杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

江戸文化と春画展

2015-11-27 22:35:24 | アート・文化

 東京の永青文庫で12月23日まで開催中の【春画展】。各方面で大変話題になっていますね。私は去る10月10日、隣接する和敬塾大講堂で開催された記念講演会『江戸文化と春画展』を聴講しました。だいぶ遅くなってしまいましたが、早川聞多氏(国際日本文化研究センター名誉教授)と磯田道史氏(静岡文化芸術大学教授)のとても面白くて刺激的なお話、かいつまんでご報告したいと思います。

 

 

 春画と聞くと、ポルノチックな浮世絵というか、「秘画」「猥褻画」などと表記されることが多いと思います。今回の展覧会もR18指定だし、そもそも日本国内の美術館博物館で、堂々と春画展と銘打った展覧会は初めてだそう。春画はもともとヨーロッパでの評価が高く、2013年から2014年にかけてロンドンの大英博物館で開催された『春画 日本美術における性のたのしみ』が大成功したのは、私もニュースで聞きかじっていました。性のいとなみを描いたものは古今東西あちこちにありますが、日本の春画は質量ともに群を抜いているそうで、春画展はヨーロッパ各国ですでに開催実績があるようです。

 天下の大英博物館で大成功したのなら、と、同様の展覧会を日本で開催しようと企画したところ、開催に名乗りをあげる施設がなかなか見つからず、最終的に引き受けたのが細川護煕氏が理事長を務める永青文庫だったそうです。実際、日本なら国立博物館級で開催してしかるべき規模と内容なのに、個人美術館規模の永青文庫がなぜ?と思いましたが、国内、とくに公立の美術館博物館では「秘画」「猥褻画」だという偏見が根強いのでしょうか・・・。

 

 早川聞多氏によると、江戸時代に描かれた浮世絵春画の9割以上は一般庶民の性風俗がモチーフで、子どもからお年寄り、あらゆる年齢層の男女が登場します。当時は「笑絵」「枕絵」と呼ばれていて、当時の人はこういうものを見て、ニヤッ、クスッと笑っていた。老若男女、貴賎を問わず、あらゆる人々に愛好されていたようで、この時代、性はどちらかといえば肯定的にとらえられていたといいます。春画のモチーフは古典故事をパロディにしたものも多く、枕草子とか唐代の漢詩の意味を性の場面に置き換えたものもあるそう。寺子屋教育が行き届き、識字率が高く、変体仮名文字もすらすら使いこなしていた江戸庶民の教養の高さがあってこその表現です。このことは、白隠禅画にも共通していることで、白隠さんが描く絵や画賛は、贈る相手の教養レベルに合わせて描かれたもの。絵の奇抜さばかりにとらわれていては、その意図は伝わりません。

 早川氏の解説で印象的だったのは、「春画表現の特徴は、男性器と同様、女性器も誇大に描かれている。しかも顔と同じくらいの大きさで精密に描写されている。これは江戸人の“表裏一体”の人間観を暗示しているように思われる」ということ。顔と性器を並置させる・・・外面と内面を一つにして人間を表現する。なにやら仏の教えにも通じるような深い視点です。

 実は空海が比叡山にいた時代、理趣経という秘経が伝わっており、これは性によって仏法を説く内容だったそう。上皇、公家、武家などの支配階級にも密やかに受け継がれてきたのだそうです。江戸庶民の性に対するおおらかさは、そんなところに起因しているのかもしれませんが、明治以降、性を禁忌すべきという西洋思想が入ってきて、性は隠匿されるもの、春画=猥褻だというレッテルが貼られてしまいました。

 磯田氏が紹介したアメリカ美術商人フランシス・ホール(1822-1902)の日記によると、安政6年(1859)、開港直後の横浜にやってきたホールは、ある商家で老夫婦が丁寧に包まれた箱の中から猥褻画を取り出した。こういう本はたくさんあって恥じらいもなく人目にさらされることにショックを受けたそうです。2日後には別の家でも大事に保管されていた猥褻画をうやうやしく出してきて、その家の夫妻は少しも不謹慎であるとは思っていないのは明らかで、とくに上品で模範的に見える良家の婦人がなんら恥じることなく、自分のような初対面の異性と一緒にエロティックな美術を観ていることが理解困難だったと。・・・21世紀になって日本に先駆けて堂々と春画展を開いた西洋人も、150年前はこういう反応だったんですね(笑)。

 

 磯田氏からは、さらにユニークな資料をご紹介いただきました。日露戦争の英雄・乃木希典の妻・乃木静子が書いた「母の訓」です。これ、内容は、嫁入りする女性に向けた“初夜の心得”。<常の心得>として「色を以て男に事ふるは妾のことにして、心を以て殿御に事ふるは正妻の御務に候・・・気品高ければ情薄くなり、情濃かれば品格を失ひ、中庸を得る事・・・」とあります。

