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ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』その10

2020-08-31 06:12:00 | ノンジャンル
 昨日、「あつぎ市民発電所」第2回通常総会&記念講演会に参加してきました。その中でも「若い人に農業を始めてもらう」プロジェクトや、長野県上田市でソーラーパネル「相乗り君発電所」の設置を推進する藤川まゆみさんの「気候変動を止めるため、ソーラー化は待ったなし。まず市民が声を上げ、コンパクトシティを目指す」という話が特に印象に残りました。(詳しい内容は、FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)をご覧ください。)

 さて、また昨日の続きです。

 わたしたちは1958年万国博覧会に三日間滞在する計画だったが、二日めの途中で最後の聖書を配り終えた。(中略)今後連絡を取り合うことは、許されていない。ふたりの神父がどこへ向かうのかも知らなかった。ただ、わたしは翌日ハーグ行きの列車に乗り、ハーグで管理官(ハンドラアー)と会って、次の任務の説明を受けることになっていた。

東 1958年9月~10月
第二十二章 雲に住む者 受賞者
(中略)ひとりの訪問者がやってきて、ボリスは鍬を白樺の木に立てかける。
「友よ」訪問者はそう言い、柵越しにボリスに片手をさし出す。
「我が手に?」ボリスが尋ねる。
 訪問者はうなずき、ボリスに続いて家へ入る。(中略)訪問者はリュックサックをあけ、青いリネン装丁のままの本をその作者の前に置く。(中略)目に涙があふれる。「我が手に」彼はまた言う。
 訪問者はふたつめの土産を取り出す━━ウォッカの瓶だ。「乾杯するかね?」
「これを本にしたのは?」ボリスが尋ねる。
 訪問者は自分用に酒を注ぐ。「アメリカ人たちだと聞いている」(中略)

 ボリスは朝の散歩に出かける。(中略)だれかが彼の名前を大声で呼び、そこに集まっていた人々が大型の哺乳動物さながらこちらへ向かってくる。柵に座っていた若者が飛び下り、真っ先に彼のところへやってくる。そして、メモ帳を取り出し、ペンを持ってかまえる。「あなたの受賞が決まりました」若者が言う。「あなたのノーベル文学賞受賞が決まったんです。〈プラウダ〉にいまのお気持ちを」(中略)

 ボリスは遠くからオリガの赤いスカーフに気づき、心が軽くなる。(中略)『ドクトル・ジバゴ』が外国で出版されてからというもの、髪を巻いたり、宝石を身につけたりもしない。おそらく、もう目立ちたくないのだ。(中略)
「これはいいことだよ」ボリスは言う。「我々は祝うべきだ。彼らは我々に手出しできないだろう。世界中から注目されることになるのだから」
「そうね」オリガはそう言い、墓地を見渡す。「みんなが見張ってるわ」(中略)

西 1958年10月~12月
第二十三章 ツバメ 情報提供者
(中略)
「ボリス・パステルナークがノーベル文学賞を受賞と」
「なら、本の売り上げが急増するわね」あたしは言った。「あなたは読んだ?」
「もちろん!」
 だれもがそれを読んでいた。(中略)
 パリに到着したその日、あたしはホテル・ルテシアにチェックインした━━サリー・フォレスターやサリー・フォレッリ、あるいはこれまでに使ったことのあるどの名前でもなく、レノーア・ミラーという新しい名前で。それから、〈サラのドライクリーニング店〉宛ての手紙をまばゆい黄色の郵便ポストに投函した。その手紙には、ベイルートでのヘンリーの居所と、西欧諸国に好意的でシハーブ支持のメッセージを放送するラジオ局設立に協力するという、彼の新しい任務に関する詳細が含まれていた。(中略)
 べヴだけには、あたしが国外に出ることを知らせた。(中略)
 ワシントンですごす最後の晩、あたしはレコードをかけ、スーツケースを取り出しながら、まだ行く先を決めかねていた。(中略)イリーナにあげようと思っていたエッフェル塔の版画が、まだ包肉用紙に包まれて赤い紐で結わえてあるままなのを見つけて、ようやく、心が決まった。

