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いとうせいこう『想像ラジオ』

2014-07-31 11:11:00 | ノンジャンル
 朝日新聞の特集記事で紹介されていた、いとうせいこうさんの'13年作品『想像ラジオ』を読みました。
 東日本大震災による津波で高い杉の木の天辺近くに引っ掛かり死んだ30代の男性が妻と幼い息子に呼びかけて始まったラジオ放送が1、3、5章に書かれ、2章にはその男性が津波に押し流されていくのを見た女性の話が、4章にはその男性と妻との会話が書かれています。
 第一章の書き出しを引用させていただくと、
「こんばんは。
 あるいはおはよう。
 もしくはこんにちは。
 想像ラジオです。
 こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に早朝の僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。
 でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。ていうかもう凍えてます。赤いヤッケひとつで、降ってくる雪をものともせずに。こんな夜更けに聴いてくれてる方々ありがとう。
 申し遅れました。お相手はたとえ上手のおしゃべり屋、DJアーク。もともと苗字にちなんだあだ名だったんだけど、今じゃ事情あって方舟って意味の方のアークがぴったりになってきちゃってます。
 そのへんはまたおいおい話すとしてこの想像ラジオ、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。僕はマイクの前にいるわけでもないし、実のところしゃべってもいない。なのになんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかって言えば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです。
 事実、いかがですか、僕の声の調子は? バリトンサックスの一番低い音なみに野太い? それとも海辺の子供の悲鳴みたいに細くて高い? または和紙の表面みたいにカサカサしていたり、溶けたチョコレートなみに滑らかだったり声のキメにも色々あると思いますが、それ皆さん次第なんで一番聴き取りやすい感じにチューニングして下さい。
 ただひとつ、僕の声は誰のものとも似てないはず。たとえデビューしたての新人とはいえ、そこはラジオ・パーソナリティの意地として譲れないところ。
 てなわけでリスナー諸君、最後までどうぞよろしく。

 想ー像ーラジオー。

 番組のジングルが高らかに、あるいはしっとりと、もしくは重低音で鳴ったところで、ちなみにヒントを出すと、意外に僕は年齢行ってます。ええと、今年で三十八。もっと若いと思ってました? もしそうならうれしいですね。声に張りがあるってことだから。もうとにかくこの年になると、なんでもポジティブに受け止めていかないと、社会にガンガンへこまされますんでね。あはは。‥‥」

 ラジオのDJの部分はこのように飄々としていますが、読むにつれ、段々被災者の悲哀が読み手に切々と伝わって来る小説でした。

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フランソワ・トリュフォー監督『二十歳の恋 アントワーヌとコレット』