 <閨の御慎の事>という記述がスゴイですよ。

「閨中に入るときは必ず幾年の末までも始ての如く恥かしき面色を忘れ給ふべからず」

「殿方は枕辺に笑絵(春画)を開き之を眺め、または陰所に手を入れて探りなどし給ふことあり。かような時、心がけなき女性は興に乗じ、あられもなき大口を開き、或は自ら心を萌して息荒く鳴らし・・・用終れば見るも嫌になる由」

「閨の用事終れば陰所の始末し給ふに紙の音など殿御の耳に入らぬよう心がけられるべく候」

などなど、ものすごーく具体的な記述。これが静子の出身地鹿児島で大量に流布されていたそうです。

 

 「日本文化は型の文化。性にも型やマニュアルが存在する」と磯田氏。しかしこういうものはオモテの歴史資料としては出てきません。「たとえば忍者には公的な史料がないからと言って歴史家はその存在を無視するが、秘術なんだから史料がないのが当たり前。性も同じ。歴史学とは本来、人間をとらえる学問である。文献史料がないものを民俗学に任せていてはいけない」という磯田氏の言葉は、歴史を学ぶ者としてジーンと心にしみました。

 

 ほんの150年前まで、日本人がごくふつうに愛好していた春画が、近代以降、欧米発のグローバリゼーションによって猥褻扱いされたこと。それによって春画に描かれた古典故事を読み解く面白さや“表裏一体”という人間思想に触れる機会が損なわれたこと。このことの正否は自分にはつきかねますが、日本人がもともと持っていた根っこの部分を知らないまま、今のグローバリゼーションの枠組みの中で生活するのは、なんだかすごく損している気分になります。日本人として生まれたならば、日本人が歩んできた歴史の根っこをちゃんと見据えて生活していきたい。それができないと、海外の人の価値観や生活感をリスペクトできる人間になれないような気がする。テロを起こす人々は、そういう根っこを持てない、ある意味不幸な人々なんだろう・・・講演後はそんな思いに駆られました。

 

 実際の展示会場は黒山の人だかりで、「こんな猥褻なものを老若男女が列をなして凝視するなんて・・・」と、ちょろっとフランシス・ホールふう気分になっちゃいましたが(笑)、いろいろな意味で刺激の多い展覧会でした。12月23日まで開催中ですので、上京の機会が有る方はぜひ。


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能楽史年表を読む

2015-08-31 16:06:20 | アート・文化

 前回の駿府城薪能鑑賞記顛末の続きです。先日、東京大学史料編纂所にお勤めだった歴史家・鈴木正人氏の『能楽史年表近世編(上巻)』という本を県立図書館で見つけました。1601年から1687年までの能楽関連の出来事を年表にまとめたもの。この本で、駿府城での催能記録を拾ってみました。

 

 

 

慶長13年(1608) 

8月5日 駿府城で参勤の諸大名をもてなし、徳川頼宣(7歳)、能を舞ってみせる。高砂・田村・楊貴妃・皇帝・船弁慶(舜奮記)(台徳院殿御実記)

8月10日 駿府城本丸で徳川頼宣、秀忠饗応のため稽古能をする。能三番と狂言二番(古之御能組)

8月22日 徳川家康の駿府城二の丸で秀忠饗応の能あり。能六番はすべて7歳の頼宣が舞う(古之御能組)

 

 

慶長14年(1609)

3月29日 徳川家康、駿府城で藤堂高虎を饗し、徳川頼宣の能を見せる。また太閤秀吉のとき、大坂で勤番していた四座の猿楽どもに再度駿府勤番を命じる(当代記)(慶長見聞録案紙)(台徳院殿御実記)

4月28日 徳川家康、駿府城三の丸で能を催す。1日目。水戸城主徳川頼宣、岡山城主池田忠継らも演じる(当代記)(慶長年録)(台徳院殿御実記)(古之御能組)

4月29日 駿府城三の丸で四座の猿楽あり。2日目。金春大夫父子、観世・宝生・金剛が担当する(慶長見聞録案紙)(台徳院殿御実記)(当代記)(古之御能組)

5月1日 駿府城で猿楽あり。3日目。金春大夫親子、金剛亀千代・宝生・大蔵・梅若・日吉らが演じる(当代記)(古之御能組)(公室年譜略)

 

 

慶長15年(1610)

3月19日 駿府城で徳川頼宣、能を舞って見せる(当代記)(台徳院殿御実記)

3月21日 駿府城で徳川家康、上杉景勝、伊達政宗に自身の能を見せる(南紀徳川史)*4月23日の誤か

3月26日 徳川家康、駿府城で能を催し、熊本城主加藤清正を饗する(義演准后日記)

