gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

奥田英朗『コロナと潜水服』その4

2022-03-31 06:00:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 邦彦は工場の総務部に行ってみた。そして年配の事務員を見つけ、まずはコンテナに眠っていたボクシング用具のことを聞いた。
「ああ、あれね。80年代の後半、わずか二、三年だったけど、うちにもボクシング部があったんだよね。ソウル五輪に選手を送り込むんだって、創部したんだけど、夢叶わなくて、すぐに廃部になっちゃった」(中略)
「そのときの指導者は誰だったんですか?(中略)」
「森村さん。創業者の一族で、変わり者だったね。どこかの有名大学のボクシング部出身で、うちの会社に就職して、長く海外勤務をしてたんだけど、帰国後、どうしてもボクシングで五輪のメダリストを育てたいって、社長を説得してボクシング部を創ったの」(中略)
「その人、今どこにいるんですか?」邦彦が聞いた。
「はあ、とっくに亡くなってるよ。(中略)」
「えっ、故人なんですか?」
 邦彦は呆然とした。と言うことは、あのコーチは━━。
「写真があるはずだから、見せてあげるよ」(中略)」
 指さした写真の人物を見て、邦彦は鳥肌が立った。それjはコーチだったのだ。(中略)
 邦彦は、メンバーに話したら、あとは自分たちだけの秘密にしようと決めた。語らず、胸にしまうのが、コーチへの礼儀のような気がする。
 邦彦は写真に向かって心の中でお礼を言った。(中略)
 そのとき、コーチの口元が少し緩んだように見えた。

「占い師」
 プロ野球選手の恋人が、入団三面目にしてブレイクした。大学時代、六大学リーグの花形選手だった田村勇樹は、ドラフト1位指名で東京メイツに入団し、将来を嘱望された内野手だったが、一年目には肘を故障し、手術とリハビリ期間があったこともあって、ずっと二軍暮らしが続いていた。(中略)その勇樹が怪我から復調し、いよいよ本領を発揮し始めたのである。
 付き合って四年目の浅野麻衣子は、いよいよこの日が来たのかと、天にも昇る気持ちだ(中略)た。(中略)このまま行けば結婚だ。自分はプロ野球選手夫人で、セレブな暮らしが待っている━━。

 この日は朝から、東京国際展示場で司会の仕事が入っていた。(中略)
(友人の加奈は言った。)「彼氏が一躍スターになって。今やチームの看板選手じゃない。この先、誘惑多いと思う」(中略)
「ちゃんとつなぎおかないと、誰かに獲られちゃうよ」(中略)
 自分の恋人にファンがいるというのは、特別な気分だった。ファンの女たちは、それぞれに妄想を抱き、頭の中で架空の物語に浸っている。しかし勇樹の素顔を知っているのは、この中では自分だけだ。(中略)勇樹はインタビューを受ける様子だった。テレビでよく見る民放局の女子アナが、マイクを手にして勇樹に近寄る。笑顔で挨拶を交わすと、勇樹は照れたように白い歯を見せた。
 麻衣子は顔が熱くなった。そのアナウンサーは、夜のニュースのスポーツコーナーを担当する若手で、女優並みの美貌から人気も高かった。(中略)
 勇樹は鼻の下を伸ばし、うれしそうに質問に受け答えしていた。あんな顔、自分には見せたこともないのに━━。(中略)

 六月に入っても勇樹は絶好調だった。(中略)
 その間、デートしたのは一度きりである。(中略)一晩中セックスをした。(中略)
 このとき麻衣子は、にわか仕込みの栄養学を披露し、試合前に摂取するといい食べ物や、試合後の疲労をとるメニューなどを教えたが、勇樹の反応は鈍かった。(中略)

 六月下旬、勇樹がプロ野球のオールスターに選出された。(中略)
 勇樹とは週一ペースで会ってはいたが、ホテルに呼び出されてセックスをするだけで、話題の映画を観ることも、流行りのレストランに行くこともなかった。一度、絵画展に行かないかと誘ったが、「無理」と素っ気なかった。(中略)
 そんな日々を送っていたところ、麻衣子は占い師を紹介された。事務所の内藤という女社長が通っている所で、カウンセラーも兼ねているようだ。「麻衣子、最近元気ないね」と聞かれ、(中略)正直に打ち明けたら、「じゃあ、ここに行きなさい」と笑って勧められたのだ。内藤は明るくてキップのいいボスで、麻衣子はずっと信頼していた。
原宿の竹下通りから、一本路地に入り、曲がりくねった急な坂道を進むと、朽ちかけたような古い雑居ビルが場違いに存在し、その二階に占い師のオフィスはあった。(中略)
 ノックして中に入ると、白い壁のワンルームに机と椅子があるだけの殺風景な空間で、中にいたのは黒装束の若い女だった。(中略)
「すいません。内藤社長に、ここの占いは当たると言われて来たんですが」
「占い? ああ、そう。当たるよ。まあ座って、座って」(中略)
 麻衣子は、初対面の相手に抵抗はあったが、話さないことには占ってもらうこともできないので、包み隠さず打ち明けた。すると占い師は、「そりゃあ、あんた捨てられるわ」とあっさり言った。

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その3

2022-03-30 05:28:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 結局、一時間近くトレーニングをし、五人の中年男たちは立っていられないほど体力を使い切った。(中略)
「すぐになれるさ。じゃあ、明日な」(中略)

 午後十一時過ぎ、邦彦が帰宅すると、妻の晴美が起きて待っていた。こういうときは、何か相談ごとがあるときである。
「有希の受験のことなんだけど……」と、少し憂いを含んだ顔で言う。娘の有希は高校二年生で、そろそろ志望を決める時期にいた。
「有希は美大を受けたいんだって」
「あ、そう。いいんじゃないの」(中略)
「でも、私立の美大ってお金がかかるのよ。入学金も授業料も平均の1.5倍」
「えっ、そうなの?」(中略)

 ボクシングのオッサンは翌日も、午後五時のサイレンが鳴った直後に姿を現した。(中略)
 この日は最初に、邦彦たちが自己紹介したが、男はうなずくだけで名乗ろうとしない。そこで邦彦たちは、彼をコーチと呼ぶことにした。(中略)邦彦たちは久しぶりに学ぶ快感を味わっていた。

 練習が終わると、外の自販機でスポーツドリンクを買い、倉庫で車座になって飲んだ。(中略)
 明日が待ち遠しいなんて、ずいぶん久しぶりのことだと、邦彦は感慨に耽った。人には日課が必要なのである。

 数日後、本社人事部の石原が、また部下を引き連れてやって来た。(中略)
「今日は業務変更があって伝えに来ました。これまでは警備会社の補佐として、昼間の警備を担当していただいてきましたが、来週からは夜間警備もお願いすることになりました」(中略)
「ここにいる五人でローテーションを組んで、一人週二回以上の宿直をしていただきます。(中略)」

 その日の終業後のボクシング練習は、グローブを軽くしてスパーリングをすることになった。(中略)
 もはや邦彦たちのボクシングに和気藹々とした空気はない。ただし殺伐ともしておらず、互いにリスペクトする気持ちがあった。(中略)

 グローブを軽くしてからというもの、邦彦たちのボクシング練習はますます白熱の度合いを増した。何しろ殴られると痛いのである。鼻血も出るし痣もできる。(中略)

 週が変わり、邦彦たちの夜勤が始まった。午前零時まで工場の仮眠室で仮眠を取り、それから午前八時まで、本職の警備員たちと交代で工場内をパトロールする。最初は邦彦と沢井が担当した。警棒も何もないから、手にするのは懐中電灯だけである。
(中略)フェンスに沿って歩いていると、工場の一番奥の金網の外側にトラックの黒い影があった。(中略)
 懐中電灯を当てたら、運転席に人影があり、慌てて頭を下げた。(中略)懐中電灯を上下左右に動かすと、フェンスの金網が一部欠損していた。何者かに破られたのだ。
 邦彦は司令補が言っていたことを思い出した。最近、外国人の窃盗団が付近の工場を荒らして銅線を盗んでいると━━。
 そのとき黒い影が動く。はっとして振り向くと、男が二人、銅線を巻いたロールを押して、倉庫から出てくるところだった。
「おいっ。何をしている!」
 邦彦は反射的に声を上げ、懐中電灯を向けた。全身黒ずくめで目出し帽を被った男二人が、倉庫の壁を背に、映画のように映し出される。
 邦彦は足が震えた。賊は大きなワイヤーカッターを振り上げて威嚇した。(中略)
「三宅さん。警備室に応援要請をしに行ってください!」沢井が言った。
「沢井さんは?」
「ぼくはこいつらを阻止します」
「一人で? それは無理だろう」(中略)
 そこへ賊の一人がワイヤーカッターを振りまわして近づいて来た。(中略)
 気がついたら左ジャプを賊に見舞っていた。続いて右ストレート。これも決まった。賊はワイヤーカッターを地面に落とした。振り返ると、沢井ももう一人と戦っていた。(中略)殴り、殴られる。逃がす気はなかった。(中略)
「待てーっ!」
 そこに大声が降りかかった。数人の足音が響き、ライトを浴びせられた。警備員たちだった。異状を知り、駆け付けてくれたのだ。きっと防犯カメラに映ったのだろう。(中略)

 外国人窃盗団が逮捕された事件は、新聞とテレビで一斉に報じられた。(中略)
 ただ、本社では大きなニュースとして各部署を駆け巡り、社員たちの噂となった。三宅さんと沢井さんが窃盗団を発見し、追いかけて捕まえたらしい━━。賊に対して一歩も引かず、乱闘を演じたらしい━━。(中略)
 そして社内からは別の声も湧き起こった。うちの会社は早期退職勧告に応じなかった社員に夜警までやらせるのかという非難の声である。(中略)
 これには組合も看過できず、役員会に説明を求める事態へと発展した。(中略)
 もっとも容易には方針転換されないだろうとも、邦彦たちは思っていた。会社はそんなに甘いところではない。(中略)
 ただ、そんなことより━━。

 事件の翌日から、コーチが姿を見せなくなったのである。(中略)
 待っていてもしょうがないので、時間を見つけてみなでコーチを捜すことにした。(中略)

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その2

2022-03-29 09:39:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

「おい、ふざけた真似をするな」(中略)
「あ? なんか文句あんのかよ」(中略)
威嚇なのか、本気なのか、男がボクシングの構えをした。
「やってみろ。大人を殴ってただで済むと思うなよ」
 浩二が勢いで言う。次の瞬間、男の拳が左胸に当たった。(中略)浩二はその場にうずくまった。
 次の一撃は蹴りだった。同じ胸部に衝撃が走る。(中略)
「おい、やべえんじゃねえのか」
「気絶してるよ」
{逃げろ、逃げろ}(中略)

 ふわりと体が浮かぶような感覚があり、浩二は目が覚めた。(中略)
「おとうさん、心肺停止だったんだよ」結花が言った。(中略)
「誰が救急車を呼んだんだ」
「わたし」
「なんでお前が。家にいたんだろう」
{男の子が駆け込んできて、おじさんが大変だから海岸に来てって}(中略)
 浩二はポケットからスマートフォンを取り出し、スイッチを入れた。タケシ君を見たかった。命の恩人に、心の中でお礼が言いたい。川崎が送ってくれたメールの写真を開き、のぞき込むと、そこにタケシ君の姿はなかった。(中略)
「ねえ、あなた」洋子が体を寄せ、浩二の膝に手を置いた。「機嫌直してよね。わたし、反省してるから」(中略)
 浩二は黙って海を眺めた。(中略)たぶん、自分は元の鞘に収まるだろう。(中略)
せめてもの抵抗として、浩二はタケシ君のことを自分の胸にしまうことにした。(中略)

「ファイトクラブ」
 早期退職の勧告に最後まで抵抗し続けていたら、総務部危機管理課という新設部署に異動させられた。実質的な“追い出し部屋”である。
三宅邦彦は四十六歳の家電メーカーの会社員で、専業主婦の妻と、高校生と中学生の子供がいた。家のローンはまだ二十年残っており、車の月賦も支払い中であった。(中略)
 危機管理課は総務部に属しながら、本社ビルではなく、電車で一時間かかる郊外の工場の、使っていない倉庫の一角にプレハブの小屋としてあった。(中略)
 新しい部署、危機管理課とはずいぶん威勢のいい名前だが、仕事は警備員だった。五名いる課員は全員が四十五歳以上で、お揃いの(それもかなり安物の)ジャンバーを着させられ、工場内を警備する。もちろん会社は警備会社と契約を交わしており、各所に警備員が配置されているため、補助役に過ぎない。(中略)
 邦彦は、下の息子が大学を出るまでは耐えようと思った。今中三だから、あと七年。終わりが見えていれば、何だって耐えられる。

 この日、邦彦は工場の警備室に詰め、警備員たちと一緒にモニター監視をしていた。といっても訓練を受けていないので、ただ見ているだけである。本職の警備員たちはやり難そうで、迷惑がっているのがわかった。(中略)
 半月ほど過ぎた頃、最年長の岩田が課員を誘い、食事会を開いた。(中略)
 話の流れで、それぞれが体力の衰えを嘆いていたら、沢井が思い出したように言った。
「そうそう。ここの倉庫、運動具がたくさん放置してあるんだよね」
「何それ?」邦彦が聞く。
「ここの東側の壁にコンテナがいくつか並んでるじゃない。何が入ってるのかなって、この前扉を開けてみたら、筋トレマシンやら、走高跳のポールやら、バレーボールのネットやら、そういうのが埃を被って置いてあった」
「わかった。会社が実業団チームを持ってた頃の備品だ」(中略)
「ちょっと見てみようか」(中略)
「こっちには縄跳びがあります」(中略)邦彦は、縄跳びを持ってコンテナの外に出て跳んでみた。(中略)五回と続かない。(中略)
「ねえ。うちの会社ってボクシング部あった?」(中略)
「だってボクシング用のグローブやらサンドバッグが揃ってるよ」(中略)各自グローブをはめ、順にサンドバッグを叩いた。
「おれ、日課にしようかな。どうせ暇だし」
 久しぶりに会話が弾んだ。(中略)

 翌日、本社から人事部の石原という課長代理が部下を二名連れて、危機管理課にやって来た。(中略)「ここに応接セットはいりませんね」(中略)
「それから、パソコンは課全体で一台とします。会社から支給されたみなさんのノートパソコンは、三日以内に初期化して庶務課に返却願います」(中略)

 午後五時、工場の終業サイレンが鳴ると、邦彦はコンテナからダンベルを出して来て筋トレを始めた。(中略)沢井がやって来て「あ、三宅さんだけずるいね」と笑って言い、自分は隣でサンドバッグを吊るしてボクシングを始めた。見ていると、そっちの方が楽しそうである。
「おれもそっちがいいな」(中略)
「なんか、放課後の部活みたいでいいね」と邦彦。(中略)
 そんなおしゃべりをしながら、ボクシングの真似ごとをしていたら、コンテナの陰から人が現われた。(中略)
 工場の制服を着た年配の男だった。(中略)
 男がコーチのように指示を出すので、戸惑いながらも従った。(中略)「あなた、工場の方ですか?」と聞いた。
「ああ、嘱託だがな」(中略)

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その1

2022-03-28 19:00:00 | ノンジャンル
 奥田英朗さんの2020年作品『コロナと潜水服』を読みました。5編の短編を収めた本です。

「海の家」
 ひと夏、家族と離れて暮らすことになった。
 村上浩二は四十九歳の小説家で、二歳年上の妻と、大学生の娘と息子がいた。(中略)ある事情から、どうしても妻と離れたくて、家を出たのである。ある事情とは、妻の不貞である。(中略)
避難先に選んだのは、神奈川県の葉山町だった。(中略)
 店主が有無を言わせぬ無尽蔵の弁舌で攻め立てるので、じゃあ見てみるかと案内を頼んだら、タイムスリップしたかのような大クラシックな二階建ての日本家屋で、庭は広く、涸れているとはいえ池まであり、浩二はこういう物件が生き残っていることに軽い衝撃を受けた。(中略)

 翌日は朝から庭の草刈りをした。(中略)
 一日働いたせいで、十時を過ぎるともう瞼が重くなった。我慢する理由もないので、隣の和室で寝袋に潜り込む。(中略)
 そのとき、二階の廊下を誰かが走る音がした。トントントン。浩二は子供の足音だと思った。(中略)

 一週間ほど、浩二は家の修繕に勤しんだ。(中略)
 その間、子供の足音も何度か聞いた。浩二が眠りにつくときを見計らったように、二階の廊下をトントントンおt音を立てて走るのである。(中略)
 書斎にいても悶々とするばかりなので、浩二は海岸を散歩することにした。(中略)
 家に帰り、シャワーを浴びた。(中略)すると、水の出る音に混じって子供が廊下を走る音が聞こえた。(中略)二階ではなく一階の廊下で音がした気がした。(中略)
「誰かいますか?」
 (中略)ただ、そのとき確かに、廊下で誰かが身構えている気配がした。六歳くらいの男児だ。(中略)
浩二はタオルを腰に巻き、風呂場を出た。(中略)子供の気配は消えていた。(中略)
 また廊下を走る音がした。
「走らないでください」
 浩二が教師のような口調で声を上げた。ピタッと音がやむ。(中略)
「おじさんはこれから昼寝をします。静かにしていてください」(中略)
 子供の気配は、ゆっくりとドアから離れていった。

(妻の)洋子は相変わらず連絡をよこさなかった。二週間の放置はちょっと洒落にならず、本当にどういうつもりなのかと浩二の心は千々に乱れた。
 ます思うのは、洋子は離婚を覚悟したのだろうかということだ。(中略)
 そして何げなく外に目をやると、門のところに日傘を差した婦人が立っていた。(中略)
「入ってもよろしいかしら。ああ、わたし、この近所の者で……」(中略)
「(中略)この前、山崎さんという元の家主をおっしゃってましたが、どんな人だったんですか」(中略)
「帝大の先生。(中略)」
「この家に男の子はいたんですか」(中略)
「ええ、いたわよ。男の子二人と女の子二人の四人兄妹で、それは賑やかだったの」(中略)
「実は、この家に越して来てから、男の子の足音を聞くんですけどね」(中略)「戦時中のことだけど、この家の次男にタケシ君って男の子がいたの。(中略)」そんな中、昭和十八年の夏、タケシ君が海岸で錆びた釘を踏んで怪我をしたのね。それで応急手当はしたんだけど、その夜から高熱が出て……。(中略)そしたら実は破傷風で、その二日後には呆気なく死んじゃったの」(中略)
「この前、そこの路地ですれちがったとき、わたしには見えたの。あなたと並んで歩いているタケシ君が」(中略)
「秋には家が取り壊されるし、タケシ君の夏も本当にこれが最後ね。遊んであげてちょうだい」(中略)
 浩二は老婦人の話に乗ることにした。(中略)

 八月に入ってすぐ、担当編集者が様子を見にやって来た。(中略)
 トントントン━━。また足音がする。
「君、何か聞こえなかった?」浩二が聞いた。
「は? 何も聞こえませんが」(中略)

 翌日、(担当編集者の)川崎から電話があった。たいていはメールなので、珍しいことだった。
「昨日はごちそうさまでした。(中略)それで、ちょっとお知らせしたいことがあって電話したんですが……」(中略)「実は、僕が撮った家の写真の中に、男の子が写っているカットが一枚あるんですよね……」(中略)

 翌週、娘の結花が遊びに来た。(中略)
「おとうさん、秋になったら帰ってくるんだよね」(中略)
「どういうこと?」(中略)
「だって、おとうさんとおかあさん、喧嘩してるんでしょ?」(中略)
「ま、わたしは、おとうさんの味方だから。(中略)」

 夕食の後、浩二は夜風に当たりたくて浜辺を散歩することにした。(中略)
 そのとき、後方で爆竹が鳴った。(中略)見ると、数人の若い男女が浜辺で騒いでいた。(中略)浩二はかかわりたくないので、迂回して帰ることにした。
 不快な思いで砂浜を歩いていると、目の前に火花が飛んできた。浩二は飛び上がって驚いた。
「うひゃひゃひゃひゃ」
 若者たちが笑っている。

(明日へ続きます……)

原一男監督『水俣曼荼羅』

2022-03-27 20:12:00 | ノンジャンル
 原一男監督・共同製作・共同撮影の2020年作品『水俣曼荼羅』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。6時間12分という長編のドキュメンタリーです。

 映画のチラシから文章を転載すると、
「『ゆきゆきて、神軍』の原一男が20年もの歳月をかけ作り上げた、372分の叙事詩『水俣曼荼羅』がついに、公開される。
世界的ドキュメンタリスト・原一男が最新作で描いて見せたのは、あの水俣だった。
日本四大公害病のひとつ、水俣病。
いまもなおこの場所には、病が濃い陰を落としている。
不自由なからだのまま大人になった胎児性、あるいは小児性の患者さんたち。
末梢神経ではなく脳に病因がある、そう証明しようとする大学病院の医師。
病をめぐって様々な感情が交錯する。
国と県を相手取っての患者への補償を求める裁判は、いまなお係争中だ。
そして、終わりの見えない裁判闘争と平行して、何人もの患者さんが亡くなっていく。
しかし同時に、患者さんとその家族が暮らす水俣は、喜び・笑いに溢れた世界でもある。
豊かな海の恵みをもたらす水俣湾を中心に、幾重もの人生・物語がスクリーンの上を流れていく。
そんな水俣の日々の営みを原は20年間、じっと記録してきた。
「水俣を忘れてはいけない」という想いで、━━壮大かつ長大なロマン『水俣曼荼羅』、原一男のあらたな代表作が生まれた。」

 フレデリック・ワイズマンの作品と同じく、カメラはほとんど動くことなく、ほとんどが室内劇なのですが、たまに室外を映すショットが息苦しさから解放される映画でした。休憩を2回含む6時間の映画でしたが、あっという間の6時間でした。