2014-07-30 09:28:00 | ノンジャンル
 フランソワ・トリュフォー監督の'61年作品『二十歳の恋 アントワーヌとコレット』をWOWOWシネマで再見しました。
 “パリ”“フランソワ・トリュフォー”の字幕。目覚まし時計で目覚めたアントワーヌ(ジャン・ピエール・レオー)はベッドに入ったまま、タバコに火をつけると、ラジオを消し、「フランス青年音楽同盟」のポスターの前に置いてあるレコードプレイヤーでレコードをかけ、クラシック音楽を流します。窓を開け、外気を吸うアントワーヌ。「アントワーヌは17歳。家出常習犯で少年鑑別所に送られ、そこを脱走し、連れ戻され、若い精神科医のおかげで更正。自立し音楽好きなことからレコード会社に就職し、生活費を得ている」というナレーション。バスに飛び乗り、出勤したアントワーヌは、タイムカードを押すと、ロッカーで作業着を着て、レコードをジャケットに入れる作業に付きます。
 青年音楽同盟の会員である彼はコンサートの招待券をもらい、証券取引所で働く親友ルネと例会に行きます。ルネの部屋でタバコを吸い、それをルネの父親に見つかったことを回想する2人。
 コンサートでアントワーヌは咳をした若い女性コレットの足に見とれ、盛んに彼女に視線を送ると、彼女も指をくわえながらアントワーヌに視線を送り返してきます。コンサート会場を出て、コレットのことをルネに話すアントワーヌ。
 “1週間後”の字幕。「今週は3回も彼女に会った」とアントワーヌがルネに言うと、ルネは「いよいよアタックする時が来たな。僕も好きないとこがいるが、長い髪を切ってしまうというので、髪が短くなってから告白することにする」と言います。アントワーヌはコレットに話し掛けることに成功し、2人で一緒に帰ります。彼女の電話番号を聞き出すアントワーヌ。
 「アントワーヌはコレットに本やレコードを貸すようになり、カフェで長時間話し込み、お互い送りあって家の前で立ち話しするようになったが、友達の域を出なかった」のナレーション。「はじまったばかりの恋の行方は?」という歌が一瞬流れます。
 音楽の講義にコレットが来ないので、アントワーヌは彼女の家に向かい、灯りがついているのを確認し、翌日公衆電話から電話しますが、夕べはパーティーがあり、今晩もみんなと会う約束があるとコレットは言います。
 アントワーヌはコレットの家へ本と手紙を届けに行くと、出てきたコレットの母は「あなたが噂のアントワーヌなの?」と言って、迎え入れてくれます。コレットの父と談笑するアントワーヌ。アントワーヌはコレットの両親に今度夕食にと誘われます。
 コレットから返事をもらうアントワーヌ。コンサートの後、アントワーヌは荷物をまとめて部屋を出て、新しい部屋に引越します。窓から通りを眺めていると、コレットと両親が車で帰ってきて、自分たちの向かいにアントワーヌが引越してきたことに気付き、彼の部屋を見に来ます。コレットの家での4人の食事。通りを隔てての窓と窓との会話。「アントワーヌはよくコレットの両親に招かれるようになり、コレットはこれまでと同じように毎晩外出し、親密にはなれなかった」のナレーション。
 アントワーヌはコレットを講演会に誘いますが予定があると断られ、夜の映画も宿題があると断られ、5分だけと言っても別の日にと断られます‥‥。

 アントワーヌとコレットが出会うコンサートの場面は、サイレントで視線が飛び交うサスペンスあふれる場面で、この映画と同じ年にヒッチコックが撮った『知りすぎていた男』を彷佛とさせました。なお、上記以降のあらすじは、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Movies」の「フランソワ・トリュフォー」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

