杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡が誇る茶師と杜氏

2012-10-30 14:22:35 | 地酒

 気づけば、またしばらくブログ更新をさぼっていました。バイトを始めて以来、休みゼロの暮らしが2ヶ月。肉体疲労で免疫機能が低下したせいか、帯状疱疹まで出来てしまいました。気持ちと体がリンクできていない状態に、ちょっと驚いています。こうして人は少しずつ老いを実感していくんですねえ。もう10月がもう終わってしまうのか・・・早いなあ。

 

 季節が変わったと実感するのは、冷蔵庫に冷たいお茶をストックする習慣がなくなったこと。暑い時期はお茶を急須で淹れて瓶ボトルに移して冷ましておくのですが、今月半ばぐらいから急須のお茶を熱いまま飲むようになりました。今、飲んでいるのは取材先の伊東で買った「ぐり茶」。沸かしたてのお湯で乱暴に淹れても結構美味しいので、すぐに飲みたい!ってな時は重宝します。

 今月は静岡県のお茶の手揉み技術の取材があり、静岡がお茶どころになったマンパワー=茶師の技の価値について改めて深い感動を覚えました。県史に造詣の深い中村羊一郎先生が編集した『静岡県指定無形文化財・八流派の手揉茶技法』という冊子に、次のような記述があります。読んでいるうちに、手揉茶の蒸し技術と日本酒の麹造り、茶師と杜氏の置かれた状況に多くの共通点があると実感しました。

 

 

『静岡県指定無形文化財・八流派の手揉茶技法』 中村羊一郎編 (社)静岡県茶手揉保存会発行

 

●流派の発生とその意義

 静岡県の基幹産業のひとつである煎茶の生産は、幕末における開国を契機とする貿易開始とともに飛躍的に増大し、一時は我が国からの輸出品目で生糸につぐ第二位を占めるほどになった。

 その背景には牧之原や三方原台地の開墾に見られるような茶園の拡大という生産基盤の整備があったが、それと並んで良質の茶を安定して生産するための製茶技術の開発にも注目しなければならない。

 静岡県の製茶技術は近世までの先進地である山城(宇治)や近江(朝宮・土山)や伊勢(水沢)などから導入されたが、その技術を身につけた者たちがさらに自ら工夫をこらすことによって、より高品質な茶を効率的に生産するための製法が考案されていった。

 このような製茶技術に長じた職人は茶師と呼ばれ、各地の農家に雇われた。自分が製茶した茶が、買取に来た商人によってただちに評価されるという厳しさの中で、少しでも高価に売れる茶を揉まなければならない。(中略)ときにはその地位を奪おうとやってきる旅の茶師と対決して、自らの優位性を示さなければならないこともあった。

 こうした実践を重ねる中で評価を高めた茶師は、県や業界の推薦を受けて各地に招かれ、伝習所を開設し、自らの技術を多くの若者に伝授していく。弟子たちは伝習の記念として師匠に大きな幟を贈り、グループの結束を図った。師匠格の茶師は、焙炉場の軒先にこの幟を高く掲げて自らの技量を誇示し、まわりからはノボリモチと呼ばれて尊敬された。これが静岡県独特の茶手揉み流派発生の原因のひとつである。

 

(中略)

 それぞれの流派の開祖は自らの技術に絶対の自信をもった。それは生産地によって茶葉の性質が微妙に異なっており、自分の揉み方こそがそれにもっとも適しているという信念があったからである。

 たとえば南向きの日照時間の長い肥えた土地の茶は肉厚であり、反対に日が当たりにくい山間地域の茶は肉が薄い。そういった茶葉をよい茶に仕上げるためには、いつ、どんな風に力をこめたらよいのか、時間をどれだけかけるかというような具体的な相違点が生じてくる。つまり多様な流派発生のもうひとつの背景として考えられるのは、生産地域の特色を活かした独自の工夫が互いの相違点を浮き彫りにしたということである。

