杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

安倍川花火大会慰霊法要と身延山

2012-07-29 10:47:16 | 歴史

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 夕べ(28日)の安倍川花火大会、楽しまれた方も多かったと思います。私は先の記事でもふれたとおり、花火大会の前、14時から安倍川河川敷で行われた戦没者慰霊法要に参列。日中の暑さにバテバテになり、夜は自宅で五輪中継鑑賞しながら涼みました。花火は“音”だけ(笑)。

 

 

 

 長い間、花火大会の前にこんな儀式をやっていたことを知らずにいました。しかも、日蓮宗総本山身延山久遠寺から僧侶の方々をお迎えしての本格的な供養祭。こんなふうに、安倍川橋のふもとから、うちわ太鼓を叩いてお題目を唱えながら入場されます。

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 参列したのは駒形の感応寺はじめ、先の記事で紹介した供養碑建立に関わる地域のみなさんや、安倍川花火大会実行委員会関係者。供養祭を執り行う僧侶はお若い方が多かったのに比べ、参列する市民のほうは年齢層が高い・・・という印象でした。安倍川沿岸には静岡商業高校はじめや小学校や中学校がいくつか点在しているのだから、若い世代にも来てもらえばいいのに・・・と思いました。この歳で初参加した自分が言える立場じゃないけど(苦笑)。

 

 

 

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 慰霊法要が終わったあと、安倍川橋のたもとにある新旧2つの供養碑にも手を合わせてきました。古いほうは天保2年(1831)建立のもの。天明から天保に変わるこの時期、各地で飢饉や水難事故が相次いだことから、五穀豊穣と行客安全を願って建てられたようです。沓谷の蓮永寺にあったものを明治21年に移したとのことDsc00695

 新しいほうは、先の記事でも紹介したとおり、大正14年に関東大震災犠牲者供養のために小田万蔵さんの発案で建立されたもの。碑文は身延山久遠寺の81世日布上人に揮毫していただきました。

 

 あらためて、安倍川花火大会と身延山久遠寺の関係がいまだにこうして続いていることに不思議な感動を覚えます。

 

 

 

 

 実はこちらの記事でも書いたとおり、5月と6月に、身延山久遠寺周辺を取材に行って来たばかり。取材した記事は、7月中旬~現在、首都圏で配布中の東京新聞購読者向けタブロイド紙『暮らすめいと』8月号に掲載しているんです。

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 久遠寺を訊ねたときは、まさか、安倍川の花火大会とこういう因縁でつながっているとは思いもせず、記事でも触れることはありませんでしたが、新東名が開通して新清水ICを利用すれば静岡からも本当に近くなった・・・と実感したばかり。でも遠い近いって感覚、物理的な距離や時間ばかりじゃなかったんですね。

 

 

 先日、京都で興聖寺の坐禅に行きましたが、寺ではちょうど東日本大震災犠牲者のための施餓鬼供養も行っていて、思いがけず餓鬼棚にお参りすることができました。震災から1年半経った京都でも、こうして慰霊を続けているんですね。「思い」は距離や時間には関係ないってしみじみ感じます。


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風流と慰霊のはざまで~安倍川花火の今昔

2012-07-25 08:47:06 | 歴史

 7月の最終土曜日、今年は28日(土)に安倍川花火大会がありますね。私は暑い時期の人混みがどうも苦手で、先日の京都祇園祭ですっかり懲りてしまって、今年もたぶん自宅の窓から遠目に眺めるだけの予定ですが、最近、仕事で安倍川花火大会の歴史を調べる機会があり、意外な事実に驚かされました。

 

 

 

 江戸時代の『駿府名細記』に、「7月26日夜、安弁(あべ)河原花火あり。8月朔日(ついたち)まで町により出すなり」とあり、『駿国雑志』の年中行事7月26日の項にも「今宵二十六夜待ち有り。安弁河原に於いて大花火揚げあり。見物の諸人群をなせり。もと月を待つ間の遊戯也」とあります。

 

 つまり、江戸時代から安倍川花火があって、お月さまが出るのを待つ、“月見の余興”として人々に親しまれていたんですね

 もともと静岡は花火作りが盛んな土地柄で、曲金あたりに花火師が多く住んでいたようです。軍神社、八幡神社、きよみずさんの花火も有名ですね。これらは安倍川より規模が大きかった時代もあったそうです。