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西加奈子『ヘビ』

2014-07-29 10:36:00 | ノンジャンル
 '08年刊行の短編集『こどものころにみた夢』に収録されている、西加奈子さんの『ヘビ』を読みました。
 ばあちゃんは俺んちに一緒に住んでんだけど、ちょっと頭がおかしいんだよ、お母さんが「ちほうしょう」だって言ってた、だからばあちゃんがどこか行きたい、てなったらさ、誰かが付いてってやんなきゃならない。中松商店に行きたいって言いだしたのはばあちゃんなのに、着いた途端「ほらヨウ君、着いたよ。何が食べたい?」なんて聞いてくるから、嫌んなるぜ。俺がおねだりしたみたいじゃんか。まあ何か買ってくれるって言うから、アイス買って、て言ったんだよね。財布から百円出したとき、そんとき、ばあちゃんが言ったんだ。「ばあちゃんの財布には、ヘビが入ってるんだよ」ってね。ああ、ばあちゃんもう、本格的に頭おかしくなったんだなぁって、そんとき思ったよ。
 ばあちゃんが死んだのは、本当に急だった。ばあちゃんの死体は居間に寝かされて、俺らは隣の部屋で寝たんだ。そんなこと初めてだったから、なかなか眠れなかった。
 で、夢を見た。ばあちゃんの財布、七福神が刺繍されたガマ口の財布の中から、大きいヘビがにょろにょろ出てくんだ。そいつがばあちゃんを頭から食べちゃうわけ。周りを見たら、クラスの皆が野次ってる。「おい、男らしさを見せろ!」なんつってさ。だから、「男らしさ」発揮しなきゃと思って、何か戦える武器はないかって探すんだけど、ないんだ。ああもう、やけくそだ、と思って、パピコ。パピコでヘビを刺すんだよ。パピコだぜ、そこがまあ夢って感じだけど、なんだかものすごくでかくなってんのよ、パピコが。えいやー! えいやー! 段々疲れてきてさ、そのとき、ヘビがギッと、俺を睨むんだ。「おい坊主、それだけか」て。「お前みたいなチビに負けるかい」て。ひるんだね、完全に。そんときだね、ばあちゃんの声が聞こえるんだ。振り返ったら、ばあちゃんがこっちを見てんだよ、無気味だったね。そして、言ったんだ。「ヨウ君はちっとも小さくなんてない」て。
 そこで、目が覚めた。
 思い出して、ばあちゃんの部屋に行った。そこには、ばあちゃんがいつも持ってた、茶色いカバンがある。俺はそれを開けた。中に、七福神の財布が入ってる。俺が財布を開けると、小銭ばっかりだった。五円、一円、百円、十円。そして、なんか気色悪いもんが入ってた。茶色くて、干からびてて、ペラペラした紙のようなもの。なんだこりゃ。思ってたら、ガラッと扉が開いて、お母さんが立ってた。「ヨウ、何してんの?」なんて言うから、俺あせっちゃってさ。思わず言ったんだよ。「俺、俺、これがほしくって」。お母さんは俺が手にしてるその茶色いものをじっと見て、「ああ、ヘビの皮ね」と言った。「それ入れとくと、幸せになるんだってね。ヨウ、そんなこと、信じてるの?」
 なんだよ、ヘビの皮かよ。ばあちゃん、説明足りないよ。お母さんが扉を閉めてからも、俺はしばらく、それを見つめてた。そんで、絶対、誰にも言いたくなかったんだけど、泣いた。なんでだよ、ばあちゃん。言ってくれよ、ヘビの皮入れとくと、幸せになれるんだよ、て。俺だって、ばあちゃんのことボケてるって思ってたけど、聞いてやることくらいは出来たんだぜ。ばあちゃんの前だけは、俺は自分のこと「俺」って言えたし、ばあちゃんは「ヨウ君はちっとも小さくなんてない」って、言ってくれたんだ。夢ん中まで。
 ばあちゃん、俺、クラスでも相当小さいんだ、だから馬鹿にされるんだ。
 「大丈夫、ヨウ君はちっとも小さくなんてない」。
 七福神の刺繍は、汚くて、ほとんど見えなくなってた。その中でひとり、なんとか顔が見える神様がいた。そいつは、なんだか、ばあちゃんに似ていた。お母さんがもう一度呼びに来るまでには、泣き止まないと。俺はゴシゴシと目をこすって、もう一度ヘビの皮を見た。シワシワのそれは、まるでばあちゃんの皮膚を、剥ぎ取ったみたいだ。