 それが伝習所において結ばれた師匠と弟子という人間関係と重なり合って集団としての強い自己主張となり、ひいては独自性の象徴として流派名が唱えられるようになっていったのである。

 なお明治10年代には輸出の好調さに乗じて日干し番など煎茶とはいえない下級茶や偽茶、着色茶などの不良品が大量に出荷され、アメリカから制裁を受けたことがあり、県はいっときの利益を追わず、良質な茶を生産するよう厳しく指導した。優れた手揉み技術の開発は、こうした茶業界の動向とも無縁ではなかったろう。

 

 

*静岡県指定無形文化財の八流派=青透流(志太)、小笠流(中遠・浜松)、幾田流(富士以東)、倉開流(北遠)、川上流(静岡)、鳳明流(静岡・岡部)、興津流(清水)、川根揉切流(川根)

Dsc00399

 

●蒸し加減の表現からみた八流派の差異

 「蒸し」は緑茶製造の第一歩で、品質を左右する重要な操作である。生葉の性質によって蒸籠に入れる生葉の量、箸の使い方、蒸し時間などを加減しなければならないが、要は、蒸し葉の香気によって適度を知ることである。

 若蒸しは青臭さや苦渋味が残り、貯蔵中に変質しやすい。蒸し過ぎれた鮮緑を欠き、香気が冴えず、蒸し葉がべとついて揉みにくく、肌荒れや小玉を生じやすい。近頃、深蒸しの傾向があるが、滋味の点では勝るが、香気・水色に難点があり、一得一失である。

 

 

 目で蒸すな鼻で蒸せ

 黄色に蒸して青く揉め

 蒸す前に芽の質を見よ

 

 

 つまり、蒸しの加減はおのれの鼻をじゅうぶんにきかせよ、というのである。8つの流派とも生葉を蒸す時間は30秒前後と変わらず、箸でかき混ぜていったん蓋をする。その後の処理をどんなふうに表現しているか比較してみる。

 

 

 「青透流(志太)」 蓋の間から甘涼しい香りが出たら2~3回蓋をたたいて取り出し・・・

 「小笠流(中遠・浜松)」 蓋をして芳香の出た頃、蓋を打ちながら匂いをかぎ・・・

 「幾田流(富士以東)」 蓋を打ちながら芳香の発生を確認し取り出し・・・

 「倉開流(北遠)」 蓋を打ちながら匂いをかぎ、芳香が出たら甑から外し・・・

 「川上流(静岡)」 蒸気が上がってきたら方向を確認し、1~2回蓋を打って・・・

 「鳳明流(静岡・岡部)」 蓋を2~3回打ちながら嗅ぎ、芳香を確認し取り出す

 「興津流(清水)」 蓋をして甘香りの出たとき蓋を前2回・後1回たたきつつ速やかに出し・・・

 「川根揉切流(川根)」 蓋をして20秒前後経て芳香が確認できたら取り出し急冷する

 

 

 6つの流派が「芳香」といい、青透流は「甘涼しい香り」、興津流は「甘香り」と表現している。芳香だけでは漠然としているが、甘涼しいというのもなかなか微妙な表現である。国語辞典にもない特徴的な言い方が、いつから使われているのだろうか。

(中略)

 明治38年式製法大要には「蒸しの適度をもっとも容易に知る方法は、青臭きを去り、甘く涼しき香を発し、蒸葉滑らかとなりて箸に付着するを以って適度とす」とあり、以降の指導書に引き継がれていく。(中略)「甘涼しい」という業界用語としての表現が、「青臭さ」と対置される芳香の中身であった。逆に言えば「甘涼しい」の概念を共有化することによって、各流派の独自性が薄れていったといえるのではなかろうか。

Photo
 どうでしょう。酒造りの技術的なことを少しかじったことのある人なら、製茶のノウハウがすんなり会得できるんじゃないでしょうか。実際、志太杜氏の中には、酒造りが終わってから川根で茶師を務めた人もいました。

 

 鼻で香りを嗅ぎ分けて蒸し加減を調整する=香りや指の感触で麹の切返しや出麹のタイミングを計る、「甘涼しい」という言葉で香りの概念が統一された=「香りよく軽快で丸い」酒質の静岡酵母の出現で静岡酒の概念が統一された経緯など等、相通じるところが多いですよね。

 

 

 冊子の最後で、中村先生が次のようにまとめておられました。

 

 「現在の製茶機械の性能はきわめて高く、かつての名人の腕前に匹敵するほどになった。しかし、自動化されたとはいえ、茶葉の微妙な差異、わずかな温度差などを判断しながら機械を操作することで、より高品質の茶を作ることができる。

 ”お茶の心を知れ”と茶師は言った。機械を操作する人にもそっくりあてはまる至言である。そしてなによりも茶は食品であるという事実をしっかりと噛み締めておかねばならない。今ほど生産者が心をこめた食品が求められる時代はない。

 茶手揉み技術が多くの人に継承されていくことは、良質茶の生産に寄与すること大であるとは言うまでもないが、実は食品と人間とが直接的なつながりを持ち続けるという点においてこそ、きわめて大きな意味があるといえるのである」

 

 

 ・・・ふるさと静岡に、美味しい茶と酒がある悦び、美味しい茶と酒を生み出す職人がいる誇りと幸せを噛み締めたいと思います。


「翁弁天」岡田真弥さん永遠に

2012-10-22 22:12:40 | 地酒

 

 また一人、大切な酒縁者を亡くしました。藤枝で「翁弁天」を醸していた岡田真弥さん(51)。2ヶ月前に脳梗塞で倒れ、一命を取り留めてリハビリに励んでいたさなかの急死でした。

 

 今日の夕方、取材先から帰ったタイミングで知らせを聞き、取るものもとりあえずお通夜の会場(すでに終わっていましたが)にかけつけ、最期のお別れをしてきました。昔と変わらないふっくらした表情で、今すぐにでも起き上がってくるようでした。喪主のお母様も「いまだに信じられない」と堪えておられました。酒蔵を廃業して時間が経つので、酒造関係者には知らせなかったと申し訳なさそうにおっしゃっていましたが、お通夜に河村傳兵衛先生が来て下さったと、とても感激しておられました。

 

 

 岡田酒造と河村先生のことは、毎日新聞朝刊に連載していた『しずおか酒と人』1997年11月6日付の記事でこんなふうに紹介しました。

 

蔵元の灯を守る【救世主】

 

 静岡の酒には【救世主】がいます。河村傳兵衛さん。県沼津工業技術センターに勤める醸造研究者で「静岡酵母」や「吟醸麹ロボット」の開発者。酒造業界で知らない人はいません。今回は単なる酒のみの私でも「この御仁は救い主だ・・・!」と実感したお話を。

 今秋(1997年)からNHK朝の連続テレビ小説で酒蔵が舞台になり、蔵の生活や人間関係が描かれています。蔵の当主は酒造りを杜氏に一任し、現場では口を出しません。ヒロインが蔵の中をのぞこうとして叱られるのも誇張ではなく、蔵は当主といえども侵すことの出来ない神聖な場所。現在、私のような外部の、しかも女が平気で出入りするなど、ドラマに描かれた30年前までは信じられない話でした。

 しかし肝心の杜氏や蔵人が減ってしまい、蔵の様子は激変しました。職人の高齢化による技術の先細り。酒造業も、伝統産業の多くが抱える難題に直面しているのです。

 「翁弁天」の酒造元・岡田酒造(藤枝市鬼島)も2年前、その危機に直面していました。仕込が始まる直前、杜氏から「行けない」という連絡。仕入れ済みの酒米・山田錦を手に途方にくれる岡田真弥さん(37)の背中を「応援するから自分で造ってみなさい」と押したのが河村さんでした。どんな小さな蔵でも酒造の灯を消してもらいたくないというのが、河村さんの切なる思いだったのです。

 蔵元が杜氏になるなど、ドラマの時代では論外ですが、貴重な酒米を無駄には出来ません。酒造初体験の岡田さん。ベテラン杜氏もその厳しさに恐れをなすという河村さんの指導。岡田さんの生活は文字通り一変しました。早朝から午後にかけての仕込み。夕方から夜にかけての配達。体の弱い父・昭五さんも朝3時に起きて蒸釜に火をつける役を買って出ました。そして春にはタンク2本の吟醸酒が仕上がり、ファンをホッとさせたのです。

Img006
 97年10月12日、蔵の一角に岡田さんの兄・晃さんが板長を務める居酒屋【伽草子】が開店しました。酒蔵内の料飲店は県内初。出す酒はもちろんオール生酒。弟が造った酒を、兄の手料理と一緒に売る・・・酒蔵の風景は様変わりし、当主を旦那様、杜氏をおやっさんと呼ぶ伝統もなくなりました。

 それでも私は、ひとつの地酒が熱意ある指導者と蔵元一家の力で生き残ったことに、心から拍手を贈りたいと思います。

 今期で3造り目。【伽草子】開店の夜、自ら醸した酒を囲む客を眺める岡田さんの笑顔は、自信に満ちた杜氏の顔でした。彼の背中を押し、杜氏へと導いた河村さんは本当に「救い主」だと思います。

(文・イラスト 鈴木真弓/1997年11月6日付毎日新聞朝刊静岡版)

 

 

 

 Img003

 この取材から2年後の1999年1月から3月にかけて、私はひと造り、岡田酒造で酒造り体験をさせてもらいました。無理をお願いしたお礼というかおわびに、静岡新聞編集局のカメラマン永井秀幸さんに岡田酒造を取材してもらい、静岡新聞朝刊写真特集(全段カラー頁)で紹介。永井さんからは取材時に撮ったベストショットを寄贈してもらいました。

 ・・・岡田酒造で過ごした3ヶ月は、ライター人生にとっては宝物のような時間でした。

 

 

 Img005

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お通夜の会場でお母様とその頃の話をしたとき、「本当に楽しい時代だったわねえ」と表情を少し崩されたお母様を見て、私が弔い代わりにできることといったら、あのころのことをきちんと遺して伝えることだ・・・と心に迫るものがありました。

 

 

 

 酒造の灯が消えてしまってから、岡田さんがどんな暮らしをされてきたのか、仔細はうかがいませんでしたが、現在の仕事先関係者からたくさんの花輪が届けられ、同僚や友人と思われる方々が通夜が終わった後も大勢残っておられました。・・・たぶん、新しい職場でも愛され兄貴キャラで親しまれていたのでしょう。

 そして、「翁弁天」という地酒を岡田さんが必死で守ろうとしたことと、「伽草子」という家族経営の居酒屋が、本当に地域に愛されていたことは、ゆかりある人々の記憶にしっかり刻まれています。 

 

 

 Dscn2195

 

 こちらは2003年春、しずおか地酒研究会で藤枝四蔵見学ツアーを企画したとき、最後の〆で盛り上がった岡田酒Dscn2198造と「伽草子」の店内。蔵の母屋を改築した、趣のある居間で、ご近所の寄り合いにでも来たような、とてもくつろげる空間でした。

 当時、静岡産業大学で教鞭をとっておられた後藤俊夫先生が東京からソニーやNEC等そうそうたるメーカーの技術者OB仲間を呼んでくださって、藤枝四蔵の蔵元と酒造り談義を交わした楽しい夜でした。後藤先生とお話するたびに、いまだにあの夜のことが話題に出ます。

 

 

 

 落ち着いたら「岡田さん、貴方が生まれ育った酒蔵と貴方が醸した酒は、人の記憶に残る価値ある財産だったんですよ」と、天に向かって酒盃を捧げたい。・・・でも今夜はまだ気持ちの整理がつきそうもありません。

 心よりご冥福をお祈りいたします。


静岡市文化財資料館記念講演『海を渡った朝鮮通信使』

2012-10-21 21:28:42 | 朝鮮通信使

 昨日(10月20日)は静岡市文化財資料館企画展『朝鮮通信使~駿府における家康の平和外交』の記念講演会に行ってきました。講師は望月茂さん。元学校長で現在は静岡歴史民俗研究会会長・静岡市文化財資料館運営委員を務めておられます。

 県内の朝鮮通信使研究家Imgp0869には一通り面識があったつもりでしたが、この先生は初めて。講演を聴いた印象では、朝鮮通信使よりも日本の城郭史のほうがお詳しいようで、秀吉の朝鮮侵略の話、とくに朝鮮半島での秀吉軍の戦い方や城構えについて詳しくお話されました。

 

 

 

 会場のアイセル21の1階ホールは満席に近い盛況ぶりで、このテーマへの市民の関心の高さに驚きました。今、このタイミングで『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』を上映できたら、完成時(2007Photo年)よりもインパクトがあったかも。同じ市の企画なんだから、うまくコラボさせてくれてもよかったのになぁ・・・。

 

 

 ちなみにしつこいようですが、こちらの作品は静岡市立図書館でDVD貸し出ししてますので、興味のある方はぜひ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 秀吉の朝鮮侵略については、以前、京都の佛教大学四条センターの歴史講座で詳しく勉強しました(こちらを)。今回の望月先生のお話で、加藤清正らが永久基地のつもりで朝鮮半島で建設した倭城の曲輪や石垣のスライドを見せてもらい、大陸に攻め込もうとした武将たちのモチベーションについていろいろ考えさせられました。

 

 四条センターの歴史講座で笠谷先生も触れたように、明や朝鮮国との外交を現実的にとらえ、出兵には反対の立場をとっていた武将(小西行長、宗義智ら)と、恩賞狙いの好戦家(加藤清正ら)の思惑が入り乱れ、のちに僧の慶念が「歴史上、この戦争より悲しいものはない」と嘆いたほどの結果に。戦いの経過についてはこちらを見ていただくとして、望月先生によると、文禄・慶長の役に出兵した兵の生存率52,3%。この数字は、どう考えても戦争として大失敗ですよね・・・。

 

 

 

 加藤清正が築いた蔚山倭城は、開戦11ヵ月後、まだ完成前に籠城せざるを得なくなり、飢餓に苦しんだ清正軍の兵たちは、馬を食べ、人肉を食べ、最後は藁を煮出してしゃぶるしかなかったとか。それでも何か戦果を持ち帰らなければと必死になって、朝鮮の人々の耳や鼻をそぎ落として塩漬けにして持ち帰りました。

 佐賀県の名護屋城博物館に保存されている”鼻受取状”は、『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』でも実物を撮らせてもらい、京都の豊国神社の前にある”耳塚”も撮影させてもらいました。鍋島藩が描かせた朝鮮出兵の絵図も映画で紹介しましたが、あの絵図は、戦功を称えるというよりも、「二度とあのようなおろかな戦争はしてはいけないと、いましめとして描かせた」と。

 

 

 

 

 慶長の役の最中の1598年8月18日、秀吉が亡くなり、五大老(実質指導権を握った家康)が同年10月15日に朝鮮半島からの撤退命令を出します。それから第1回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)がやってくる1607年までの9年間というのは、日本、いや東アジアの外交史の中でも特筆すべき時代だったと思います。

 

 実際に渡海した武将や僧も“忌むべき戦争”と自覚していた、正義なき侵略戦争・・・。国土を蹂躙され、多くの同胞を殺され、被慮として日本に連れ去られた朝鮮半島の人々が、そうたやすく日本を許すとは思えませんが、背後には明国が控え、北方からは新興勢力(女真族=のちに明を倒して清国を樹立)の脅威も迫っていた朝鮮王朝としては、日本が退いたのなら、どこかで政治的に落とし所を定めねば、という状況。冷静に状況判断を行った家康、実際に加藤清正軍と刃を交わした経験を持つ朝鮮側の松雲大師、講和を円滑に進めるため国書の偽造という奥の手を使った対馬の宗義智・・・この3者の外交交渉は、政治ドラマ、いや人間ドラマとして、想像するだけでもゾクゾクとします。

 

 

 

Img001

 

 そんな、朝鮮通信使の歴史を紐解くたびに、東アジアの外交摩擦は、昨日今日始まったことではないんだ・・・と思い知らされます。そして歴史教育の重要性。日本の歴史教科書では、文禄・慶弔の役のことをかつては「朝鮮征伐」と教え、その後、「朝鮮出兵」とし、今では「朝鮮侵略」に改訂された、と望月先生。過去の歴史を冷静に見つめる大切さを、朝鮮通信の歴史は教えてくれると思います。

 

 静岡市文化財資料館での企画展は11月25日(日)まで開催中ですから、ぜひ一度足をお運びください。


『カミハテ商店』公開決定!

2012-10-15 22:43:31 | 吟醸王国しずおか

 山本起也監督の劇映画初監督作品『カミハテ商店』が、明日16日、渋谷ユーロスペースで完成披露試写会、11月10日から公開が決まりました。京都シネマでは11月24日から、静岡シネギャラリーでは12月2日に先行特別上映、1月5日から公開となります。

 

 

 一緒に『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』を制作していた頃から、コアスタッフが「彼に劇映画を撮らせたい、撮ってもらいたい」と言っていたのをよく覚えています。私は映画監督と仕事をするのが初めてだったので、どういう人種かヒューマンウォッチングするのに手一杯でした(苦笑)が、現場での仕事ぶりはものすごくクレバーで手際がよかったのが印象的でした。映画監督って気難しい芸術家タイプが多いのかと思ってたので、映像現場を初めて体験する身としては救いでした。

 

 

 一人でコツコツ作るドキュメンタリーと違って、劇映画はスタッフも俳優も関わる人数のケタが違います。監督には映画作りプラス現場の仕切り役としてのスキルも必要でしょう。現在、京都造形芸術大学で教鞭をとっている山本監督、学生からベテランスタッフまでどんなキャリアの人でもきちんと導くオーラがあるんだろうと思います。

 

 

 

 

 ひるがえって、今の私は、『吟醸王国しずおか』の制作でいろんな人との摩擦を経験し、人を導くどころか、若干、人間不信に陥っている状態です。それもこれもすべて自分の準備の至らなさとプロジェクト推進能力の欠如に起因するもの。今頃になってアルバイトで資金稼ぎをせざるを得なくなった我が身を情けなく思う日々を過ごしています。

 

 

 そんな中、先週の誕生日の日(10月11日)、心強い応援団のお一人・樹木医の塚本こなみ先生にお声掛けをしていただき、ホテルコンコルド浜松で100人近いお客様を前に、『吟醸王国しずおかパイロット版』の上映と地酒解説をする機会を得ました。

 こなみ先生がプロデュースする遠州鉄道バンビツアー・こだわり紀行に、県内酒蔵を巡るツアー商品(こちらを参照)があり、バンビツアーファンのお客様にプレゼンする新商品発表会の”余興”に呼ばれたもの。『吟醸王国しずおか』の映像には、ツアー商品で訪問する県西部地区の蔵は登場しないので、私なんかが解説役でいいのか躊躇しましたが、知られざる酒蔵内部の心臓部を観ていただいたことは、日本酒の理解を多少は助けたのではと思っています。

 

 

 上映後、お客様で来ていた某大学病院のお医者様から「今度、学会の集まりがあるんだが、あの映像を見せたい」と声をかけられました。「とくに若い人に見せたい、力のあるすばらしい映像だった。酒造りでさえあれだけ真摯に取り組むのだから、人の命を扱う者はもっと真摯になれと言いたい」と。日本酒ファンの集まりでもない会場で、こういう感想をいただけるとは、驚きの一言でした。

 

 

 

 静岡県の吟醸酒の実力を伝えようと、試飲用に準備した一升瓶の『開運純米吟醸山田錦』と『國香純米吟醸中汲み』、これがまた、両方とも甲乙つけがたい、すばらしい酒でした。終了後に豆腐料理の名店「豆岡」でこなみ先生が誕生祝いをしてくださったとき、いただいた『磯自慢純米大吟醸常田』・・・これもとろけるような味わい。涙が出るほどでした。

 

 

 

 静岡の酒を、いつ、何度味わっても感動できる自分を再認識できて、映画作りへの自信と使命をふたたび感じた、そんなところへ、前回の記事でもふれた朗読劇の感動と、山本監督から『カミハテ商店』公開日決定のお知らせメール。・・・とても勇気付けられました。

 

 人を感動させ、行動をうながす力は、何かに向かって真摯に取り組む人の思いに他ならないんですね。情熱を保ち続けるのはとても難しいけれど、情熱を傾けられる対象を持っている・・・それだけでも意味ある人生なんだろうと思います。『カミハテ商店』は、自殺の名所を舞台にした人間ドラマのようですが、山本監督は、どんなメッセージを投げかけてくれるのでしょうか。

 

 


BBCシャーロックと朗読劇『緋色の研究』

2012-10-13 21:21:01 | アート・文化

 先月からお寺でのアルバイトを始めて以来、ずーっと休みなく、心身ともにヘタっていました。週末にかぎって魅力的な催事があるのに、指をくわえて見ていなければならないのがつらくて、気を紛らわせようと、夜中、録画ビデオやDVDにかじりついています。

 

 

 前にも少し書きましたが、今一番ハマっているのが、BBC制作のドラマ『シャーロック』。今月、発売されたシリーズ2のDVDを、毎晩リピート視聴しています。推理の内容はさほど複雑ではないのですが、カメラワークがすばらしく、台詞が洒落ていて、役者の演技も非常にナチュラルでエレガント。とくにマーティン・フリーマンのワトソン役は、非日常のシチュエーションなのに、きわめてシンプルで日常的なリアクション。ちょっとムカつく、ささいなことに感心する、呆れることがあってもオオゴトにせず受け流す・・・そんな”ちょこっと”した大人の演技が絶妙なんですね。やや人格障害的なキャラ設定のシャーロックにとって、とても人間味ある懐深い相棒。脚本家も、変人オタクを受容する”理想の友”を描きたかったんだろうな。

 

 

 シャーロックの最大の敵であるモリアーティも、ゆがんだ形だけどシャーロックとコミュニケートしたい、自分と同類だと認めてほしい”片思い”キャラ。このドラマの魅力は、異質な人間をどう受け入れるのか、自分の中の”異質”を社会とどう折り合いをつけるのか・・・そんな、いろんなカタチの人間関係性にあると思いました。

 

 シャーロック役のベネディクト・カンバーバッチは、さぞかし舞台でしっかり経験を積んだであろう、正確で巧みな台詞まわしや細かな表情が見事。日本でも、劇団出身者や伝統芸能出身者で、腹の底からしっかり声が出て、ぜったいにトチらない、安心して見てられるプロの役者さんっていますよね、そんな感じ。ネット情報によると、この人、ハリウッド大作にオファー続々で、今に大ブレイクするみたいです。

 

 マーティン・フリーマンも、My Best Movieこと『ロード・オブ・ザ・リング』の続編『ホビット』(年末公開)のビルボ役が待ち遠しい限り。ファンタジーの主人公だからワトソン役とはガラッと変わるのだろうけど、職人タイプの役者がどう演じきるのか、それはそれで楽しみです。13日早朝、サッカー日仏戦を観ていたら、途中のCMで『ホビット』の予告が流れ、ビックリ嬉しかった!!!。試合結果もモチ嬉しかった・・・! ついでに言えば、彼は三谷幸喜の傑作舞台『笑の大学』の英訳版で、座付作家役(舞台では近藤芳正、映画では稲垣吾郎が演じた役)を演じたことがあるんですね。観たかったなあ・・・。

 

 

 

 刑事モノや探偵モノのメインキャラってバディ(主役&相棒)が多いですよね、日本のドラマでも、天才的な主人公&ふりまわされる脇役ってよくいます。そもそもコナン・ドイル原作のホームズシリーズがその原点といわれていますが、この2人は古典をなぞらったわけではなく、他の推理ドラマにいそうでいない、とても魅力的なバディです。

 

 

 

 そんな『シャーロック』にハマってから、コナン・ドイルの原作をあれこれ読み直しているうちに、天王洲銀河劇場で、若手男優2人による朗読劇『緋色の研究』 が上演されると知って、12日(金)、観に行きました。『緋色の研究』はご存知のとおり、ホームズシリーズの第一弾で、ドラマ『シャーロック』でもシーズン1初回『ピンク色の研究』として取り上げられました(設定はかなり違うけど)。

Img002
 

 出演する若手俳優は、上演期間中、毎日日替わりでメンバーチェンジします。私が観にいった日は、シャーロック役を大衆演劇の女形で人気の早乙女太一さん、ワトソン役は、大河ドラマ『平清盛』に長男平重盛役で出演中の窪田正孝さんが演じました。

 

 

 『緋色の研究』の登場人物は、シャーロック&ワトソン以外に、刑事が2人、被害者が2人、容疑者2人、犯行の動機となったエピソードに4~5人は出てきます。これを、2人の朗読でどう演じきるのか、観る前は、ライターの職業病といいますか、まず脚本の構成に関心が湧きました。

 

 原作で残念なのは、犯行の動機となったエピソードが延々長くてつまらない点。ドラマ『シャーロック~ピンク色の研究』は、アッと驚くような現代的な犯行動機に改変されていて、スピード感があってとても面白かったのですが、原作の『緋色の研究』は犯行動機を説明する章がブレーキをかけてしまってかなり残念・・・。これをどうクリアするのか興味がありました。結果は杞憂するほどのこともなく、わりとあっさりすんなり。生の舞台ってテンポが大事ですよね。

 

 

 それから、やっぱり注目はワトソン役の演技力。シャーロックは計算し尽された造形美のようなキャラクターなので、どちらかといえば役者はそれを忠実に表現すればよい、というところがあります。したがって、観客をドラマに導くには、相手役のワトソンが重要。観客と同じ常識的な目線に立ち、語り部の役割もこなしつつ、“変人”シャーロックの魅力をどれだけ引き出せるか。窪田さんは、そんなワトソンの“重責”を完璧にこなし、さらには刑事役や被害者役など他のサブキャラも見事に演じ分けました。

 

 何よりすばらしかったのは、ベネディクト・カンバーバッチのように、舞台栄えする台詞回しと表現力。腹の底からしっかり声が出ていて、この人、若いのに相当、修業してきたんだろうなあと感心させられました。

 

 

 いすれにせよ、人間をしっかり描く脚本と、それをしっかり演じきる役者がいて、物語の感動が第三者に伝わるものだとしみじみ実感しました。ホームズシリーズは推理冒険小説としては楽しいけれど、”人間”を肉付けできるという意味では、未完成の作品なのかもしれない。だからこそ、何度も映像化され、舞台化され、いろんな解釈が生まれ、ファンの裾野が広がるんですね。・・・すばらしいドラマや舞台を見て改めて、活字ってやっぱり捨てたモンじゃないって思えてきました。