 彼らはバラを使ってメッセージを送ってきた。(中略)

 数週間がすぎた。(中略)
 毎日に規則正しいリズムを与えるため、あたしは『ドクトル・ジバゴ』を探してセーヌ川沿いのあらゆる書店、本を扱う露店、図書館、古本屋に足を運びはじめた。読みたいと思いながら、あたしはまだ実行に移していなかった。(中略)

 やがてお金がなくなり、あたしは『ドクトル・ジバゴ』を一冊ずつ返品しはじめた。そんなとき、ル・ミストラル書店で列に並んでいると、だれかに軽く肩を叩かれた。(中略)
「彼はベイルートのホテルにウィンストンという名前でチェックインしたわ。あなたが言っていたとおりに。それから一時間以内に、彼はまたそのホテルからチェックアウトした━━我々のベルボーイふたりが手を貸して」女はちょっと間を置いた。「わたしたち、あなたが知りたいんじゃないかと思って」(中略)

 ホテルの部屋に戻ると、枯れたバラが真新しい花束と交換されていた。(中略)
 あたしは二重スパイを見つけ出すよう訓練された。(中略)

(また明日へ続きます……)

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ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』その9

2020-08-30 00:46:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

(中略)
 わたしたちはイリーナが呼ばれてアンダーソンのオフィスにいることを知っていた。(中略)
 その週、イリーナはもうオフィスには現われず、わたしたちが彼女に事情を聞くチャンスは訪れなかった。(中略)
 次の月曜日は、テディもオフィスに姿を見せなかった。その週の残りの日も、ずっと出勤しなかった。(中略)
 その週、出勤してこなかったあいだにテディが何をしていたか、わたしたちは知るすべはなかったけれど、オフィスにやってきた日、カフェテリアでグリルドチキンステーキと即席マッシュポテトの昼食の列に並ぶヘンリー・レネットに、テディが背後から歩み寄ったことは知っている。
 テディに肩を叩かれ、ヘンリーは振り向こうとした。そのとたん、テディはひと言も発することなく友人の顔めがけてパンチをお見舞いしたのだ。ヘンリーは一瞬よろめき、その場に倒れた。(中略)

(中略)
 そして、その翌日、テディは指の関節に絆創膏二枚を貼ってオフィスにやってきたが、ヘンリーが姿を見せることはなかった。(中略)
 二週間後、ジュディはカーディガンのポケットに手を入れ、ティッシュペーパーが入っているとばかり思っていたのに、ヘンリーの歯を見つけてぎょっとした。
 三週間後、わたしたちはテディとイリーナのために購入していた結婚祝いを返品した。(中略)
 一か月後、アンダーソンが新しいタイピストを連れてきたとき、わたしたちはイリーナがもう戻ってこないことを知った。

第二十一章 応募者 運び屋 修道女
(中略)
 それこそわたしの求めたもので、それがいまここにある。任務と、片道切符のほかに、なんの経歴もない別人になる機会が。だから、わたしはそれを我がものとした。傷心からも解放されるだろう━━心は軽くなり、傷つける者も傷つけられる者もいない。少なくとも、わたしはそう自分に言い聞かせたのだった。(中略)

 母の葬儀のあと、わたしはひとりになりたくなかった。だから、テディがうちに泊まってソファで寝てくれた。(中略)

 翌日、嵐の影響でワシントンDCの半分が停電した。テディの車でオフィスに向かうあいだ、わたしたちは何も話さず、ラジオもつけなかった。(中略)その翌日、わたしはアンダーソンのオフィスに呼ばれ、サリーとの関係について問いただされた。サリーが解雇されたことを知らされたうえで、彼女との関係を疑問視されていることを告げられたわたしは、別人に説得力たっぷりにそれを否定し、きみを信じるよとアンダーソンに言わせた。そもそも、別人になる方法や実際の自分を偽るやり方をわたしに教えてくれたのは、彼らだ。(中略)もう引き返すことはできない。任務はすでに始まっていた。

