歴史の教科書では、お茶は栄西が宋から伝え、“喫茶養生記”というバイブルにまとめたと教わりました。彼は1187年に入宋し、1191年7月に帰国したときに持ち帰った茶種を肥前(長崎)平戸島の葦浦に植えたとされます。ちょうど源平合戦の頃ですね・・・。同じ茶種を山城(京都)栂尾高山寺の明恵上人に贈り、明恵上人と親しい近衛家の宇治の所領にも植えられ、「修行中に眠気覚ましの薬用ドリンク」というフレコミで、各地の禅宗寺院に広まった・・・というのが定説です。
実は、栄西が持ち帰ったのは、茶の種子ではなく、茶の若木で、このとき広まったのは、抹茶にして飲むという、当時としては新しい茶法だったのではないかと『茶の文化史』では述べています。植物学的に見ると、“種子”を、7月(太陽暦では8~9月)に中国から船で持ち帰ったのであれば、発芽力が落ちて育たないはず。根に土をつけて包んでおけば数カ月は保つため、栄西は根っこごと枝を持ち帰ったに違いないというわけです。
我々はごく当たり前に、お茶は昔は抹茶で飲んでいたと思っていますが、平安初期に遣唐使船で渡った最澄や空海が、現地で遭遇したお茶とは、陸羽が『茶経』を記したときとほぼ同じスタイルの、“団茶”だったんですね。団茶ってその名の通り、お茶を団子状にして保存する伝統製法です。
以前、その“団茶”というのを、お茶の取材で偶然飲む機会がありました(こちらを)。団茶は形状によって“餅茶(=煎餅状)”“磚茶(=レンガ状)”“銭茶(=真ん中に穴が開いてヒモで束ねられる)”等と呼ばれ、私が取材したのは餅茶でした。
作り方は、摘んだ茶葉を甑で蒸して、杵と臼で細かくし、鉄製の輪の型に入れて乾燥させます。煎餅orおやきのような形で保存するんですね。
で、飲む時は、火で炙ってふくらませていったん冷まし、碾で粉末にしてふるいにかけ、風炉にかけた釜(取材時はホーロー鍋でしたが)の湯に少量の塩と一緒に入れます。そうして、華(湯の表面に浮きあがった茶)と抹(その少し大きなもの)をすくって湯と一緒に茶碗に注いで飲むというものです。
結果的には粉末にして飲むので、抹茶と混同しちゃいそうですが、団茶は茶葉を固形にして保存するのが大きな特徴。そして塩を加えるなど、“味付け”をするという点。遊牧民族のお茶はバターやチーズなんかで味付けしますよね。塩を加えるのは唐風のようです。
栄西が鎌倉初期に伝え広めたお茶は、喫茶養生記にも描かれている通り、現代に近い抹茶法。団茶よりも“進化”した作り方&飲み方のようです。それよりもはるか前の、最澄はじめ平安初期の入唐帰朝僧が持ち帰って飲んでいたのは、保存も携帯もしやすい団茶であることは確かなようです。
そして最澄が持ち帰った茶の木を植えた、日本最古の茶園といわれるのが、比叡山のふもと・坂本にある『日吉茶園』です。私、茶道研究会で望月先生に教えてもらい、『茶の文化史』で読むまで知りませんでした。茶産地静岡県民として恥ずかしい限りです・・・。
どんな由緒ある茶園かと思ったら、京阪坂本駅のすぐ横の小さなスペースに、茶の木が20本ほど無造作に植えられ、看板が1枚立っているだけ。・・・どおりで行きに気づかず素通りしてしまったわけです。
日本最古といわれる茶園が、こんなふうにひっそりたたずんでいることに、少なからず違和感を覚えました。お茶は静岡人にとって、いや日本人にとって国民的飲料のはずなのに、ルーツや歴史についてちゃんと教育されていないという違和感です。
…私が知っている限りでは、お茶の販売者も日本茶インストラクターも、急須で淹れる煎茶がベストだと思っているだろうし、お茶の生産者はやっぱり「やぶきた」が一番の品種だと思っているだろうし、茶道家はお茶の製法や産地には関心なし。私自身も「そんなものだ」と思いこんでいました。
でもこれだけ長い間、廃れることなく、日本人の暮らしにしっかり存在し続ける飲み物です。団茶のような作り方や飲み方を復活させても面白いだろうし、抹茶はカフェラテやスイーツとコラボして若者文化に溶け込みつつあります。煎茶はいわば茶葉のだし汁みたいなものだけど、茶葉をそのまま摂取できる団茶や抹茶のほうが健康飲料としてパワーを発揮できるし、そもそも修行の薬効だったというルーツや歴史をていねいに紐解き、今の茶法を絶対視せず、お茶の持ついろいろな可能性を追求してみたらどうだろう・・・。
日吉茶園の前に立ってみて、そんな今の茶業の“ツッコミどころ”が見えてきた・・・そんな気がしました。