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和田誠『五・七・五 交遊録』その2

2011-08-31 06:09:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 そして60年代後半のある年の正月、『話の特集』のいつもの仲間で初詣をすませ、帰りに皆で矢崎さんのお宅に寄り、思いつきでその場で句会をやってみたところ、思いのほか楽しめ、その数年後にその時のことを思い出した矢崎さんと著者が始めたのが「話の特集句会」でした。「話の特集」の関係者に加え、その紹介で岸田今日子さん、またその友だちの冨士眞奈美さんというようにメンバーが揃っていきました。友竹正則さん、コピーライターの土屋耕一さん、中山千夏さん、下重暁子さん、山本直純さん、中村八大さん、吉永小百合さんらが参加したこともあったそうです。
 やがて著者は梧葉出版の本間眞人さんから句集を出さないかと誘われ、『白い嘘』と題する句集を出します。そしてその句集を知り合いに贈呈本として贈る際、扉の前の白いページに直筆で、贈る人にちなんだ句を書いたのですが、それが評判を呼んで、この本が出されることになったと著者は語ります。
 第二部では、実際に『白い嘘』の贈呈本に著者が書いた句が紹介され、その句に託された思いや贈られた方のプロフィールなどが説明されていきます。(また、場合によっては、贈られた方自身が「話の特集句会」で詠まれた句も紹介されています。)句を贈られた方の名前を、この本での紹介順に挙げていくと、まず小沢昭一さん、次いで吉行和子さん(彼女は民藝の出身なのだそうです)、中山千夏さんや矢崎泰久さんのマネージャーをされている鈴木敬子さん、イラストレーターの矢吹申彦さん、白石冬美さん、小室等さん、永六輔さん、イラストレーターの田村セツ子さん、もとNHKのアナウンサーだった下重暁子さん、矢崎泰久さん、グラフィックデザイナーであり、現在はワインの権威として有名な麹谷宏くん、岸田今日子さん(眠るのが好きだったという彼女のエピソードは、ちょっと感動的です)、黒柳徹子さん、中山千夏さん、コピーライターで回文やアナグラムを作るのが得意だったという土屋耕一さん(「力士手で塩なめ直し出て仕切り」「品川に今住む住まい庭がなし」といった回文から、「古池や蛙とびこむ水の音」のアナグラムで「お岩跳びずずと毛のこる闇深む」という怖いものを作られたことなどなど)、冨士眞奈美さん、俳優で現在劇団黒テントの代表でもある斎藤晴彦さん、イラストレーターの山下勇三くん、作曲家の櫻井順さん、指揮者の岩城宏之さん。以下はイラストレーションの仲間として、蓬田やすひろさん、舟橋全一くん、峰岸達くん、湯村輝彦くん、安西水丸さん(ブルーウィローといういい話もここでは語られています)、灘本唯人さん(鹿児島で特攻隊として飛び立つ仲間を何度も見送り、みんな帰ってこなかったから、もう飛行機がなくなり、自分の番は回ってこなかったという経験をお持ちの方です)、銅版画の名手・山本容子さん、南伸坊さん、山口はるみさん、横尾忠則くん、下谷二助さん、井筒啓之くん、唐仁原教久さん、長友啓典くん、ささめやゆきさん、宇野亜喜良さん。また文筆家・編集者・音楽家・演劇人として、舞台美術家の妹尾河童さん、「生命誌研究館」館長の中村桂子さん、構成作家・演出家の高平哲郎さん、詩人の高橋睦郎さん、阿川佐和子さん、ジャズピアニストの佐藤允彦さん、山本直純さん、編集者の浜美雪さん、英文学者・劇評家の小田島雄志さん、編集者の松田哲夫さん、丸谷才一さん、井上ひさしさん、俵万智さん、書店「トムズボックス」の店長・土井章史さん、編集者の松浦伶さん、ぬいぐるみ作家・童話作家・詩人・画家の小薗江圭子さん、三谷幸喜さん、ジャズピアニストの八木正生さん、児童文学の今江祥智さん、島健・島田歌穂ご夫妻です。(また明日へ続きます‥‥)

