gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

今日は総選挙の投票日!!

2021-10-31 06:28:00 | ノンジャンル
 昨日の午前中は、神奈川15区に立候補している社民党の佐々木克己さんを応援するため、平塚の選挙事務所に行ってきました。
 そこから車に乗って、平塚駅前での街頭演説に参加してきました。熱心な支持者の多くの方に声をかけていただき、感謝感謝でした。小選挙区での相手は自民党の河野太郎氏なので、苦戦を強いられているようですが、神奈川・山梨・千葉の南関東ブロックで60万票を取れれば、比例で当選できるので、みなさん、是非、護憲派の本家本元である社民党に清き一票を入れてくれるようお願いします。
 社民党の主な政策は、1,消費税を3年間ゼロに。生活困窮者へ緊急に定額給付金10万円を支給。医療・介護従事者を支援。2,最低賃金全国一律1500円/時に引き上げ。教育費を無償化。奨学金は原則給付型に。3、脱原発をすすめる。2050年までに温室効果ガスゼロを達成。食料自給率50%を達成。4、男女平等を徹底。LGBT差別禁止法を成立。5、包括的な差別禁止法をつくる。「子どもの権利基本法」を制定。選択的夫婦別姓の導入や同性婚を法制化。6、現行憲法の改悪には絶対反対。辺野古新基地は絶対につくらせない。日米地位協定を全面改定。北東アジア非核平和地帯を創出。などなどです。
 ちなみに気候変動対策について、第三者における評価が行われた時には、社民党の点数がトップを取っていました。
 以上のようなことを踏まえ、投票先を社民党にしていただければ、新資本主義から社会民主主義への大きな一歩となることは明らかです。みなさんの同意を激しく求めます!!

斎藤美奈子さんのコラム・その99&前川喜平さんのコラム・その60

2021-10-30 06:25:00 | ノンジャンル
 明日はいよいよ総選挙の投票日ですね。この9年間の安倍・菅政治の是非が問われる選挙です。この9年間、政治は嘘と欺瞞にあふれ、貧富の差は拡大し、小泉純一郎首相の時から続く弱肉強食の世界がまた大きく展開されることとなりました。もし今度の選挙で自公が勝つようなことになれば、地球の温暖化はますます進み、原発への依存度も増し、悪いことだらけになるでしょう。そうすることを阻むためにも、絶対に自公にだけは(そして憲法の精神をないがしろにしている日本維新の会にも)一票を投じてはなりません。ちなみに私は護憲派の本流を行く社民党に入れようと思っています。

 さて、恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず10月24日に掲載された「「化石賞」ふたたび?」と題された前川さんのコラムを全文転載させていただくと、
「22日の本紙夕刊によれば、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書で、産業革命前からの気温上昇を1.5度以下に抑える対策として「石炭火力発電を平均12年以内に停止する必要がある」とした部分を、日本政府担当者が削除するように提案したという。日本政府の脱炭素への本気度が疑われる行動だ。
 自民党の選挙公約を読んでみると「2030年度温室効果ガス46%削減、2050年カーボンニュートラル実現」という目標は書いてあるが、達成のための計画は書かれていない。もともと46%は小泉進次郎環境相(当時)が「おぼろげながら浮かんできた」と説明した数字だった。目標年度が近づいてきたら適当な理由をつけて先送りするつもりなのだろう。
 原発再稼働やSMR(小型モジュール炉)の地下立地など原発の推進はしっかり書いてある一方、火力発電については「火力発言所の次世代化、高効率化」「火力の脱炭素化」などとあるだけで、停止する意思は全く示されていない。本気で化石燃料から脱するつもりはないのだ。このままでは今年のCOP26で日本は、COP25で受賞した不名誉な「化石賞」を再びもらうだろう。地球の存亡に関わる問題を電力会社の目先の利害で決めていいのか。今問われているのは有権者だ。」