 わたしはスカーフで髪をおおい、待ち合わせ場所へ向かった。ブリュッセルは賑わっており、夜空には半円の月が浮かんでいる。通りは世界中から博覧会を見にきた人々であふれ返っていた。(中略)
 やがて、イクセル池からちょっと行ったところにあるランフレ通り沿いの、管理者(ハンドラー)から指示された場所に着いた。立派なアールヌーヴォー建築の前に立ち、五階建ての凝った象眼模様の木材と、その前面をツタのようにはいのぼるミントグリーンの鉄に息を呑んだ。(中略)ダヴィト神父として知られている男のほうが、作戦のリーダーたる諜報員だ。女のほうはイヴァンナと言い━━彼女の本名だ━━その父親は亡命したロシア正教の神学者にして、宗教関連書を扱うベルギーの出版社を経営してもいる。イヴァンナは、ソ連で禁書になっている宗教関連書を密輸する地下組織〈神との生活〉の設立者でもあった。(中略)
 彼らの前の光沢のある黒いコーヒーテーブルには、1958年万国博覧会の精密模型があった。(中略)
 博覧会をプロパガンダの手段に利用するというのはイヴァンナの思いつきだが、それを採用してCIAの作戦としたのはダヴィト神父だった。(中略)(ダヴィト神父は模型を使って作戦の説明をした後)「それともうひとつ。これより我々は『ドクトル・ジバゴ』を聖書とのみ呼ぶ」(中略)「何か質問は?」だれも口を開かなかったので、彼はもう一度、最初から最後まで計画を説明した。そのあと、さらにもう一度、説明を繰り返した。(中略)

 翌朝、わたしは詰め物をしたブラジャーとショーツを注意深く身につけ、だぼっとした黒い修道服を着ると、ひたいを縁取る硬い白頭巾の上から黒のヴェールをかぶった。(中略)
「うまくいったわね」彼らが立ち去ると、わたしは言った。
「もちろんだよ」ダヴィト神父は落ち着いた声で応じた。
 その後、わたしたちのターゲットは次々にやってきた。(中略)

(また明日へ続きます……)

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ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』その8

2020-08-29 08:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 男たちのひとりがイリーナに教えたのは、ラッシュアワーのK通りで通行人から荷物を受け取り、振り向かずに歩き続ける方法、中身がくり抜かれた本をメリディアンヒル公園のベンチの下に置き、「お嬢さん、本を忘れていますよ」とすぐにだれかから呼び止められずにすむ方法、ロンシャンの店で隣にいる男のポケットに一枚の紙切れを忍ばせる方法だった。でも、イリーナの訓練の仕上げをしたのはサリーだ。(中略)
 ややあって、サリーの名前があらゆる書類、通話記録、報告書から削除されたとき、わたしたちが思い出そうとしたのは、これまで彼女が実際には何者だったのかを示すなんらかの手がかりがあったかどうかだった。(中略)

第十八章 応募者 運び屋
 一週間がすぎた。それから一か月、そして二か月がすぎ、結婚式の計画は進んだ。テディとわたしは十月に聖スティーヴン教会で結婚式を挙げ、その後、〈チェビーチェース・カントリークラブ〉でささやかな披露宴を行なう。(中略)

 それからの数週間、テディは速やかに行動を開始し、職場での仕事に対処するように、念入りかつ持続的かつ冷静に、母の健康を回復するという任務に取りかかった。(中略)

 洗礼者ヨハネ正教会は、わたしがそれまで存在を知らなかった母の友人や知人たちでいっぱいだった。(中略)母の秘密は、あまりにも寛大すぎたことだった。(彼女は無料で貧しい人たちのために服を作ってやっていたのだ。)(中略)

(中略)
 葬式が終わり、わたしは母の棺について教会から出た。(中略)
 その後、テディはわたしをなんとか慰めようとしてくれたけれど、その努力は無駄に終わった。数日がすぎ、数週間がすぎた。ある夜、眠れなかったわたしは、サリーに電話してみようと思い立った。(中略)でも、呼び出し音がただ鳴り続けるばかりだった。

東 1958年5月
第十九章 ミューズ 使者 母親
 夢のない眠りから目を覚ますと、ミーチャがそこに立ってわたしを見下ろしていた。「だれかが外にいる」ミーチャが小声で言った。(中略)
 玄関の扉の開く音がして、わたしたちはふたりとも入口に向かって駆け出した。イーラが戸口に裸足で立っており、着ている白のネグリジェが月光に照らされて青白く輝いていた。(中略)
「あいつらよ」イーラが言った。「あたしにはわかる」(中略)
「だれ?」わたしは聞いた。
「昨日、駅から家まであたしをつけてきた男」
「それは確かなの? どんな男だった?」
「ほかのやつらと同じよ。母さんを連れてったやつらと同じ」(中略)
『ドクトル・ジバゴ』はイタリアで半年前に出版されており、フランス、スウェーデン、ノルウェー、スペイン、西ドイツなど新たな国がその本を出版するたびに、わたしはますます監視が強まるのを感じた。(中略)
 わたしは子どもたちを怖がらせないよう、自分なりの最善をつくしていた。(中略)
 ボーリャには増すばかりの不安を訴えたが、彼は支持者から殺到する手紙、こっそり国内へ持ちこまれた外国の新聞の切り抜きに掲載された小説への激賞、インタビューの依頼などに、心を奪われていた。(中略)
 肝心なのは本ばかり。本以上に大事なものはなかった━━翻訳版が彼にもたらした世界的名声も、政府からの迫りくる脅威も、彼の家族も、わたしの家族も、彼にとってはみずからの命さえ二の次だった。(中略)

西 1958年8月~9月
第二十章 タイピストたち
 CIAの動きは素早かった。イリーナがビショップスガーデンでの任務を無事に終えたその夜のあと、ロシア語の原稿を手に入れた我々には無駄にしている時間などなかった。(中略)
 次に、CIAはオランダ情報局と連携して仕事の仕上げにかかった。すでにフェルトリネッリとオランダ語版を製本する契約を交わしていたムートン社を相手に取引が行なわれ、CIA用に少部数のロシア語版を製本してもらうことが決まったのだ。
 こうして紆余曲折を経て、『ドクトル・ジバゴ』はついにブリュッセルの万国博覧会へ向かった。すべてが計画どおりに運べば、ハロウィーンまでにソ連市民の手に渡るだろう。(中略)
「そうじゃなくて、なぜ彼女がクビになる?」
「そこが一番面白いところなんだよ。おまえには想像もつかないだろうな」
「いいから話せ」
 ヘンリーはボックス席にもたれかかった。「同性愛者さ」
「ええっ?」こらえきれずに、ノーマが声を上げた。(中略)

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ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』その7

2020-08-28 23:21:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 ステージ横でちょっとおしゃべりをして、ダンスフロアで少しいっしょに踊り、パンチを二杯飲むと、ヘンリーはどこかもっと人のいないところで話さないかとあたしを誘った。(中略)
 彼があたしの背後に手を伸ばすと、そこにあった壁がドアになった。「ほら、驚いただろう?」ヘンリーはそう言いながら、使われていないクロークルームのなかへあたしを追いこんだ。(中略)
「きみがどうしておれとおしゃべりしてるのか、そのわけを知らないとでも?」ヘンリーは言った。(中略)
 あたしは彼を押しのけようとしたが、押し返された。(中略)ドレスの脇の引き裂かれる音が聞こえた。(中略)

 彼はあたしをクロークルームに残して出ていった。(中略)
 ヘンリーの言うとおりだ。あたしは彼らにとって無に等しい。(中略)彼らはみんな、あたしを利用していた。(中略)あたしが美しくなくなるまで、利用し続けるつもりだったのだ。(中略)
 目を覚まして洗面所に行ったとき、冷たい床でつまずいた。(中略)タイルをよけ、名刺を拾い上げた。〈サラのドライクリーニング店 ワシントンDC NW P通り2010番地〉
 その名刺を引っくり返しながら、イリーナのことを考えた。あたしはすべてを覚えていたかった。彼女との思い出の目録を作り、整理してしまっておきたかった。(中略)
 あたしは名刺をぎゅっと握った。そして、その住所を記憶すると、マッチをすり、それが炎に包まれるのを見つめた。

第十六章 応募者 運び屋
ビショップガーデンに人気はなく、通用門に鍵はかかっていなかった。(中略)難なく小道を進み、石のアーチをくぐり抜けて、一番高い松の木の下にある木製ベンチにたどり着いた。(中略)
 赤い手袋をしっかりとはめ直し、腕時計を見た。7時56分。チョーサーはあと4分でやってくる。(中略)彼が時間どおりに来たら、わたしは彼から小さな包みを受け取る。それはロシア語の原本『ドクトル・ジバゴ』のマイクロフィルム二本で、わたしは20番バスに乗り、アルバマール通りの隠れ家へ届けることになっていた。(中略)
 わたしは人がそれをなんと呼ぶか知っていた。忌まわしいもの、倒錯、逸脱、堕落、醜行、罪。でも、わたし自身はそれを、わたしたちを、なんと呼ぶべきかわからなかった。(中略)
大聖堂の鐘が八回鳴った。最後の鐘が鳴ったあと、予定どおりチョーサーが現われた。(中略)
 彼は(中略)コートに手を入れ、新聞紙にくるまれた小さな包みを手渡してきた。
 わたしはそれをシャネルのハンドバッグにしまった。(中略)

 その包みを隠れ家の郵便受けに投函すると、そのままコネチカット大通りまで坂を下り続け、そこからチャイナタウン行きのバスに乗った。(中略)
 二週間と三日間。最後に彼女と会ってから━━テディと婚約したことを彼女に告げた日から。わたしたちが愛し合った夜から。あの晩、わたしは自分がすっかり変わったように感じていた。あらゆる行動を自信たっぷりに行なえるような人間に、自分の言動ひとつひとつに迷ったりしない人間に。(中略)
 サリーはいつものように美しかったけれど、目の下の隈を隠そうとして厚化粧になっていた。(中略)
「疲れてる? おなか空いてる?」わたしたちだけのあいだの暗号で彼女が聞いた。
「おなかが空いた」わたしは言った。「それと、お酒が飲みたい」
 (中略)「疲れた」というのはうまくことが運ばなかった、「おなかが空いた」は首尾よくことが運んだということを意味し、「お酒が飲みたい」というのは言葉どおりだった。(中略)もういっしょにすごすことはなく、ただの同僚として扱い、これまでいっさい何もなかったふりをしなければならないと思っただけで、吐き気がした。(中略)

第十七章 タイピストたち
(中略)
 人から気づかれないという彼女(イリーナ)の才能は、人に気づかれずにはすまなかった。(中略)
 その夕方、CIA本部を出たイリーナは、十五番バスでマサチューセッツ大通りとウィスコンシン大通りの交差点まで行き、聖オルバンズ校を迂回して大聖堂の敷地の後方入口から入り、鉄の通用門を抜けて庭園のなかへそっと忍びこんだ。(中略)
 でも、わたしたちは知っている。チョーサーが定刻どおりに来て、イリーナが『ドクトル・ジバゴ』の入ったミノックスのマイクロフィルム二本を受け取ったことを。そして、彼女が二十番バスでテンレイタウンへ行き、アルバマール通りにある隠れ家にその荷物を無事に届けたことも。
 作戦の第一段階は、完了した。その一部はイリーナの功績だった。(中略)でも、イリーナの才能を伸ばしたのは男ではなかった。それをしたのはサリー・フォレスターだったのだ。(中略)

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斎藤美奈子さんのコラム・その66&前川喜平さんのコラム・その27

2020-08-27 01:29:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず8月19日に掲載された「続・WC株式会社」と題された、斎藤さんのコラムを全文を転載させていただくと、
「どうしてこんなに危機感がないんだ!
 ウィズコロナ(WC)株式会社の社員は心を痛めていた。過日、小会社の貨物船がインド洋航海中に座礁し、燃料の重油が大量に流出したのである。小会社の話とはいえ本社だって当事者だ。
 担当部署は国交部と外務部のはずだが、国交部長は通りいっぺんのことしかいわず、外務部長は海外出張中で不在。
 それならここは環境部長の出番だろう。海洋プラスチックゴミの削減を掲げ、レジ袋の撲滅にあれほど熱心だった部長である。きっと今度も…と期待して社内を探すと、環境部長のエコバッグ小泉はマスク姿で神社の参拝に行っていた。
 座礁から二十日以上、油の流出から十日近くたって出したコメントは「環境部としても他人事(ひとごと)でなく、傍観してはならないと考えている」。
 「ウチの会社は環境問題に関心がないのだろうか」。同僚に訴えると同僚はいった。「あるわけないでしょ。ウチの会社自体が海洋環境破壊に精出してるんだから」
 え、どういうこと?
 「沖縄でやってる埋め立て工事を思い出してみなさいよ。あれは何? 環境破壊以外の何物でもないでしょうが」
 沖縄のサンゴは移植ずみ、福島の海洋汚染はアンダーコントロールだと豪語した社長のステイホーム安倍の耳にはこの件が届いているのかどうかも怪しい。」

そして、8月26日に掲載された「忍者の窃盗?」と題された斎藤さんのコラム。
「伊賀・忍者博物館で金庫盗まれる 100万円以上被害」。二十日の新聞報道である。
 被害にあったのは三重県伊賀市の観光施設「伊賀流忍者博物館」。17日未明のできごとで、金庫には入館料など百万円以上が収められており、県警伊賀署は窃盗事件として捜査している。
 忍者博物館が泥棒に入られたんでは示しがつかぬと思ったが、この報道にSNS上すかさずついたコメントは…。
 甲賀しかないやろ。
 む、その線はあるな。なにせ事務所への侵入を告げる警報器が作動。三分後に伊賀署の署員が駆けつけたところ、券売所脇に置いていた金庫がなくなっていたというのである。この早業は忍者の仕業としか思えぬ。
 山田風太郎『甲賀忍法帖』は、ともに服部半蔵の配下にある伊賀忍者と甲賀忍者の精鋭同士が、家康の命で死闘をくり広げる希代の時代小説だった。今日の戦隊物のルーツじゃないかと私はにらんでいるのだが、まさか四百年後の今日まで因縁が続いていたとは。滋賀県甲賀市の「甲賀の里 忍術村」もこの際、伊賀忍者の報復に注意しておくべきかもしれぬ。
 むろん全部冗談です。伊賀の忍者博物館も、ちょっとシブいがまじめで楽しい観光施設だ。窃盗事件なんか起こすわけがございません。あとは伊賀署の精鋭部隊に任せるしかないやろ。」

また、8月23日に掲載された「Chariots of Fire」と題された前川さんのコラム。
「二十日の本紙に、英国の俳優ベン・クロス氏の訃報を見た。1924年のパリ五輪に出場した英国の陸上選手を描いた81年の映画「炎のランナー」(原題Chariots of Fire)の主演男優だ。さまざまなシーンが心によみがえった。
 ベン・クロス氏が演じたのは、78年に他界したハロルド・エイブラハムズという実在の人物。ユダヤ系移民でケンブリッジ大学の学生だった。彼が走るのは、差別をはねのけ、自分をイギリス人として認めさせるためだ。彼は金メダルを取り「英国の誉れ」とたたえられる。しかし、彼は国のためではなく、自分自身のために走ったのだ。
 もう一人の主人公は、エリック・エジンバラ大学の学生。宣教師でもある彼は、出場予定の競技が安息日だったため出場を拒み、皇太子の説得にも応じない。結局別の種目に出場して金メダルを取る。彼は国のためではなく、神のために走ったのだ。
 エイブラハムズの葬儀の場面で歌われる「エルサレム」。18世紀の詩人ウィリアム・ブレイクの詩の中に「炎の戦車」(Chariots of Fire)という言葉が出てくる。「私は精神の戦い(Mental Fight)をやめない」という言葉があとに続く。エイブラハムズもリデルもだ。「国家の名誉」などという空疎な目的のための戦いではなかった。」

 前川さんが言及している『炎のランナー』は公開当時、かなりの話題になりましたが、へそ曲がりの私は見逃していました。今後見る機会があったら、ぜひ見たいと思いました。