年作品『アイデンティティ』をWOWOWシネマで見ました。
 訊問中の男は解離性同一性障害であり邪悪な人格を持っていて、自分の誕生日である5月10日にアパートの住人6人を殺し、責任能力ありと判定されます。検事のゲリーは真夜中に電話で起こされ、弁護側が被告の日記を見つけたので、マルコム事件の再審理が始まると知らされ、弁護側が同席を主張している被告がそのことを知らされず移送中だとも知らされます。死刑囚を執行前夜に再審問することに憤慨するゲリー。
 豪雨の夜のモーテルに瀕死の妻アリスを担ぎこむジョージ。売春婦パリスが落としたハイヒールでパンクした車を修理していたジョージの妻は息子のティミーを窓の外からあやしていた時に、女優カロラインを乗せた車を運転するエドによって轢かれたのでした。カロラインをモーテルに預けて、50キロ先の病院へ救急車の出動を求めに出かけたエドでしたが、途中で沼と化した道にはまり、そこを通りかかっったルーとジニーの夫婦の車に乗せてもらってモーテルに引き返します。モーテルにゆっくりと近づいて来る車に寒気を感じるジニー。その車からは囚人のメーンを移送中の警官ロードが降りてきて、宿を借りたいと主人のラリーに言います。パリスは木箱に大金を持ち、ロードのシャツの背中には血のりがついていることを、ロードもメーンも隠しています。カロラインは携帯の電波を求めて屋外に出たところを何者かに殺されます。彼女の生首がコインランドリーの中で回っているのを発見するエド。ラリーとロードを呼んだエドは、そこに10号室の鍵も入っているのを発見します。ロードの部屋に戻ると、メーンは脱走した後でした。一方、その頃、マルコムの判決の再審問が、被告の到着を待たずに始まります。
 1室に皆が集まり、カロラインの胴体が発見されてないことが知らされ、エドとロードはメーンの捜索に出ます。メーンの罪が連続殺人だと知らされると、ジニーは半狂乱になって自室に戻り、ジニーの妊娠が嘘だったと知ったルーは怒り狂って、トイレに籠城したジニーに出てくるように言います。やがてルーが静かになり、ジニーがトイレから出てくると、斧を持つ男の影を見え、ジニーはトイレに駆け込み、窓から脱出します。エドらと部屋に戻ると、ルーは殺されていました。一方、メーンは雨の中を逃亡しますが、方向感覚を失ってモーテルに戻ってきてしまい、ロードらに捕まります。ラリーと2人になると、冷凍庫に何があるのか教えてくれれば自分の秘密も教えてやると言うメーン。エドはルーの死体のそばに9号室の鍵を見つけます。やがて囚人が殺されているのが発見され、そこには8号室の鍵が落ちていました。冷凍庫から男の死体が現れ、逃げ出したラリーは車でジョージを轢き殺してしまいます。一方、再審理では被告の日記が提出され、彼が多重人格者であることが示されます。やがてそこに被告のマルコムが連れて来られます。
 ラリーは自分がここに来た時には既に支配人は死んでいて、自分は死体を隠しただけだと主張します。やがてアリスが死んでいるのが発見され、そこには6号室の鍵がありました。エドらはジョージの死体からも7号室の鍵を発見します。エドは2人の女性と子供を逃げさせようとしますが、車が爆発し、そこから死体は発見されません。すると今までの死体が全て消えていることが分かります。残った4人は皆誕生日が5月10日で、殺された4人もそうだったことに気付きます。そして皆の名前が州の名前であることも。再審問でエドは訊問されていて、君はマルコムの人格の1人であると言われ、鏡を見ると自分の顔がマルコムのものであることが分かります。パリスは車の中で見つけた記録で、ロードが囚人であることを知ります。移送中に彼はドライバーの警官を刺殺していたのでした。トランクに警官の死体を発見するパリス。ロードはラリーを射殺し、エドと相討ちになります。
 殺人を犯した人格が全て殺されて消滅し、マルコムの死刑執行は停止されます。しかしアリスは1号室の鍵を土中から発見すると、ティミーが彼女を殺します。マルコムはティミーの人格となって、護送中の警官を襲うのでした。