4月19日 駿府城で遠山利景(東美濃出身で家康の旧知)75歳、鈴木伊直(元三河足助の人)66歳、池田重信(秀頼公衆)46歳、水無瀬入道一斎に能を舞わせ、家康の慰みとする。世俗、これを「駿河の下手揃」と言って談訥とする。この輩、老年までその技をたしなむが極めて拙技なりという(慶長年録)(創業記)(当代記)(台徳院殿御実記)

5月23日 駿府城で上杉景勝、伊達政宗を饗する猿楽あり。徳川頼宣も舞う。翁を演じる予定だった観世左近身愛は前夜に逐電し、家康から勘当される。高野山に隠居し、「服部慰安斎暮閑」と署名(当代記)(慶長年録)。「世に伝うる所は駿府近来梅若を寵遇厚かりしば観世左近大夫に猜み恨むゆへなりと風説す(当代記)(台徳院殿御実記)

8月18日 徳川家康、駿府城で島津家久。中山王尚寧を饗し、猿楽を催す。加茂・八島・鞍馬天狗・源氏供養・老松。梅若大夫、徳川頼宣・頼房が舞う(家忠日記)(当代記)(台徳院殿御実記)(旧記雑録追録)(南紀徳川史)

 

 

慶長16年(1611)

9月15日 駿府城三の丸で勝姫君(秀忠三女、松平忠直に嫁す)を饗する能三番あり。二番は紀伊頼宣が舞う。尾張義直は小鼓を打つ。その他は下間少進・金春安照。狂言は大蔵弥右衛門・鷲仁右衛門・長命甚六郎が勤める。姫君、銭一万疋や被物二領を金春に纒頭する。在府の諸大名に見せる(台徳院殿御実記)(能之留帳)(駿府記)(古之御能組)(家忠日記追加)

 

 

慶長17年(1612)

3月25日 駿府城三の丸で徳川秀忠を饗する猿楽あり。紀伊頼宣、八島・唐船・鞍馬天狗を舞う。尾張義直は杜若の小鼓を打つ。松風・安達原は下間少進、その他弓八幡・杜若・鵜飼・呉服を金春が舞う。遠山利景・池田重信・鈴木伊直も一番ずつ所作し、この三人「世で名高き拙技なれば、見る者貴賎どよみ笑わざる者なく君臣歓をきわむ」という。また観世大夫暮閑も参加する(当代記)(駿府記)(慶長年録)(能之留帳)(高野春秋))(台徳院殿御実記)(南紀徳川史)

3月26日 駿府城三の丸で猿楽あり(当代記)

4月8日 徳川家康、駿府城三の丸で秀忠の江戸還御餞別の御宴に猿楽九番を催す。下間少進、金春、梅若が舞う(能之留帳)(当代記)(駿府記)

4月9日 駿府城での江戸還御餞別の御宴に猿楽が催される。紀伊頼宣、下間少進、金春が舞う。果てて秀忠より金春はじめ役者に銀子・時服を給う(台徳院殿御実記)(当代記)

4月16日 駿府城で下間少進、金春八郎の立合い能八番あり(能之留帳)

4月22日 駿府城三の丸で紀伊頼宣が催した猿楽を家康が見物する。式三番の役者が拙技で家康は気色を損じ、還御になる(駿府政事録)(台徳院殿御実記)(当代記)(駿府記)

10月25日 駿府城で紀伊頼宣、下間少進、金春の猿楽あり。果てて、拙技として名高い遠山利景・池田重信・鈴木伊直も舞う。大御所はじめ万座の輩どもどよみ笑い一興を催す(慶長年録)(慶長見聞書)(台徳院殿御実記)

 

 

慶長18年(1613)

3月5日 駿府城三の丸で慰みの猿楽九番あり。紀伊頼宣が田村・安宅・鵺・三輪・鞍馬天狗を、11歳の水戸頼房が江口・柏崎を舞い、尾張義直は江口の小鼓を打つ。三人の母、日野唯心、山名禅高、藤堂高虎その他天台の僧に見物を許す。金春二番と脇能・祝言は観世が勤める。観世は慶長15年の勘当が昨年解け、駿府に同候していた(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(時慶卿記)(駿府政事録)(公室年譜略)(高山公実録)(舜奮記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

3月11日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽あり。水無瀬一斎、池田重信、鈴木伊直、浅井喜之助、その他は観世・金春・梅若が演じる。今日も天台・真言の僧に見せる(駿府記)(台徳院殿御実記)(本光国師日記)(公室年譜略)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

3月28日 駿府城で猿楽あり。紀伊頼宣も四番を舞う。観世・金春・下間少進・梅若が演じる (台徳院殿御実記)(当代記)(天正慶長元和御能組)