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和田誠『五・七・五 交遊録』その1

2011-08-30 06:23:00 | ノンジャンル
 先日、「ムーミンと仲間たち」展を見に山梨県立美術館へ、その後、昇仙峡へも行ってきました。前者では、ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの数々の写真や魅惑的なムーミンの原画、そして第二次世界大戦時に彼女の母国フィンランドを侵略したソ連への批判などを含めた風刺画を見て、彼女のトータルな世界に触れることができ、また後者では、自家用車で楽しめる渓谷美と、その先の「石門」や見事な仙娥滝、そしてそのまた上流の荒川ダムの奥の秘境「板敷渓谷」にある、これまた見事な大滝を見ることができ、大満足でした。秋には母を連れて昇仙峡を再訪し、紅葉の渓谷美と、今回は行けなかった昇仙峡ロープウェイ、影絵の森美術館を訪れようと思っています。

 さて、朝日新聞で紹介されていた、和田誠さんの'11年作品『五・七・五 交遊録』を読みました。折々に読まれた俳句と、それについて説明する文章によって綴られた著者の半生記、及び交遊録です。
 第一部では、著者がこの本を出すまでの半生記が書かれています。
 著者の幼い頃、著者の親戚の有志は俳句の会を作っていました。それも一堂に会して句会を開くというのではなく、持ち回りの幹事が兼題と締切の日を決めて、それに従って同人は句を読み、幹事の家に五句ずつ送り、幹事は全員の句を無記名でバラバラに並べ、謄写版で刷って綴じ、同人の家に送り、9つの家族からなる24人の同人がそれぞれいいと思った七句を書いて幹事に送り返し、幹事はそれを集計して順位と作者を発表する「選句集」を作って同人の家に送るというものでした。これが月一回行われ、著者は昭和17年に発行された1年分の冊子を発見して、記憶が確かだったことを知ります。そこにはまだ6才だった著者の句が「特別寄稿 雑詠六句」として掲載されていて、その一つは「シロサイテ アカハツボミノ アザミカナ」という写生句でした。句会の同人は著者の母方の親戚に限られ、父方のほうは教員とか僧侶とかいった堅物ばかりでしたが、著者の父は築地小劇場の創立メンバーで、音響効果担当だったため、後にNHKでラジオドラマの演出も手がけ、母方の親戚と付き合うほうが気がおけなくて好きだったようだとのことでした。戦後著者が預けられた母方の祖母は、よく著者を寄席や歌舞伎に連れていってくれ、その祖母の若い頃の連れ合いは文庫本を最初に売り出した人でした。回文や「江戸しりとり歌」といったものを著者に最初に教えてくれたのも母方の祖母で、その祖母の一番下の妹の連れ合いが俳句の好きな趣味人だったりと、母方の親戚は軟派系というかエンターテイメント系だったのでした。
 著者は幼い頃から創作意欲旺盛で、高校の頃はパロディに凝ったりしました。勉強は全くできませんでしたが、高校の世界史の小沢先生が、著者が試験の答案の裏に描いた試験官の似顔絵に点をくれ、それによって著者は勇気づけられます。小沢先生は海軍の一員として戦争で悲惨な体験をくぐり抜けてきた方でした。
 多摩美の図案科(今でいうデザイン科)を卒業し、デザイン会社ライトパブリシティに入社した著者は、その4年後に編集者であり企画者でもある矢崎泰久さんと知り合い、やがてアート・ディレクターとして彼の企画した雑誌『話の特集』で仕事をすることになります。その時に著者がその仕事に引き込んだ仲間は、イラストレーターの横尾忠則、宇野亜喜良、山下勇三、カメラマンの立木義浩、篠山紀信という、今考えると錚々たる面々。文章を永六輔さんに頼むと、彼は小沢昭一さん、黒柳徹子さん、渥美清さんを紹介してくれ、創刊号の読者カードに感想を書いて送ってくれた植草甚一さんも後に執筆陣に加わります。矢崎さんが獲得した執筆者は小松左京、野坂昭如、栗田勇、寺島修司、井上ひさしといった面々でしたが、中でも麻雀小説でメジャーになっていた阿佐田哲也さんを純文学の色川武大として復活させた矢崎さんの功績は大きいと著者は書いています。(明日に続きます‥‥)