 ジェットコースター的な刺激に富み、ヒッチコックをも想起させるような上質な映画だったと思います。

 →Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

2013-01-08 05:02:00 | ノンジャンル
 川上未映子さんの'11年作品『すべて真夜中の恋人たち』を読みました。
 わたしが大学を卒業して就職した会社を辞めたのは、3年前の4月の終わりでした。そこは小さな出版社で、わたしはその会社の校閲者でした。人とふつうに会話することさえうまくできないわたしは、次第に会社の中で誰にも声をかけられなくなり、陰口を叩かれるようになっていきました。そんな折り、わたしが入社してから数年がたったころに独立した恭子さんが、いきなり電話をかけてきて、恭子さんと仕事をしている大手の出版社がフリーランスの校閲者を探していると言うのです。わたしはその場でその申し出を受けました。
 石川聖は、恭子さんが紹介してくれた大手出版社の社員で、その巨大な会社の校閲局に所属していました。頭の回転がはやくて、その場の雰囲気をさっと見極め、ときには気の利いた冗談を言って相手を笑わせたりもできる女性でした。聖とわたしはおなじ年で、おなじ長野県の出身でした。それらをのぞけばわたしたちのあいだに共通点と呼べそうなものはひとつもみあたらなかったのに、どういうわけか聖はわたしにとても親切にしてくれ、仕事で顔をあわせるようになって1年が過ぎたころ、会社はどうなの、と聖がきいてきました。わたしが職場で孤立していることを話すと、だったらフリーランスでやるのもありかもしれないよね、という聖が言ってくれ、わたしは会社を辞めて、フリーランスの校閲者になることに決めました。
 いまから9年前の冬、25歳の誕生日にわたしはふと、真夜中を歩いてみようと思いました。クリスマスイブの夜は美しく、それから毎年、誕生日の夜に、わたしは散歩にでるようになりました。
 やがて缶ビール1本、日本酒なら1合を飲むだけで、わたしはいつものわたしではなくなることができるようになりました。ある日、自室で横になっていた時、ふと目にとまったカルチャーセンターの総合案内誌を読み始めたわたしは、そこにあるべき誤植がまったくないことに気付きます。わたしはカルチャーセンターがどういう雰囲気をしているものなのかをみに行き、受け付けの順番を待つ間、トイレに行ってトートバッグから魔法瓶をとりだして日本酒をがぶりとあおり、やってきた眠気を払うため、廊下にあった自動販売機でブラックの缶コーヒーを買って一気に飲みました。受け付けに呼ばれたわたしは、急に吐き気に襲われ、トイレに駆け込もうとしましたが、間に合わず、ドアの前で自分の手の中に吐いてしまいます。そして男性トイレから出てきた男にぶつかってしまうのでした。トイレの中でぞうきんを手に入れ、床をぬぐい、気分も落ち着いた私はロビーで新しい順番を待ちましたが、はす向かいのソファに座った男の人がさっきからこちらをちらちらみているのに気づきます。もしかしたらそれはさっきトイレでぶつかった男性で、わたしの吐いたもので服を汚したのかもしれないと思い、わたしは意を決してその男性の元に向かうと、それはやはりあの男性でした。男性はわたしのことを心配してくれていて、50代半ばくらいにみえました。つぎの日曜日、わたしは新しいぞうきんを持って新宿のカルチャーセンターへでかけ、そしてまたあの男性に出会います。わたしはぞうきんを弁償しに来たと言いながら、ソファに眠りこんでしまい、目がさめると教室からは大勢の人がでてきて、その中にあの男性もいました。男性から声をかけられたわたしは、自分のトートバッグがなくなっていることに気づき、男性に付き添われて警察に盗難届けを出し、地下鉄の駅まで一緒に二人とも黙ったまま、歩きました。別れ際、男性はわたしに帰りの汽車賃として千円を貸してくれ、来週カルチャーセンターへ返しにきてくれればいいと言い、お互いに名前を名乗り、わたしは男性の名が三束さんであることを知るのでした‥‥。

