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斎藤寅次郎『日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝』その6

2019-05-06 10:12:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 最後に鈴木義昭さんによる「編者あとがき」から抜粋して文章を転載させていただきます。
「斎藤寅次郎が、いわゆる『蒲田ナンセンス』のトップランナーとして短篇喜劇の名手ぶりを見せた時代は、世界恐慌の時代である。アメリカではチャールストンが流行し、チャップリン、キートン、ロイドが『三大喜劇王』と言われ、笑いの最前線を駆け抜けていた。無声映画の黄金時代でもある。
 アメリカのサイレント・ムービーは、英語を話せない貧しい移民の娯楽としてかっこうのものだったが、そこからホームレス姿のヒーロー、チャップリンも生まれてくる。一方その頃、日本では、下町庶民の生活に根ざした喜怒哀楽を抒情とユーモアで描く『松竹蒲田調』が、マキノ映画をはじめとするチャンバラ時代劇を向こうに回して人気を集めていた。不景気で世相が暗ければ、明るい笑いや人情噺に接したくなるというものである。
 松竹蒲田撮影所・所長の城戸四郎の采配の下に、蒲田調現代劇のアクセントとして短篇喜劇ばかりを撮らされていたのが斎藤寅次郎と小津安二郎だといわれる。小津はその後、ご存知のように文芸派の巨匠への道を進んでいくが、斎藤寅次郎は喜劇一筋、やがて『喜劇の神様』とまで呼ばれるようになる。二人は、ともに大久保忠素監督の門下生だが、行く道は対照的なものとなった。
 だが、小津が遺作『秋刀魚の味』(62年)を撮り、翌年還暦で亡くなってしまったほぼ同じ頃、寅次郎も最後の公開作品『大笑い清水港・三ン下二挺拳銃』(62年)を残し、映画界の第一線から身を引いていってしまうことになる。奇しき因縁と言うほかはないだろう。
 さまざまなメディアでさまざまに語られ、回顧された小津安二郎『生誕百年』の年が終わり、本年は斎藤寅次郎『生誕百年』の年に当たる。
 『小津安二郎の本が沢山あるのに、斎藤おやじの本がまるでないのはどういうことだろう……』
 そう言って首を傾げられたのは、大貫正義さんだ。大貫さんとは拙著『新東宝秘話・泉田洋志の世界』の取材で出会い、自宅が近いこともあり何かとお世話になり、いろいろと示唆をいただいた。
 『斎藤先生の本を作りましょう!』海岸のレストランで大貫さんに、そう口走ってから、もうだいぶ日日が流れた。(中略)
 若い頃、毎号心待ちにしていた映画雑誌『ムービー・マガジン』に斎藤寅次郎の『自叙伝』が掲載された。それは生まれ育った秋田の風景に始まり、大正期の浅草、そして松竹蒲田撮影所の青春群像へと続いていく。清水宏や田中絹代、また奥さまになられる浪花友子さんなど映画史の中の登場人物が、賑やかに活き活きと書かれていた。卓越したその描写力、時代の気分、斎藤寅次郎は、自分を語りながら、『奇人・変人・喜劇人』の題名通りに撮影所の仲間たちについても語ろうとしていた。
 しかし、残念にもその構想は、斎藤先生の突然の死によって果たされぬままに終わってしまう。もし、斎藤先生がこのまま、『自叙伝』を書き進められ、完結にまで至っていたのなら、日本映画史に別の視点が生まれてくるキッカケになりはしなかったか。斎藤寅次郎が『喜劇の神様』『喜劇王』のキャッチフレーズで呼ばれながら、あまり陽の当たらない所へ追いやられてしまっているような有様は、かなり違ったものになっていたのではないかと思う。それより少し前、マキノ雅弘の自伝『映画渡世』が話題を呼んでいた。斎藤先生は、同じ早撮りの名人としてのマキノ雅弘へのライバルというよりも、マキノ映画と同じ時代に、松竹蒲田撮影所がいかに活気に満ちた場所であったかを書き残しておきたいと考えていたのではないだろうか。
 『自叙伝』は、掲載当初から単行本化の話が複数の出版社から舞い込んでいた。放送作家の高平哲郎氏らによる斎藤寅次郎評価の機運が当時はあり、僕も当然『自叙伝』は何らかの形で出版されると思っていた。もちろん、それには短すぎる。他の遺稿や談話などを加えなければ、補完はできない。当時一読者に過ぎなかった僕が、その作業をやることになるとは思いもよらなかったことだ。
 昨年春、『ムービー。マガジン』の編集長だった浦崎浩實さんと斎藤先生のお墓参りに行った辺りから、わがプロジェクトが回転を始める。僕は停滞した『自伝』出版を諦めて、まずはというか先に『評伝』を書いてやれという意気込みでいた頃だ。それから話はトントン拍子に進み、国立近代美術館フィルムセンターでの研究上映会で意気上がり、来る斎藤寅次郎『生誕百年』には、ミニシアターのラピュタ阿佐ヶ谷で『百年祭』特集上映を実現しようと、話はより具体的になって行ったのだ。『生誕百年』で『斎藤寅次郎自伝』の企画は甦った。元『月刊イメージフォーラム』の高崎俊夫さんが、編集者を買って出てくれたのである。(また明日へ続きます……)