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田嶋陽子『愛という名の支配』その3

2020-07-31 10:32:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

・結婚制度は、ひとつには、男たちが女同士を分断するために考えだしたものです。女ばかりをいっしょにしておいたらなにが起こるかわかりません。団結して逃亡を企てるかもしれません。そこで、女のからだを拘束しただけではまだ安心できない男たちは、植民地支配の鉄則のひとつ、「分割して統治せよ」で、主人一人にドレイ一人、男一人に女一人を割りあてたのです。(中略)女は、結婚して相手を“主人”と呼ぶかぎり、自分は男の子分であり、ドレイであるということです。このドレイ船を漕ぐ女たちを、私は“主婦ドレイ”と呼んでいます。

・もし、ほんとうに男女が対等で、法律のうえでも平等だと言うなら、この結婚制度は民主的ではないし、憲法違反でさえあると思います。ただし結婚制度にはいった女の人は、男社会を助けますから、それなりに法律では守られていますが、でもそれは、人間としての事由の代償において、あくまでも男性に有利な制度の範囲内で守られているだけです。

・女性が性的な快楽を知ったら好きな相手を求める自由を欲するので、女性から性的自由を奪う必要があったのです。
 女性に性的快楽を知らせないですませるために、むかしから、西欧など世界中のいろいろな国で、女の子のクリトリスを切除する施術が行われてきました。クリトリスは男性のペニスに相当する部分で、いちばん敏感なところです。

・おなじドレイ仕事を朝昼晩やるのでも、少なくとも好きな人のためにやるのだったら、楽しいかもしれません。(中略)ですから、女がガレー船の船底にいるのであれば、ほんとうは恋愛結婚ほど男にとって得なものはないはずです。

・昔ばなしや説話を読むとよくわかりますが、むかしから女性は“歩く財産源”でした。女が人間を産んでくれるおかげで、労働力や兵士や、家などの後継ぎができたし、それだけでなく、女は快楽の道具でもあり、それに加えて、女はとてもよく働きました。子育てのほかに、家事と称して、掃除、炊事、洗濯、看護、老人の世話、家計のやりくりから畑仕事、縫いもの、近所づきあいまで、ありとあらゆる重要な仕事を、タダでやってきました。

・女の人の家事労働代は、国でも資産を出しています。1997年、当時の経済企画庁が出した家事労働代の試算は年平均276万円(月23万円)です。

・男社会は女にその代償を支払うシステムをつくっていません。そのかわり、「女は男に尽くすもの」という社会規範をつくって女の自己犠牲をよしとする教育をしてきました。その結果、1080年に出された国連の統計では、女が全世界の労働の三分の二を担っていて、それに対して支払われている賃金はたったの10パーセント。そして、女の財産は、たったの1パーセントだということです。

・「母性」は、甲板の上にいる男たちが船底の女たちに容認した唯一の権利であり、また、男社会が女に与えた唯一の権力でもあったということです。女がほかの権利や権力を主張したら、かならず頭をたたかれました。逆から言えば、男社会に連れてこられた女たちは、「母性」にすがって自己の存在価値を主張する以外、何も存在理由がなかったのです。

・「男らしさ」を生きることは、夢を生きることであり、人格をもったひとりの人間になることですが、「女らしく」なることは、「従順」や「ひかえめ」ということばを見てもわかるとおり、だれか相手がいてのことです。ひとりの人間としてどう生きるかどう成長するかではなく、相手をどうサポートするかということです。一生、男の補佐役と決められてしまうことでもあります。

・アメリカでは一時期、女の人は暴力をふるうと、「女らしく」ない、病気だ、と言われて精神病院に入れられました。「女らしく」なることこそ、じつは狭窄衣を着せられたのと同じことで、人間としては「不自然」で病的状況を生きることでもあるというのに。

・心もからだも男より弱くなるように文化的操作を受けた女は、男に対して自分の主張をとおしたければ、甘えるか、すねるか、泣くか、いずれにしろ子どものするように相手の愛情に訴えるしか方法がありません。あとは、美しさや性的魅力で相手を誘惑するか、です。たとえそれで相手が言うことをきいたにしても、そんな女と男との関係では対等なつきあいはできないということです。

・ですから、これから女の人は「男らしさ」のプラス面を、男の人は「女らしさ」のなかの、人の世話をしたり、面倒を見たり、といった細やかな生活自立の面を学んで、二人で一人になる補完的な関係から、一人一人が自立した人間になれる資質をとり戻すべきだと思います。

