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海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「憲法裁判所は、トルコ大統領選挙に対する反対を認める。」と題する『新チューリヒ新聞』の記事。

2007年05月02日 | イスラム問題
トルコ首相の選択は、新たに開かれねばならない。憲法裁判所は、火曜日議会における第一次投票に対する反対派の異議申し立てを承認し、先週金曜日の投票を無効だと宣言した。
レセップ・タイイップ・エルドガン首相は、裁判所の判決後、六月に前倒しされた国会議員選挙が行われるかもしれないと言明した。更にエルドガンは、憲法改正を呼びかけたが、それによると、大統領は将来は、国民によって選挙され、議会によっては選挙されないはずである。
1.政府と軍部の間の権力闘争
反対党の共和制人民党は、その告訴状で、金曜日の投票の際、十分な代議士が出席していなかったと主張した。第一次投票では、決定はまだ下されていなかった。なぜならば、政府の大統領候補者であるアブドラ・ギュルは、選挙に必要な賛成票を得られなかったからである。投票は、トルコの政治のイスラム化を恐れる沢山の反対党議員のボイコットに見舞われたからである。大統領の選挙は、政府と自分を国家の世俗的方向付けの保証人だと考える軍部との間の権力闘争に発展した。エルドガン首相の与党AKPは、イスラム主義運動から生じた。議会の多数関係のせいで、AKPは、誰がセゼール大統領の後任になるかを有利にすることができる。
エルドガン自身は、何十万人ものトルコ人達が、彼の立候補に反対して街頭デモを行った後で、立候補を断念した。ギュル外相を未来の国家元首にすることに対しても、懸念がある。トルコ軍指導部は、先週金曜日に、選挙についての憂慮を述べ、世俗的な国家体制からの逸脱に対して警告した。セミック・シセック法務大臣は、参謀本部の声明を受け入れられないと退けた。
2.欧州会議の憂慮
 ヨーロッパ会議は、「軍隊は兵営に留まるべきである」と大統領選挙への軍部の介入に懸念を表明した。ヨーロッパ会議の事務局長であるテリー・デイヴィスは、「民主制では、軍は民主的に選ばれた政府に服従するものだ」と強調した。
約70万人の人間が、日曜日、新たに宗教と国家との分離を維持することを求めてデモを行い、この国がイスラム主義に逸脱することについての心配を表現した。影響力のある企業家の団体TUSIADは、政府に直ちに前倒しの国会議員選挙を行うように要求した。それというのも、大統領選挙を巡る紛争は、トルコ経済を危機に導こうと脅かしているからである。株式市場の指導的な指標は、月曜日に、6.3%下落したのに、火曜日には更に、2.5%下落した。「トルコは、金曜日に比べるとより貧しい国になった」と経済相のアリ・ババカンはトルコ・テレビに述べた。「今後、われわれの民主主義が健全に機能することが、経済的発展にとって決定的なファクターである。」
[訳者の感想]軍が叛乱を起こすぞと脅したのが効き目があったのか、エルドガン首相はとうとう、国会議員選挙の前倒しに賛成したようです。 
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「将軍達の復帰」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2007年04月29日 | イスラム問題
4月28日、イスタンブール発:昨夜以来、トルコでは、とっくに死んだと思われていた幽霊が再び徘徊している。翌朝目が覚めると戦車がゴロゴロ走っているの聞こえるという不安である。参謀本部が一つの次のような声明を出したのは、23時30分だった。「トルコ共和国が危険に曝されているのを見るがいい。世俗主義に反する事件が重なり、数時間前に、議会で行われた大統領選挙の第一ラウンドは、軍の心配を解こうとしてない。誰もだまされてはならない。必要な場合には、軍は明確な立場をとるであろう。
この声明はトルコ国民を驚かせた。朝3時まで、テレビ局は、生中継で態度決定の可能な帰結について議論した。政治的陣営を横断するすべての政治的観察者のはっきりした意見は、これは将軍達の最後通牒だということだった。危機が先鋭化する唯一の可能性は、現在、大統領選挙の中止と、それに代わる議会の選挙である。
今日の午後まで、エルドガンの政府は、確かに少なくとも外に向かっては影響されていない振りをしている。軍部は、首相に従っているとタイイップ・エルドガンは、報道官セミル・チチェクを通して声明させた。
もし、苦情があるなら、そのために用意された制度的な道がある。トルコの赤十字社前に現れた際、エルドガンは、国民は国が危機に瀕することを認めないだろうと述べた。
エルドガンは本当にそんなに落ち着き払っているのかという疑問は残っている。それとも彼は選挙民の前でだけ、表情を変えないでいるが、幕の後ろでは、交渉しているかもしれない。エルドガンは、既にヤサール・ブユカント参謀総長と会談したとチチェク報道官は述べた。
この対立は、すでに何ヶ月も前から続いている。昨年秋以来、ケマル主義的でナショナリストの反対党CHPは、現在在任中のアーメト大統領と軍部の支持のもとで、五月に予定されている新しい大統領選挙は、その任期がこの夏に切れる現在の議会によっては行われないと声明した。新しい議会が大統領を選挙できるように、議会の選挙が先行すべきだ。
現在の議会では、エルドガン首相とギュル外相の率いるイスラム主義的な与党AKPが絶対多数を握っている。それゆえ、彼らは三分の二の多数が必要でない場合には、第三ラウンドで、自分たちが選んだ候補者を大統領にすることができる。一目見ると普通の民主主義的手続きのように見えることが、多くのトルコ人の目には、小さな文化革命となるだろう。84年間のトルコ共和国で、ケマル主義的で世俗主義的な陣営の出身でない大統領は一度もいたことはない。
穏健イスラム主義のAKPは、既に首相と国会議長とを立てているから、これまでのエリートたちは、軍部以外は、国家のレベルでは権力を奪われていだろう。この国のイスラム化を阻止するのは、今や軍部だけである。
野党の多くの代表と、彼らに近い政治観察者は、10パーセント枠をもった非民主的な選挙制度が投票総数の40%を顧慮しなくさせていると主張している。そういうわけで、最後の国会選挙で32%しか取らなかったのに、まるでトルコ国民の多数派を代表しているかのように、AKPが政権を握っている。それゆえ、政党は合意できる候補者を大統領職に任命すべきだ。
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「トルコは分裂の危機に直面している」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年04月17日 | イスラム問題
去る2月19日に、初代アンカラ市長が埋葬された。それは、トルコの政治的階級にとって社会的義務の出来事だった。その際、非常に象徴的な光景が見られた。レセップ・タイイップ・エルドガン首相は車いすに座った老人に深々と頭を下げ、握手をしながら、別の手を老人の肩に置いた。
この老人こそ、1998年に軍によって失墜させられ、詐欺の疑いで判決を受けたイスラム指導者エルバカンだった。この祭儀の機会に、彼は禁錮から解放された。それは考えさせる光景だった。なぜならば、反ヨーロッパ的で反西欧的なイスラム法の擁護者エルバカンは、エルドガンのお陰で全く新しい視点で現れることができる。彼と共にケマル主義的トルコの終焉が始まった人物として登場する。
1)エルバカンがいなければ、エルドガンはいない。
