杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

JA静岡経済連情報誌『スマイル』わさび特集発行

2016-09-19 22:07:42 | 農業

 長く取材編集を担当させてもらっているJA静岡経済連の食の情報誌『S-mail〈スマイル)』の最新号が完成しました。発行部数と配布先が限定されているため、世の中に氾濫する食情報に埋もれ、一般の認知度は高くない媒体とは思いますが、時間をかけ、丁寧に丁寧に作らせてもらっています。お近くのJA窓口、またはファーマーズマーケット等で入手できると思いますので、機会がありましたらぜひお手に取ってご覧ください。ご希望の方は私から送らせていただきますのでメールでご連絡くださいね!

*鈴木真弓のメールアドレス mayusuzu1011@gmail.com

 

 

 今回のテーマはわさび。ここでは最新号巻頭でご登場いただいた、静岡県産わさびを愛用する東京大森海岸の老舗寿司店のイケメン!オーナーをご紹介します。

 

 

上質を究めて選んだ静岡わさび

大森海岸 松乃鮨(東京都品川区南大井)

 

わさびは英語名も「WASABI」と表される世界に誇る日本特産の香辛料。そして静岡県が産出額第1位。清涼で豊富な水源を持つ静岡ならではの特産野菜です。

すしや刺身など生魚を食べる時には臭み消しになり、コクのある煮物には爽快な辛味がアクセントに。そんな日本料理に欠かせないわさびの魅力と、産地静岡にかける期待を、創業100年を超える本場江戸前鮨の名店オーナーにうかがいました。

 

 

 品川を起点に東京と神奈川を結ぶ京浜急行「大森海岸駅」。現在、線路と並行して第一京浜国道が走る駅周辺は、戦前まで海苔の養殖がさかんで、昭和初期には大森海岸芸妓組合が設立されるなど、東京有数の花街として発展しました。戦後は周辺の海岸埋め立てが進み、広大な敷地を誇っていた料亭の跡地にビルや高層マンションが林立するなど駅周辺は様変わりしましたが、旧料亭の家屋がところどころ点在し、花街の名残を今に伝えています。

 明治34年に創業した松乃鮨は、大森海岸の華やかなりし時代の香りを残す数少ない名店。今も月に数回、お座敷に芸者が入り、本場江戸前すしとお座敷芸の伝統を代々継承しています。

 

 4代目を継いだ手塚良則さんは、家業を継ぐ前、海外でツアーガイドの仕事に従事し、ワインソムリエの資格も持つ寿司職人。大学で留学生を対象に英語でSUSHIを講義したり、国際交流イベントで握りのデモンストレーションを披露するなど、ニッポン文化の伝道師として幅広く活躍中です。

 

 ◇

 松乃鮨では週に3~4㎏と、個店ではかなりの量の生わさびを築地から仕入れています。「海外からのゲストのほとんどは、新鮮な生わさびを見たことがないため、寿司を握る前に鮫皮を使って目の前でわさびをすりおろし、試食してもらう。わさびの茎側と根先では色、味、辛みが異なるので、一様に驚かれます」と手塚さん。

 使用するわさびは御殿場産と中伊豆産。手塚さんは実際に圃場を訪ね、生産者の栽培にかける思いを直に聞き取り、その時の感動を海外ゲストや年配常連客にも熱く伝えるそうです。「富士山の湧水が育てたと言えば外国のお客様はとても感激される。食の経験豊かなお客様に喜んでいただけるのは、目の前の食材の素性や作り手の苦労話。あまり知られていないわさび産地の情報は会話を大いに弾ませてくれます」。

 

 寿司ネタ選びに厳しい眼を持つのは当然ながら、寿司店の板場に立つ者の矜持として「シャリ・海苔・わさびに手を抜かない」と明言する手塚さん。

「わさびにこだわって価格に添加することはできない。だからこそ、どれだけ良質なわさびを使っているかで店主の姿勢がわかる」とされ、「この店はいいわさびを使っている」という評価が励みになる・・・静岡わさびは寿司職人手塚さんの自信や心意気を象徴し、ニッポン文化の伝道師としての使命を確認する頼もしい存在になっているようです。

 

 

■大森海岸 松乃鮨

東京都品川区南大井3‐31‐14 TEL 03-3761-5622    サイトはこちら

営業時間 11時30分~13時30分、 16時30分~22時

日祝休

席数/カウンター12、離れ座敷4~6、2階座敷6~24

 

 

☆四代目・ソムリエ 手塚良則さん

明治34年創業の松乃鮨4代目として10代の頃から板場に馴染み、大学卒業後はプロスキーヤーとして海外移住し、スキーツアーガイドやワインソムリエとして活躍したという異色キャリアの持ち主。家業に戻った後、3代目の父と共に板場を切り盛りする傍ら、大学で留学生対象に英語でレクチャーし、ミラノ万博やイタリアスローフード世界大会等では実演披露するなど、国内外で鮨文化の普及振興に尽力する。

 


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清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝を読んで

2016-09-14 10:21:36 | 歴史

 静岡の近代偉人伝のつづきです。

 今回紹介するのは尾崎伊兵衛さん(4代目・1847~1929)。静岡市商業会議所会頭や静岡三十五銀行(現・静岡銀行)頭取を務め、静岡茶業組合の設立者として茶業の発展に尽くした功労者です。尾崎家三代の偉業を記した郷土史家齋藤幸男氏の著書『清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝』をつまみ読みしながら、主に近代静岡茶の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 県指定天然記念物「黒俣の大イチョウ」として今も親しまれる清澤の大公孫樹。尾崎家の祖はここ安倍郡清沢村黒俣小沢戸の豪農助兵衛の弟・伊兵衛。文化元年(1804)に分家して駿府府中の安西に居を構え、出身地名にちなんで茶商「小沢戸屋」を興しました。3代目尾崎伊兵衛(1820~1890)は駿府土太夫町の佐野屋忠左衛門の二男で、2代目伊兵衛の長女むらの婿となり、伊兵衛を襲名しました。

 

 この3代目伊兵衛の時代に、前回記事で触れた萩原四郎兵衛(鶴夫)が中心となって再興した駿府国茶問屋に加わりました。茶問屋側は、山元(生産者)で茶の直売をされると営業妨害になるため、山元直売禁止願を奉行所に提出。一方、黒俣の本家助兵衛は安倍郡足久保村外62カ村の生産者代表として問屋側と真っ向から対立し、訴訟を起こす。入り婿である伊兵衛は難しい立場にあったと思われますが、茶問屋小沢戸屋の利を優先し、禁止願に名を連ねたのでした。

 安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印によって横浜港が開港されると、駿河国茶問屋は外国商館への直売をもくろみ、横浜に出店します。伊兵衛は、のちに日本を代表する茶貿易商となった岡野屋利兵衛に横浜での直売を託したものの、短期間で終わり、地元で製茶に専念し、より高品質な茶を馴染みの直売店へ供給するほうを優先します。似たような「選択」が、今、日本酒の世界で見られる現象ゆえ、とても興味深いですね。

 横浜に出店した茶問屋は、和紙、竹細工、漆器といった駿府の特産品も店に並べ、外国の貿易商にアピールしました。安倍川や藁科川流域はミツマタやコウゾ等、和紙の原料となる植物の産地で、鎌倉時代から良紙ブランド「駿河半紙」として浸透していたんですね。伊兵衛も黒俣特産の和田半紙を茶に添えて横浜に送っています。

 

 4代目尾崎伊兵衛は、3代目の二男に生まれ、幼いころから父の茶業を手伝い、横浜にも徒歩で再三往来し、海外事情をよく学びます。根っからの明るい元気者で、茶問屋仲間から「善吉(伊兵衛の幼名)がいるといないとでは気分が違うな」と慕われたそう。21歳の時に明治維新を迎えます。

 製茶の質を磨くという父の信念を継いだ伊兵衛のもと、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品された尾崎家の茶は花紋褒章を、明治14年の第2回では有効三等賞、明治23年の第3回では有効二等賞を授与されました。

 静岡の製茶技術は江戸後期の天保~弘化年間、志太郡伊久美村が宇治の茶師を、榛原郡上川根が信楽の茶師を招き、茶揉みと乾燥のテクニックを学びました。安倍郡清沢村では慶応2年(1866)に滋賀の朝富から茶師鉄五郎を招いて製茶講習会を開催。明治初年には小笠郡尾美山に達人前島平九郎が招かれ、彼の技術を習得した赤堀玉吉が駿府の小鹿、聖一色、内牧等へ指導に出向くなどして静岡茶の品質向上に努めました。

 伊兵衛は明治7年(1874)に小鹿村の出島団四郎の協力を得て「宇治茶伝習所」を設立し、ここで学んだ養成員を千葉と鹿児島へ派遣し、日本茶全体の品質向上と国内販路拡充に努めます。また明治10年には中国人茶師を招いて「紅茶伝習所」を設立。明治12年には安西の尾崎家の敷地内にも紅茶伝習所を作って自ら紅茶会社を設立します。これも、茶生産者の収益を少しでも上げる方策でした。

 問屋業で儲けるばかりではなく、品質を磨く努力を惜しまず、茶業界全体の共存共栄を見据えていたという点に、この人物の高潔さを感じますね。

 

 さて、明治4~5年にかけて茶の輸出量は急激に増加します。当時、静岡の茶は牛車や荷車で清水港に運ばれ、昼夜問わず和船で横浜に届けられ、外国船に積み替えられていました。しかし和船では急増する需要がまかなえず、他産地に商機を奪われるリスクが生じたため、明治8年(1875)、伊兵衛は廻船問屋の天野久右衛門(清水)、石橋孝助(横浜)等と共同出資で汽船会社「静隆社」を設立。イギリスから150トンの蒸気船を購入し「清水丸」と命名し、清水―横浜間を約18時間で航行させ、荷主を喜ばせました。明治15年の静隆社汽船搭載貨物一覧を見ると、清水から横浜へは茶、和紙、塗物が圧倒的に多く、横浜から清水へは石油や砂糖など。旅客も扱い、清水横浜間は大人一人1円35銭(現在の価格で約5万円)だったそうです。

 明治22年(1889)に東海道鉄道本線が開通すると、船便に頼っていた茶荷物は鉄道便に切り替えられましたが、伊兵衛たち茶商、そして天野久右衛門や鈴木与平ら清水の廻船業者は、輸出茶を横浜を通さず、清水港から直接海外に輸出できるよう熱心に働きかけ、明治32年(1899)、清水港は開港外貿易港の指定を得ます。明治41年には横浜港を、42年には四日市を抜いて日本一の茶貿易港になりました。

 伊兵衛はその間、小沢戸屋を「合名尾崎国産会社」に組織改変。黒俣の本家助兵衛らも加わり、黒俣特産の和田半紙や干し椎茸も扱うようになりました。明治18年(1885)にはアメリカ向け直輸出茶を専門に扱う静岡製茶直輸出会社を新設(のちに静岡県製茶直輸出会社に改変)。明治21年には合資会社富士商会を設立し、横浜で扱う貿易茶全般を扱いました。

 前年の明治17年には静岡、安倍、有度の一町二郡で「静岡茶業組合」が結成され、初代組合長に推されて就任。同年に発足した静岡県茶業組合会議所の常議員を明治23年から14年間務め、明治37年(1904)には会議所議長に就任します。

 

 明治22年、それまで紺屋町の代官屋敷で暮らしていた徳川慶喜が西草深に移ると、旧代官屋敷の土地と家屋を徳川家から譲渡してもらうため、保徳合資会社という組織が創られました。伊兵衛はこの代表も務め、旧代官屋敷跡を会社でいったん保有管理し、伊兵衛の妻かつの生家だった辻治左衛門が借り受けて割烹料理店を始めました。これが現在の浮月楼。治左衛門には後継者がいなかったため、伊兵衛の娘はなが茶町の北村彦五郎を迎えて辻家を継ぎます。明治25年の大火で全焼してしまいますが、呉服町の文明堂杉本徹道の協力で再建。保徳合資会社は杉本徹道に浮月の運営をまかせ、徹道の子宗三に売り渡して会社は解散したということです。

 

 伊兵衛は明治22年に初めて行われた静岡市会議員選挙に立候補し、当選します。議員活動のかたわら、静岡生糸会社(明治26年)の特別発起人、株式会社静岡米穀株式取引所(同年)の理事長、日本製茶株式会社(明治27年)の取締役、静岡電灯会社(明治30年)の取締役、東陽製茶貿易株式会社(明治31年)の発起人、日本楽器製造会社(明治30年)の監査役など数多くの役職を歴任しました。

 明治30年には普通銀行として発足した株式会社三十五銀行の監査役に迎えられました。もとは国立三十五銀行だったものが「国立」の看板を外され、折からの金融恐慌で厳しい経営が続いたため、伊兵衛は県知事の亀井栄三郎から頭取を託されます。

 頭取就任直後に日露戦争が始まり、長男元次郎を満州の戦場に送るなど、自らも戦地に赴く気概で取り組んだ銀行経営でしたが、艱難辛苦の末に立て直しに成功。三十五銀行はその後、旧国立三十五銀行出身の小林年保が野崎銀行(野崎彦左衛門ら静岡市民有志が設立した民間銀行)と合併して作った静岡銀行と統合し、「静岡三十五銀行」になり、昭和18年に遠州銀行と合併して現在の「静岡銀行」になります。

 

 伊兵衛は明治38年(1905)、静岡商業会議所の第4代会頭にも選ばれ、昭和4年(1929)まで24年間勤め上げました。

 

 こうしてみると、明治大正の激動期に静岡の政治経済を支え、静岡茶を日本代表の輸出品に育て上げようと努力し続けた生涯ですね。ふつうなら家業の継続に手一杯のところ、同業者、取引先の生産者や貿易業者、地域経済全般に目を配り、手を差し伸べ、組織の役員や調整役も厭わず引き受ける。これだけ懐の深い人物なら、自分の会社を大きくして大企業の大社長になることも、政治の道に進んで大臣になることも出来たでしょう。でも彼はひたすら、地域のために働いた。

 静岡はお人よしが多く、有能な政治家やカリスマ経営者は輩出できないと揶揄されることもありますが、今、静岡がそこそこ豊かで暮らしやすいと思えるのは、地域のために地道に働いたこういう先人たちのおかげ。私自身も身の丈に合ったフィールドで、自分を育ててくれたふるさと静岡のために働きたい・・・そんなふうにしみじみ思います。 

 

 

コメント (2)
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萩原鶴夫伝を読んで

2016-09-12 14:59:41 | 歴史

 萩原鶴夫さん。静岡の近代史に詳しい人でなければピンとこないお名前だと思います。かくいう私も最近のリサーチで初めて知った御仁。江戸時代から続く茶問屋で、幕末明治の大変革時代に駿府静岡の行政&経済を支えた功労者です。

 維新直後、徳川慶喜や勝海舟ら敗軍の将たちと旧幕臣&その家族がドッと押し寄せた駿府の町を、彼のような市井人が必死に支え、静岡に地方産業を興し、商工業を発展させた。こういう、日の目の当たらない裏方の功労者を掘り下げていく作業に、市井のライターのやりがいを感じます。今回は『幕末維新の駿府を語る~萩原鶴夫伝』(萩原元次郎著・昭和43年)の読み下しと雑感をまとめてみました。

 

 

 萩原四郎兵衛(鶴夫)は文化12年(1815)、安西2丁目の萩原家で生まれ、明治19年(1886)没。ちょうど没後130年になられます。萩原家はもともと清和源氏の流れをくみ、12代目が甲斐国に下向して萩原姓を名乗り、その子が駿府今川氏へ仕え、戦国時代は甲斐武田氏とも縁を持ち、武田家滅亡で浪々の身となったのち、遠江榛原郡葛籠村(旧川根町)に落ち着いて産土神の祭主を務めました。

 

 江戸時代になり、駿府に出て茶商となり、土太夫町に屋敷を構えた萩原家。駿府足久保茶は慶長年間(1596~1614)に“御用茶”となって江戸城へ献上されており、駿府の茶問屋が持ち回りで御用達の役を務めていました。

 鶴夫の父定信も茶商のかたわら安西2丁目の丁頭(まちがしら)を務めるなど地域の顔役として活躍していましたが、41歳で急逝。当時鶴夫は5歳。家業は傾き、生活が苦しくなったものの、教育熱心な母とよの影響で読み書き算盤に励み、20代で駿府丁頭となって町の自治を担う逸材に成長します。おりしも天保の大飢饉で各地で百姓一揆や打ち壊し、外国船が近海に出没するなど国難の時代。茶問屋の制度も廃止の憂き目に合うも、公共の職務を真面目に勤め上げた鶴夫は嘉永5年(1852)、13名の同業者とともに駿府国産茶問屋の再興を果たします。

 

 翌嘉永6年(1853)7月、ペリーが浦賀沖に現れ、翌嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されます。元号が安政と改まった同年11月、マグニチュード7クラスの大地震と大津波が東南海地方を襲い、駿府城下(町数96、戸数4417、人口20,541人)では13町・578戸(一説には613戸)が焼失。全倒壊408・半壊365・死者200余名に及びました。

 土太夫町丁頭の鶴夫は被災者の救護にあたる一方、崩壊してしまった駿府城の米蔵にわずかに残った籾を精米し、粥の炊き出しに奔走します。足りない分は、酒行司を務めていた下石町1丁目久右衛門を通じて酒造業者から仕込み前の精米済みの米を流用したそうな。比較的被害が少なかった安西2丁目の宝積寺に米を運び、初日は白米5俵を炊き出し、8日目には上魚町の秋葉神社境内にも配給所を設けて21俵を炊き出し。延べ14日間で191俵を配給しました。酒造業者にはのちに奉行所からちゃんとお米の代金が支給されたそうです。今、酒蔵は東日本でも熊本でも震災時に“被災事業者代表”のように紹介されることが多いけど、こういう記録を読むと地域にとって希望の存在だったんだ・・・!と頼もしく感じます。

 施粥に奔走した鶴夫は駿府町奉行貴志孫太夫の素早い決断と誠実な対応に感じ入り、自身の日記に「たまはりし厚き恵みの白かゆに こごえし民の命たすけぬ」と貴志奉行を称えています。非常時におけるリーダーの判断力・決断力の重要性って今も昔も同じですね。

 

 それはさておき、天保以来の不景気に開国&震災パニックが加わり、政治も経済も大混乱。茶問屋廃止期間中に諸国の商人が入り込んで直接茶農家と取引するなど駿府の茶業は厳しい状況に置かれていました。その意味でも、鶴夫たちが果たした駿府国茶問屋の再興は大きく、復興のけん引役になります。安政4年(1857)には駿府城復興に100両を上納、安政6年(1859)には茶仲間申し合わせの出店を武州神奈川の横浜港に新設しました。

 やがて時代は大政奉還→王政復古への大転換を迎えます。萩原家はもともと神職を務めた家でもあることから、鶴夫は若いころから本居宣長派の神道学にいそしみ、皇学者平田鉄胤の門下生にもなっていたため、動揺することなく、「此節柄皇國の為尽力致され度し」という内命を受けたようです。

 駿河・遠江は徳川家のお膝元というイメージが強く、維新の際も幕府側だったのでは?と思っていたのですが、江戸後期には賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤といった国学者に師事する者が増え、官軍が江戸へ向かう際もさしたる混乱もなく進駐を迎え入れたんですね。

 一方、駿府の経済は徳川家御用茶の看板の元、茶商を中心に発展してきました。徳川様にも十分すぎるほどの恩義がある。徳川家が将軍の座から70万石の地方大名に転落して徳川慶喜が駿府で蟄居を命ぜられた際も、駿府住民は良識を持って受け入れたのでした。この時期の鶴夫たち駿府の人々の両極端に走らないバランスの良さというのは、もっと高く評価されてもよいのでは?と思います。

 

 

 維新後の静岡藩は、安政4年(1857)~5年にかけて駿府町奉行を務めていた大久保一翁に実権が託されました。一翁と知遇のあった鶴夫は、彼から厚い信頼を受け、父子帯刀の許しと「鶴夫」の名を賜ったのでした。一翁は静岡藩大参事(1869)、静岡県参事(1871)を歴任した後、明治5年(1872)から東京府知事、明治10年には元老院議官、20年に子爵の座に昇り詰めます。鶴夫は一翁が静岡を離れたのちも家族ぐるみで親交を深め、大久保家には一翁亡き後も静岡の新茶が送られ続けたそうです。

 

 維新後の静岡には、かつて一翁が幕閣に取り立てた勝海舟や渋沢栄一が来住し、鶴夫は彼らから大いに影響を受けます。渋沢栄一は明治元年(1868)にフランス留学から6年ぶりに帰国し、駿府の慶喜のもとへ報告に行ったところ、そのまま静岡藩の勘定組頭を命ぜられ、駿府にとどまることになりました。彼はヨーロッパで学んだカンパニーの仕組みを帰国後2か月にして静岡で実験することに。これは、鶴夫たち駿府商人が茶問屋再興以来、地場産品の売買や金銭の貸付など機能的なしくみを構想していたことがベースとなりました。

 

 明治2年(1869)には静岡商法会所を設立。紺屋町の代官屋敷(今の浮月楼)に会所を置き、横内に1か所、駿府城内に2か所土蔵を設け、清水港と東京に出張所を設置しました。ここで国産茶、塗り物、椎茸、紙などを相場や景気を判断してできるだけ高値で買い上げ、東京や横浜に売る。そして藩内で不足していた商品米穀、大麦、小麦、肥料(胡麻粕)などを仕入れてできるだけ安く払い下げるという事業を始めます。

 当時、政府の奨励で同様の組織が全国に誕生しましたが、静岡商法会所の特徴は、官民共同出資の組織で藩が率先して先進的な会社経営に乗り出した。これを駿府商人たちが構想したという点にありました。当時、多くの旧幕臣と家族が藩内に“難民”のごとく流入し、藩の経済の立て直しは急務。会所では藩の収益を上げることを第一義とし、取扱品を藩所有の船以外の私用船の積み込みを禁止。勝手に商いするのも禁止。冥加金を免除されていた質屋・紺屋・酒屋・醬油屋・絞油屋・魚市場・青物問屋からも冥加金を新たに取り立て、収税にあてたようです。

 

 鶴夫は会所のしくみを作った後、実務には深くタッチはしなかったようですが、半官半民組織の難しさというんでしょうか、藩の勘定役が会所の実権を握り、大久保一翁や渋沢栄一と親しい鶴夫は厄介者扱いされたとか。金札の扱いを巡って官民が対立し、会所は解消し、「常平倉」という組織に替わりました。常平倉とはもともと政府の穀物を売買させて穀物価格を安定させる米価調整機関のこと。しかし実態は会所時代と変わらず、明治5年(1872)の廃藩置県とともに常平倉が閉鎖されるまで、鶴夫が主軸となって組織運営がなされたということです。

 

 鶴夫はその後、静岡市の戸長として自治活動に尽力します。戸長は士族出身者4名と平民出身者2名でスタートし、士族出身戸長のほうが高い位置に置かれました。当時の静岡市は平民23,000人余、士族は1500人余。人口比率からいったらまだまだかなりの身分差別って感じですね(苦笑)。平民代表の鶴夫は静岡市中49区の戸長として士族と折り合いを付けながら職務に邁進し、当時、荒廃し、取り壊しの危機にさらされていた浅間神社や久能山東照宮の修復保全に努めます。神道に造詣が深かった鶴夫は、明治政府から神道の教導職を命ぜられています。彼が神道ではなく仏教徒だったりしたら、浅間神社や東照宮が今のように残っていたかどうか・・・ってことですよね。幸運なめぐりあわせじゃないでしょうか。

 

 実は鶴夫は禅にも関心があり、白隠禅師の『親』という書を大切に持っていたそうです。白隠さんの「孝行するほど子孫も繁昌、親はこの世の福田じゃ」という賛。鶴夫の「この額は祖先代々の霊碑所へ掛け置き、朝夕朝礼の節、代々親恩不忘為、この親の字の賛を遵奉すべし」とメモ書きが添えてあったとか。鶴夫が萩原家先祖の遺品を整理していたところ、4代目四郎兵衛久豊が写本した白隠さんの「新板仮名葎新談義」があり、5代目は白隠さんの「粉引歌」を写本していた。「孝行するほど~」は粉引歌に登場する歌だったのです。白隠禅語が萩原家の家訓だったとは、なんだか嬉しい発見です。

 以下の画像は『白隠展~禅画に込めたメッセージ』(2013年)の図録から複写させていただきました。

 

 

 明治7年(1874)、法改正により、各県に管区内大小区長制度が設けられ、鶴夫は第4大区第5小区(静岡市全域)の区長に命ぜられます。度重なる制度改定で事務や徴税の煩雑さが増し、士族町との不平等さも解消しない、善処願いたいという上申書を県令大迫貞清に提出。対士族にあたって、鶴夫は自分の土地を士族のために無償献納するなど地道な努力を重ねてきましたが、その土地を勝手に売り払ったり良田畑を潰して屋敷にしながら数年後に放り出すなど、士族の勝手なふるまいに翻弄され続けたようです。

 

 晩年の鶴夫は浅間神社の教院事務や小櫛神社神官などを務め、明治11年には第二十六国立銀行の副支配人の命を受け、静岡支店の開業に尽力します。亡くなったのは明治19年(1886)1月21日。時代の大きな節目を誠実に生きた70年6か月の生涯でした。

 萩原鶴夫の生涯を通して駆け足で振り返った幕末維新の静岡。静岡人は大人しくて積極性に欠けると言われがちですが、ただ黙って時の流れに身を任せていたわけではなく、士族や官僚の無理難題を知恵と判断力で受け止めて、モノ申すべきときにはしかと主張していた。彼らの功績は大河ドラマなんかには取り上げられないかもしれませんが、先人たちの営みが私たちの今の暮らしの基盤になっていることを忘れてはならないと思います。

 

 

 

 


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杉錦の生もと造り体験&地酒研20周年記念酒ラベルデザイン募集のご案内&秋企画まとめ

2016-09-04 07:42:54 | しずおか地酒研究会
 しずおか地酒研究会20周年アニバーサリー秋の企画怒涛の第4弾は、杉井酒造の全面協力で、杉錦生もとづくりのもとすり体験という超マニアック!な企画です。


 「生もと」は、酵母の健全な発酵に必要不可欠な「乳酸」を自然培養して造る江戸時代からの伝統製法。中でも手間がかかるのが、もとすり作業(山おろしとも言います)
 半切り桶に山盛りにされた蒸米、米麹、水を、櫂棒ですり潰します。この作業を時間をおいて何回かにわけて行うのですが、これが思った以上に重労働。明治になって水麹が代用できることが解明され、山おろし廃止もと=山廃が登場します。



 時間と労力を要する伝統製法ながら、やわらかさと酸味・深味を併せ持つ生もと酒は、和洋中どんな食ともマッチしやすく、最近ジワジワ人気が高まっています。

 今回は、静岡県内でもいちはやく生もと酒を復活させた杉井酒造の蔵元杜氏・杉井均乃介さん、しずおか地酒研究会会員の後藤英和さん(ときわストア)のご尽力で、もとすり作業を実際に体験させていただけることになりました。もと造り体験させていただく酒は、誉富士100%使用、静岡酵母HD-1にて仕込まれ、「杉錦生もと純米生酒」として年末に発売予定です。

 しずおか地酒研究会の20周年記念ラベルを作っていただきますので、ラベルデザインも併せて募集いたします!


 作業は人数が限られるため、希望者多数の場合は抽選とさせていただきます。


◇日時 10月2日(日) 
 午前の部 9時30分蔵集合・10時より作業開始~
 午後の部 13時30分蔵集合・14時より作業開始~


◇参加費 無料


◇募集人数 午前・午後とも各8名


◇申込受付 9月9日まで(希望者多数の場合は抽選・9月12日にお返事します。定員に満たない場合は追加募集いたします) 
     
◇申込先 mayusuzu1011@gmail.com
上記メールへ希望の時間帯(午前か午後)を添えてお申し込みください。


*しずおか地酒研究会20周年記念ラベルのデザイン(文字、キャッチコピー、イラスト等)を募集します。お酒のラベルをデザインしてみたいという人、年齢・経験不問。ぜひぜひ挑戦してください!上記メールまで併せてご連絡を。



 再三ご案内の20周年アニバーサリー秋の4企画、現状況をおさらいしておきます。
 つい先日、「スズキさんの会はお酒に詳しくないと参加できないでしょ?」と言われてしまいましたが、そんなことはありません。私たちの地元・ふる里で造られる美味しい地酒。生産現場に行って造ってる人に話を聞こうと思えばすぐにできる、この距離の近さを存分に活かし、直接現場の人に会いに行こう、エールを送ろう!という趣旨で活動しています。
 ちょっとした大人の社会科見学だと思って、どうぞ気軽に、ご家族やお仲間を誘ってぜひぜひご参加ください!


9月22日(木・祝) 喜久醉松下米の20年 /会員先行案内にて満席。当ブログでの募集は行いませんでした。申し訳ありません。


9月25日(日) お酒の原点お米の不思議2016秋編(静岡県農林技術研究所三ケ野圃場・誉富士&山田錦圃場見学)/参加受付中。こちらを参照。


10月1日(土) あなたと地酒の素敵なカンケイ~『カンパイ!世界が恋する日本酒』先行上映&トークセッション/参加受付中。こちらを参照。


10月2日(日) 杉錦の生もと造り体験(本ページ参照)


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