 また、10月27日に掲載された「平成の遺物」と題された斎藤さんのコラム。
「架空の国・J国はもっか選挙期間中である。
長年政権を握ってきたYO党の幹部が叫ぶ。
 「みなさん、共産主義者に政権を渡してはいけません。YA党連合は共産主義なんですよ」
 聴衆はキョトンとしている。「何いってんのあの人」「だよね。冷戦時代の人みたい」。そして二人は唱和する。「きっと新自由主義者だよ」
新自由主義は平成と呼ばれる時代のJ国を支配していた恐怖の思想だ。緊縮財政を進めたおかげで経済は低迷し、格差が拡大して、J国はボロボロになったのだ。
 一方こちら新興のYU党。幹部が叫ぶ。「みなさん改革が必要です。昭和の時代のしくみを変えなければなりません」
 聴衆はクスクス笑っている。「改革だってさ。ふっるぅ!」「頭が平成のままだよね」。改革は平成の緊縮財政の旗印だったのだ。そして二人は唱和する。「やーね、新自由主義者って!」
 世界のトレンドは変化の中にあった。A国のBD政権すら積極財政に舵(かじ)を切った。YA連合がいう通り、J国を救う道もそれしかない。緊縮財政に疲れはて、その後世界を襲った感染症禍で傷を負ったJ国民には手当てが絶対必要なのだ。
 焦った財務省の幹部は発言した。「YO党もYA党もバラマキだ」
 聴衆は「あれこそ平成の遺物だわ」「バラマキ上等。バラマいてもらおうよ。」

 どちらも一読に値する文章だと思います。

エリック・ロメール監督『モード家の一夜』

2021-10-29 06:53:00 | ノンジャンル
 「あつぎのえいがかんkiki」で、エリック・ロメール監督・脚本、ネストール・アルメンドロス撮影、モーツァルト音楽の白黒映画、1968年作品『モード家の一夜』を再見しました。
 サイト「MIHOシネマ」のあらすじに一部修正加筆をさせていただくと、
「敬虔なカトリック教徒であり、フランス中部の街クレルモン=フェランで自動車工場技師をしている「私」(ジャン=ルイ・トランティニャン)はいつものように教会のミサへと参加する。そこには同じくミサに来ていたフランソワーズという若い女(マリー・クリスチーヌ・バロー)もいた。「私」はフランソワーズの美しい容姿に惹かれ、ミサが終わった後に彼女を付け回す。そして、「私」はその日初めて見たフランソワーズが妻になると確信したのだった。
 「私」はカフェで偶然、友人であるヴィダルに14年ぶりに会う。ヴィダルは大学で哲学を教えている。「私」はパスカルの話を始める。「私」は、何もかも陳腐で何も新しくないとパスカルを否定する。一方ヴィダルはいつもパスカルと共にいると言う。生きる意味とは何かを、二人は長々と語り合うのだった。
 カフェを出た後、「私」とヴィダルは古典音楽のコンサートを観に出かける。その後、レストランへと場所を移した彼らはまた明日会おうと約束するのだった。
 ヴィダルは、友人のモードという女(フランソワーズ・ファビアン)の家に行こうと「私」に提案する。モードはとても美しい女性だとヴィダルは言うのだった。
 モードの家へと着いた「私」とヴィダル。小児科医であるモードは離婚をして、家を出ていくところだと言う。三人は一緒に食事を摂ることにする。
 パスカルの風変わりなキリスト教観念が好きじゃないと語る「私」。モードもまた、パスカルは嫌いな作家だと言う。「私」はさらに、キリスト教を理解する別の方法があるはずだと語る。パスカルの理論で驚いたことは、結婚はキリスト教義で位が低いということだと「私」は語る。そして、「私」はフランソワーズの話を始めるのだった。結婚という妄想に取り憑かれているとヴィダル達は笑う。
 「私」は、どんな女だろうと簡単に寝なかったと語り出す。それは無意味だからだと言う「私」にヴィダルは、旅先で二度と会えない美女であっても欲望を抑えられるのかと聞く。そんなことは一度も起きなかったと答える「私」は、今は改心したから断ると答えるのだった。
 三人の会話は止まらずに進む。外では雪が降り出していた。そして内心留まりたがっていたヴィダルが部屋から去って行き、「私」とモードの二人きりになるのだった。
 二人になっても話は尽きない。モードは、宗教には興味がないと言う。モードは、ある晩ヴィダルと寝たが決して好きになることはなかったと語る。そして彼らはお互いのことを語り始める。
 一夜を共に過ごすことになった「私」とモード。敬虔なカトリックである「私」は、ベッドで眠る全裸のモードに対して自分はソファで眠ると言う。結局ベッドへと移ったが、彼らは一晩添い寝するだけだった。朝方、モードが「私」に行為を迫るのだが、「私」は優柔不断な態度をとりながらそれを断る。その態度が気に入らないと言ってモードは怒るのだった。(中略)
 翌日の夕方、カフェへと足を運んだ「私」は自転車に乗るフランソワーズを発見する。「私」は彼女を追いかけて話しかける。雪が降る中、「私」はフランソワーズを車に乗せて家まで送ることにする。しかし車道で雪のために度々スリップした車はついに動けなくなっていまい、二人はフランソワーズの学生アパートに泊まることにするのだった。
 二人はアパートで楽しく時間を過ごす。ときには宗教観を、ときには恋愛観を語り、それはまるで恋人同士のようだった。そして、二人は別々の部屋で眠るのだった。
 翌日、「私」はフランソワーズに求愛する。フランソワーズは、「私」を失望させるからそんなことは言わないで欲しいと言う。フランソワーズには最近まで恋人がいた。その人は妻子のある身で、「私」のことを愛しているが、そのことが引っかかっているのだと悲しい様子を見せるのだった。
 5年後、フランソワーズと結婚した「私」は、子供を連れて海に向かって歩いていた。すると、向かいからモードが歩いてくる。モードは再婚したことを「私」に告げると、「私」とは逆に海から丘へと歩いていき、それを見送った「私」は、自分の妻と子供へ追いつくために海をめざして走り出すのだった。」