3月29日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽九番あり。水戸頼房が山姥・船弁慶を舞い、下間少進・金春・観世が演じる。日野唯心、西洞院時慶、神龍院梵舜、金地院崇伝、南光坊天海らが見物する(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月5日 駿府城三の丸で家康主催の慰み猿楽五番あり。初日。下間少進・金春の立合(当代記)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月6日 駿府城三の丸で家康主催の慰み猿楽五番あり。二日目。金春の子2人、梅若大夫や藤堂高虎の小姓花崎左京が舞う(本光国師日記)(創業記)(台徳院殿御実記)(当代記)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月18日 駿府城三の丸で猿楽九番あり。三日目。紀伊頼宣、皇帝・通小町を舞う。下間少進・金春・観世も演じ、伊達政宗を召して見せる(駿府記)(台徳院殿御実記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(伊達治家記録)(斎藤報恩会蔵記録抜書)

 

 

慶長19年(1614)

4月14日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽九番あり。初日。冷泉為満、五山長老らに見せる。白楽天・春栄・井筒・鞍馬天狗・通小町・芦刈・柏崎・葵上・養老。徳川頼宣は春栄を舞い、徳川義直は井筒の小鼓を打つ。金春・下間少進・梅若が演じる。金春八郎は煩いのため他の者で二番ずつ勤める(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)

4月15日 駿府城三の丸で能九番あり。二日日。竹生島・頼政・千手・谷行・芭蕉・花月・阿漕・善知鳥・老松。金春・同七郎・下間少進が舞う(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)

4月21日 駿府城三の丸で公卿饗応の猿楽あり。高砂・経政・三輪・鵺・野々宮・皇帝・御裳洗の七番。三輪・鵺・皇帝は紀伊頼宣が舞う。その他は金春・同七郎・下間少進が演じる(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(綿考輯録)

5月1日 駿府城で拝賀ののち囃子五番を観世・金春が舞う。老松・当麻・松風・錦木・江口(駿府記)(台徳院殿御実記)

6月7日 駿府城三の丸で能九番あり。観世三郎重成(のちの十世)、駿府城での能に初出勤し「夕顔」を舞う。その他は金春八郎・同七郎・下間少進・大蔵大夫が演じる(駿府記)(能之留帳)(当代記)

7月10日 徳川家康、駿府城で幸若舞を見る(駿府記)

8月15日 徳川家康、駿府城で天台論議聞き召し、囃子を催す。小督・三井寺・老松・姥捨など。観世大夫、駿府で最後の囃子五番を勤める(駿府記)(台徳院殿御実記)

8月26日 駿府城広間で観世三十郎が能五番(呉服・経政・佛原・大仏供養・猩々)を舞い、父観世大夫(暮閑)は米百俵・鳥目三千疋を拝領する(駿府記)(台徳院殿御実記)

9月3日 駿府城三の丸で観世三十郎が能五番(老松・江口・大会・小塩・西王母)を舞い、家康、これを見る。太鼓方金春左吉と宝生座狂言方鷲仁右衛門が観世座付きを命じられる(駿府記)(当代記)*家康による観世座強化策の一環

10月1日 徳川家康、駿府城で観世大夫の猿楽を見る。家康から水戸頼房へ「その芸を習得すべき旨」の仰せあり(水戸紀年)

 

 

元和2年(1616)

3月29日 駿府城で勅使饗応の猿楽あり。高砂・呉服・是界を観世が演じる(台徳院殿御実記)

4月17日 徳川家康、駿府城で没する。75歳。以後、能役者は江戸詰めとなる。

 

 

 ざっと見ると、駿府城では頻繁に能楽が催されています。前回のブログで恥をさらしたとおり、幻?の駿府城薪能プログラム&関連資料をもとに「駿府城で15回催能」と書いたナゾは解けてはいませんが、家康公の十男頼宣が幼い頃から能楽に親しんでいたり、戦場で苦楽を共にしてきた遠山利景70歳・鈴木伊直66歳・池田重信46歳が「駿河の下手揃」と嘲笑されながら、そのパフォーマンスに家康公が心底癒され、満座の笑いを誘ったというエピソード、大御所の人間味を感じさせ、ホロリとさせられました。観世が、家康の寵愛を受ける梅若に嫉妬して職場放棄し、勘当され、後に許されたなんて、能役者の世界もドロドロしてるんですねえ・・・。

 編者の鈴木氏は出典先をちゃんと示してくださっているので、原本を紐解いて「15回催能」の裏付けを究明していこうと思います。引き続き、駿府城薪能のプログラムか関連資料をお持ちの方がいらっしゃったら、ご連絡お待ちしております!

 

 


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駿府城薪能鑑賞&混乱記

2015-08-29 08:40:12 | アート・文化

 サッカーW杯ロシア大会のアジア2次予選が近づいています。ハリルJAPANになって公式戦でスカッとした勝ちがないのでヤキモキしちゃう・・・な~んて書き出すと、いかにもサッカー通みたいだけど、ツウでも何でもなく、最近は選手の名前が全然覚えられなかったり、試合中継を最初から最後まできちんと観る忍耐力すらないレベル(苦笑)。とにかく勝ってくれないと盛り上がらないのは確かですね。

 思えば日韓W杯が開かれたのは13年前。今の代表選手たちは小~中学生ぐらいかな。きっとモノ凄い感動と刺激を受けて「自分も日本代表になるんだ!」と目を輝かせたことでしょう。ちょうど日韓大会開催中、私は(財)静岡県文化財団発行の季刊誌【静岡の文化70号/特集・静岡県の能と狂言】で、駿府城薪能鑑賞レポートを書かせてもらいました。エコパで生観戦した直後だったせいか、能楽師とサッカープレイヤーを無理やりこじつけた文章になってて我ながら笑えた。文化財団の格調高い雑誌によく採用されたなあと、今読むと冷や汗モノです(苦笑)。

 

 この記事のことを思い出したのは、先日、郷土史家の黒澤脩先生からお問合せをいただいたからです。冒頭のリードコピーは「駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ・・・」と開催の由来から書き出したのですが、この「駿府城内で15回の催能」という記述はどの文献を参考にしたのか?というおたずね。駿府史の生き字引のような先生も未確認の情報を、なんで私が!?・・・と混乱し、アホな私でも、何の裏付けもなくそんな具体的なことを書くはずがないし、主催者から提供されたプログラムか資料があるはずだと、あわてて取材用の資料箱をひっくり返してみたものの、残念ながら当時の資料は残っておらず。

 いそいで主催者の静岡市文化振興協会と静岡市文化振興課を訪ねて、当時の資料が残っているか確認してもらったところ、駿府城薪能は静岡市と清水市の合併を機に、三保で毎年開催されていた羽衣薪能を駿府城公園でもやろうと平成9年(1997)から始まり、平成15年(2003)に終了。10年以上経過した行政資料は廃棄されるそうで、駿府城薪能関連の資料はゼロ。当時の担当者は定年退職してしまい、分かる人もゼロ。手がかりはあっけなく途切れてしまいました。

 このままではライターとしてあまりにも面目ないと、静岡市立図書館を2ヵ所回り、お盆開けには松崎晴雄さん主催の日本酒の会へ行くついでに江戸東京博物館で開催中の【徳川と城~天守と御殿】を観て、館内図書館で資料をあさり、ついでに国立国会図書館に回って「駿府城」「家康」「能楽」など想定できるあらゆるキーワードで検索してみたものの、「15回催能した」という具体的な記述にはたどり着けませんでした。

 目下、鋭意、調査中。とりあえず件の記事を再掲しますので、駿府城薪能関連の資料をお持ちの方がいらしたら、ご連絡お待ちしております

 

 

駿府城薪能鑑賞記 ~イマジネーションを循環させるプレイヤーたち (文・イラスト 鈴木真弓)

<掲載/静岡の文化70号(2002年8月15日発行) 発行/財団法人静岡県文化財団>

 

 駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ、平成9年から静岡市の文化イベントとして開催されている。イベント野外薪能は、初心者にとって能の高い敷居を少し下げてくれる。しかし雰囲気だけで満腹になる可能性もある。鑑賞者としてのモチベーションに自信がないまま会場に向かった私だが、にわかサポーターがホンモノのサポーターになれるような希望が、そこにあった。

 

 私が初めて能を観たのは20年ほど前(=1982年頃)で、興福寺の薪能だった。興福寺は薪能発祥の地で、修二会に使われた薪を焚いて行なった薪猿楽がルーツらしい。今も記憶に残るのは、黒衣に白の袈裟頭巾の僧兵が薪に点火する姿と、妖しく輝く篝火の背後に黒く浮き立つ南円堂の姿である。能を鑑賞したというよりも、宗教儀式のような風景を味わっただけだった。

 次に観たのは10年ぐらい前(=1992年頃)で、三保の羽衣の松の薪能だった。こちらも絵になる舞台設定だったが、能そのものの価値は解らず、雰囲気鑑賞で終わった。サッカーのルールや選手の名前は判らないけど代表ユニフォームを着てW杯気分に浸る、にわかサポーターのようなレベルだ。それからまた10年経て、3度目の薪能である。

 今年の駿府城薪能の演目は、能『百万』『小鍛冶』と狂言『文荷(ふみにない)』だった。『百万』は夫と死別し子と生き別れた狂女が、嵯峨野清涼寺の大念仏で一心に舞う。仏の功徳か、念仏堂に集まった群集の中で子と再会を果たす。『小鍛冶』は帝の御剣を作るよう命じられた刀匠が、腕のいい助手がいなくて困っていたところ、神の使いの助けで見事な御剣を打つというお話。ストーリーだけでも把握していれば少しは理解できるかと思い、解説書に目を通してきたが、今回も駿府城巽櫓を借景にした、実に絵になる舞台。雰囲気だけで満腹になる可能性は十分にある…。

 そもそも能ほどイマジネーションを働かせて観る舞台はない。仮面で覆われた役者の表情、むきだしの舞台上に最低限の小道具、どれも同じように見える装束と単調なお囃子。想像を楽しむゆとりがなければ、これほどつまらない舞台はないだろう。貴重なチケットを三たび無駄にすまいと思った私は、上演前に開催された鑑賞者のためのワークショップに参加した。そこで装束や小道具のひとつひとつに意味があり、役柄を説明する記号であるということを学び、出演者自身から興味深い話をいろいろ聞くこともできた。

 

 サッカーの試合だってオフサイドのルールひとつ解れば、その分確実に見方は変わる。プレイヤーの人間的な魅力に触れれば、興味はさらに深まる。ワークショップでとりわけ印象に残ったのは「後見役」の話だ。舞台の後方に着座している紋付き袴姿の人たちのことである。

 能には衣装係や道具係といった裏方はいなくて、装束は演者自身がコーディネートし、他の能楽師が着付けをする。演者の体型に合わせて紐と糸で縫いつけたり、カツラも演者の頭に合わせて毎回結い整えるという。「頭を押さえつけられ、耳もカツラで覆われて自分の声も聞けないんですよ」とシテ(主役)の観世芳宏さんは苦笑する。「後見」を務める能楽師は、舞台上で視野や動作が限られたシテの目や手となる。揚幕の上げ下げ、道具の運び出し、シテの着付け直し、はたまた不測の事態になれば代役を務めるなどマルチな能力を求められるのだ。観世さんは「能楽師は後見が務まるようになって、初めて一人前と認められるのです」と強調する。

 役者と裏方の能力を兼ね備えた、つまりディフェンスも出来るフォワードのようなプレイヤーたちが、流儀という名の制約を遵守しながらひとつの舞台を創り上げる。互いの力量を知り尽くしている者同士、信頼や競争力も働くだろう。仮面や装束の裏に秘められた人間性に少し近づけたことで、私のイマジネーションが循環し始めた。

 

 さて本番である。月夜にライトアップされた駿府城巽櫓。19時をまわって薪に火が入った後に演じられた『小鍛冶』は、神の化身に扮したシテの神々しいいでたちと、剣を打つ鍛冶壇や相槌を打つ動作の華やかさが、薪能の舞台によく映えた。自分が戦国時代の人間だったら、こういう舞台にグッと来て、ストレス解消できるだろうなあと思った。

 日没前に演じられた『百万』は薪の点火前だったこともあって、薪能らしさを味わうものではなかったが、その分、演目に集中し、感情移入できた。生き別れた子を群集の中から必死に探そうとする女・百万(シテ)。深緑の上衣と手に持つ笹の枝は、女の深い悲しみを表現している。背後に広がる駿府公園の内堀の木立が深緑の上衣と同化し、能面だけが浮き上がって見える。やつれた中年女性を表す『深井』という女面。日暮れ時の時間帯にこの演目を設定した出演者は見事だ。途中で烏帽子が風に飛ばされるハプニングが生じたが、後見がすばやく拾い、シテはそのまま舞い続けた。子への恋しさが激しく募る場面ではお囃子のテンポが速くなり、子との再会では深緑の上衣を脱ぎ、悲しみを脱却したことを表した。大勢の群集の中で百万が念仏を舞うという設定なので、我々鑑賞者は自らをその群集に置き換えることもできる。想像力を発揮しやすい演目だと思った。

 主人に使いを頼まれ、その中身が恋文と知って盗み読む太郎冠者の騒動を演じた狂言『文担』、薪能にふさわしい幽玄な『小鍛冶』と演目は進み、3時間はあっという間に終わった。能を観てあっという間だと感じたのは初めてだった。舞台上から得る情報量が過去2回とは比較にならないほど多く、情報を整理し、想像力を肉付けするのに必死だったからだ。もう少しゆとりを持って観られたら・・・と次から次に欲が湧く。エコパでW杯を生観戦した後もそんな気分だった。これは、プレイヤーの人間性を感じる舞台の醍醐味を知ったときの、共通した感覚かもしれない。(了)

 

 


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青磁のいま、酒器のイロハ

2015-07-06 20:09:58 | アート・文化

 先日、静岡市美術館で開催中の『青磁のいま~受け継がれた技と美 南宋から現代まで』を観に行き、展覧会を監修された東京国立近代美術館の唐澤昌宏先生の講演会を聴講しました。

 

 

 青磁は中国が発祥のやきもの。窯の中で灰がガラス化して灰釉になったものが起源だといわれ、近代では作家たちが、素地となる土に磁土(陶石を粉砕し粘土状にした土)を使ったものを「青磁」、陶土を使ったものを「青瓷」と区別することもあります。

 あの、独特の青緑色は、釉薬(うわぐすり)に含まれる微量の酸化第二鉄が還元焔焼成=窯の中で酸素不足になることで発色したもの。逆に酸素が残った状態=酸化焔焼成では黄色味を帯びてきます。これを、米を炒ったときの色に似ていることから「米色」と呼ぶそうです。

 薪で焼くと、どうしても不安定な焼成になるので、部分的に青っぽかったり緑っぽかったり米色になったりと、一つの器でいろいろな色合いが見て取れるもの(=窯変)もあります。逆に、目が醒めるような青緑で美しく均等に焼かれたものもあります。中国の皇帝は最高の青磁を「雨過天青」の色だと表現したそう。雨上がりの青空の、ちょっぴり霞がかったひかえめな青緑・・・ということでしょうか。

 釉薬を何度もたっぷりかけるので、焼成の間に気泡や貫入(ひび)が入りやすいのも青磁の特徴です。まだ熱い時に窯出しして色液(金属の酸化剤)の中で急冷させると、割れたひびに色がつきます。窯出したまま自然に冷せば色の付かない貫入になります。今回の展覧会では、南宋時代の古青磁から時代を追って、現代作家の作品までさまざまな作品が楽しめましたが、現代作家には、古青磁を忠実にうつし、伝統技法をマスターしてこそ一人前と考える人や、伝統にとらわれず、斬新な発想で自由に作陶する人などいろいろ。貫入ひとつとってみても、デザイン的に計算し尽したものもあり、窯の中で自然に生じる「ひび」をどうやってコントロールするのか興味は尽きません。

 唐澤先生は「現代の陶芸家は、基礎的な研究をベースにしてそれぞれに独自の考えに基づくアレンジを加えながら、思いっきり青磁という技術・技法を楽しみ、自身の想いのすべてを作品に注ぎ込んでいる」と解説。個人的に印象に残ったのは、中国へ渡って作陶したという小森忍(1889-1962)、加藤唐九郎の長男にして窯変の魔術師・岡部嶺男(1919-1990)、小石原焼ちがいわ窯の出身で地元の土にこだわった福島善三(1959- )。機会があったらぜひ窯元を訪ねてみたいと思います。

 

 思い起こせば、酒の取材を始めた平成元年頃、静岡酵母の河村傳兵衛先生から「静岡吟醸を呑む盃は限りなく薄く、唇の反りにぴったり合うように広がる形が良い」と教えられたことがあります。清水焼や有田焼の窯元や器ショップを訪ね、貧乏ライターが小遣いで買える精一杯の範囲で先生の理想の酒器を探し歩き、作家モノは高価で手が出なかったけど、陶器まつりやノミの市で掘り出し物を探す愉しさを知りました。しずおか地酒研究会でも、会員さんにMY酒器持参で自慢してもらうサロンを開催したりして、掌サイズの器の世界に魅了されました。日本酒が、冷やしても温めても味わえるってことも、器選びの幅を、ホント、ふくらませてくれるですよね・・・。

 ちょうど酒の取材を始めてしばらく経った頃、掛川駅これっしか処の広報の仕事で地元陶芸家を何人か取材し、ふだん自分では買えない作家モノに直接触れる機会を得ました。中でも魅了されたのが青磁や白磁。静岡吟醸の繊細な味と香りには、クールな磁器の美しさがピッタリだと思いました。当時、愛読していた立原正秋の随筆『冬の花』『やきものの美を求めて』等をガイドに、大阪市立東洋陶磁美術館にもよく通いました。

 

 憧れの台湾故宮博物院を訪ねたのは、富士山静岡空港開港記念チャーター便に運よく乗れた2009年6月でしたが、青磁の最高峰といわれる故宮博の汝窯コレクションは素人目にも違いが解りました。汝窯とは、北宋時代の汝州にちなんで名づけられた窯で、宋代五大名窯(汝窯・官窯・哥窯・定窯・鈞窯)の一つ。汝窯青磁の伝世品は世界で74点しかなくて、うち台北故宮博物院に21点、北京故宮博物院には15点が所蔵されているそうです。

 ちょうど1年前、別のブログにも書いたんですが、2014年7月に東京国立博物館で開催された台湾国立故宮博物院展で、故宮の名品に再会しました。中でも印象的だったのが、中国大陸で今から3000年以上前、殷~西周の時代に作られた『亜醜方尊(あしゅうほうそん)』。
 『尊』とは酒を盛る容器のことで、古代の祭礼に使われていた器物でした。専門家の解説によると、殷の青銅器は神人共棲(しんじんきょうせい=人間が神に近づこうとした)の社会を表現するもので、しかも殷時代の青銅器のほとんどは酒器だったそうです。
 時代が進み、前漢時代に作られたのが『龍文玉角盃』。玉を細長く動物の牙に見立て、龍や雲の文様をほどこしたもので、神や仙人が住まう雲海の彼方を憧憬した当時の人々の思念を象徴しているのでしょう。

*亜醜方尊 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001148
*龍文玉角盃 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001072

 

 美しさに感動したのは、中国陶磁器が芸術として華開いた北宋時代(11~12世紀)の『青磁輪花碗』。北宋時代の傑作で、2009年には気づかなかったのですが、この花碗は酒器を温めるための碗だったのです。

*青磁輪花碗 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001032

 

 こうしてみると、つくづくお酒とは、人が神と向き合うときに必要不可欠な存在で、酒のうつわも聖なる存在だったと解ります。単なる生活容器ではなく、文明や民族の成り立ちや国家の威信といったドラスティックなステージで象徴となり得たんですね。
 日本陶磁史研究家・荒川正明氏の著書『やきものの見方』(角川選書)の序文に、印象的な一文を見つけました。

「やきものをつくること、それは人類が初めて化学変化を応用して達成したもの。土や泥や石のような見栄えのしない原料が、炎の働きによって、人工の宝石ともいうべき、輝くばかりの光を放つ美しいうつわに生まれ変わるのである」

 

 日本酒も同じかもしれません。もちろん、原料の米はけっして“見栄えのしない”シロモノではありませんが、日本人は米を有効活用する手段として、微生物醗酵の働きによってアルコールを生み出したのです。酒とうつわとが、ともに神と人間の仲介役を担い続けてきた“同志”だと考えれば、酒造家と陶芸家はもっと近しい関係であってほしい。「基礎的な研究をベースにしてそれぞれに独自の考えに基づくアレンジを加えながら、思いっきり技術・技法を楽しみ、自身の想いのすべてを作品に注ぎ込んでいる」のは、酒造家も同じではないでしょうか。

 

 先月には、岐阜県美濃加茂市の正眼短期大学で開かれた芳澤勝弘先生の白隠講座を聴講し、ついでに土岐市と多治見市をグルッとドライブ。多治見市では市ノ倉さかづき美術館、開窯200年の幸兵衛窯を見学し、ミシュランガイドにも紹介されたという陶の里の魅力を満喫しました。窯元には、蔵元と同じような魅力があって、ついつい訪ねてみたくなります。

 日本に数ある蔵元と窯元すべてを訪ねるのは不可能だとしても、酒と器のマリアージュが楽しめる場所があったら・・・としみじみ思います。河村先生に教えられた静岡吟醸を呑む最高の酒盃も、どこかにきっと、あるはず・・・!


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松井妙子染色画展2015 ご案内

2015-05-09 20:48:01 | アート・文化

 今年も染色画家松井妙子先生の展覧会が、5月13日から19日まで、松坂屋静岡店美術画廊で開催されます。この時期になると当ブログに先生のお名前で検索訪問される方が増えるので、ああ、また“先生の季節がやってきた”と実感します。毎年コンスタントに37年も個展を続け、松坂屋でも20年連続の開催。並大抵の作家では出来ない息の長さだとつくづく感服・・・!

 

 松井先生の染色画は、桃山時代に生まれた古典的染技法・一珍染め。一珍とは防染糊のことで、主原料は小麦粉と石灰。ちなみにもち米を主体にしたのが友禅染めだそうです。
 小麦粉と石灰を糊状にした一珍糊を先金を付けた筒紙に詰め、そのまま生地に筒描きし、乾いたら生地を斜めに引っ張って糊を浮かせてはがす。表面にひび割れのような文様が浮かび上がり、そこに染料が入り込んで独特の味わいを醸し出します。着物なんかでは友禅染のほうがポピュラーですが、愛らしいふくろうやかわせみをキャラクターにした先生の作風には、一珍糊を使った更紗風の染め方が合うようです。

 

 今年のポストカードに選ばれた「輝いて」、光背をまとった菩薩さまのようにもみえます。

 

 

 過去3年のポストカードに選ばれたのはこちら。絵の具を塗り重ねるだけの絵画よりもはるかに手間のかかる手法だけに、制作中の松井先生は求道者のようなお姿なんじゃないか、なんて想像します。ふくろうは「幸運の使者」であり、「知恵の神様」であり、「森の哲学者」だと言われますが、毎年、どんな構図と色彩で描くのか、ポストカードに採用する代表作をどんな思いで選ばれるのか、会場に並ぶ作品群を順に眺めると、先生の心の軌跡が覗えるよう。

 先生は全日、会場にいらっしゃいますので、ぜひお声かけなさってみてくださいね!

 

 

 

 


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