(また明日へ続きます……)

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田嶋陽子『愛という名の支配』その2

2020-07-30 14:24:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

・子どもにとって、母親はいちばん大事な人なのです。子どもは、そのいちばん大事な人にわかってもらいたくて(中略)必死なんですね。でも、絶対にわかってもらえない。神様なんです、子どもにとって、母親は。

・私は十代のころからキリスト教に興味をもち、二十代から三十代にかけて、キリスト教徒になろうかどうしようか悩んだことがあります。そのころの印象では、神様は、けっして答えてくれない。それに対して、人は、聖書を読みながら、どうやったら神様に愛されるだろうかって一生懸命になります。教えを守り、自分を変えようと努力し、自分の身を削り、自分をダルマにして、神様のごきげんをうかがう。神を慕い狂って、わかってほしい、わかってほしいって。でも、神様は黙ったまま。それなら、こちらから勝手に神様を理解させてもらうしかないのです。

・いまでも忘れられないのは、母が茶碗を洗いながら泣いていたことです。「どうしてお母さんだけが、朝昼晩、こうやって茶碗のおしり、なでてなきゃいけないの」と言って。

・国際化されているということは、個人を大事にすることだし、自分の考えを大事にすることだし、異質のものに対して理解と寛容性があることだし、それと拮抗しながら共存できることだと思うのですが、いわゆる主人と呼ばれる人たちの国際化はみんな、「ン?」と言って、ヌウッと出てくる主婦によって支えられているということです。

・民主主義の国だと言われていた古代ギリシア市民国家も、その民主主義はじつはドレイたちによって支えられていたのとおなじように、近代的で国際的な紳士たちも、じつは不払い労働にあけくれる主婦たちに支えられて、はじめてそれが可能になっているということなんです。

・しかし、せっかく都市にきた女の人も、“都会のどイナカ”に引きずりこまれる可能性があります。それは働くことをやめて、夫に養われながら、子育てと家事労働に埋没するときです。そういう従来型の良妻賢母になったとき、その夫との関係で、女は“どイナカ”にされてしまう。男という都市を背後から支えていく、あるいは、男の国際化を背後から支えていく、支えながら本人は自分をなくして“お化け”になり、その“お化け”が男とつくる関係が、“都会のどイナカ”になっていくということです。

・男は女にロマンチックにあこがれます。美化しないと、恋愛なるものもできません。男は女を尊敬していないし、人格をもった人間として認めていないからです。
 それは、なぜか。女は自立していないので、男より貧しくて、男に依存せざるをえない状況にあるからです。社会規範だって男を中心にしてつくられています。男が「右」で「正しく」て、それに照らして女は「左」で劣った存在と見なされています。「右」である男が外に出て働き、自分名義の給料をもらい、「左」と見なされる女はその男を助ける家事労働と子育てを不払いでやる。

・男たちのつくった父権制社会は、年功序列と位階制度と効率を中心とし、愛よりも暴力と脅しを核とした社会だったのではないか。男族は子どもを孕まないぶん、女より活動が自由で、稼ぎもたくさんあって蓄えができます。どんどん財産がたまります。すると、もっとほしくなる。そのためには、田畑を耕す人間や狩猟に出かける人間がもっと必要になります。(中略)すると、もっと豊かな土地がほしくなります。そこで、陣地とり戦争がさかんになり、そのためにたくさんの兵士が必要になります。そうなると、蓄えた土地や財産を後世に残したい、自分の名まえを永遠に残したいと思うようになり、血統にこだわるようになり、血筋の確かな跡取り息子がほしくなるというわけです。
 たくさんの労働者と兵士と子孫を増やすためには、効率よく子どもを手に入れる必要が生まれます。もうこれまでの夜這いではまにあわなくなります。女を手近に置いておいたほうが、なにかと便利だということに気づきます。そこから女の掠奪がはじまります。いまで言う拉致です。
 そして、産めよ増やせよ、地に満てよ、の思想が唱導されるようになり、キリスト教をはじめ、宗教から政治・文化とあらゆるものが、異性愛だけが正しいと主張しはじめます。

