杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

清水と相良の歴史アーカイブ

2020-11-22 13:36:03 | 朝鮮通信使

 コロナの影響で休会続きだった静岡県朝鮮通信使研究会の今年初めての例会が11月21日に開かれました。テーマは『宗像神社の鳥居を寄進した興津忠通~朝鮮通信使崔天秀殺害事件と入江一族の子孫たち』。我らが先導役・北村欽哉先生が今回も大いに知の刺激を与えてくださいました。

 このテーマを聞いてパッと内容が解る人は、たぶんいらっしゃらないだろうと思います。静岡県の朝鮮通信使研究のトップランナーである北村先生でさえ初見のネタということですから、我ら門弟が理解しようもありません。そんなトリビアがまだまだ身近に散在していたとは、歴史好きにとって朝鮮通信使は知の金脈に違いない!と再認識した次第。

 前置きはさておき、今回も北村先生が綿密に調査された内容を、キーワード別にかいつまんでご報告したいと思います。

 

①宗像神社と興津氏

 世界遺産に認定された北九州の宗像神社は天照大神の三人の姫を辺津宮(本土)、中津宮(大島)、沖津宮(沖ノ島)に祀り、田心姫神を祀る沖津宮は女人禁制の孤島として知られています。全国に7千余ある同系神社のうち、静岡市清水区興津にある宗像神社は、沖津宮の田心姫神が米俵に乗ってこの地にやってきて弁天様として祀られ、沖津⇒興津という地名になったとか。

 平安中期、駿河国司として赴任した藤原時信の子惟清(これきよ)は、入江地域の土地開発を行い、〈入江庄〉を作って入江姓を名乗ります。その一族が吉川、船越、矢部、三沢、岡部、興津などに分かれて土地開発を行い、豊かになった民衆がそれぞれの土地を守るために武力を持つようになり、武士階級となって台頭、やがて鎌倉幕府の御家人として活躍するようになります。

 ちなみに入江一派の御家人たちは、源頼朝に義経のことを讒言し頼朝死後に幕府を追放された梶原景時と清水の狐ヶ崎で合戦し、梶原一族の滅亡に加担したことでも知られます。このあたりは再来年の大河ドラマ〈鎌倉殿の13人〉でも描かれるでしょう。楽しみですね! 

 

 興津氏は、その名の通り興津エリアを収めた入江一族の一派。入江惟清が藤原氏の氏神である春日神社を、吉川氏が鶴岡八幡宮を勧請したのに倣い、興津の弁天様にゆかりのある宗像神社を勧請しました。

 今回のお話に登場する興津忠通は江戸中期の人で、初代入江惟清から21代後。現在、興津の宗像神社に立つ三の鳥居には〈宝暦九己卯年九月 藤原朝臣忠通建〉との刻印が残っています。現鳥居は昭和47年に再建されたもので、その脇に、安政大地震で倒壊したとされる鳥居の柱片が安置されており、ここにも確かに〈忠通建〉の文字が残されています。

 忠通は、宝暦7年(1757)に大坂町奉行に任命され、赴任のため、この地を通行しており、地元の郷土史愛好家がまとめた『興津地区年表』によると、通行中に奥さんが急に産気づき、難産だったため、弁天様にご祈願したところ無事出産。そのお礼と先祖の地たる縁として弁財天の逗子と石鳥居を奉納し、10両を寄進したそうです。

 北村先生は、興津忠通が大坂に赴任した宝暦7年と、石鳥居が建立された宝暦9年の“2年差”に着目し、調査を重ね、

●妻がこの地で出産した記録はなし。出産間近の身重の妻が大坂まで同行したとも考えにくい。

●宗像神社の石鳥居は大坂原産の桜みかげ石=駿河では採れない石。

●昭和48年に宗像神社を大改修した際の記録が見つかり、鳥居は大坂で設計施工し、船で運搬されて奉納されたことが判明。

ということで、興津忠興が大坂町奉行の就任祝いに大坂で造って寄進しただろうとの結論に至りました。奥さんの出産は確かにドラマチックなエピソードですが、史実に余計な “盛り” だったようですね。

 ところで、最初に入江氏が本拠地を置いたのが現在の清水区春日町~桜橋あたり。私は実は桜橋にあった松永産婦人科医院で産声を上げたので、その話を聞いてがぜん親近感が湧いてきました!