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ウィリアム・ディターレ監督『ジェニーの肖像』

2011-08-29 06:09:00 | ノンジャンル
 ウィリアム・ディターレ監督の'48年作品『ジェニーの肖像』をDVDで再見しました。
 1933年冬のニューヨーク。売れない若い画家アダムズ(ジョセフ・コットン)は、スピニー(エセル・バリモア)とマシューズが共同経営する画廊に絵を持ち込むと、マシューズは風景画は売れないと断りますが、彼のことを気に入ったスピニーは花を描いた絵を1枚買ってあげます。
 夜のセントラルパーク。アダムズはベンチにクシャクシャにされた紙切れを発見し、拾おうとすると、「それは私のよ!」という声がし、遠くから学生服姿の少女が駆け寄ってきます。彼女はジェニーと名乗り、両親は芸人で既に閉鎖されているはずのヴィクトリア座で綱渡りをしていると話します。彼の絵を見せてもらった彼女は、風景画ばかりではなく人物画も描くといいと言って立ち去り、アパートに戻ったアダムズはさっそく彼女の顔のスケッチを描き始めます。
 徹夜でスケッチを仕上げたアダムズは、翌朝彼女が置いていった紙切れが1910年の新聞であること、その新聞にジェニーの両親であるアプルトン夫妻が出演しているヴィクトリア座の広告が掲載されていることを発見し、新聞紙の中からはスカーフも出てきます。できたスケッチを画廊へ持っていくと、マシューズはそのスケッチを絶賛して高値で買い取り、絵を描いていく上で自分に足りないものは何かとアダムズがスピニーに尋ねると、スピニーは少女から受けた刺激が答えになるだろうと言います。
 気晴らしにセントラルパークの野外スケート場にアダムズが行くと、ジェニーがまた現れますが、背が急に伸びていました。アダムズがスカーフを返そうとすると、彼女は「私は早く成長するから、私が大人になるまで、あなたが持っていて」と答え、今度一緒に両親の働くヴィクトリア座に行く約束をして、二人は別れます。
 約束した場所にジェニーは現れず、アダムズは自力で彼女の両親のことを調べようと決心します。1910年当時ヴィクトリア座で衣裳係をしていた女性に会いに行くと、アプルトン夫妻の資料とともにジェニーの写真も見つかり、アプルトン夫妻はジェニーの目の前で綱渡り中に綱が切れて転落死したこと、その後ジェニーは叔母によって修道院へ預けられたことが分かります。
 夜のセントラルパークで、両親の死を嘆くジェニーに再会するアダムズ。彼の慰めと励ましによって気を取り直した彼女は「私は何かを探している、そしていつか必ずそれは見つかる」という言葉を残して、また姿を消します。
 そして長い冬が過ぎ、春がやって来ますが、ジェニーへの思いに捕らわれたアダムズは無為に日々を過ごすしかありません。ガスに紹介された壁画の仕事を何とか仕上げた彼がアパートに帰ると、大人になったジェニーがやっと彼の前に現れます。すぐに彼女の肖像画に取りかかるアダムズ。ついに絵が完成しますが、彼女は夏を病気の叔母と過ごさなくてはならないため、結婚はその後まで待ってくれと言います。朝までアダムズと過ごしたジェニーでしたが、スカーフを返してもらった彼女は「必ずまた会える」という言葉を残して、また忽然と姿を消します。
 そして約束の秋がやってきます‥‥。

  以前深夜にテレビで短縮版を一回見ただけでしたが、冬のニューヨークの日差しの中、スケート場に現れるジェニファー・ジョーンズのシルエットの美しさが鮮烈に印象に残っていて、今回見直してみて改めて、ジョセフ・オーガストによる画面の繊細な美しさ、ジョセフ・コットンによるモノローグの美しさに魅せられました。ジェニファー・ジョーンズのみならず、ジョセフ・コットン、エセル・バリモアにとっても代表作の一つとなるのではないでしょうか? 私にとっては『旅愁』とともに忘れがたい、ウィリアム・ディターレ作品です。なお、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)の「Favorite Movies」の「その他の傑作」の場所に詳しいあらすじをアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