 エルドガンや与党AKPの他の大物を政治的キャリアを持つように助けたのは、この過激派イスラム指導者だった。彼の人気の推進力を、エルドガンは、後に法律で禁止されたエルバカンの福祉党から手に入れた。彼が失墜した際、エルバカンは、エルドガンも道連れにした。不正に対する信仰者の戦いが武器をガチャつかせる隠喩でもって歌われている詩句を朗唱したために、エルドガンは、自宅監禁の刑を受けた。
 エルドガンは、未決にいる間に、穏健な「世俗的イスラム教」に転向し、自分自身の政党を創立し、権力を握った。エルバカンが失敗した点で、軍とケマル主義的な体制と戦って、彼は間もなく勝利することができた。来る五月に、議会は新しい大統領を選ぶ。トルコ全土が、遅くても5月26日に下されるエルドガンの決定を待っている。軍のサーベルによるクーデター以外には、彼の選択の邪魔になるものは何もない。
 その場合、彼は国軍の指揮官として、共和制を保証する者となるだろう。かって彼は共和制の創設を歴史的間違いだと主張した政党を指導していたのだが。
 こういう事態に至ったということは、トルコにおける深い社会的政治的変化の表現である。古いケマル主義的なエリートに対して、新しいイスラム的ブルジョアジーが対立しているのだ。彼らの根はアンカラにもイスタンブールにもなく、アナトリア中央部にある。このブルジョア階級は金を持っていて、過激ではないが、信心深く、保守的である。彼らは彼らの経済的勢力に見合った政治的影響力を持ちたいと願っているが、神の国を望んではいない。彼らは頭を覆う布とモスクの参詣の中に、非西欧的な劣等感の表れではなくて、ステータスシンボルを見ている。
2)深刻な社会変動
 同時に、トルコは、深刻な社会変動に見舞われている。それに属するのは、民主化、消費欲、女性の増大する自己意識、社会の一般的に増大する教育程度である。西欧化とイスラム教富豪の台頭との奇妙な結合は、将軍達の勢力喪失に導く。将軍達は、AKPとエルドガンの中に自分たちの政治的権力喪失の執行者を見ているが、民主主義的政治文化に有利な価値の変動に基づいて反撃することができない。
 将軍達はまだ有力である。彼らの同盟者はまだ、司法、行政、国家機関の一部を統制することができる。このことは、週末にアンカラで何十万人かがエルドガン反対のデモをしたとき、明らかになった。だが、トルコ軍の終わりは近いかもしれない。将軍達がいつも世界中で最も偉大で賢明で勇敢な国民だと賞めながら、政治的に信頼するほど十分に敬意を払っていない国民に対して、軍の指導的役割の終わりは近いかもしれない。(以下省略)
[訳者の感想]政治と宗教とを分離することによって、トルコを近代化したケマル・アタチュルクの伝統を維持している軍が指導的力を失った場合、トルコはイスラム国家としての色彩を濃くするでしょう。それは果たして民主化といえるのかどうか、私は疑っています。
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「生徒がキリスト教徒の女教師を殴り殺す」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2007年03月23日 | イスラム問題
 ナイジェリアのイスラム教徒の生徒たちは、彼らの女教師がコーランを侮辱したという理由で、彼女を殴り殺した。イスラム教徒が多数を占めるナイジェリア北部のゴンベ州のある学校の生徒たちは、それ以外に、いくつかの教室に放火し学校長を集団で殴ったとナイジェリアの新聞"This Day"は報道している。
 女教師は、「イスラム教」という科目のペーパー・テストを監督していて、一人の生徒がカンニングをしていると疑った。彼女は、彼から本を取り上げ、『コーラン』も取り上げた。このことが生徒達を怒らせた。警察は12人の容疑者を逮捕した。
 ナイジェリアでは、1億3千万人の国民が250の民族集団に分かれている。1億3千万人のうち50%がイスラム教徒で、40%がキリスト教徒である。いくつかの北部の州でイスラム法に基づく判決が刑法においても導入された1999年以来、暴動で何千人もの人が殺された。4月21日に予定されている選挙では、キリスト教的な南部の出身であるオレスグン・オバサンジョ大統領は、イスラム教徒の多い北部出身の州知事ウマル・ヤルアドアに大統領職を譲る予定だ。
 オバサンジョ大統領は、キリスト教的な南部出身の最初の大統領だった。もし、予想通りヤルアドアが後継者になると、大統領職は、再び北部出身のイスラム教徒の手に渡ることになる。最近の人口調査では、激しい議論の後、どの宗教に所属するかという質問条項は断念された。
 両方のグループは、自分たちが多数派だと称している。1999年に北部の12州にイスラム法が導入されて以来、数千人の死者を伴う暴動が起こった。現在、キリスト教徒とイスラム教徒との関係は比較的穏やかである。だが、情報通は、古い紛争が急激に再燃するかもしれないと思っている。
[訳者の感想]ナイジェリアは、南部では、石油利権を巡る反政府活動に悩まされています。これにキリスト教徒とイスラム教徒との対立が加わると内戦が始まる可能性もありそうです。
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「裁判官、コーランに書かれた懲罰権を引用」

2007年03月22日 | イスラム問題
『コーラン』の第四章は、「女」という表題を持っている。その第34節では、「男は女の上に立っている。お前達が女が逆らうことを恐れる場合、彼女に訓戒を与え、寝床では彼女を避け、殴るがいい。」この節を引き合いに出して、フランクフルトの区裁判所内の家庭裁判所裁判官は、一月にモロッコ出身のドイツ女性の早期の離婚の要求を却下した。『コーラン』が懲罰権を予想しているから、女性が夫によって脅かされているということは、予測できない厳しさではなく、したがって、早期の離婚は、必要ではないと言うのが理由だった。今週水曜日に、区裁判所は、裁判官が偏見を持っているという申し立てを行い、この女性裁判官を裁判過程から引っ込めた。「裁判官が『コーラン』を法の根拠としたのは、ドイツの法制史上初めてのことである」と、この女性の弁護人であるバルバラ・ベッカー=ロイチックは述べた。
 彼女は「裁判官の判決文にショックを受けた」と『ヴェルト・オンライン』に述べた。
問題になったのは、ドイツで生まれたモロッコ系のフランクフルト市民である。この若い女性は6年前に夫と結婚した。二人には子供が二人でき、現在幼稚園に通っている。28才の夫は妻を虐待した。2006年6月には、彼はフランクフルト区裁判所から、彼の妻の50メートル以内に近づくことを禁じられた。けれども、夫は妻を脅し続けた。「少なくとも一度は、彼女を殺すと脅した」と弁護士のベッカー=ロイチックは述べた。裁判官の理由付けは、「夫婦は、モロッコ文化圏の出身であり、そこでは、虐待は普通である。なぜなら、懲罰権が存在するからである」ということだった。
 女性組織の「女性の大地」とそのグループは、愕然とした。「ドイツのような民主的な国では、虐待を正当化するのに宗教上の掟が引き合いに出されることはありえない」と事務局長のクリスタ・シュトルは述べた。「『コーラン』を引用したのは、とんでもないことだ。ドイツに暮らしている夫婦は、ドイツの法に従って裁かれねばならない。個人の権利が、宗教上の掟によって制限されてはならない。」
 「ドイツの家庭裁判所の判事は、民法に基づかねばならず、イスラム法に基づいてはならない」と与党CDUの内務問題専門家のクリスチナ・ケーラーは述べた。ドイツでは懲罰権は存在しない。モスレムの男性にとっても。「この手続きは、モスレム女性にとって、とんでもない信号だ」とケーラーは述べた。
 ヘッセン州の「緑の党」の法制委員であるアンドレアス・ユルゲンスは、「コーランや聖書やその他の宗教上の教えが規定していることは、裁判所の判決にとって基準とはなり得ない」法務省は、裁判関係者がある移住の背景を持っている場合でも、ドイツの法を適用するということに疑問の余地はない。「他のすべては文化の統合にとって有害である」とユルゲンスは述べた。