 

 

 花火は徳川時代、泰平の世にあっても武家の伝統として砲術・火術の秘法を守ろうと譜代の若者たちが継承してきたものです。徳川ゆかりの駿府城下で花火作りがさかんだったというのもうなずけますね。

 

 

 

 大正時代、本通り9丁目に小田万蔵という指物師が住んでいました。彼は、かつての修業先で世話になった親方や職人仲間が関東大震災で亡くなったことから、安倍川のほとりに慰霊碑を建てようと駒形の感応寺住職に相談します。しかし震災供養塔を安倍川に建てることに賛同してくれる人は少なかった。懸命に奔走した結果、弥勒や呉服町の篤志家や感応寺はじめ日蓮宗8カ寺の関係者が協力してくれることになり、寄付金を集め、身延山久遠寺81世日布上人が「南無妙法蓮華経関東震災横死者供養塔」という文字を書いてくださったそう。大正14年9月1日、諸霊供養塔とともに安倍河原に塔が建ち、記念に打ち上げ花火が上がったそうです

 ・・・7月にお祭りとして上げる花火とは趣旨は異なりますが、震災慰霊のために安倍川で花火が上がったというトリビアは、今回、初めて知って感慨深くなりました。

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 小田万蔵さんはこのとき29歳。いろんな意味で“男気”があった人なんでしょう、借金や事業失敗を繰り返し、奥さんに愛想を尽かされ、静岡にいられなくなって、昭和39年に名古屋で亡くなりました。遺骨は故郷に戻り、感応寺に葬られたそうです。

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 戦前の安倍川花火にも“名物男”がいたそうです。本通り8丁目の石屋の福井さんは、毎年、自分で火筒をかついでやってきて、景気づけに一発上げないと気が済まないと言って手製の花火をドーンと打ち上げたとか。やっぱり職人さんの“男気”が祭りを盛り上げていたんですね。

 

 

 安倍川花火大会は今年で59回目というカウントが付いています。59年前の第1回というのは、昭和28年8月、「第1回東海花火大会」という名称で執り行われました。きっかけは、戦後復興の願いを込めた市民の町おこし。静岡市は昭和20年6月の静岡大空襲で約2千人が亡くなり、安倍川河川敷で火葬にされたのです。

 

 

 昭和22年ぐらいから静岡市内各地で“復活祭”と銘打った市民行事が行われるようになり、安倍河原でも、悲劇の舞台からの復興・復活を願い、静岡市西部商店街発展会が音頭をとり、昭和28年、花火大会の実現にこぎつけた、というわけです。

 

 第1回は商店街発展会が20万円の募金を集めて観光イベントとして開催し、第2回・第3階は、地場産業である木工業者さんたちが協力し、「木工祭花火大会」という名称で、駿府城公園の中で開催されました。

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 4回目から「安倍川花火大会」という名称になり、安倍川河川敷に会場を戻し、新通学区の協力を得て市民花火大会として開かれ、5回目からは田町学区、対岸の長田北学区と長田東学区が加わり、全5学区協働の一大イベントとして発展していきます。今も安倍川花火大会の実行委員会は5学区合同の自治組織で、大会実行委員長は静岡市自治会連合会の市川源一会長が務めます。

 

 

 …私、安倍川花火大会って静岡市(行政)主催のお祭りだと思っていたんですが、市民が始めて市民が運営するお祭りだったんですね。

 

 

 

 

 もちろん、60~70万人もの花見客を動員する大規模イベントですから、市や警察との調整等が不可欠ですが、この規模のお祭りを市民自主組織が運営しきっているというのは、全国的にも極めてまれなケースだそう。初代会長の蒔田忠兵衛さん、3代目会長の酒井源太郎さんといった歴代会長がその基盤を作り上げました。基本的にボランティアでしょう。震災時に寄付やボランティアで活躍する方も素晴らしいですが、日頃から地域で地道にこういう活動をしている方も、本当に尊いなと思いますね・・・。

 

 たとえば、花火大会終了後の後片付けの市民ボランティアのパワー、これはものすごいものがあります。

 