 ほのぼのとした味わいのある短編でした。

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フランソワ・トリュフォー監督『あこがれ』

2014-07-28 09:30:00 | ノンジャンル
 フランソワ・トリュフォー監督の'57年作品『あこがれ』をWOWOWシネマで再見しました。
 ベルナデット・ラフォンが自転車でこちらに向かってくるところを縦の移動で捕えた画面をバックにオープニング・タイトルが下から上に流れます。彼女が山道を下っていくと、カメラは俯瞰でパンし、それを眺める子供たちの姿を捕えます。「ベルナデットは僕らの憧れと欲望の対象だった」という主旨のナレーション。森の中を走っていくベルナデットをパンで捕らえるカメラ。彼女は木に自転車を立て掛けて、湖に降りていきます。その自転車に駆け寄り、サドルの匂いを嗅ぐ子供をスローモーションで捕らえるカメラ。湖からベルナデットが上がって来ると、子供たちは逃げ去ります。再び自転車をこぎ出すベルナデット。たなびくスカート。
 「ベルナデットは学校の先生であるジェラールに恋していた」という主旨のナレーション。コロッセオを思わせる場所で待ち合わせるベルナデットとジェラール(ジェラール・ブラン)。2人がキスすると、それを遠くから見ていた子供たちは、しきりに野次ります。2人が移動すると、子供たちもそれを追いますが、曲り角で鉢合わせになり、ジェラールに追い払われます。俯瞰で子供たちの動きを捕らえるカメラ。柵を乗り越える子供たち。やがて子供たちはマシンガンによる銃撃戦のマネを始め、倒れた子供はカメラの逆回しで起き上がります。次々に倒れる子供たち。
 テニス場で水撒きをしている老人。子供がホースを踏み、突然水が止まったことで、老人がホースを覗くと、子供がホースを踏むのを止めて、老人はホースの水を浴びます。怒って子供に水をかける老人。テニス場では、ベルナデットとジェラールがテニスをしています。ベルナデットのむき出しの足に魅了される子供たち。たまにボールが逸れてテニス場から出てしまうと、それを追ってベルナデットがやって来て、子供たちは彼女を間近から見ることができます。その一瞬のため、延々と2人のテニスを見守る子供たち。
 ジェラールは道行く男性にタバコの火を借りようとすると、その男は激怒し、断ります。次の男から火を借りるジェラール。
 ジェラールはベルナデットの家を訪問し、2人で出かけます。それを追う子供たち。子供たちは2人に復讐するため、壁に「ベルナデットとジェラールは死んだ」と落書きします。
 ベルナデットとジェラールがお互い自転車に乗り、郊外に出かけると、子供たちも3台の自転車に相乗りし、歌を歌いながら彼らを追います。ベルナデットとジェラールが自転車を降り、ジェラールが「君の肉体がほしい」と言うと、ベルナデットは笑いながら逃げます。それを追いかけるジェラール。2人が草の上に寝転んで抱き合っていると、追いついた子供たちは2人を囃し立て、怒ったジェラールは1人の子供にビンタを食らわせます。
 駅に到着する列車。別れを惜しむベルナデットとジェラール。ジェラールは「3ヶ月後には」と言って結婚行進曲のメロディーを口ずさみ、泣くベルナデットを慰めます。列車に乗って去るジェラール。子供たちは夏休みを利用して、2人に復讐してやろうと、男が女を抱いている絵葉書を買い、それに偽のジェラールからの卑猥な愛の言葉を書いて、ベルナデットのポストに入れます。そしてベルナデットの婚約者は山で遭難して亡くなり、子供たちは罪の意識に捕らわれます。
 しかし、しばらくすると、それも忘れ、水たまりで遊ぶ子供たち。そんな10月のある日、黒衣で歩くベルナデットが現れ、子供たちは再び罪の意識に捕らわれます。カメラはこちらに黒衣の姿で歩いてくるベルナデットを捕え、やがてパンアップして並木の枝を写すと、映画は終わります。

 水まきや駅への列車の到着はリュミエール兄弟へのオマージュであり、ジェラールがタバコの火を借りようとして断られるのも、何かの映画的引用かもしれません。サドルの匂いを子供が嗅ぐのと、テニスの場面は鮮明に覚えていましたが、ラストシーンはすっかり忘れていました。18分余りの短編です。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