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「シーア派の半月地帯に対するスンニー派支配者の恐れ」

2007年03月04日 | イスラム問題
2004年12月に「シーア派の半月地帯」という言葉を作ったのは、ヨルダン国王アブドラ2世だった。「シーア派半月地帯」をイランの聖職者政府はイラクを越えてシリアからレバノンまで広げようとしているというのだ。こういったために、アブドラ国王は、テヘランとバグダッドからの批判に曝された。だが、彼はアラブ人達が恐れていることを述べたまでである。数百年前からスンニー派の回教徒が支配してきた地帯にシーア派が主導的な地位を占めるという恐怖である。
アブドラ国王は、イラクをこの地域における政治的覇権問題が決定される決戦場にしたのである。
1)イラク
イラクでは、人口2千3百万人の60%をシーア派が占めているのに対して、スンニー派は20%を占めるに過ぎない。そうこうするうち、バグダッドでは、シーア派主導の政府が統治している。シーア派が新たに獲得した権力を再び手放すということは想像できない。特に彼らは、サダム・フセインによって、長年、組織的に迫害され、拷問され、殺されてきたのだから。
2)シリア
シリアの総人口の約4分の3は、スンニー派である。残りの国民は、ドルーズ派か、キリスト教徒か、アラウイー派に属している。アラウイー派は、シーア派の一部で、この国を40年以上支配してきた。アラウイー派は、厳格なモスレムからは、異端者だと見なされている。バシャール・アル・アサド大統領は、2000年6月10日に死去した父のハーフィス・アル・アサドの真似をして、人事政策においては、スンニー派に権力を持たせないように、自分自身の家族の構成員か、他の宗教的少数派に所属する人間に配慮している。シリアはテヘランと同調しており、シリアを経由して、レバノンのシーア派の先兵であるヒズボラとの連絡や武器の供給が行われている。
3)レバノン
ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララー師は、昨年のイスラエルに対する34日戦争の後、イスラム世界における最も人気のある抵抗戦士に昇格し、それ以来、シーア派陣営からだけでなく、他の陣営でも賞賛を受けている。ヨルダンやパレスチナ自治区やエジプトから来たスンニー派の「モスレム兄弟団」は、優勢なイスラエルに抵抗することを敢えてしたこの指導者に拍手喝采した。その際、スンニー派の「モスレム兄弟団」は、実際は、余り連帯的ではなく、むしろ、「イスラエルの敵は、我らの味方」というモットーにしたがって、戦略的イデオロギー的目標を持っていた。レバノン自体では、「モスレム兄弟団」は、民族的宗教的理由から、スンニー派のフアド・シニオラ政権を支持している。
4)イラン
約1400年前のスンニー派とシーア派間に起こった分裂以来、確かに致命的な亀裂がイスラム世界に走っているが、この亀裂はイランの強大化と共に明白になった。13億人のスンニー派と1億3千万人のシーア派との間に、文化闘争が荒れ狂っている。イラクでは、世俗的な権力とイデオロギー上の主導権をめぐるこの戦いは、最も明白であるが、シーア派人口を抱える他の国でもシーア派モスレムは、自分たちがイランという地域勢力に支えられているということを意識して反抗している。
5)サウディ・アラビア
ヨルダンやエジプトや特にサウディ・アラビアは、中近東におけるスンニー派のアイデンティティを防衛しようとする努力において、対抗策を探している。シーア派に改宗するスンニー派モスレムが問題になっている。サウディ・アラビアのアブドラ国王は、公的介入の行為をしてまで、スンニー派モスレムをシーア派に改宗させようとする試みに烙印を押さざるをえなかった。それは、テヘランの宣教的傾向に対する明白な攻撃である。
ますます、サウディ・アラビアは、アラブ人ではないイランに対するスンニー派ワハーブ派の反対極になりつつある。エジプトはアラブ世界では明白に影響力を失った。なぜなら、それはパレスチナとイスラエルの紛争を有効に調停できないからである。他の国々は弱すぎる。サウディ・アラビア国王は、戦闘的なシーア派によって挑戦されていると感じており、聖地メッカとメジナの守護者としての役割を新たに発見した。アル・サウド家から発する外交的攻勢は、過去には稀であったが、意までは日常茶飯事である。互いに敵対しているパレスチナ人集団は、国民統合の政府の形成を目指して、カイロではなくて、サウディのメッカに集まった。
権力に対する確実な本能をもったロシアのプーチン大統領は、サウディ・アラビアを介して、アラブ世界で失われた影響力を取り戻そうと試みている。
それどころか、リアドとテヘランは、宗教的政治的紛争をエスカレートしないために、活発な訪問外交をしている。イスラム内部での兄弟戦争は、どちらの地域にとっても役に立たない。中東地域をイランの指導するシーア派ブロックとサウディ・アラビアの支配するスンニー派ブロックの二つのブロックに分割することは、両方の支持者が望むだけでなく、不可避である。
[訳者の感想]『ヴェルト』紙の3月3日の記事です。カトリックとプロテスタントとの歩み寄りが450年かかったように、シーア派とスンニー派の歩み寄りにはまだまだ何百年もかかるのでしょうか。
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「ヒルシ・アリ、ソマリアからの啓蒙」と題する『ガーディアン』紙の評論。

2007年02月06日 | イスラム問題
 アヤン・ヒルシ・アリは、多くの西欧のリベラルを非常に不愉快にする女性だ。親の決めた結婚と彼女の部族と文化と宗教が女性に課した厳格な制限から逃げて、ソマリア人でムスリムで女性で難民として、彼女はオランダにたどり着いた。彼女は寛容なオランダの社会的利益と供給を利用し、学位を取り、世俗的なリベラル・ヒューマニズムは、素敵なものだと断定した。
 自分たちに罪があると考えるリベラルの一員なら、西欧が最善だと言う黒人女性の言うことに耳を傾けるよりは、不信仰者の腐敗し、堕落した仕方についてのアブ・ハムザ(英国在住のエジプト人説教師)の罵声にむしろ耳を傾けるだろう。だが、それがヒルシ・アリが人々の心をかき乱す唯一の理由ではない。
 西欧から生まれた啓蒙と人権と自由の価値に対する弁解の余地のない改宗者であることに満足しないで、彼女は、辛辣で遠慮のないイスラムの批判者でもある。それゆえ、彼女は「イスラム嫌い」だと非難され、イスラムをイデオロジーよりは人種だと見なす人々によって人種差別主義者だと非難されてきた。
 彼女のイスラムに対する態度の結果として、彼女はオランダで警察の保護下で生活していた。夫が妻を殴ることを認めるコーランの詩句を引用した短編映画を彼女と製作した映画監督のテオ・ファン・ゴッホには、このような保護が与えられていなかったので、彼はイスラム教徒によって射殺され、その首は白昼のアムステルダムの街頭で切断された。
 多分、これもヒルシ・アリがリベラルを不安にするもう一つの理由である。われわれは、予言者ムハンマドを批判する者に何が起こるかを思い出させられることを好まない。確かにハーグに住む彼女の隣人達も思い出させられるのを好まなかった。そして、彼らはヒルシ・アリの近くにいることが彼らを危険に曝すのを止めてくれという法的訴訟に勝った。彼女は、オランダから追い立てられ、直ちに合衆国に移住した。
 それでは、われわれは彼女をどうするのか?優れた歴史家のトニー・ジャッドやティモシー・ガートン・アッシュが語るように、彼女は「啓蒙原理主義者」なのか?