 

②朝鮮通信使崔天秀殺害事件

 第1回(1607)から第12回(1811)に及ぶ朝鮮通信使の歴史の中で、特筆すべき大事件が、第11回の宝暦14年(1764)4月に大坂で起こった朝鮮通信使殺人事件です。殺されたのは崔天秀(チェ・チョンジョン)という中官。犯人は対馬藩の通訳鈴木伝蔵。些細な諍いがきっかけのようですが、理由はハッキリせず、鈴木は犯行後に逃亡。朝鮮通信使は江戸時代、日本唯一の正式な外交使節団ですから、外交官が道中、日本人に殺されたとなれば一大事です。

 朝鮮通信使の通行は対馬藩が幕府から運営委任されていたので、まずは対馬藩で検死を行うことに。他殺では大問題になるから自殺で処理しようという向きもあったようですが、犯人の鈴木が逃亡したことが明らかとなり、幕府への通報もやむなしということで、大坂町奉行だった興津忠通が処理に当たることになりました。事件発生から11日目、江戸から目付役が到着した日に鈴木は有馬温泉で逮捕されます。

 取り調べで鈴木は犯行の理由について、崔天秀から日本人を侮辱する発言があり、反論したら人前で鞭で打たれ辱めを受けたためと供述。この時の通信使正使・趙曮(チョ・アム)はこれを否定し、逆に鈴木が崔天秀所有の鏡を盗んだため馬鞭を加えたと反論します。

 この第11回朝鮮通信使は、ソウルを8月3日に出発し、帰着は翌年7月8日。この事件以外にも大雨等で河川通行止めが相次ぎ、実に11カ月(通常は7~8カ月)に及び、途中で病死する随行員も続出。正使趙曮はイライラの頂点にいました。使行録には日本側を「狡猾な倭人」等と罵る記述がある中、「大坂城代の阿部正允が江戸の沙汰を待たずに犯人を迅速に逮捕し、刑罰について自分たちの意見を尊重してくれた」「大坂町奉行の興津忠通も調査を厳密に行う気骨ある人物だった」と評価。滞在中に鈴木は処刑され、趙曮も面目を保ったということです。

 

③相良と入江氏のつながり

 朝鮮通信使殺人事件はたちまち世に知れ渡り、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなりました。通信使が通った東海道筋から離れた榛原郡相良町の川田家文書にも「五月中旬の咄シニ、唐人未大坂二留逗ト及聞、此訳中官ころされ、其せんぎ大分むつかしきよし之上なるよし也」との記述。事件から1カ月過ぎで相良の村まで届いたのですから、かなりのビッグニュースだったというか、当時は我々が想像する以上にニュースが伝搬するスピードが速かったようです。

 ところで、北村先生のお話の中で、ひときわ心に残ったのが、清水の入江一族と相良とのつながりでした。

 相良町の般若寺には県指定文化財の大般若波羅蜜多経(大般若経)が残されています。大般若経はご存知玄奘三蔵がインドから持ち帰り漢訳した全600巻にも及ぶ仏教の基礎的教典で、長い歴史の中で多くの人々の手によって写経され、伝わってきました。

『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』によると、この大般若経には「藤原(入江)惟清」「久能寺」「村松八幡宮」「有度八幡宮」が関係しており、もともとは駿河国府中周辺で写経されたもののよう。最古の第373巻に入江惟清の署名があることから、入江一族の配下にあった久能寺や村松八幡宮、有度八幡宮が所蔵していたものが、遠江国相良庄に伝来したと考えられます。

 私は入江一族拠点の清水桜橋で生まれましたが、私の父は相良町の生まれ。何やら不思議な縁を感じ、この経典が駿河国入江庄から遠江国相良庄へ伝来した理由を知らずにはいられず、午前中の研究会が終了後、車を飛ばして牧之原市史料館まで行って『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』のコピーをいただいたのでした。

 『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』には、

●大般若経が国家や地域の安穏を祈念する経典として地域社会にとって極めて重要なツール。

●鎌倉後期の段階でそれ以前に各地で書写されたものが相良庄に寄せ集められていた。

●それ以降も、巻によって散逸・盗難・焼亡・劣化等のたびに新たに書き加えられ、江戸後期に現在の般若寺所蔵のものとなった。

●その間も駿河国から遠江国へと国をまたいで移動があり、清水港と相良港という海運の存在を考えないといけない。

と書かれていました。

 

 北村先生によると「今川時代に入江庄の新田開発を行って今川から所有を認められた人物が、大井川河口の新田開発も手掛け、同様に土地を安堵されたことが関連しているのでは」とのこと。その人物について現段階ではよくわからないため、この先の宿題としておこうと思います。

 

 夕方、牧之原市史料館から興津の宗像神社まで移動し、興津忠通が寄進した石鳥居をくぐり、弁財天様に手を合わせてきました。

 北九州の沖ノ島から米俵に乗ってやってきたという姫神にも、その裏で実際に社を勧請した人物がいたはず。地域の神社や寺は、我々が想像するよりはるかに広く深く、人間の行動や移動の記録・記憶を孕んだ貴重な地域史アーカイブであることを、改めて噛み締めた一日でした。

 

 

 

 


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