上橋菜穂子『物語ること、生きること』

2014-07-27 09:33:00 | ノンジャンル
 フランシス・フォード・コッポラ監督の'86年作品『ペギー・スーの結婚』をスカパーのイマジカBSで見ました。子供も成長し、夫のリチャード(ニコラス・ケイジ)と離婚間近のペギー・スー(キャスリン・ターナー)が同窓会で女王に選ばれ、ステージ上で意識を失うと、高校生時代にタイムスリップし、再び高校時代を過ごして、再びチャーリーからのプロポーズを受け入れると、現代に戻り、チャーリーとよりを戻すというストーリーで、主人公の両親をドン・マーレーとバーバラ・ハリス、祖母を特別出演のモーリン・オサリバン、タイム・トラベルの会の会長(おそらく)をやはり特別出演のジョン・キャラダインが演じていました。
 また、J・J・エイブラムス監督・共同製作の'09年作品『スター・トレック[2009年版]』もWOWOWシネマで見ました。自らを犠牲にして800人余りの隊員を助けた宇宙船船長を父に持つジェームズ・カークと、バルカン星人の父と地球人の母の間に生まれたスポック中佐の活躍を描いた物語で、ストーリーは理解不能だったものの、なにげなく登場人物の隣にいる宇宙人の造形や、化物の造形に楽しませてもらいました。
 また、同じくJ・J・エイブラムス監督・共同製作の'13年作品『スター・トレック イントゥ・ダークネス』もWOWOWシネマで見ました。不死身の人間カーンに対するジェームズ・カークとスポックの戦いを描いた物語で、やはりストーリーは理解不能だったものの、CG満載の映画でした。

 さて、上橋菜穂子さんの'13年作品『物語ること、生きること』を読みました。自分がどのような幼少期を経て、どのようにして作家になっていったかを語った本です。
 読んでみて特に印象に残った部分は、自分と忍者ごっこをしていた父が、廊下でバッタリ自分と出くわすと「いたな‥‥」と言ったこと、あまりにも本ばかり読んでいるので「このままでは実生活がおろそかになる」と心配した両親は、やがて、本禁止令をだすようになり、見つかると怒られるから、しまいには、ふとんをかぶり、懐中電灯を持ちこんで、薄暗い灯りを頼りに読んだりしたこと(私の母もよくこうしたことをしていたそうです)、どちらか一方を正しいと信じこんで、疑いもしない人間は、もう一方を、理解しがたい他者として糾弾して排斥しようとするかもしれず、理想を掲げて声高に自分の主張をする人間は、しばしば、そういう己の傲慢さに気づかないこと(今の自民党の国会議員、特に安部首相周辺に聞かせたい言葉です)、何かを「守ること」は、いかにもいいことのように賞賛され、反対に「あきらめること」「捨てること」は批判の対象にされがちですが、はたしてそうでしょうか(これも安部首相周辺に聞かせたい言葉です)、人口が多い社会が、帝国主義を行い、植民地をつくり、巨大な国家をつくっていく一方で、アボリジニのように、広大な砂漠の中で少人数で暮らしていると、いちばん大切なことは「いかに調和を保つか」になること、アボリジニの人たちは、よく「ケアリング&シェアリング」といい、相手を思いやり、世話をしたり、何かをわかち合ったりすることを大切に思うこと、すべての道が閉ざされたときに新しい希望が生まれると言っている人がいること(これは私も実感したことがあります)、小説家になることを諦め、研究者になることも諦め、学校の先生になろうと思って、修士論文を提出したところ、その論文を見て審査した教授のひとりが「上橋、この論文、ひどいよ。ひどいけど、俺、こんなに何かがある修士論文を見たのは、久しぶりだよ。足りないところは山ほどあるけど、いいよ。研究者になりなよ」と言われ、「なれません」と言った著者は、これ以上、親に甘えたくない、自分は就職するのだ、そう心に決めていたはずなのに「なれません」と口にしたとたんに涙がぶわっとあふれて、とまらなくなったこと、香蘭女学院に通っていた高校二年生のころ、原作、脚本から、音楽にいたるまで、すべて自分たちの手でつくった劇を文化祭で上演したとき、ちょい役(貧しい農民と一兵卒)を演じたのが、片桐はいりだったこと、などでした。
 上橋さんの誠実な人柄がよく現れている本で、すがすがしい読後感でした。あっという間に読める本です。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/