 モードの元恋人が交通事故死していることから、「私」とフランソワーズが雪道の中、猛然とスリップしていく様は見ていてハラハラしましたが、ラストのハッピーエンドぶりについ号泣してしまいました。アルメンドロスの自然光を映した白黒画面は美しく、ジャン=ルイ・トランティニャンの代表作の一つと言えるでしょう。一言で言えば傑作だと思いました。

斎藤美奈子さんのコラム・その98&前川喜平さんのコラム・その59

2021-10-28 00:05:00 | ノンジャンル
 昨日の新聞で、白土三平さんが89歳で死去されたことが報じられていました。私は大島渚監督が白土三平さんの代表作『忍者武芸帳』を映画化している作品に出会い、興奮したことを今のように記憶しています。改めて白土さんに哀悼の意を表したいと思います。

 さて、恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず10月13日に掲載された「ビジョンVSビジョン」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「岸田文雄首相と立憲民主党・枝野幸男代表の著書を読んでみた。『岸田ビジョン』(講談社/2020年9月刊)と『枝野ビジョン』(文春新書/21年5月刊)だ。
 タイトルだけ見るとまるで漫才コンビだけれども、それは偶然の一致だろう。本が出た段階では二人とも政敵は菅義偉前首相だと思っていたはずだ(岸田氏は総裁選の、枝野氏は総選挙の)。
 ところが、図らずも与野党トップとして対決することになった二人。政策提言の内容も、二冊は似たところがある。アベノミクスと新自由主義の限界を指摘し、再分配と成長の必要性を説き、中間層の底上げを図ると述べている点などだ。相手が背後に竹中平蔵氏の影がちらつく新自由主義一直線の安倍&菅路線だと思えばこそ、差別化を意識して結果的に似てしまったのかもしれない。
 違いがあるとすれば、岸田ビジョンが中間層ねらいの政策なのに対し、枝野ビジョンは低所得者の賃金アップと待遇改善を最優先にしている点で、この差は大きい。
 もう一点は具体性の差で、岸田ビジョンは四方八方に気を遣(つか)っている分ぼんやり。枝野ビジョンは野党政治家らしくきっぱり。就任早々「発言がトーンダウン」「看板政策棚上げ」と批判される岸田首相のヘタレっぷりは著書にも現れている。党内の異論や財務省の妨害と戦えるのは、さてどっち?」。