 途中から三束さんとわたしが真夜中を散歩して終わると確信していたので、そこで小説がまだ終わらずに、悲しいラストを迎えたことにショックを受けました。それにしても未映子さんは「けれど」という言葉を使う達人であると再認識しましたし、「はい」で素朴につないでいく会話も大変魅力的だったことを付け加えておきたいと思います。川上さんのこれまでの最高傑作なのではないでしょうか。なおあらすじの詳細を知りたい方は、私のサイト(Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto))の「Favorite Novels」の「川上未映子」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

 →Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

ドン・シーゲル監督『真昼の死闘』

2013-01-07 06:56:00 | ノンジャンル
 ドン・シーゲル監督、バッド・ベティカー原作、エンニオ・モリコーネ音楽の'70年作品『真昼の死闘』をWOWOWシネマで再見しました。
 荒野を2頭の馬で行く男。フクロウ、淡水魚、兎、ピューマ、蛇、人骨、そして最後のサソリは馬に踏みつぶされます。女から身ぐるみ剥ぐ3人の男。先程の男は2人を射殺し、女を人質に取った残りの1人にはダイナマイトに火をつけて投げつけ、思わず逃げた男も射殺します。前だけ布で隠している全裸の女に「服を着ろ」と言う男は、死者から金と酒を入手しますが、女が尼僧姿になっているのを見て驚きます。男が嫌がるので自ら3人の男を埋葬した尼僧はシスター・サラ、男もホーガンと名乗ります。墓に水をかけ始める尼僧を驚いて止めるホーガン。二人は別れようとしますが、そこへフランスの騎兵隊が現れ、メキシコ軍の支援資金を募り、彼らに追われていると尼僧が言うので、ホーガンは掘り出した死体を馬に乗せ、それを尼僧に見立てて馬を放し、自分たちは川底を歩いて行きます。それでも追ってくる騎兵隊。廃墟の城塞でガラガラ蛇を退治したホーガンは、そこに隠れて騎兵隊をやり過ごします。2人は野営し、サラは住んでいたチワワからゲリラと暮らすために出てきたと言うと、ホーガンはゲリラに雇われていると言い、サラから教会の隣のフランス軍駐屯地の詳細を聞くと、俺の作戦で駐屯軍をやっつけてヤツらの財宝を山分けしようと言います。7月14日は革命記念日で駐屯軍は酔いつぶれ、今日は7月6日だとサラから聞くホーガン。トイレに行くと言ってタバコを吸ってきたサラに、ホーガンは心を寄せます。