 花火終了直後から実行委員会が一斉に片付け・清掃を始め、翌朝も未明から掃除。6時ごろからは地元の中学生たちもボランティア清掃に汗を流し、見事なまでにまっさらな状態に戻します。ウン十万人単位のお祭りですから、市の行事だったら専門の清掃業者を入札で選んで・・・となっていたかもしれませんが、市民の自主組織が「何かトラブルがあったら来年から許可が下りないかもしれない、絶対に手を抜かず、まっさらに戻すんだ」という緊張感を持って臨むのです。そのパワーはお役所組織では生まれて来ないと思います。

 

 

 

 大がかりなスターマインや尺玉を上げてくれるスポンサー集めも、お役所だったら限界があるでしょう。民間の花火大会でも、規模が縮小したり大会そのものが取りやめになってしまった例もあります。それでも「続ける」ためには、「続ける意味・意義」をつねに振り返る必要があるでしょう。

 

 

 6年前から、静岡市仏教会の協力で、花火大会が始まる前に戦没者慰霊祭を行うようになり、昨年は東日本大震災犠牲者を弔うという尊い使命も加わりました。

 

 大正時代に関東大震災慰霊の碑が建ち、花火が上がったという史実も、この場所で花火大会を続ける大きなモチベーションになると思います。

 

 

 

 

 私はこれらの史実が記録された安倍川花火実行委員会の記録を、長田図書館で見つけましたが、静岡市内ではこの1冊しか残ってなくて、しかも12ページ程度のペラペラ冊子。・・・これでいいのかなあと心配になってきました。・・・こういうことってちゃんと伝えないと、次世代の担い手が育たないし、いつ「景気が悪いからや~めた」ってことになり兼ねないでしょう。

 

 

 

 

 

 お祭りが、過去の自然災害や人災(戦争や事件事故)がきっかけになっているケースは多いでしょうし、京都祇園祭でもそのことを実感しました。今後の自分の取材テーマになるかも、って感じています。

 

 

 今年の安倍川花火大会は28日(土)。14時から戦没者&東日本大震災犠牲者の慰霊祭は執り行われます。詳しくはこちらを。

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1143年目の京都祇園祭

2012-07-21 12:24:20 | 歴史

 7月16~17日と、京都祇園祭に行ってきました。貞観11年(869)に始まり、今年でなんと1143回目というユネスコ世界無形文化遺産です。祇園祭を観るのは、30年前の学生時代以来。この時期の京都の暑さは、30年前の皮膚感覚より数段キツく、やっぱり地球は温暖化してるなあと実感。今回はお世話になっている方にお誘いいただいての企画ツアーだったんですが、宵山と山鉾行幸を存分に堪能してきました。

 

 

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 16日はお昼に京都入りして、山鉾町が集中する烏丸通~新町通界隈を散策しました。山や鉾が集中する新町通は、狭い道路の両側に祭りの出店が軒を連ね、道沿いの商家は自慢の家宝の屏風絵等を特別展示していました。

 

 

 鉾はこのとおり、道幅いっぱいにデンと構え、有料で登ることもできます。基本的に女人禁制ですがImgp0128、時代なんですねえ・・・「女性も登れます」の看板を置く鉾もありました。どこも順番待ちの長い列だったので、私は遠慮しました。もう、とにかく蒸風呂の中にいるような暑さで、扇風機やクーラーが回る雑貨やさんや呉服やさんに避難するほうが先決。そんでもって、よけいな買い物をついついしてしまう。暑さを武器に、町にガッポリお金を落としてもらう商人魂、見事です

 

 

 

 

 

 夕方、綾小路通で綾傘鉾後援会のみなさんによる棒降り囃子の実Imgp0154
演を特別席で見せてもらいました。

 棒降り囃子というのは、赤い熊にふんした踊り手が鉦、太鼓、笛に合わせて勇壮に踊ります。神様に奉納する踊りで、17日の山鉾行幸では赤い熊にふんし、鉾に向かって踊るのですが、16日の宵山では、踊り手が素顔のままで、しかも鉾ではなく、観客のほうを向いて披露してくれました。これは大変珍しい趣向だそうです。

 

 

 