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西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』その2

2011-08-28 06:10:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 予備校生時代に自分の絵の実力のなさを知ったわたしは、とにかく金を稼げればどんな仕事でもやる覚悟で、出版社を回れるだけ回って仕事を探し、エロ本の出版社で仕事がもらえるようになり、それからは高知県人特有のサービス精神の甲斐もあって、やがて大学3年生の時、目標としていた「絵の仕事だけで月収30万」を得ることができるようになります。その際に原動力となったのは、お金がなくて罵り合う両親、借金のために死んでしまった父親、学校を辞めさせられて何もかもなくして、いられなくなった田舎といった、あの場所にもう戻りたくないという強い思いだったのでした。
 そして大手の出版社のメジャーな週刊漫画雑誌「ヤングサンデー」での『ちくろ幼稚園』で漫画家デビュー、麻雀を題材にしたギャンブル漫画『まあじゃんほうろうき』を書き、ギャンブルの罠に一時はまるも、ギャンブルの師匠・銀玉親方と戦場カメラマンだった元夫の鴨ちゃんのおかげで、その泥沼から生還、高級なレストランや敷居の高い料亭に潜入ルポした『恨ミシュラン』で現場取材の面白さに目覚め、スタッフの支援もあって、どん底の人間が持つ「正しいことは正しい」と言える「気概」を示すことに成功します。
 そして鴨ちゃんとともに、自分が育ってきた場所よりも、もっと貧しい、もっと大変な暮らしがあるアジアの国々を旅して、そこで生きている子供たちのことを漫画に描くようになり、貧困が貧困を生む社会システムに思いを馳せ、バングラデシュで始まっていたグラミン銀行の試みに希望を託します。
 最後に鴨ちゃんとのこと。鴨ちゃんはアル中のお父さんを心から憎んで育った過去を持ち、わたしとの結婚後、自らがアル中となってしまい、わたしのことをひどい言葉で罵るようになります。そしてわたしは離婚を決意。その後、彼は自力で更正施設から生還し、わたしたちの元へ帰ってきて、彼が子供の頃から欲しくても手に入れられなかった「暖かな家族との暮らし」をやっと手に入れることができたのも束の間、半年後にガンで亡くなります。しかし、わたしは彼をちゃんと看取ることができ、子供たちにもお父さんのいい記憶だけを残せたことで、貧しくて、かなしい出来事をたくさん見てきた子供時代のあの場所から、家族の笑顔がある場所、幸せで安心な我が家にやっとたどり着けたと思うのでした。

 西原さんの実人生を一気に読ませていただきました。ラストは読んでいて胸締めつけられる思いでしたが、それ以外にも、高知には「酔ってバカなことしてはじけて、なんぼ!」という「酔狂」という価値観が存在すること、ギャンブルでは「負けてもちゃんと笑っていること」というのが基本中の基本のマナーであること、失敗をして普通だったらしょんぼりして当たり前のところを「笑い」に転化するのは生きていく上で大切な知恵であること、「お金の話をするのは下品なことだ」という教育は、従順な従業員を企業が得るための一助となっているということ、嬉しいことばかりの暮らしを続けていると、嬉しいことの中に不満の種を探すようになり、「これじゃなきゃいやだ」という我が儘な子供ができあがるということ、給料が高い仕事というのは、その仕事をする際に被る「ガマン」料がコミになっている場合が多いということ、「いくらがんばっても、どうにもならない」という状況に追い込まれたら、思い切ってそこから逃げ出し、心と体を休めて、ちゃんとものが考えられるようになってから再出発すればいいということ、人の気持ちと人のカネだけはアテにしてはいけないということ、「カネとストレス」「カネとやりがい」のバランスの間に自分のやりたい仕事を見つけ、それでも見つからないということであれば「人に喜ばれる」仕事を探すと、結構長続きするということ、貧しい国を旅していて、その国の状態を知るには「汁そば一杯いくらですか?」「玉子一個、いくらですか?」「人ひとり殺すと、遺族への賠償金としていくら払えばいいのですか?」という3つの質問が効果的であることなどなど、「勉強」になることがたくさんありました。若い人に特に読んでほしい本だと思います。

