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ハワード・ホークス『特急二十世紀』その1

2019-05-10 06:30:00 | ノンジャンル
 YouTubeで、ハワード・ホークス監督の1934年作品『特急二十世紀』を観ました。
 ここで山田宏一さんの著書『ハワード・ホークス映画読本』より「男女逆転、退行、倒錯、ハワード・ホークス的スクリューボール・コメディー」と題された文章の一部を転載させていただくと、

「『特急二十世紀』(1934)が1990年後半になって思いがけず、うれしいことに、突然ビデオ化され、その影響もあってか、つづいてテレビでも放映された。ハワード・ホークスのどの作品もそうだが、めちゃくちゃにおもしろい。呆気にとられてしまう。もっとも、映画好きでない人にとっては、単に愚劣な代物かもしれない。女と男のすったもんだの騒動を描いただけのコメディーだからである。「笑ひとスリルとロマンスを満載した超特急列車、人々の生活を楽しく朗らかにするために作られた、『或る夜の出来事』に続くコロムビア映画の真価を問う傑作!」と日本公開(1934)当時の広告の惹句にもうたわれているように、フランク・キャプラ監督の名作、『或る夜の出来事』と同じ年につくられたスクリューボール・コメディーである。
 スクリューボールとは、野球の変化球の一つを意味するスクリューボールと同じ語源でアメリカの俗語では奇人、変人のこと。クレイジーな登場人物たちが世にもクレイジーな騒動を展開するナンセンス喜劇が「スクリューボール・コメディー」で、映画がサイレントからトーキーになった1930年代に、それまでのチャップリン、キートン、ロイド、ハリー・ラングトンの四大喜劇王を頂点とする「スラプスティック・コメディー」に代わって生まれ、大流行したジャンルというのがほぼ映画史的な定義となっている。サイレント時代のスラプスティック・コメディーに比べて、(1)物語がしっかりと組み立てられている、(2)登場人物の性格づけが俳優から独立している(つまり、チャップリンやキートンのようなコメディアンを必要としないコメディーである)、(3)くりひろげられる出来事は派手だが、注意深く人間的な感覚で裏打ちされている(超現実的にはならない)、(4)これもまた人生の反映であると見る者をうなずかせる説得力を持っている、とブルームズベリー版「映画百科辞典」には説明されている。(中略)1934年に『或る夜の出来事』とともにこのジャンルが生まれ、というよりも、『或る夜の出来事』の大成功につづく同種のコメディーとして、同じコロムビア映画社で、あざとく、あわただしく企画され、実際、脚本は舞台劇がもとにはなっているもののわずか五日間で映画用に書き直されて三週間で撮り上げられたというのが『特急二十世紀』だったのである。(中略)
『特急二十世紀』の後半、列車のなかで「悔い改めよ。まだその時間はある」と書かれたステッカーを窓やらドアやらあちこちに、そしてさっと誰かれ構わずに(!)帽子や背中に貼りつけていたずら小僧のように走り回る小柄な老人(エチエンヌ・ジラルド)が出てきて笑わせる。プレストン・スタージェス監督の『パームビーチ・ストーリー(結婚五年目)』(1942)の冒頭に出てきてクローデット・コルベールにドル札を惜しげもなく投げ出す狂った老人(ロバート・ダドリー)をすでに予告するようなスクリューボール的な人物である。ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーのコンビが書いたブロードウェイの舞台劇(チャールズ・ミルホランドの「ブロードウェイのナポレオン」という戯曲が原作になっている)にすでに登場する人物なのかもしれないが、『紳士は金髪がお好き』(1953)に出てくる十歳ですでに人生にうんざりしている以上に大人びた少年(ジョージ・ウィンスロー)と表裏をなすナンセンスなホークス的人物でもある。(中略)
 心理的リアリズムなどとは無縁なホークス喜劇は、女も男もロマンスもすべて極端に類型化され戯画化されて嘘みたいなおかしさだ。女はとことん強く、男はとことん弱く、どうやっても男は女にかないっこないという教訓がつくお伽噺のようなものである。(中略)
 女の勝利と男の敗北が幸福な予定調和をなしているかのように見えるホークス喜劇のなかで、『特急二十世紀』は、(中略)男が一敗地にまみれながらも起死回生の勢いで果敢にも女とのラスト・ラウンドに挑戦する、荒唐無稽なまでにロマンチックな、壮絶なまでにクレイジーな、スクリューボール・コメディーだ。ある意味ではホークス喜劇の頂点と言ってもいいくらいである。(明日へ続きます……)