 綾傘鉾保存会のHPには、こんな一文が紹介されています。

 

 山鉾の基層には「風流拍子物」の特質が流れているといいます。すなわち「風流拍子物」は神霊の送迎、特に疫神や災いなどの退散を願う「ハヤス」という行為から出た群集の踊りが基本であり、芸能としての特質は、太鼓などの打ち物系の楽器(打楽器)を踊り子が自ら打ち踊り、そして移動するところにあります。

 「風流拍子物」は鉾や傘、作り山や仮装の者たちが主体となり、それらは拍子に囃されて移動することを特質としました。囃される傘や山は神霊の依り付く「座(くら)」であり、神霊の動座を現したものです。

 

 このように、山鉾の原初形態の一つである「傘鉾」は、まさに囃されて移動する神塞の動座そのものであり、そこには「棒振り囃子」に代表される、派手な囃子を伴っていることが必要だったのです。室町時代の記録に登場する山鉾の中で、「綾傘鉾」や「四条傘鉾」はともに「はやし物」と表現されています。極言すれば「傘鉾」はそれだけで存在しても意味はなく、また「棒振り囃し」もそのものだけでは意味を持たないということもできます。両者がそろい、それらが移動してはじめて意味を持つ「風流拍子物」になったのです。

 

 

 

 

 

 

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 綾傘鉾は、大きな傘の形をした風雅な鉾。古い原始的な山鉾のかたちを今に伝えている貴重な鉾です。ちなみに、鉾には真木に支えられた鉾頭(高さ17~25メートル)があって、山には山岳信仰に基づいた真松(杉)を立てるという決まりがあるそうです。

 

 

 

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昔は小型でシンプルだった鉾も山も、時代とともにどんどん豪華になっていって、胴体を飾る綴織は重要文化財級の芸術品。「動く美術館」と称される鉾もあるくらいです。

 

 

 

 

 

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 それに比べると、つつましやかな綾傘鉾ですが、傘を彩る天女の舞が風雅で、どことなく好感が持てました。

 

 綾傘鉾については、こちらに詳しく紹介されているので、ぜひご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 夜は、しずおか地酒研究会会員の池谷浩通さん(御殿場・みなみ妙見店主)から教えてもらった六角通木屋町の小料理店「なな治」へ。若いご夫婦が経営するカウンターだけの小さなお店で、宵山の夜は予約が難しいかも、と思っていたんですが、祭りの中心は四条河原町通から西、烏丸通から堀川通にかけての一帯で、河原町通から東側はどうやら“穴場”だったよう。ほとんど貸切状態で、各地の地酒や酒肴料理を存分に堪能できました。

 

 

 

 

 

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 提灯鉾からお囃子の音色が流れてくるこの夜景、Imgp016930年前を思い出します。学生当時アルバイトをしていた料亭の板前さんや仲居のお姉さん方に連れていってもらい、人ごみに揉まれた記憶がよみがえってきます。

 

 

 

 

 ふつうのお祭りでは、こういう山鉾が2~3基あれば十分、ってところですが、祇園祭は33基。しかも各町内で保存し続けているんですから大した心意気です。

 貞観11年に始まったときは、当時、日本に66の国があったことから、66基も鉾を立てたそうです。京都に蔓延していた疫病や、東北を襲った貞観大地震&大津波を受け、洛中随一の池である神泉苑に神様を鉾に乗せてお送りし、平安を願った・・・というのがこのお祭りの起源なんですね。きっかけのひとつが大震災だったって、今の日本の境遇にも通じますね・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 翌朝は9時に始まる山鉾行幸を観ようと、四条烏丸交差点でスタンバイ。先頭の長刀鉾にお稚児さんが乗り込むところを観ようと、すでに歩道は押しくらまんじゅう状態でした。神の使いであるお稚児さんは基本的にどの鉾にも乗っていますが、生き稚児(生身の男の子)が乗るのは先頭の長刀鉾だけ。鉾先に疫病邪悪をはらう長刀(ちょっと前までホンモノの長刀だったとか!)を付け、生き稚児が注縄切りをします。よくテレビで紹介されるシーンですね。

 

 

 

 

 