サラが乗っているラバが爪を痛めているので、サラは歩くしかないとホーガンは言いますが、サラは通りかかった男を騙してロバを手にいれます。メキシコ人の町に着くと、ホーガンの目的地であるサンタ・マリア行きの列車をフランス軍が待っていると2人は聞きます。フランス軍の任務の偵察をサラに頼むホーガン。サラはメキシコ人の男が銃殺され、女たちが泣き崩れるのを見た後、瀕死のフランス人大佐の元へ連れていかれますが、彼女に気付いた大佐は「この淫売め!」と言った後死にます。帰ってきて酒をラッパ飲みするサラ。彼女は正体を見破られ「このゲリラめ!」と言われて怖い思いをしたとホーガンに語ります。彼女は今日列車に食料と弾薬が積まれると告げ、彼らは橋に先回りしようとしますが、途中でホーガンは矢を肩に受けます。獰猛なインディアンのカキ族に彼らは囲まれますが、サラが酋長の目に十字架で反射した光を当てたので、カキ族は立ち去ります。矢に溝を掘り、火薬を流し込み、火をつけた瞬間に矢を抜く作業をサラにさせるホーガン。橋に着くと、ホーガンはサラを橋に登らせ、橋脚にダイナマイトを置かせますが、矢を抜く際に酔ってしまったホーガンは狙いが定まらず、サラに殴られて正気を取り戻し、やっと2発目にダイナマイトに銃弾を命中させ、列車は橋もろとも崩れ落ちます。酒場に辿り着いた2人は瀕死の主人にゲリラの居所を教えてもらい、ホーガンが目指すベルトラン大佐と出会えますが、ゲリラの武器が不十分であるのを知り、サラがサンタ・マリアで金の装身具の寄付を募り、ホーガンがテキサスに行き、ダイナマイトを買ってきます。チワワの教会の屋上から隣の駐屯地を見ると、列車事故で警戒している軍は酔っていません。サラは元修道院から駐屯地へ地下道があることを教え、それを含んで4方向から一斉に攻撃する案をホーガンが出します。サラが連れていった元修道院とは売春宿で、ホーガンは彼女が売春婦だったことを初めて知ります。駐屯地の地下は牢獄で、地上への蓋が開かず、サラは自分がわざと捕まって、上から蓋を開ける案を出します。危険の前にキスを交わすホーガンとサラ。ホーガンはサラを連れて駐屯地を訪れ、将軍に謁見します。そこへ女子供がダイナマイトを仕込んだ祭り道具を駐屯地の正面に置き、それが爆発すると同時に、ホーガンは将軍らを皆殺しにし、ゲリラの一斉攻撃が始まります。無事ゲリラが勝つと、金庫を持ち出したホーガンは売春宿で入浴中のサラの部屋に押し入り、服を着たままバスタブの彼女と抱き合います。そして商品を満載した馬を連れたホーガンの後を、ドレスを着たサラがロバに乗り付いていくのでした。
 