 また、10月17日に掲載された、「子どもの自殺と不登校」と題された前川さんのコラム。
「13日に文部科学省が発表した2020年度「児童生徒の問題行動・不登校等調査」の結果には極めて憂慮すべき数字が並んだ。学校から報告された小中高生の自殺者は415人で前年度比31%増。家庭にも学校にも地域にも居場所を失い自ら命を絶った子どもたちだ。原因は子ども政策の貧困にある。今必要なのは子ども庁ではない。子どもの居場所だ。
 小中学生の不登校は約19万6千人で前年度比8.2%増だが、この数字は過少に表れている。昨年度は一斉休校で授業日数が減ったので、欠席日数30日という不登校の要件を例年どおり適用すると実質的に要件を引き上げたことになるからだ。また不登校に分類されない長期欠席者の中には「保護者の教育に関する考え方」などの理由による者が約2万6千人、例年にない「新型コロナウイルスの感染回避」という理由による者が約2万1千人いた。
 「学校離れ」の状況を把握するためには不登校の数字より長期欠席者全体の数字を見たほうがいい。昨年度の小中学生の長期欠席者は約28万8千人。中学生に限ると約17万4千人、実に19人に1人の割合だ。この数字は学校の失敗を表している。すべての子どもに普通教育の機会を保障するにはどうしたらいいか、学校関係者は真剣に考えることが求められている。」

 そして、10月20日に掲載された「ロカハラな反応」と題された斎藤さんのコラム。
「「都道府県魅力度ランキング」で44位だった群馬県。この結果に疑問を呈し「法的措置も検討する」と発言した山本一太が嘲笑を浴びている。大人気(おとなげ)ない、器が小さい、野暮(やぼ)だ、そこまでムキにならんでも…。
 日頃は人権意識が高い人まで冷笑的なのが解せない。法的措置の是非はともかく、県の名誉が毀損(きそん)されたと考えて、知事が抗議するのは当然の反応ではなかろうか。
 問題は、このランキングが一企業のネット上のアンケートに基づくイメージ、要は主観にすぎないことだ。似ていて非なる「全47都道府県幸福度ランキング」(財団法人日本総合研究所が2年に1度発表する)
が曲がりなりにも75の指標から割り出した客観的なデータに基づいているのとは訳が違う。客観的な指標なら改善の余地もある。だが相手が主観じゃどうにもならない。
 県の魅力を上げるべく奮闘している人たちも本当は不満だろう。しかし抗議をしても鼻であしらわれる。少し前のセクハラの扱いと似ている。
 仮に学校や職場でアンケートに基づく「魅力的な人ランキング」が発表され、下位の人が抗議したら、大人気ない、器が小さいって笑う? いじめですよね、それ。
 ロカハラ、すなわちローカルハラスメントの根は深い。「いじられて逆においしい」なんていえるのは当事者ではないからだ。」