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 ちなみに今年の生き稚児さんは、緑茶ドリンク「伊右衛門」でおなじみ宇治茶の老舗・福寿園のおぼっちゃま。神の使い=生き稚児を務める1ヶ月間、穢れるからと地べたに足を付けず、通学時もこんなふうに肩車やおんぶをされ、食事は男親としかとらない等などの制約のもとで生活するそうです。・・・本人も大変だけど、ご家族も大変ですねえ。福寿園一族も数億円の負担とか。改めて伝統行事というのは、心意気プラス財力がなければ保護できないという現実を痛感します。

 

 

 

 

 

 

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 注縄切りを行う四条麩屋町まで移動したくても、歩道は一歩も動けず・・・。とりあえず四条烏丸交差点で何基か行幸を見届け、少し人が動き出した頃合いに河原町方面までノロノロと移動し、高島屋でトイレを借りた後、四条河原町交差点で、鉾の「辻回し」を見物しました。交差点で車輪の下に青竹を敷いて水でぬらし、鉾の向きを直角に切り替える、例のダイナミックな方向転換ですね。

 

 

 

 

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 重さが8.5トン~12トンはあるという鉾。曳き手は30~40人、音頭役が4人、屋根方4人、囃子方は交替要員を含めて約40人が動かします。だいたい3~4回ぐらいかけて少しずつ角度を付けて動かすんですが、曳き手と音頭役が息を合わせるタイミングや、曳き手同士の力加減など、かなりの訓練が要るだろうなあ・・・でも実際の鉾で訓練できるわけじゃないだろうから経験なんだろうなあと、あれこれ想像させられました。

 

 おみこしかついでワッショイワッショイと動きの激しいお祭りと違い、鉾を引っ張って練り歩くだけなんで、なんとなく迫力ないなあなんて思っていたけど、こうして観ると、やっぱ、男のチカラ祭りって感じがします・・・!

 

 

 

 

 そうそう、御池通のど真ん中で、一基の鉾が止まってしまってなかなか動かず、故障でもしたのかと思っていたら、屋根の上に乗っていた屋根方が怒鳴り声で降りてきて、先頭を行く裃姿の町役?たちと喧嘩を始めちゃって、警察官が仲裁に入ってました。あっけにとられていたその間、後ろから来た山や鉾が追いぬいて行くという珍しいシーンも。・・・やっぱり祭りに喧嘩は付き物なんですね(苦笑)。

 

 

 

 

 

 

 行幸を終えた山や鉾は、町内に戻ると、ただちに解体されます。神様の乗り物なので、いつまでも地上に置くと穢れるからという理由だそうです。もちろん交通規制上の問題もあってのことだと思いますが、あっけないくらいの片付けの手際の良さ・・・見事でした。その代わり17日夕方~夜にかけて八坂神社で神輿渡御が行われ、きれいどころも集まって大いに盛り上がるそうですが、それは観ずに帰路につきました。

 

 

 祇園祭は7月23日に八坂神社で献茶式、24日に花傘巡行と還幸祭、31日の疫神社夏越祭(八坂神社の輪くぐりさん)まで続いているそうですから、今月中に京都へ行くチャンスのある方は、ぜひお見逃しなく!

 

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篠田酒店ドリプラ店本日正式オープン

2012-07-18 08:37:59 | しずおか地酒研究会

 報告が遅くなりましたが、先週末の7月14日~15日、エスパルスドリームプラザ清水いりふね通りにプレオープンした篠田酒店のお手伝いImgp0093に行ってきました。

 

 

 

 

 すし横丁のほうから入ると、清水いりふね通り入口の好位置に店舗。以前は戸隠さんに近い、やや目立たない場所だったのに篠田酒店さんの群を抜く好況ぶりがドリプラ運営側にも目に留まったのでしょう。本当にわかりやすくて入りやすいポジションです!