 ドン・シーゲル版のマカロニ・ウエスタンといった感じの映画で、主演の2人以外アメリカ人が1人も出てこない珍しい映画でした。

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川上未映子『人生が用意するもの』

2013-01-06 08:13:00 | ノンジャンル
 トニー・スコット監督、トム・クルーズ、ロバート・デュヴァル、ランディ・クエイド、ニコル・キッドマン出演の'90年作品『デイズ・オブ・サンダー』をWOWOWシネマで見ました。デイトナ500で優勝するまでのスタッドカー・レイサーを描いた映画でしたが、時折一瞬現れる見事な風景が印象的でした。

 さて、川上未映子さんの'12年作品『人生が用意するもの』を読みました。「週間新潮」に『オモロマンティック・ボム!』と題して連載されたエッセイを中心として、作られた本です。
 「普段ぼんやりと生きているせいだとは思うのだけれど、ときどき『まじか』と異様に驚いたりすることがある。そのほとんどが取るに足らぬこと&どうでもいいトリビア的なものではあるのだけれど、日々そのように割にぽこぽこと驚いているにも拘らず、これまたぼんやりと過ごしているので、驚いたことの内容じたいを忘れてしまって、つまりなんにも思いだせなくて、こんなふうに人生ってうやむやになって終わっていくのだろうなとこれまたぼんやりと思うのだった。」という文章に象徴されるような、“未映子”節がここでも健在なのであって、どうということもない内容の文章も、すらすらと楽しく読めるのでした。そこに流れているのは“ポップ”であろうという意識であり、実際に著者は何回かこの言葉を使っています。
 そんな中にあって、新しい知識として入ってくる情報というものもあり、例えば、欧米人の整形は口を大きくすることであったり、震災をめぐる報道でクローズアップされるのは、家族や夫婦といった社会的に認められた関係にある人々ばかりだったと哲学者の中島義道さんがある雑誌にお書きになっていて、「行方不明の恋人を探す」場面や「避難所で暮らす同性愛者たち」らはマスコミから排除されていたり、アメリカに『妊婦バービー』という人形が存在していたことであったり、そしてまた『妊婦バービー』が販売中止の追い込まれた理由が「バービーが結婚指輪をしていなかったから」という理由であったことだったり、それを聞いた著者が「みんなけっこう暇なんだなー」という感想を持ったり、妊婦が避けて通れない経験というのが「尿漏れ」だったり、それを防ぐ唯一の方法というのが「あッ、と思ったら足をさっとクロスさせてやり過ごす」というものだったり、「そして一度笑ってしまえば最後、もうなにを見ても可笑しくなって、たとえば『おうどん』と書かれてある看板を見ただけで足クロス。どこかがバカになってるに違いない。このあいだ銀座駅のホームでおなじように足をクロスさせて微動だにしない妊婦と目があって『大丈夫か』『大丈夫だ』『頑張れよ』『お前もな』みたいな感じでどちらからともなく無言のまま力強く肯きあったのが印象的だった。」と著者が書いていたり、震災から数カ月、テレビや政府の公表を鵜呑みにせずにネットなどを駆使して能動的に情報を収集する習慣のある人と、そうでない人の行動の差を感じるのが増えてきて、前者は圧倒的少数であると書かれていたり、外国の夜は美しいと書かれていたり、著者が「さよなら原発 5万人集会」に参加していたり、黙読する人は、頭の中で音にしている人と、目だけで済ます人の2種類がいるということだったり、本1册を出して著者が受け取れる印税は例外を除けば一律で1割、そこから税金とか消費税とかが引かれるので、まあ1200円の本ならだいたい印税は100円ぐらいで、刊行から約2ヶ月以内に振り込まれることだったり、著者が“ちょっとした笑顔”が“大きな笑顔”よりも好きだったり、姉のサイン帳に「鮭は身よりも皮が好きです」とイラスト付きで書いていた子が自殺したことだったり、小5の時の作文で著者が「自分だけじゃなくて、まわりのみんながいつか死んでしまうのがこわい。いなくなるのがこわい。こんな考えかたはずるいかもしれないけれど、そのことを思うと、わたしはお母さんよりも先に、誰よりも先に、死んでしまいたいと思う。でも、よく、わかりません」と書いたら、担任の先生が著者の名前を厳しい顔で呼んで立たせ、それから大きな拍手をしてくれ、「その考えと気持ちをずっと忘れないでください。素晴らしい作文でした」と言ってくれたりしたことなどなどでした。こうして書いてみると、これは新たな情報というよりは、読んでいて心に響いてきたあれこれといった感じで、そうしたものがたくさん詰まっている本だと言えるでしょう。未映子さんの文章、私は好きです。