 どれも一読に値する文章だと思いました。

エリック・ロメール監督『獅子座』

2021-10-26 06:50:00 | ノンジャンル
 昨日、「あつぎのえいがかんkiki」で、エリック・ロメール監督・脚本の1959年作品『獅子座』を再見しました。
 サイト「movie walker press」のあらすじに一部加筆修正させていただくと、
「6月22日…自称作曲家ピエール(ジェス・ハーン)のもとに一通の電報が届く。伯母が死に、その莫大な遺産が彼と従兄に遺されたというのだ。突然の吉報に有頂天になったピエールは、さっそくパリ・マッチ誌で働くジャン・フランソワ(ヴァン・ドード)を呼び出して金を借り、仲間を呼び集めて派手にパーティを楽しむ。
 7月13日…友人たちの多くはヴァカンスに出かけてしまった。しかし、ピエールはアパルトマンから追い立てられ、小さなホテルに身をおいていた。伯母の遺産は遺言で全額従兄の手に渡ってしまったのだ。ホテル代さえなく、頼みの綱のジャン・フランソワも出張中で何度電話してもつかまらない。
 7月30日…セーヌ河畔の古本屋で本を売り、パンとアンチョビを買うピエール。パンをナイフで切ろうとしたところ、手が滑って、ズボンを切り、出血までして、ズボンを汚してしまう。ズボンの汚れをとるため、薬局でベンジンを買うが、あまり役には立たない。
 やがてホテルも追い出された彼はついに路上生活者になる。無精ひげが生え、衣類は汚くなり、汗でにじむシャツ。一日中真夏のパリの街を歩き回り、気がつくと、路上で寝ている。(この街を歩くシーンでは、一瞬だが本物の行き倒れの死体らしきものが映る。)そのうち偶然友人に会い、仕事、それもかなりやばい仕事を紹介されるが、ようやくたどり着いた郊外の家に元締めは留守。仕事先への切符も落として失くしてしまい、万事休す。金もなく歩いてセーヌ河畔まで戻ったピエールだが、市場で万引きをしようとして、店主にこっぴどく殴られる。ピエールに同情する群衆から、逃げ出すピエール。
 彼は、路上を歩いている間に、右の靴の先をひっかけ、靴の先が裂けてしまう。そこを紐で縛り、歩くピエール。セーヌ河に浮かんでいたビニール袋の食品を、石をぶつけて必死になって拾うも、中身は既に腐っていた。呆然とする彼に声をかけてくれたのは一人のルンペン(ジャン・ル・プーラン)だった。ピエールは彼について、カフェでパフォーマンスの相手を務めることになる。
 8月22日…ヴァカンスの季節も終わり、ジャン・フランソワも出張から戻って来た。ピエールの身を案じる彼は友人たちに居場所を尋ねるが誰もが無関心。彼はピエールのアパートを訪ねると、ピエール宛ての手紙の中に公証人からの手紙が混ざっていることに気付く。それはピエールの叔母のいとこが死に、叔母の全財産をピエールが継ぐことになったことを知らせる手紙だった。そしてしばらくして、その事実が新聞に載る。しかしなかなか発見されないピエール。
 ある夜、彼は昔行きつけだったカフェの前で寸劇を演じるが、自分たちを馬鹿にして小銭を投げる客たちにうんざりし、寸劇を途中で止めてしまう。そしてヴァイオリン弾きからヴァイオリンを借りると、自分で作曲した現代曲風のメロディを一通り弾き、それが終わると、ヴァイオリン弾きにヴァイオリンを返し、その場から立ち去る。路上に崩れ落ち、石壁に拳を叩きつけ、「薄汚れたパリめ! どいつもこいつも猥雑でどうしようもない!」と罵声を上げ始めるピエール。それを遠巻きに見る群衆。そこにたまたま行き当たったジャン・フランソワと彼の彼女は、その浮浪者がピエールであることを見抜き、彼の許へ駆け寄ると、遺産の件を彼に伝える。正気に戻ったピエールは歓喜の声を上げ、ジャンの運転するオープンカーの後部座席に中腰で座ると、周囲に「皆、飲みに来い! 今夜は盛大なパーティーだ!」と叫んで、その場を去る。一人残されたルンペンは「自分だって、必ずパーティーに呼ばれるはずだ」と一人ごちるのだった。

 ピエールの落ちぶれていく様子が、これでもかこれでもかという具合にドキュメンタルに描かれ、予想は出来ていたものの、その突然のハッピーエンドぶりに、つい号泣してしまいました(^^;)。
 この映画の公開は1959年であり、この年はゴダールが『勝手にしやがれ』を発表し、ヌーヴェルヴァーグの夜明けの年となっているので、私に言わせれば、ヌーヴェルヴァーグの旗手はゴダールでもあり、同年に『大人は判ってくれない』を発表したフランソワ・トリュフォーでもあり、エリック・ロメールでもあったということになると思いました。
 最後に、冒頭のパーティーでは、レコードの同じ部分を繰り返し聞く男の役としてゴダールが出演し、ピエールがホテル代を支払わないので、警察を呼ぶと脅すホテルのオーナー役の女性で、クロード・シャブロルの妻、ステファーヌ・オードランが出演していたことも付け加えておきたいと思います。