・男たちは、なんとかして女たちを逃がさないように、いろいろと工夫をこらします。まず、歩けないように女の足に細工することを考えます。アンデルセンの『赤い靴』のように女の足を切断してしまえばいちばんいいのですが、それではかえって足手まといになります。そこで、逃げられない程度に小さくしたのが、中国の纏足です。
 さらに服装で女のからだを拘束します。キモノやスカートがそれにあたります。同時に、モラルでも女のからだや心を拘束します。“処女崇拝”や“貞操”の観念も、そこから生まれてきます。

(また明日へ続きます……)

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田嶋陽子『愛という名の支配』その1

2020-07-29 11:19:00 | ノンジャンル
 田嶋陽子さんの1992年作品『愛という名の支配』を読みました。本文の中から、いくつかの文章を転載させていただくと、

・フェミニズムと言うと、「モテない女のヒガミだ」とか「よほど男にいじめられたんだろう」などという反応がかえってきたものだ。
 私のフェミニズムの原点は母である。
 私の母はきびしい人で、病気でベッドに寝たまま数年間、身動きできないでいたときでも二尺ものさしを使って私をしつけた。「勉強しなさい」と言う一方で、「勉強ができて何になる。女らしくしないとおヨメのもらい手がないからね」と反対のことばで脅した。私は母のことばでがんじがらめにされた子ども時代を送った。
 十八歳で東京に出て親元を離れてからも、私は母の見えない糸で支配されつづけていた。女であることが不自由で言いたいことも言えず、自分が自分でなかった。どうして私はこんなに苦しいんだろう、どうしてこんなに生きづらいんだろう、きっと私が人間として未熟だからなんだ、と苦しみつづけた。
 苦しみから解放されたくて、自分なりに母との関係、男との関係、社会との関係を考え、分析に分析を重ねた。そして自分が、ひいては女性全員が置かれている差別的状況をフェミニズムの立場できちんと理屈づけられたとき、私は救われた。長い時間がかかった。
 私を苦しめていた母も、その母から苦しめられていたことがわかった。母も祖母も、女性ということで、自分の生きたい人生を生きられないでいた。母たちは娘たちを支配することで、そのうっぷんを晴らしていたのだ。私が悪いわけではなかった。母が悪いわけでもなかった。
 女性たちを縛りつけている抑圧の輪が見えたとき、私は母を許すことができたし、それまで「どうして女の人はこうなんだろう」といぶかしく思っていたことも理解し、納得することができた。
 この本は、私に大きな影響を与えた母との葛藤と、そこから解放されるまでの過程で発見したことを描いている。女性を苦しめているものは何か、それを抜本から解き明かしていくなかで浮かび上がってきたものは、女性全体を一人残らず支配し尽くしている“構造としての女性差別”である。
 知ることはつらい。自分が差別されているなんて思いたくはない。だから逃げ出したくなるけれど、自分がどういう状況に置かれているのかわからない五里霧中のほうが、もっとつらい。まず知ること、それこそが、救われるための第一歩だと思う。

・子どもというのは、いちばん“ドレイ根性”を植えつけられやすい状況にいます。でも親の言うことはきかなければいけない。そうでないと、不良だとか、悪い子だとか、かわいくないとか、いろいろ烙印を押されてとてもつらい。(中略)子どもは親から逃げられないしくみになっているんです。ですから、親はそこにつけこもうと思えば、いくらでもつけこめるということです。

・しつけの名において、教育の名において、愛の名において、母親が子どもをいじめるというのは、母親自身の生き方の問題に大きくかかわっているということです。(中略)子どものためにしか生きることを許されていない人は、とても抑圧された人生を生きています。抑圧された人間は、うっかりしているとそれとは知らないで、自分よりもっと弱いものをひどい目にあわせることがあります。
 母は、抑圧されっぱなしで出口のない状況のなかにあって、やり場のない怒りと不満で心のなかが煮えたぎっていたんですね。その煮え湯をだれかにぶっかけたかった。だれかがそれで苦しむのを見たかった。それで溜飲が下がるような気になったのではないでしょうか。(後略)

・いじめの構造としてとらえれば、抑圧されている人、いじめられている人が、こんどは自分より弱いものをいじめるというような、学校で起きているのとおなじことが、家庭でも起きているということです。会社でイヤな思いをしてきたお父さんが、家に帰ってきて文句を言う。妻をなぐる、あるいは無視する。家計がどうのこうの、掃除がどうのこうのと文句を言う。すると、夫にいじめられたお母さんはこんどは、「あんた、なにやってんの、勉強したの」などと、子どもを叱りとばす。つぎに、その子は犬を蹴とばす。犬がいなければ、学校に行って抵抗しそうもない子を選んでいじめる。そういう構造になるんですね。

・人は、自分をいじめる人からのがれたいと思うと同時に、自分をいじめる人に対して自分の思いを伝えたい気持ちでいっぱいになるのです。なぜ自分をやさしく愛してくれないのか、なぜ自分の気持ちをわかってくれないのか。なぜ叱るまえに自分の言い分を聞いてくれないのか。(中略)その思いがひとつの愛のかたちにもなりうるんですね。

(明日へ続きます……)

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ハワード・ホークス監督『男性の好きなスポーツ』

2020-07-27 18:56:00 | ノンジャンル
 DVDで、ハワード・ホークス監督・製作の1964年作品『男性の好きなスポーツ』を観ました。山田宏一さんの『ハワード・ホークス映画読本』から文章を転載させていただくと、

 ハワード・ホークスの映画の女たちはまるで犯罪のように、あるいは事故のように、突発的だ。あるいはむしろ、火災のように思わぬ時にやってきて猛威をふるい、手がつけられなくなる。ピラミッドのなかに永久に閉じ込められたジョーン・コリンズをのぞけば、ホークス映画の女たちはみな、『赤ちゃん教育』(1938)の動物園(だったかサーカスだったか)の檻から逃げだした豹のように野放しにされたままの野獣といった感じだ。(中略)『男性の好きなスポーツ』(1964)のポーラ・プレンティスに至っては男(ロック・ハドソン)の婚約を当然のように事も無げにぶちこわしてしまうのだ。
『男性の好きなスポーツ』のロック・ハドソンの部屋に婚約者のシャーレン・ホルトがやってくる。そこへ、奥の寝室から、パジャマの上着のほうだけを甚兵衛風に羽織ったポーラ・プレンティスがねぼけまなこで出てくる。そして、おどろきもせずに、ごく自然な口調で、「あら、おはよう」などと言うのだ。これにはもちろん深い“わけ”があるのだが(なにしろ彼女はその前日の夜、眠り薬を飲んでそのまま眠ってしまったのだ!)、そんな事情を説明してロック・ハドソンがくどくど弁解したところで、婚約者のシャーレン・ホルトとしては納得できるわけがない。ついに、婚約解消である。ロック・ハドソンは髪の毛をかきむしって叫ぶ。「これは何かの間違いだ! 悪夢だ! 災難だ!」。
 そんな犯罪的なまでに破壊的な女たちがいかに美しく魅力的かということ(といっても、美しい女なら何をやってもいいというような、いわゆる女に甘い男の思いあがった妄言ではもちろんなく、まさに女が攻撃的、破壊的なるがゆえに美しくなるのだということ)を見せてくれるところが、ハワード・ホークスの映画ならではのおもしろさであり、新しさだ。
 ホークスの映画ほど単純明快な映画はないだろう。男のヒロイズムを讃えたアクション映画とその裏返しにすぎない男の幼児性をあばいたコメディーがホークス映画のすべてと言ってもいいくらいなのである。あるいはむしろ、コメディーのほうが中心で、アクション映画はその裏返しにすぎないのかもしれない。ホークスのデビュー作の一本と言っていいホークス自身のオリジナル・ストーリーによる『無花果の葉』(1926)がアダムとイヴすなわち世界最初の男と女を主人公にした「セックス・コメディー」あるいは女性と男性の戦争(ウォー)を描くという意味での「セックス・ウォー・コメディー」であったことを思いだすことにしよう。(中略)
『男性の好きなスポーツ』は釣りの名人として釣りに関するハウ・ツーもののベストセラーの作者であるありながらじつは一度も釣りの経験がないというロック・ハドソンが、ポーラ・プレンティスという“男釣り”の名手に逆に見事に釣られてしまうというコメディーだ。『赤ちゃん教育』のペットと間違えられた豹や『モンキー・ビジネス』の人間に代わって若返りのクスリを発明してしまうチンパンジーのように、この映画では熊がすまして自転車に乗って走り去ったり、釣りの名人気取りで竿で川魚を釣ったりして大活躍。ロック・ハドソンが奔放な美女たち(ポーラ・プレンティスとマリア・バーシー)にひどい目に遭うのである。(後略)

 ロック・ハドソンがこれでもかというほど虐められるのが軽快に描かれ、気軽に楽しめる映画でした。

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斎藤美奈子さんのコラム・その63&前川喜平さんのコラム・その24

2020-07-26 20:55:00 | ノンジャンル
恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず7月8日に掲載された「コロナの記憶」と題された、斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳・新潮文庫)が増刷に増刷を重ねて、ついに160万部を突破しそうだ。そりゃそうだね。これ1947年の小説だけど、今年のことが書いてあるからね。
 それと、デフォー『ペストの記憶』(武田将明訳・研究社)も今年のことを書いた本ですね。ちなみに『ペスト』(平井正穂訳・中公文庫)も原著は同じ。デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の作家でこれは1922年の本だけど、なんでそんな昔に今年のことがわかったんだろう。
 想像するにきっと誰かが未来のために記録を残していたんだろうね。
 ペストじゃなくてコロナはないの? はい、あります。『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(左右社)。これは正真正銘今年の本で、60種77人の4月の日記が収録されている。
 「お婆(ばあ)さん。今日も納豆、入荷しますからね」(ミニスーパーの店員さん)。「怖いからと言ってごみの回収を止める訳にはいかない」(ごみ清掃員)。「お葬式ができるって、ありがたいね」(葬儀社スタッフ)。「こんな絵が少しでも役に立てるなるのならと」(漫画家)。「また“哀(かな)しい人”が出てくる映画を作りたい」(映画監督)、
 いつか『コロナの記憶』が書かれる日が来たら、きっと貴重な一次資料になるだろう。読むだけで泣きそうだよ。今年すぎて。」

 また7月5日に掲載された「ヘイトスピーチ禁止条例」と題された前川さんのコラム。
「全国で初めてヘイトスピーチに刑事罰を科す川崎市の「差別のない人権尊重のまちづくり条例」が、7月1日全面施行された。6月28日本紙によれば、自民党の元参議院議員、斎藤文夫氏(91)が「コリアンだって長年苦労を共にし、地域の発展を支えてきた川崎市民だ」と、条例制定に向けて自民党市議らへの根回しに奔走したという。斎藤氏が日本会議にも属する保守政治家にもかかわらず、反ヘイトの信念を持っていることは注目に値する。
 大阪地裁堺支部は7月2日、岸和田市の不動産会社「フジ住宅」社内での「在日は死ねよ」などのヘイトスピーチ文書配布は違法だとする在日韓国人従業員の訴えを認め、同社と会長に損害賠償を命じる判決を下した。
 刑事でも民事でも、ヘイトスピーチの違法性は、こうした条例や判例によって明確化されてきた。しかし、国のヘイトスピーチ解消法は理念法にとどまっている。では、東京都ではどうか。
 6月27日にインターネット番組で行われた都知事選候補者の討論会で、罰則付きヘイトスピーチ禁止条例の制定を目指すかと問われ、宇都宮健児候補と山本太郎候補は「〇」と答えたが、小池百合子候補と小野泰輔候補は「×」と答えた。
 反ヘイトに右も左もない。小池氏は保守の先輩である斎藤氏に教えを請うべきだろう。」

 そして7月26日に掲載された「少人数学級とゆとり教育」と題された前川さんのコラム。
「安倍晋三首相の強い思い付きで始まった一斉休校は、日本中の子どもたちにとって大変な災難だった。学校は順次再開したが、子どもたちの受難はまだ続いている。
 「密」を避けるため、子どもたちは互いの間隔を空けなければならない。給食は黙って食べる。音楽では合唱ができない。フェースシールドを着用させられる子どももいる。
 学習の遅れを取り戻すため、一日七時間授業、土曜授業、夏休みの短縮、修学旅行の中止など、子どもたちはゆとりも楽しさもない。窮屈な学校生活を強いられている。このままでは不登校が激増するだろう。
 分散登校では、少人数のおかげで一人一人に目が届く丁寧な授業ができたという。だったら、これを新たな日常にすればいい。19日の本紙が紹介した市民団体の試算では、二十人学級実現に必要な予算額は約1兆円だという。二次補正の予備費の1割だ。財政的に不可能な数字ではない。
 授業時間は柔軟に考えよう。授業時間を大幅に増やした新学習指導要領で、今年の小学校6年生は年間1015時間の授業を受けることになっている。2010年度までの「ゆとり教育」では年間945時間だった。だったら、この授業時数を目安にすればいい。
 少人数学級とゆとり教育で、子どもたちはかなり救われるだろう。」

 どれも一読に値する文章でした。

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