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陳凱歌(チェン・カイコー)監督『運命の子』

2013-01-05 08:59:00 | ノンジャンル
 陳凱歌(チェン・カイコー)監督の'10年作品『運命の子』をWOWOWシネマで見ました。
 趙朔将軍は妊娠中の美しい荘姫夫人を伴い、戦に出るため、帝の前に出ます。彼に嫉妬する屠岸賈元帥は、呪術師の操る虫を使って、趙朔の味方である宰相・趙盾が贈った酒を帝が飲んだ瞬間に帝を殺し、白兵戦となる中、屠岸賈はその場で宰相を殺します。医者の程嬰は荘姫から産んだばかりの赤子を預り、公孫氏の屋敷へ抜け道を使って届けるように言われますが、そこに現われた屠岸賈の部下・韓厥が立ちはだかります。荘姫は自分に欺かれたことにすればいいと韓厥を説得し、腹に詰め物をしたまま自決します。しかし趙氏一族を皆殺しにした後に、そこに現われた屠岸賈は、すぐに荘姫の嘘を見抜き、韓厥の片目を切りつけます。
 城門は閉められ、趙氏の赤子を探し出すために、城内の全ての赤子が集められますが、程嬰は自分自身の赤子を抱く妻の元へ、預かった趙氏の赤子に乳をやりに一旦寄ります。家に趙氏の赤子を置いたまま、公孫の家を訪ねた程嬰でしたが、その留守中に趙氏の赤子は兵士によって連れていかれてしまいます。程嬰は訪ねてきた公孫に自分の妻と自らの赤子を預け、屠岸賈の元に向かいます。程嬰の妻は本当のことを公孫に告げますが、公孫は屠岸賈が念の為に2人の赤子とも殺すだろうと言います。寅の刻までに趙氏の子を盗んだ者が現われなければ百人の赤子を殺すと告げる屠岸賈。寅の刻になると、屠岸賈は程嬰を呼び出し、先程の点呼の時にいなかったことの説明を求め、これが趙氏の子だろうと言いますが、程嬰は趙氏の子は公孫に預けたと言います。屠岸賈が公孫を訪ねると、公孫はもう赤子はいないと言いますが、屠岸賈は大きな音をたてて、赤子を泣かせ、隠れていた程嬰の妻子を見つけます。自分の子だと言う程嬰に対し、屠岸賈は赤子の顔だけ見せてくれと言って、赤子を程嬰からもらうと、赤子を地面に叩きつけて殺し、程嬰の妻も殺します。
 程嬰は趙氏の子・勃を返してもらい、1人で育て、成長した暁には真実を勃に話し、趙氏の仇を討たせようと考えます。屠岸賈の家臣に志願する程嬰。やがて勃は屠岸賈を父と慕って成長し、剣法も彼から学びます。韓厥と密会する程嬰の姿を盗み見る勃。立派な若者に成長した勃は、父の趙朔にうり二つで、屠岸賈は一目見て真実を見抜きます。程嬰も真実を勃に打ち明けますが、勃は信じようとはせず、初めての戦に出向きます。森の中の騎馬戦で勃の戦いぶりを見ていた屠岸賈は、勃が窮地に陥ったのを見ても、そのまま帰ろうとしますが、勃が「父上、助けて!」と叫ぶのを聞くと、とって返し、勃を助け出します。勝利の後、屠岸賈の背中に刺さる矢。解毒剤を取りに来た勃に、程嬰は「一緒に逃げて、静かに暮らそう」と言いますが、勃は「それなら父と一緒に死ぬ」と言い張り、結局程嬰から解毒剤を手に入れ、屠岸賈を助けます。心の中で「とうとう見つけた、趙氏の息子を」と言う屠岸賈。
 程嬰は自分に息子がいた証拠を、封印してあった扉を打ち壊して勃に見せると、程嬰と勃は抱き合います。程嬰は屠岸賈に、矢を放ったのは自分とともに15年間暗殺の機をうかがっていた韓厥だったと教え、全てを打ち明けます。程嬰が自分の子を差し出すはずがないので、殺したのは趙氏の子だと思ったと言う屠岸賈は、程嬰と勃に「行くがよい」と言いますが、勃は復讐が終っていないと言って、剣を取り屠岸賈に斬りかかります。死闘を繰り広げる2人。その間に程嬰が割って入り、屠岸賈に「わしを殺すがいい」と言って屠岸賈に近づくと、屠岸賈は思わず程嬰を剣で貫きますが、その瞬間に勃も屠岸賈を剣で貫きます。横たわり「もう2度と泣くな」と勃に言って死ぬ程嬰。妙に明るい町の門を勃に支えられながらくぐった、傷ついた程嬰は、赤子を抱く妻に出会いますが、妻は笑顔で振り返りながら去っていきます。後ろにいる勃を見ながら、程嬰は倒れていき、映画は終ります。

 アクションシーンが多いにもかかわらず、音楽の使い方も、ショットの連鎖も中途半端なストーリー上の“メロドラマ”に奉仕している感じがして、今一つノレませんでした。文芸坐で見た陳凱歌監督の最初の作品『大閲兵』の感動が懐かしく感じられてしまう、そんな作品でした。

 →Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto