海外のニュースより

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「エリートに対するドイツ人の不信感」と題する『ヴェルト・オンライン』の評論

2008年07月18日 | 政治と文化
有用な幻想と有害な幻想とが存在する。有害な幻想に属するのは、素人のほうが、まれではあるが致命的な危険から生じるリスクを現実主義的に評価できるという考え方だ。しかし、素人は、食料汚染のようなまれな死因のリスクを過大評価し、高血圧のようなしばしばある死因を過小評価する。その際、問題なのは、小さな等閑視されたミスではなくて、重大な帰結をもたらす誤謬である。
たとえば、2005年には、ドイツの学生にとっては、ドイツの牛が狂牛病に罹るリスクは、実際よりも4千倍も大きかった。似たような間違いは、その数年前に起こった、百万頭にのぼる損害を引き起こした食肉市場の崩壊の原因となった。今日たいていのドイツ人が、再び牛肉を食べているとすると、それは彼らがその間によりよい知識を得たからではなくて、彼らが危険なしに、食べることができるからである。
われわれは、われわれが実際に曝されているリスクを恐れず、メディアが集中的に報道するが故に、われわれの注意を引きつけるリスクを恐れるのだ。「メディア」について語ることは、確かに不正確である。さまざまなメディアがリスクをいろいろに表現する。そしてこのことが、読者や視聴者や見物人の考え方にかなりの影響を与える。こうして、狂牛病についての警告的な記事は、そうでなくても存在する間違った評価を拡大する。
#1.米国人は自分たちの制度を信頼している。
特に有効なのは劇的な画像である。それらはテキストが正しい客観的情報を含んでいる場合でも、過度のリスク観念を強める。たとえば、このことは、非常にまれではあるが過激な犯行についての画像を含んでいる犯罪についてのテレビの報道に当てはまる。それらの報道は、しかし、問題を部分的にしか解決しない。なぜならば、リスクの現実的な表現の信頼度は、資料の信頼度に依存しているからである。資料に数えられるのは、メディアと並んで、メディアが報道する人物や制度である。
ハンス・ぺーたー・ペータースのグループが、バイオテクノロジーを例にとって、示したように、制度に対する信頼度は、ドイツと米国において、それを受け入れる基礎である。
確かに両国の間では、かなりの相違がある。政治的経済的科学的制度が福祉の利害にしたがって動いているという信頼をアメリカ人は、ドイツ人よりも、より多く持っている。上述の制度に対するアメリカ人の信頼度は、食糧生産のために遺伝子技術を投入するという意見に影響している。彼らが制度を信頼すればするほど、それだけ、彼らは遺伝子技術的な方法を是認することが多い。
これに対して、もともと制度に対する信頼は、ドイツ人の判断にほとんど影響しない。アメリカ人の信頼は、ドイツ人には欠けている一つの社会資本を表現している。それがどういう帰結をもたらすかについての実例は、1970年代80年代の情報技術の導入や、70年代の核エネルギーや80年代の遺伝子技術をめぐる典型的にドイツ的な論議である。
2.間違った態度や大げさな批判が疑いを掻き立てる。
制度やエリートに対するドイツ人の信頼は、数十年前からゆっくりとしかし、常に低下している。このことは、連邦議会や行政や企業や労働組合やメディアにも当てはまる。もっと深刻なのは、それらを担う人々、特に政治家やマネージャーに対する信頼喪失である・このような展開の帰結として、今日、彼らの国際的な比較においても注目すべき、政治的自由や経済的諸可能性にもかかわらず、ドイツ人は、フランス人や、イギリス人や、アメリカ人ほど、制度とエリートに対する信頼を持っていない。
 これには幾つかの原因があるが、そのなかで、エリートや役割担当者の間違った行動や彼らの失敗に対するメディアの過度の批判がある。これらの批判は、ナチによる制度やエリートの悪用や、60年代70年代の過度の反動のせいである。(以下省略)
[訳者の感想]日本人もエリートに対する信頼をずいぶん失っている思いますが、ドイツほどではないと思います。

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