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ポール・オースター『インヴィジブル』その8

2019-05-19 00:01:00 | ノンジャンル
また昨日の続きです。



 「夏」の原稿を読んだ一週間後、僕はカリフォルニア州オークランドにいて、ウォーカーの家の呼び鈴を鳴らしていた。(中略)結局言おうとしたことは言う機会がないまま終わった。ウォーカーは僕に原稿を送った二十四時間後に死んでいたからである。彼の家の玄関に僕が着いたとき、灰は地中に埋められて三日経っていた。こうしたことを話してくれたのはレベッカである。アダムが二通目の手紙で名を挙げていたあのレベッカ、三十五歳になる彼の義理の娘だ。(中略)お父様は何かを書いてらっしゃいました。そのことはご存じでしたか? 書いているとは言っていました。『1967年』と題した本を。お読みになりましたか? いいえ。一語も? 一文字も。二か月くらい前に、もし書き終える前に自分が死んだらコンピュータから文書を削除してくれと頼まれたんです。(中略)で、削除なさったんですか? ええ、もちろん。死んでいく人の望みに背くのは罪ですから。(中略)グウィン伯母さん。東部に住んでるんで、私はあんまりよく知らないまま来てしまいました。(中略)あなたにお渡しするものがあるんです、と彼女は言った。(中略)マニラ紙封筒がひとつ、閉じたコンピュータの上に載っている。(中略)表に活字体で僕の名前が書いてあり、そのすぐ下に、ずっと小さい筆記体で、「秋」のためのメモ、とあった。(中略)
 その夜僕はホテルの部屋に戻って封筒を開け、ウォーカーの短い手書きの手紙と、コンピュータで清書してプリントアウトしてくれた、行間の詰まった三十一ページのメモを取り出した。手紙にはこうあった。
 君と電話で話してから五分後。励ましてくれて本当にありがとう。(中略)すべてのことに関する君の判断を僕は信頼する。僕の旅の幸運を祈ってくれ。それじゃ アダム
 
 秋

 授業が始まる一か月前にウォーカーはパリに着く。(中略)(ウォーカーの住居となった)オテル・デュ・シュッドは六区のマザリーヌ通りにある古い崩れかけた建物で、サンジェルマン大通りにある地下鉄オリオン駅からも遠くない。(中略)ウォーカーはぜひもう一度マルゴに会いたい。(中略)(ウォーカーはマルゴに電話し)、彼らは一時間後に〈ラ・パレット〉で会う約束をする。午後四時、ウォーカーが先に、十分早く到着する。(中略)マルゴがふらっと入ってくる。(中略)遅れたことを詫びはしない。(中略)ウォーカーは突然、頭のなかでもう二度と彼女をボルンと切り離せないだろうと理解する。(中略)単刀直入に、ボルンは間違いなくセドリック・ウィリアムズの殺害の犯人だと告げる。(中略)ウォーカーが物語を話し終えると、マルゴはテーブルから立ち上がり洗面所の方へ駆けていく。(中略)(戻ってきたマルゴが語るには)私に言えるのは、ニューヨークのパーティで私たちがあなたを見たとき、あんなに美しい男の子は見たことがないってルドルフに言ったのは私だったこと。あの人も賛成したわ。(中略)ストレートの男があなたに惚れ込むってことも完璧にありうると私は思う。(中略)カフェで話をしたいま、彼女は明らかに、前に想像したより率直で、自分の考えをはっきり口にする、より傷つきやすい人物であるようだ。とはいえ、じきホテルに着くことに胸を膨らませながらも(中略)僕はとてつもない過ちを犯したんじゃないだろうかとウォーカーは自問せずにいられない。(中略)マルゴは彼に時間を与え、やがて彼は憂鬱な落ち込みから立ち直ってくる。まあ完全にではないにせよ、(中略)するっと服を脱いだ彼女のむき出しの肌に両腕を回すときもぞくっと感じるし、彼女とも首尾よく愛しあう━━一度のみならず、二度。(中略)彼はセックスに狂っている。(中略)セックスは至上者であり贖い主でありこの世で唯一の救済なのだ。二人は結局レストランにたどり着かない。ワインを一本空けたあと二人とも眠りこけて、夕食のことなど忘れてしまう、翌朝早く、夜明け前に目を開けると、自分が一人でベッドにいることをウォーカーは発見する。隣の枕に紙切れが置いてある。マルゴの書き置き━━ごめんなさい。このベッドあまりに寝心地悪くて。来週電話してね。(中略)
 二日後、彼はサンタンドレ・デザール広場の戸外カフェに座って、ビールをちびちび飲みながらノートに文章を書いている。(中略)オッペンの最新詩集『この そこに在って』のなかの数行を彼は書き写す━━(中略)顔を上げると、すぐ目の前に、ルドルフ・ボルンが立っている。(中略)僕、あのこと忘れてませんよ。いまでもずっと考えてます。考えるって、何を? あなたがあの子にやったこと。私は何もしちゃいないぜ。よしてください。一回刺しただけさ。(中略)(また明日へ続きます……)