 

 

 

 

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 お手伝いにうかがう前、7月12日のプレオープン初日にご挨拶に行ったときは、正雪の蔵元・望月正隆社長がお祝い&試飲酒コーナーのホスト役で活躍しておられました。今度のお店は、こんなふうに立ち飲みコーナーが出来て、有料試飲ができるんです。12日は、正雪の2007BY純米大吟醸斗瓶取りという超レア酒と、今年の大吟醸(県知事賞受賞酒)の2種が用意され、1杯500円おつまみ付きでふるまわれました。私はもちろん2種いただきました。

 

 

 

 

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 14~15日は私がボランティアホステスとして立ち飲みコーナーに立たせてもらい、この2種類プラス、開運純米大吟醸(今年の県知事賞受賞酒)まで加わるという、地酒ファン垂涎のラインナップ。連休中とあって家族連れや観光客やリニューアル見学者が多く、せっかくのお宝酒をオーダーしてくれる人は少なかったけど、試飲してくださった方は全員、なんともいえない満足感に満ちた幸せそうな顔でお帰りいただけました。・・・いい酒ってのは人をあんなにいい表情にするんだなあと、改めてこちらも幸せ感いっぱいになりました。

 

 

 篠田さんが主催する日本酒の会には、24年前、地酒の取材を始めて最初に勉強にうかがわせてもらいました。それ以来の長いおつきあい。篠田さんは今では吟醸王国しずおかの製作支援イベントに手弁当で協力してくれています。

 

 

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 そんな“同志”のリニューアルオープンにあたって、花を贈る余裕もない今の自分にお祝いできることは何かを考えたとき、立ち飲みコーナーでお客さんとお酒のよもやま話をするぐらいなら・・・と思ったのです。

 本来、正雪さんのように造り手当事者がホストを務めるのが理想的なんでしょうが、自分では役不足かもしれないけど、お忙しい蔵元さんたちの少しでも大弁できるなら、と、過去24年の地酒取材で撮りためた蔵元さんや杜氏さんたちの写真をファイルしてカウンターに置き、興味を持ったお客さんに観ていただきました。

 

 

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 できれば少し大きな写真を柱に飾らせてもらいたい、という篠田さんの申し出もあり、手元にあった六つ切りサイズの多田信男さん(磯自慢杜氏)の10数年前の写真をこんな感じで貼らせてもらいました。ついでにこんな解説イラストも付けさせてもらいました。

 

 

 磯自慢は確かに群を抜く人気だということを、実際に店頭に立ってみてつくづく実感しましたが、有名だからという理由だけで買うのではなく、せっかく手に取ったのなら造り手の思いをしっかり汲み取ってほしいと切に願います。

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 本日7月18日、正式オープンとなる清水いりふね通り。その看板店になるであろう篠田酒店ドリプラ店。人が集まりやすい場所だからこそ、地酒文化の発信拠点として、買い物以上の感動を与える店になってほしいと思います。

 本日18日は開店記念で、志太泉の蔵元さんがホスト役を務めます。志太泉のレア酒が出ると思いますのでどうぞお楽しみに!営業は10時から21時まで。試飲される方は電車かバスをご利用くださいね。清水いりふね通りの情報はこちらを。

 

 

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 またチャンスがあれば、写真スクラップを持って遊びに行きたいと思います。素人写真ですが、酒造りの現場写真をぜひお客さんに見せたいという飲食店・酒販店の方がいらしたら、気軽にお声掛けください。いつでもボランティアでお手伝いにうかがいます!


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“日本一“企業を輩出する静岡県ニュービジネス大賞

2012-07-12 10:52:57 | ニュービジネス協議会

 昨夜(11日)のNHKクローズアップ現代で女性起業家のコンペティションが紹介されました。大賞を獲得したエムスクエア・ラボ(菊川市)の加藤百合子さんは、2010年度の静岡県ニュービジネス大賞最終Dsc_0011
審査に残り(写真は最終審査の様子)、このときは大賞を逃しましたが、(社)静岡県ニュービジネス協議会の定例勉強会に講師に招いてその先進性に注目が集まりました。会報誌にもこんなふうに紹介しています。

 

 

 

 

 

 

日本の農業の新しい価値と魅力づくり

 2010年静岡県ニュービジネス大賞最終審査に残った㈱エムスクエア・ラボの加藤百合子氏は、東京大学農学部農業工学科を卒業して産業用ロボットの研究開発に関わり、退職後に静岡大学農業ビジネス企業人育成講座を受講。3人の女の子の子育てを通して、農業に関わる事業の必要性を感じ、2009年に起業しました。

 