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西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』その1

2011-08-27 04:32:00 | ノンジャンル
 朝日新聞で紹介されていた、西原理恵子さんの'08年作品『この世でいちばん大事な「カネ」の話』を読みました。「カネ」をキータームとして書かれた西原さん自身の半生記です。
 わたしは、高知県の漁師町で、酒乱の夫から息子を守るために離婚したばかりのお母さんから生まれます。幼少期を過ごしたおじいちゃんおばあちゃんの家は、でっかい大平洋の真ん前で、その頃の暮らしは、今思い出しても胸の奥があったかくなる感じでした。子どもたちは海の幸を遊び道具とし、南極海から「子どものお土産に」と漁師さんが勝手に連れて来てしまった「野良」ペンギンがいたりもするというのどかさ。気候がよくて、食べ物に困らなければ、お金なんかそんなになくたってカリカリしないで暮らしていけるということを、後になってわたしは知るようになります。
 しかしお母さんが新しいお父さんと再婚し、殺伐とした工業団地に住むようになると様子が一変します。お金がない主婦たちは殺気立っていて、太っていて、長持ちさせるため強いパーマをかけた結果、髪型が皆パンチになっています。それまで穏やかだったうちのお母さんも、朝からけたたましい勢いで怒るようになり、その頃のお母さんの笑顔を、わたしは思い出せません。新しいお父さんは、わたしのことを猫っかわいがりしてくれましたが、バクチばかりして家にほとんど帰ってこないため、やがてお金がなくなり、両親のケンカが絶えず、その仲裁に疲れたわたしは、ある日、学校で孤立していたオカマのリョウくんと見に行った映画『イージーライダー』と『真夜中のカウボーイ』に魅了され、疎外感に悩まされていたわたしは「誰にでも、自分の心にちゃんとしっくりくる世界があるんだ。もしないなら、自分でそういうものを作っちゃえばいいんだ!」と思えるようになります。
 わたしが住んでいた町の荒廃ぶりは半端なく、どの家にも窓ガラスがなく、一部屋に9人住んでいるなんて家もざら、子供たちは何日も風呂に入れてもらえずに垢で薄汚れて真っ黒、服もよれよれ、生長すれば「不良」への道をまっしぐら。貧しさから様々なものを奪われた大人は、やり場のない怒りを溜め込んで、それを子供への暴力という形で発散させ、子供たちはそんな家にいられず、かといって学校も面白くないので、先輩のアパートなどの転がり込み、やがて女の子たちは、いい目が見られる若いうちに町から出ていってしまい、そんな選択もできない男の子たちは、意味なく地元で暴れ回る。わたしは、お父さんが事業を起こして一時それが成功したため、中学からお嬢さん学校に入れられましたが、校則が厳しく体罰も日常茶飯事のその学校が大嫌いで、「絵空事」のウソくさい説教ばかりする先生たちも好きになれませんでした。
 飲酒がばれて理不尽に高校を退学させられたわたしは、お父さんの後ろ楯を得て、学校と裁判で戦いましたが、わたしが大検に受かったため、高校が和解金を支払う代わりに退学することを了承します。その後、お母さんの勧めもあり東京の美大を受験しますが、受験日当日にお父さんが首を吊って自殺。お父さんは周囲には見栄を張ってハデな生活を続けていたのですが、実はバクチで全財産を失い、最後にはお母さんが子供たちのためと思ってコツコツと溜めて来た財産にまで手をつけようとして、お母さんに暴力を振るった末の自殺でした。お父さんに殴られて腫れ上がった顔と頭で、葬式にやって来た債権者たちに頭を下げ続けていたお母さんは、残った財産から何とか掻き集めた140万円の現金のうち、美大に受かったわたしに100万円を持たせて、東京への送り出してくれます。(明日へ続きます‥‥)

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