 私の思うに、答えはイエスである。だが、ジャッドやアッシュが意味するのと同じ仕方でイエスなのではない。彼女が諸原理は、実際に適用されなければ特に役に立たないと考える限りは、彼女は原理主義者である。デンマークの新聞に載せられたムハンマドのカリカチュア事件の間にわれわれが見たように、言論の自由の原則は、メディアに関わるリベラルなインテリが喜んで放棄するような原則だった。
 ヒルシ・アリに同意しないことが完全に合理的な多くの主張がある。だが、二つの重要な点があって、それに基づいてリベラルだけが彼女の言わなければならないことを退けることができるのだ。
 第一は、第三世界に育ち、ヨーロッパにやってきたムスリム女性としての彼女自身の体験である。何より先ず、彼女は女は男の財産である、ユダヤ人は、あらゆる世界問題の源である、彼女の困難に対する回答は、信心深く規則を守るムスリムになることであるということを理解するように育てられた。
 第二に、彼女は自分の運命をコントロールし、ヨーロッパ文化が提供できるあらゆる自由にアクセスした。
 多くの観察者は、この二つの状況を見て、最も重要な違いは経済だと結論する。だが、ヒルシ・アリは、これこそわれわれを誤り導く考え方だと主張する。例えば、サウディ・アラビアが確実な諸権利や自由を展開するのに失敗した理由は、ある人達が信じるように、金が不足したからでもなく、米国の致命的な援助のせいでもない。問題は文化に関わり、特にイスラム教の厳格な支配である。
 ヒルシ・アリの信じるところでは、これは西欧に住むムスリム達が直面しているのと同じ問題である。西欧に移住した多くのムスリムたちが感じる疎外感は、主に人種差別によるものではなくて、両立しがたい価値体系を調停することの困難さによるものだ。「それこそ統合の論議が対象にしていることである」と彼女は言う。「これらのイスラム的価値を一緒に持って西欧へやって来ても、あなたの惨めさ変えることにはならない。」
 これは心ない言葉のように聞こえるかもしれない。だが、それは、ヒルシ・アリの第二の大きな貢献へとわれわれを導く。『隷従その一』と題する彼女の映画や彼女の著作において、彼女はコーランのもっと議論の的となる箇所を照らし出した。だから、彼女には警察の保護が必要だったのだ。ヒルシ・アリは、われわれが他のテキストを議論し評価するのと同様に、コーランを議論し評価することができるまでは、文化と習慣と価値についての適切な議論はありえないと主張する。どのように試みても、私にはこの分析に不同意を唱える点は何もない。
 勇敢で馬鹿なひとだけが、全世界の数千万の抑圧を支える宗教体系に挑戦しようとする。そして、ヒルシ・アリについてわれわれが好きな点を言うが良い。彼女は馬鹿ではないと。
[訳者の感想]アヤン・ヒルシ・アリは、現在、アメリカのシンクタンクに勤務しており、恐らくかなり厳しく護衛されていると思われます。この論説の筆者は、『ガーディアン』紙の常連の寄稿家であるアンドリュウ・アンソニーという人です。リベラルの態度に批判的な保守系のコラムニストだと思われます。最近、ヒルシ・アリがアメリカで出版した著書『不信仰者』(Infidel)を巡って政治評論家の間で彼女の評価が分かれたものと推測されます。
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「ヒズボラ、国民の統一を呼びかける」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年01月28日 | イスラム問題
ベイルート発:国民の統一を呼びかけながら、ヒズボラ運動は、金曜日、彼らの支持者三名の遺骸を墓地に運んだ。すべての宗教的共同体は、この国に対する責任を自覚すべきだとヒズボラの最高幹部であるモハメド・ジャスビク師は、埋葬の際に述べた。
木曜日に、政府支持者との抗争で命を落としたヒズボラの支持者の死は、その痕跡を残した。ベイルートと別の場所での埋葬式には、数百人のシーア派の信者が参加した。
四人の人間が殺され、200名が負傷した木曜日の抗争のせいで、政府は1990年の内戦以来初めて、外出禁止の措置を講じた。それは、金曜日朝には解除されたが、学校や大学は閉鎖されたままである。
アラブ大学の構内では、反対派の支持者と政府に忠実な学生とが棍棒や石で互いに戦った。キャンパスの暴動は、周辺の道路にも広がった。車が炎上し、窓ガラスが叩き壊された。金曜日には、住民は、ガラスの破片や破壊された車の山をかたづけるのに忙しかった。
さまざまの宗教的集団の対立は、1975年から1990年まで続いたレバノン内戦という「醜い記憶」を目覚まし、近い将来に新たな内戦が起こるのではないかという恐れを抱かせたとアラブ大学の向かい側に住んでいるレイラ・サウドは述べた。
道路の交通は、シーア派とスンニー派の間の新たな暴力行為にたいする不安から少しづつしか活発化していない。もっとも、シーア派の指導者ハッサン・ナスララーも国会におけるスンニー派の多数派指導者サード・ハリリも自分たちの支持者に冷静さと抑制を呼びかけている。
レバノン国軍は、今後平和が続くなら、あらたな外出禁止令は計画されていないと告知した。「われわれはわれわれが状況をコントロールすることを考えている」とある将校は述べた。レバノン治安筋からの情報では、夕方の騒動の際、学生と兵士に発砲した二人の狙撃者が逮捕された。彼らの一人はシリア人であり、もう一人は、パレスチナ人である。
今週、ヒズボラによって始められた反対派の抗議の際、7人が命を落とした。反対派は、政府における少数派排除と前倒しの選挙を要求した。
ジャック・シラック・フランス大統領は、金曜日に、国連事務総長のバン基文とレバノン危機と国連軍の将来の役割について会談した。国連軍の指揮はフランス人のアラン・ペレグリーニ大将からイタリア人のクラウディオ・グラツィアーノに移行する。
木曜日に、バン基文事務総長は、パリで開かれた「レバノン会議」に参加した。その際、拠出国と財政機関は、レバノンの再建に76億ドルの援助を約束した。
国連事務総長は、金曜日に、彼の最初のアフリカ旅行へ出かけたが、そこでは、彼は、特にアジス・アベバの「アフリカ連合」サミットに参加するつもりである。バンは、シラク大統領とスーダンの戦闘地域であるダルフールでの状況についても話した。シラクは、ダルフール危機解決の際に、「アフリカ連合」に国連の援助を保証するようにバンを激励した。スーダン政府は、ダルフール駐留のアフリカ連合の平和部隊を国連の部隊と置き換えるという計画に反対している。
[訳者の感想]国民の統一を達成するために、宗派間の対立を乗り越えることができるかがレバノンでもイラクデも問題だと思います。
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「高校教師、イスラム主義者の脅迫に直面」と題する『アルジャジーラ』局の記事。

2006年09月30日 | イスラム問題
 論評を載せたフィガロ紙は、その教師もイスラムのチャットルームで潜在的目標であると同定されたと述べている。
 ロベール・レデカーは、9月19日に投書欄に投書が公開された後先週、警察の保護下に入った。その投書の中で、彼はイスラム原理主義者がヨーロッパの民主的自由を封じようとしていると非難した。
 高等学校の哲学の教師であるレデカーは、それ以来彼は、脅迫的なe-mailを受け取ったが、その中には彼の写真、家の地図、電話番号が書かれており、イスラム主義者のチャット・ルームへの投稿者によって標的として名指されたと述べた。
あるe-mailでは、「お前は地球上では二度と安全じゃないぞ。13億のイスラム教徒はお前を殺す用意がある」と書かれていたと彼は「ヨーロッパ1」ラジオに語った。
 「私は仕事ができないし、家から出入りできず、身を隠さなければならない。私は治安警察によって常に保護されており、一日おきに家を変えざるをえない。」
 検察官の特別反テロ部門は、予備捜索を開始した。
ドミニック・ドヴィルパン首相は、警戒を呼びかけ、「他人の意見の尊重は、絶対的である」と述べた。
 RMCラジオで、ドヴィルパン首相は、「われわれは民主的政治体制の中で生活している。誰でも他人を尊重しながら自分の意見を言うことができなければならない。」
 レデカーは、自分の状況は、イスラム原理主義者に対する「小さな勝利」であると述べた。彼らはフランスの領土でまるで私が言論上の犯罪を犯したかのように私を罰し続けている」と述べた。
 彼は穏健なフランスのムスリムに彼を支持するように呼びかけた。「われわれはイスラム原理主義者と私を必ず支持する責任あるムスリムとを区別しなければならない」と彼は述べた。
[訳者の感想]9月19日の投書というのは、恐らくローマ法王のドイツの大学での講義に対してムスリム達が行った非難についての投書だったと思われます。ヨーロッパに住んでいるムスリム達がイスラム過激派になりつつように思われます。
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「モスレムは、イスラム主義者よりもよく評価されて当然」と題する『フランクフルター・』紙の論評。

2006年09月18日 | イスラム問題
文化の戦いには二つのことが付随している。この理由からだけで、今われわれは文化の戦いをしているのだということは全くの無意味である。われわれが今直面している事態は、何か別のものである。われわれは、(ローマ法王が)外交的でない仕方で、歴史的史料を史料批判的な視点なしに引用し、この誤りを折り返し、明確化によって訂正するという側面を持っている。
そしてわれわれが他の側面、つまり、(イスラム教信者が)引用の断片を聞いて、この断片を折り返し断罪し、(ローマ法王の)人形を焼き、爆弾の脅迫をインターネットに書き込むという別の面を持っている。このような非対称の対立は「文化の戦い」の名に値するだろうか?狂信者なら、それを喜んで肯定するだろう。
イスラム教徒は、イスラム主義者よりももっとよく評価されて当然だと言われるのは正しい。われわれの共同討議には次のように断言する声がなくはない。つまり、「イスラム教はでもそれとは全く違う」という声である。もっとも、同時にイスラム教に対する対立概念であるイスラム主義ははっきりと定義されてはいないのであるが。
ここ数日の間に、イスラム主義者という概念は以前ほどは明確でないように見える。それはどのようなスペクトルをカバーしているのか?テロリストの訓練場に参加している人たちか?それとも「ヒトラー万歳」と叫んでいる暴徒か?アカデミックに丁寧な答えは、常に同じである。イスラム主義者とは、イスラム教から政治的イデオロギーを作る人達である。だが、そうすると、法王の引用断片を急いで取り寄せ、いわゆる新たな十字軍のメンタリティーに対してモスレム大衆を扇動する自称俗人的なトルコの政治家についてはどうなのか?彼らは次の日には、引用断片が書かれていた講演を全く読まなかったと白状しているのだ。彼らは俗人の衣を被ったイスラム原理主義者ではないのか?
穏やかな態度表明ではなくて過度の態度表明で、暴力のダイナミズムを始動した他の国家代表達についてはどうか。これらの人々は、すべてイスラム原理主義者の同調者に位置づけられないか?法王の人形を燃やした人たちは、イスラム主義者か、それとも彼らに人形を燃やすようにけしかけたテレビ人達は、イスラム主義者だろうか?それとも彼らは、瞬間の見せ物以外に何も望まなかったが故に、彼らの誰もイスラム主義者ではないのか?
「文化の戦い」というキャッチフレーズに対して何かもっと説明力のある言葉を対置しようとする者、イスラム教をその変形から区別しようとする者は、イスラム主義からその仮面をはぎ取らなければならない。そのすべての形態と対決しなければならない。このことは、イスラム主義者がイスラム教について語っていいゲーム規則を決めるまではうまく行かないだろう。ある人が(例えばローマ法王が)間違った用語でこのゲーム規則に依拠しない場合には直ちに「文化の戦い」を宣言する限りは、うまく行かないだろう。間違った言葉に対しては、昨日、法王は謝罪の言葉を述べた。言葉が間違っている議論に対して爆弾で応えるというあの言説にとっては、謝罪はありえない。
[訳者の感想]ローマ法王ベネディクト十六世がレーゲンスブルク大学で行った講演に対して、イスラム世界から囂々たる非難の声があがり、カトリックの修道女が殺され、教会が焼かれました。このイスラム急進主義でない人たちの暴力に対して、それではイスラム教徒はすべて過激派と考えても良いのかと問いかけているのがこのクリスチアン・ガイアーの論説だと思います。
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「イスラム過激派思想の西欧的背景」についてのフランシス・フクヤマの考察。

2006年09月16日 | イスラム問題
オリヴィエ・ロワは、現代のジハード主義が文化的宗教的概念では理解されないという優れた説得力のある主張をした。本当のムスリムの宗教心は、常に地域的あるいは民族的文化に埋め込まれている。そこでは普遍主義的宗教的教義は、地域の習慣や習俗や聖人などの添加物によって変容されており、地域の政治的権威によって支持されている。今日のテロリズムの根は、このタイプの宗教性ではない。イスラム主義とそのジハード主義的な分派は、ロワが「非地域化された」イスラムと呼ぶもの産物である。そこでは一人一人のムスリムは、自分が本当の地域的伝統から切り離されており、非ムスリムの土地で根のない少数派であると感じている。このことがなぜあれほど多くのジハード主義者が中東出身ではなく、むしろ、9.11の共謀者であるモハメド・アタのように西欧で育ったのかを説明する。
それゆえ、ジハード主義は、真の昔の伝統的な形のイスラム教を回復する試みではなくて、むしろ、新しい普遍主義的な教義を作り出そうとする試みである。その教義は、近代的なグローバル化された多文化的な世界の文脈の中ではアイデンティティの源であることができる。それは宗教をイデオロギー化し、それを政治的目的のために利用する試みである。その点では、それは、伝統的な宗教や文化の再主張であるよりは、むしろ共産主義やファシズムと同様、近代の産物である。歴史家のボルーマンは、同じく、多くのイスラム過激派の思想は、イスラム的であるよりは、むしろ起源において西欧的であると主唱した。アルカイダのイデオロギーを形成した政治思想家、例えば、ムスリム同胞団のハサン・アル・バンナやサイード・クトブ、ジャマート・エ・イスラミ運動のマウラナ・マウドーディやアヤトラ・ホメイニなどを遡ると、われわれはイスラム思想を20世紀ヨーロッパの極左と極右から借りた西欧思想とミックスする特殊な折衷的教説を見出す。「革命」、「市民社会」、「国家」のような概念と暴力の美学化とはイスラムから出てきたのではなくて、マルクス・レーニン主義から出てきた。ジハード主義の目的は、宗教的であると同じぐらい政治的である。そういうわけで、イスラム主義をムスリム宗教性の不可避の表現と見なすことは誤りである。もっとも、それは確かに宗教的アイデンティティを強め、宗教的憎悪に火をつける力を持っているけれども。(以下省略)
[訳者の感想]ベストセラーだった『歴史の終焉』の著者フランシス・フクヤマの近著『十字路に立つアメリカ--民主主義、権力とネオコンの伝統』の72-73ページを訳してみました。
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「パキスタンの反政府派指導者の死体、見つかる」と題する『アルジャジーラ』局の記事。

2006年09月01日 | イスラム問題
パキスタンの南西部ベルチスタン州の元知事であったナワブ・アクバル・カーン・ブグティの死亡は、先週土曜日ベルチスタン州で激しい抗議の火をつけた。
ブグティは、パキスタンの最も貧困で最も人口の少ない州の丘の隠れ家を攻撃した政府軍との戦闘の間に彼がいた洞窟が崩壊したとき、殺された。
軍の報道官であるシャウカト・スルタン陸軍中将は、今週火曜日にブグティの酷く押しつぶされた遺体は瓦礫の中から収容されたが、腐敗が進んでいたと述べた。
地方政府の高官はブグティは今週金曜日に彼の自宅で埋葬されるだろうと述べた。
最近ベルチスタン州で暴力が燃え上がった後で、この出来事は厳重な治安措置を受けるだろう。
ブグティの死に続く四日間の暴動は、死者10人と他の建物の炎上を結果した。
当局は、火曜日の葬式の後に暴動が起きたために埋葬に参加する人の数を制限した。
重武装した民兵に支持されて、ブグティは、天然ガスを含む天然資源から得られるより大きな分け前を求めて、ベルチスタン州の自治のためにパキスタン政府と戦い、地方住民の間で大きな尊敬を受けた。
反対党は、彼の死についての調査を要求した。彼の死体を収容するのにかかった時間の長さが彼の死にいての政府の見解についての思惑に付け加わった。
政府は治安部隊は州都クエッタの東で週末に行われた作戦でブグティを殺すつもりはなかったと言っている。
[訳者の感想]中央政府が天然資源を独占して、地方住民の貧困を放置していることが反政府勢力が武装蜂起する理由のようです。西南戦争の時の薩摩武士と西郷隆盛を思い出させます。
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「ジョージ・ブッシュと彼の仲間は、阿呆で気が狂っている」と題するインタービュー。

2006年08月24日 | イスラム問題
経済史家のダグラス・ノースは、中東紛争の解決手段として金を提案している。アメリカの実際の中東政策に対してこのノーベル賞受賞者は、重大な非難をした。このアメリカ人が彼の意見でもって社会哲学への境界を乗り越えたのは、これが初めてではない。ノースは、ヨーロッパとアメリカにおける長期的な経済発展についての研究で有名になった。この研究でも既に彼は形式的な規則と非形式的な規則の役割を強調している。非形式的な規則に数えられるのは、法規則と並んで、倫理的規範と習俗やしきたりである。
--ノースさん、経済学者としてあなたはどうしたら中東紛争を処理できるかお考えはありますか?
ノース:勿論あります。イスラエル人に50億ドル(5,800億円)やりましょう。パレスチナ人が彼らの経済を発展させ、イスラエル経済と結びつくように、彼らは25億ドルをパレスチナ人にやるとします。イスラエルとパレスチナとの経済的統合が、この地域の平和を確保するために必要です。これについては問題はないでしょう。このような解決が両者に及ぼす長所は、巨大なものです。それではなぜそうしないのですか?
--でもそんな金額はどこから出るのですか?
ノース:米国はこれほど馬鹿げたことのためにこれほど多額のお金を出しています。だったら、50億ドルぐらいは調達できるでしょう。
--それでうまく行きますか?
ノース:本質的な問題があります。交渉をする人たちには国民を集団的に善い振る舞いへと義務づけることは残念ながら恐らく可能ではないでしょう。特に未来のために義務づけることは可能ではないでしょう。この認識は重要です。
--ということは、私たちはもっと深く掘り下げなければなりません。では、兵士を誘拐し、航空機を空中で爆破するように人間をし向けるこの原理主義はどこから来るのでしょうか?
ノース:原理主義はどの宗教の中にもあります。そして宗教は至るところに存在します。
信仰体系を使って、合理的でない物事を説明しようとしなかった人間社会はありません。あなたがどれほど馬鹿げた物事を信じているかは、私にはどうでもいいのです。だが、あなたが信じていることを信じるように私を強いるとすると、そのとき問題が生じます。不寛容に基づく干渉は、歴史の過程で、あらゆる宗教にから出てきました。イスラム教からだけでなく、キリスト教からも出てきました。
--人間を「正しい信仰」へと強制することは、何の役に立つのですか?
ノース:それは社会の内的な団結と関わりがあります。社会はある共通の分母を必要としているのです。それを作り出す一つの道は、人々に共通の信念体系を与えることにあります。それはインフォーマルな制度です。その都度の信念体系がどのように見えるかは、その都度の文化や社会の経験と関係があります。共通の信念体系への衝動が、そういうものとして形式化されると初めて、それは原理主義へと堕落します。
--不寛容な信念体系が貫徹された場合、車輪はその場合でも逆転できますか?法律のような形式的制度は、政治的決定によって変えることができます。ある社会の信念体系のようなインフォーマルな制度はこれに対してコントロールすることができません。
ノース:勿論何かをすることはできます。何よりも先ずどうしてどういうことになったかを理解することが大事です。この点では、ブッシュ大統領と彼の仲間は、非常に阿呆で馬鹿げています。意見の違う人たちを全部殺すことはできないです。彼らを理解しようとすする場合、彼らのすることを是認することはできません。だが、ともかくも彼らとコミュニケーションすることはできます。
--経済的にうまく行かない社会の人々は宗教的原理主義になりがちなのでしょうか?彼らには他に結びつきがないから、彼らは何かそれに代わるものが必要なのでしょうか?
ノース:良い質問です。でも、それは確かではない。われわれは人間の決断の基礎やメカニズムについては非常に僅かなことしか分かりません。特になぜ、よりによって西欧で良い教育を受けて、金を儲けている人間が成熟した年齢でイスラム教に改宗し、テロリストになるのかを説明することはできません。
--にもかかわらず、イスラム社会は、その宗教のせいで、経済的に劣っています。それには何が欠けているのでしょうか?
ノース:彼らの信念体系に基づいて彼らには西欧で形成された本質的な制度が欠けているのです。西欧では、繁栄への努力が自己貫徹するように、教会も配慮しました。われわれが知っているよう形での企業が存在しません。つまり基本的に無限の寿命をもった企業が存在しません。イスラム社会の企業はすべて小さくて、その所有者と共に死ぬのです。イスラム社会が自己を解放し、個人の寿命を超える経済形態を展開するとき、つまり非人格的な匿名の交換過程を許す経済形態を展開するとき、イスラム社会は初めて前進することができます。複雑な社会は、匿名の交換過程を許す制度を必要とするのです。ついでに言うなら、中国にもそれが欠けています。
--でも中国は経済的には遥かにうまく行っています。
ノース:確かにそうです。中国は気が違ったみたいに差を詰めています。だが、いつか、彼らは根本的なディレンマと対決しなければならないでしょう。彼らがこれまで着手した改革は、すべて人格的交換の原理に、重要な人物との接触に基づいています。それは非常に大きな経済には適合しません。彼らはそれから決別して、すべの人に普遍的で請求可能な平等な権利を保証する制度を定着させなければなりません。さもないと、その過程はいつか転覆します。そのとき、体制は自分の権力的地位を確保しようとする利潤追求者のために窒息するでしょう。民主主義的プロセスを導入しなければ、うまく行かないでしょう。政治的には中国は依然として共産主義的独裁制なのです。
[訳者の感想]8月20日付けの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に載ったインタービューです。このダグラス・ノースというノーベル賞を受賞した経済史家を私は知らなかったのですが、彼の考え方はとても面白いと思ったので、このインタービューを訳して見ました。
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「あるムスリム青年への手紙」と題するタリク・アリの文章。

2006年08月19日 | イスラム問題
(前略)
私は2001年9月11日以来、世界のさまざまな場所でわれわれの国民の多くに出会った。一つの質問がいつも繰り返された。「われわれムスリムがこんなことをするほど賢いとあなたは思いますか?」私はいつも「そうだ」と答える。それから私は誰が(テロに)責任があると思うかと尋ねる。すると答えは決まったように「イスラエルだ」と言う。「なぜ、イスラエルがあんなことをしたのか」と尋ねると、「われわれの信用を傷つけ、アメリカ人にわれわれを攻撃させるためだ」という答えが返ってくる。私は穏やかに彼らのそうあって欲しいという願望を暴露するが、会話は私を憂鬱にする。なぜこれほど多くのムスリムがこの無気力に沈んでいるのか?なぜ彼らはこれほどの自己憐憫の中で転げ回っているのか?なぜ彼らの空はいつも陰鬱なのか?なぜいつも誰か他人が責められるべきなのか?
われわれが語るとき、私は彼らが本当に誇りに思うただ一つのムスリムの国もないという印象を受ける。南アジアから移住した人々は、サウディ・アラビアや湾岸諸国でよりも英国でより良い待遇を受けている。何かが起こらなければならないのはこの点である。
 アラブ世界は変化を熱望している。何年もイラク人やシリア人やエジプト人やヨルダン人やパレスチナ人との議論で同じ問いが出され、同じ問いが回帰する。われわれは窒息しかけている。われわれは何故息ができないのか?すべてが動かないように見える。われわれの経済、われわれの政治、われわれの知識人、何よりもわれわれの宗教が変わらないのだ。パレスチナ人は毎日苦しんでいる。西欧は何もしない。われわれの政府は死んでいる。われわれの政治家は腐敗している。誰かがイスラム主義者に対して敏感だとしたら、それは驚くべきことだろうか?他の誰かが今日何かを提供するだろうか?それは米国だろうか?それは民主主義さえ望まない。小さなカタールにおいてさえ。非常に単純な理由で。もしわれわれがわれわれ自身の政府を選んだとすると、彼らは米国がその基地を閉鎖することを要求するかもしれない。彼らはアルジャジーラ局が彼らとは別の優先順位を持っているという理由でアルジャジーラ局を妬んでいる。アルジャジーラ局がアラブ・エリート内部の腐敗を攻撃したときは、都合が良かった。トーマス・フリードマンでさえ『ニューヨーク・タイムズ』紙の論説欄でアルジャジーラを褒めちぎった。彼はそれがアラブ世界に民主主義が到来する兆候だと考えたのだ。だが、彼はもはやアルジャジーラを賞めない。なぜならば、民主主義とは違った考えをする権利を意味し、アルジャジーラ局は、米国のネットワークで公開されないアフガン戦争の写真を掲載するからである。ブッシュとブレアは、カタールに非友好的な放送を停止するように圧力をかけている。西欧にとっては、民主主義はブッシュやブレアが信じているのと同じことを信じることを意味している。それは本当に民主主義だろうか?(中略)
西欧はアフガニスタンを攻撃している間は、イランに優しかった。イランは戦争に必要だった。帝国主義的原理主義者は、「悪の枢軸」について語る。それはイランを含んでいる。
ある話をさせて欲しい。2,3年前私はロサンジェルスであるイラン人の映画制作者に会った。彼の名前はモスレム・マンスーリと言う。彼は制作中のドキュメンタリのために撮影されたインタービューを持ってなんとかイランから逃げ出した。彼はテヘランに住む三人の売春婦の信頼を得て二年近く撮影した。彼は私にその場面を見せた。(省略)
 アメリカのネットワークのどれも映画を買おうとはしなかった。彼らはハタミ大統領の政権を不安定にすることを望まないからだ。映画制作者自身イラン革命の子供である。イラン革命がなければ、彼は映画制作者にはならなかっただろう。彼は非常に貧しい家庭の出であった。彼の父はモスクの時報係であった。彼の教育は超宗教的であった。今、彼は宗教を嫌っている。彼はイラクに対するイランの戦争で戦うことを拒んだ。
マンスーリは言う。「イラク戦争が終わったとき、政府は法律を作って人々が古い出生証明書を新しい証明書と変えることを要求しました。私が出生証明書を変えに行けば、私がニセの身元証明書を諦めなければならないだろうということが分かっていました。他方、大学の費用はとても高額だった。そういうわけで、私は軍務につきました。除隊になった後、私は職を探し、たまたま、リポーターを探していた映画雑誌を見つけました。政府と無関係な映画制作者と文学者にインタービューしようとしました。もし私が何かを書いたら、政権は、自分たちが批判を許し、それゆえ自分たちは民主的だと言って、手柄にすることができるでしょう。映画は国家によって統制され、映画制作者は体制の制限によって縛られていたのです。
私がメールジューイやマフマルバフやキアロスタニのような映画制作者とインタービューすれば、結局政治体制の利益になるでしょう。(中略)私が書くどんなシナリオも決してイスラム検閲局の許可を得ないでしょう。私の時間とエネルギーは浪費されるだろうということが分かっていました。そういうわけで、私は1994年から98年まで映画を撮影し、イランからこっそり持ち出しました。一つは、『クローズ・アップ』で、もう一つは『自由の詩人、シャムロー』です。
最初の映画はクローズ・アップと呼ばれたキアロスタニのドキュメンタリー・ドラマの主人公であったホセイン・サブジアンの生涯についての映画です。後のほうは、ある家族の物語です。その家族は、自分の物語を売って自分は有名なマフマルバフであると考えることによって彼の映画の一つのスポンサーになろうとするのです。彼は自分の家族と4日間暮らし、最後に家族は彼が全部をでっち上げていることを悟ります。家族は彼を逮捕させます。カイロスタニの映画の後、何年か経って、私はサブジアンに会いに行きました。彼は映画が好きですが、彼の妻と子供は彼に不満で、結局、彼と別れるのです。今日、サブジアンは、テヘラン近郊の村に住んでいます。彼は自分の映画に対する愛は悲惨以外の何にもならなかったという結論に達しました。私の映画の中で、彼は次のように語ります。『私のような人間は、われわれが生きているような社会では破滅させられる。われわれは決してわれわれ自身を演じることはできないのだ。二つのタイプの死者がいる。寝ている死者と歩いている死者だ。われわれは歩いている死者なのだ。』」
 その両親が西欧へ移住したムスリムとイスラムの家に今なお住んでいるムスリムの間には大きな違いがある。後者が遥かに批判的である理由は、宗教が彼らのアイデンテティにとって不可欠ではないからである。彼らがムスリムであるということは自明なのだ。
私はマグレブからフランスへ来たムスリム、アナトリアからドイツへ来たムスリム、パキスタンやバングラデシュから英国へ来たムスリムに語りかけた。彼らは私がよく知っているカシミールやパンジャブの元気な農民よりも遥かに正統派で厳格だ。英国首相は単一信仰派の信者だ。米国大統領はどの演説も「神がアメリカを加護したまわんことを」というお祈りで終える。オサマ・ビン・ラディンは、どのテレビ・インタービューもアラーの賞賛で終える。彼ら三人はそうする権利を持っている。丁度、私が啓蒙主義の価値の最も多くのものにコミットし続ける権利をもっているのと同様に。啓蒙主義は、宗教を批判した。二つの理由で。第一にそれがイデオロギー上の妄想であるという理由で、第二に、それが迫害と不寛容の力をもった制度的圧制のシステムであるという理由で。そうだとしたら、どうして私は宗教批判を控えなければならないのか?(以下省略)
[訳者の感想]イスラム知識人の声を聞く機会が余りないので、この本を読んで見ました。タリク・アリは、元々はパキスタン共産党に属した人のようです。宗教としてのイスラムに対して批判的であると同時にアメリカのキリスト教的原理主義に対しても批判的であるという彼の立場は面白いと思いました。こういう人がイスラム国で主流になることは絶対にないでしょうが。


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「不寛容は、イスラム教について無知であることの証拠」と題する『アルジャジーラ・ネット』に載った論説。

2006年05月27日 | イスラム問題
寛容は、キリスト教世界では、反宗教的だと見なされたが、それはイスラム教の主要な部分であった。だが、寛容はもはやムスリムの名誉にはならない。
今日では、あるムスリムは自分自身を「宗教的」であると見なせば見なすほど、それだけ一層寛容ではない。その原因は、イスラム文明が知的に衰退したことにある。
 ムスリムたちは西欧の人々にイスラム理解が欠けていることに不平を言うが、宗教的テキストの解釈におけるこの間違いが、不幸なことにムスリムの心には蔓延している。
 アブドル・ラーマンのキリスト教への改宗、西欧からの大きな圧力によってアフガン政府が彼を死刑宣告から赦免したこと、その影響などは、この混乱を明るみに出した。
 このアフガン人の背教者が精神病であろうとなかろうと、イスラム教の経典や原理に関して言えば、裁判全体がナンセンスである。
 ある人の知的選択を理由にして、その人を殺すということは、信仰と礼拝の自由についてのイスラム的原理の本質に矛盾する。この原理は、『コーラン』と預言者ムハンマドの実践のなかで強調されている。平和がムハンマドの上にありますように。
 自分のイスラム的信仰を変えることは、重大な罪である。それは彼の神との個人的な契約のはなはだしい侵犯である。
 『コーラン』は、イスラムの信仰を変えるものたちを繰り返し断罪しており、最後の審判における厳しい処罰について警告している。だが、『コーラン』は、背教に対する世俗的な罰を定めてはいない。それゆえ、あるムスリムが自分の信仰を変えたいと望むならば、そうさせるがよい。定義によれば、信仰は個人の心から流れ出す。イスラム教は勇敢な信仰者のためにあり、臆病な偽善者のためのものではない。
 信仰が個人の選択と確信の問題であるという点で『コーラン』は、はっきりしている。それゆえ、いかなる強制力もある信仰を受け入れるように、あるいは彼らの信仰を変えるように人々を強制するのに使われてはならない。
(省略)
今日のイスラム文化において最も不幸な現象は、道徳性と合法性との区別がないことである。
「正」と「不正」によって、特定の人間行動を判断することは、相対的に容易である。だが、包括的で実践的であることは、われわれにもっと先へ行くことを要求し、行動が非合法、あるいは不道徳であると判断されるべきかを決定することを要求する。
 この区別は、非常に重要である。なぜならば、人々や機関は、自分たちが間違っていると信じるものに対してどう反応するかを決定せねばならないからである。ある行為は、合法的であるが、非道徳的であるかもしれない。あるいは逆に道徳的ではあるが、違法であるかもしれない。
 イスラム法にいては、道徳性と合法性との間には明白な区別がある。ほとんどすべてのイスラム法は道徳的である。
 その生活で道徳性に忠実であることは、個々の信者の責任である。それは神に対する責任であって、人々に対する責任ではない。イスラム的道徳性を課するために、如何なる強制力も用いられるべきでない。
 その理由は、この種の如何なる強制力も否定的な帰結をもたらすからである。それは個人を神を意識した信者から状態を恐れる偽善者に変えることによって、個人の道徳的良心を堕落させるからである。
 イスラム教は、個人が神に仕える者であることを欲するが、状態の奴隷であることを欲しない。イスラム教においては、あらゆる信仰の問題や個人の行動と選択の問題は、道徳的な性質のものであって、合法的な性質のものではない。(省略)
 不幸なことに今日、多くのムスリムは、何人かの自称「学者」を含めて、道徳性と合法性とを明確に区別しない。
 この知的混乱は、いくつかのイスラム政府が個人的確信や市民の選好の中に介入し、自分たちは神の法を適用しているのだと主張することを可能にしている。こうすることによって、彼らは人々の権利を侵害することによって、自分たちの不法性と無責任性とを覆い隠しているのだ。
 だが、もし、『コーラン』がはっきりと信仰の自由を肯定しているとしたら、なぜ、背教者を殺すことについての議論がおこるのか?
 この問題は、背教に対する処罰として死刑を示唆する若干の「ハディット」(ムハンマドの言葉)についての間違った解釈から始まる。
 混乱の源は、「背教」(riddah)という語は、イスラム教のテキストでは、二つの異なる意味で使われている。第一の意味では、それは私的な背教を意味し、それは知的選択であって、イスラム教では罰の対象ではない。第二の用法では、それは政治的軍事的背教を意味している。それは共同体の社会的平和とその合法的指導者に対する反逆を含んでいる。
 この罪に問われたものは、イスラム法によって、罰することができる。
社会を裏切ることは、すべての神の法と世俗の法の元で処罰可能である。この点では、イスラム法は例外ではない。
 今日アフガニスタンには裏切る政治的指導者や部族の指導者が沢山いる。彼らはイスラム法における高度の裏切りの罪で消されても当然である。
 彼らのある者は、新しいアフガンニスタンの「尊敬される」指導者の中にいる。アブドル・ラーマンは、明らかに彼らの一人ではない。
[訳者の感想]道徳性と合法性との区別がイスラム教にもあるということに基づいて、キリスト教に改宗したアブドル・ラーマンに死刑の判決を下したアフガンの法廷を批判しています。アルカイダやタリバンのイスラム法解釈と違うことは分かりましたが、最後の文章を読むとどうもカルザイ大統領の率いるアフガン政府に対してもかなり批判的であることが分かります。筆者はモハメド・エル・モクタール・エル・シンキティというアフリカ西部の国モーリタニア出身のイスラム学者で現在はアメリカ在住です。

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