 カンや経験に頼る技術の継承でよいのか、旧態依然とした青果流通に将来はあるのか等、農業情報の在り方を見直し、広く正確な情報発信システムを構築し、得意分野である機械工学で農業に参入しようと、まずは農業情報シェアサイト「わいファーム」を立ち上げました。2010年にはふじのくに農業情報ブログ登録プロジェクト(県事業)を受託し、アグリグラフ・ジャパンを運営管理。県内農業に関する情報をリDsc_0025
アルタイムで国内・海外5カ国に発信しています。

 

 また県委託事業の「ふじのくにワールドワイドファームプロジェクト」を受託し、農業に関するビジネスマッチングとグリーンツーリズム事業を支援。さらに青果取引を安心確実にするための現場密着の営業代行および品質管理保証、生産者育成、マーケティング等を行う“ベジプロバイダー”という新システムの構築で、日本の農業の競争力強化とビジネス支援に取り組んでいます。

*オフィシャルページはこちらを。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、加藤さんが大賞を逃した2010年度静岡県ニュービジネス大賞を受賞したのは、ウエルビーフードシステム(静岡市清水区)の古谷Imgp5187
博義社長。同社は、2011年新事業創出全国フォーラム大賞で、日本各地から推薦されたベンチャーを押しのけ、見事、大賞(経済産業大臣賞)に輝きました。受賞対象となった事業は以下のとおり。

 

 

 

 

 

 

 

静岡県ニュービジネス大賞・ウェルビーソフト食と事業展開

 

 

 

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ウェルビーフードシステムは静岡市清水区の食品卸業・古宝商事が母体。古谷博義社長は、斜陽を迎えた卸業からの転換を目指し、お持ち帰り弁当やカレーハウスのFC事業を経て、現在は福祉施設、病院、企業、学校等の給食業務の運営委託請負を中心に活動しています。

 新たに開発したウェルビーソフト食とは、「企業は社会性のある事業をしなければ生き残れない」と考えた古谷社長が、請負先である福祉施設で嚥下困難(食べ物がうまく食道に運べない)に苦しみ、気管に入りこんで窒息や肺炎を招く危険性のある高齢者のために開発したもの。従来のソフト食の、見た目が悪く食べてみないと何の料理かわからず、食欲がわかないというデメリットを克服し、彩りよく見た目も常食に近く、食器も常食と同じものを使用します。

 システム生産する他のソフト食メーカーとは一線を画し、請負先の施設の調理場で、常食と同じメニューを手作りでソフト化できるのが同社の強み。今後は握り寿司、天ぷらそば等、ソフト食化が難しいとされるメニューにも挑戦します。

 

また同社は、幼稚園・保育園・こども園(幼保一体)の調理部門を県では初めて民間受託しました。「公立の保育施設では人件費の問題から給食担当の正職員新規採用が10年以上されておらず、給食サービスがおろそかにされている。県内には504カ所の保育園があるので、民間の専門業者に門戸開放するなりして、子どもの食の管理を大切にしてほしい」と問題提起します。

*オフィシャルページはこちらを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食と農の分野で、新しいベンチャーを起こした静岡県の2社が、2年続けて全国規模のコンペティションで大賞を獲得したということは、静岡県のベンチャー企業のレベルの高さの証明に他なりません。しかも受賞者2人とも、食の生産者や販売業者ではないけど、身近で感じた食の問題に、自身のスキルを活かし、まったく新しい「しくみ」を確立しようと努力されたのでした。起業やベンチャーの種って、身近なところにいくらでもあるって勇気づけられますね。

 

 

 

 

 そんなベンチャーの“発芽”を見逃さず、応援しようというのが、静岡県ニュービジネス大賞です。今年も募集が始まっていますので、我こそはという人、この会社を推薦したい!という人はぜひチャレンジしてみてください! (応募要項はこちらを)。

 

 

 以前、私も杉井酒造さんを推薦させてもらったことがあり、杉井さんと一緒に推薦論文を必死に書いたのですが、残念ながら大賞受賞には至らず・・・。でも杉井さんの事業を理解する大きな手立てになりました。こちらの記事で紹介した論文を参考に、チャレンジしてみてくださいね。

 

 

 

 

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