杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝鮮通信使ふたたび

2008-09-30 22:16:57 | 映画

 今日(30日)の静岡新聞静岡中部版に、「清水区のNPOが主催し、10月19日に朝鮮通信使の衣装で清見寺付近を行列で練り歩くイベント“アンニョンハセヨ朝鮮通信使”開催」という小さな記事を見つけました。昨年は朝鮮通信使400年記念行事が各地で盛り上がり、私も映像作品『朝鮮通信使』の制作にたずさわることができましたが、今年は、竹島問題等の影響で、各地の行事が中止や縮小になったと聞き、複雑な思いがしていました。地域のNPOが主催する小さな行事でも、こういう記事にはホッとさせられます。

 と同時に、静岡市内で開催される朝鮮通信使関連のイベントで、静岡市が製作した『朝鮮通信使』鑑賞の場がなぜ作られないのか、残念でなりません。せっかく作った映画も、未だに公で鑑賞される場がほとんどないのが実情です。

 

 昨日は、京都の高麗美術館から開館20周年記念特別展『鄭詔文のまなざし―朝鮮文化への想い』のポスターと案内が届きました。鄭詔文氏は日本に散在する朝鮮古美術品を蒐集し、日本の中の朝鮮文化の発見に65年の人生を費やした高麗美術館の創設者。「これらの物は日本へ来るまでに様々な悲しい出来事があったに違いない。所有者の無知と弱みに付け込んで捨て値同然で買われたり、文化財発掘の名のもとに掘り出され、日本にそっと持ち帰られたり。私は日本だけを責めるのではない。植民地とは洋の東西を問わず、そのような目に遭わされるもの。ともかくこれらの物は、日本へ運ばれてからも流転の果て、ようやく母国人たる私のもとへやって来た」とし、古美術蒐集が公に知られる在日朝鮮人では唯一人、自身のコレクションをもとに独立した美術館を建てたのでした。

 こういう美術館と、引き続いて縁をつないでいられる幸せをしみじみ噛みしめます。

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 今日は、藤枝ライオンズクラブから『朝鮮通信使』鑑賞会の開催と解説依頼の通知が届きました。作品の存在を知っているライオンズメンバーの社長さんが、かねてからライオンズの例会で鑑賞したいと声をかけてくれていたのでした。本当にありがたい話です。

 

 

 

 朝鮮通信使の本格的な映像化は、通信使研究の開拓者である故・辛基秀(シン・ギス)氏が自費を投じて製作した30年前のフィルム映画以来。韓国朝鮮系の団体や全国各地で長年研究活動をしてきた人々にとっては待望の映像作品であると同時に、この分野ではさほど実績のない静岡市がいきなり映画を作ったと聞いて、どんなシロモノか観てやろうという思いもあったでしょう。07年5月19日に清水テルサで開かれた完成披露上映会は、朝鮮通信使縁地連絡協議会が主催する全国交流大会に合わせて行われ、各地の関係者が手ぐすね引いて見守る中での初お披露目となりました。

 制作スタッフの中で、全国の関係者の顔も思惑も一番よく知る立場にあった私は、上映中は2階の隅の席で息を殺し、画面ではなく観客の反応ばかり見て、エンドロールが終了し、拍手が沸き起こっても眼を伏せたまま、しばらく顔が上げられずにいました。

 場内が明るくなり、監修者である京都造形芸術大の仲尾宏先生と、鞆の浦の池田一彦先生を見つけると、一目散に駆け寄って感想を聞き、両先生から「短時間でよくあれだけ丁寧に作ったね」と及第点をもらうとホッと肩の荷が下りました。辛基秀氏の長女・理華さんには「DVDにしたら絶対に売れますよ」と太鼓判をもらい、高麗美術館の片山真理子さんからも「よく頑張りましたね~、すごくよかったですよ~!」とハグしてもらい、涙ぐんでしまいました。

 

 

 

 

 その後、全国から問い合わせが相次ぎ、DVD化後も入手を希望する声が殺到し、韓国KBS放送からも映像を使わせてほしいという話が来ました。この作品は静岡市内の公立学校の歴史教材ビデオとして作ったため、市も大いに戸惑ったようです。

 公費で作り、公立の教育施設への寄贈を目的とした以上、外部への市販や放映はできません。正確にいえば、作品で使った文化財や史料の撮影申請をした際は、有料上映や市販または放映を目的にするか否かを必ず問われたため、「上映会は無料で行い、DVD化後は教材として教育施設へ無料配布します」という条件で市長名で申請したのです。

 

 

 

Photo  大半の史料所有先は、申請をし直せば市販も放映も不可能ではなかったのですが、一か所だけ、この条件でなければ使用許可がもらえない所有先がありました。それが、朝鮮通信使の再現行列イメージシーンで、林隆三さんのバックで黒子が持つ「人型」のモデルに使った兵庫県尼崎市教育委員会所管の「通信使駿州行列図屏風」でした。

 作者も年代も不明で、どれだけ価値のあるものかわかりませんでしたが、富士山や清見寺と思われる建物が描かれ、街道沿いに並ぶ庶民の表情も細かく描かれた行列図で、プロデューサーの上田紘司さんは当初からメインに使おうと張り切っていました。

 

 興津の商工会に原寸大の復元絵があるというので視察に行ったところ、ポジフィルムから印刷し、屏風の大きさに拡大コピーしたもので、残念ながらハイビジョン映像に使える状態ではありませんでした。上田さんは実物の屏風を撮らせてほしいと尼崎市に依頼しましたが、「元の所有者が許可しない」の一点張り。やむなくポジフィルムの使用許可を取ったものの、「対象を限定した無料上映会と教育用に寄贈する以外は使わせない」ときびしい条件を突きつけてきました。山本起也監督が自ら尼崎に乗り込んで撮影交渉しようとしましたが、尼崎側から拒否され、「人型」制作スケジュールのタイムリミットもあって、ポジの代用で我慢するはめに。

 

 

 

 写真から起こした映像とはいえ、この図のおかげで、通信使の到着を待ちわびた江戸時代の一般庶民の熱気を伝えることができましたが、これが結果的に現代の一般庶民への公開の道を閉ざすことになったのですから、なんとも皮肉な話です。

 

 

 

 作品は5月に清水で1回だけ公式上映され、その後DVD化されて、市内公立学校や協力自治体と史料所蔵者等に贈呈されたものの、静岡市民の多くは作品の存在すら知らずにいるでしょう。静岡市側でこの作品を積極的にアピールすることも、ほとんどありませんでした。

 業を煮やした私は、静岡新聞編集委員の川村美智さんに頼んで取材してもらったり、中日新聞、時事通信、NHK静岡の各局長に頼んで在静12社のマスコミ支局長と市長が的懇談会を行う席でDVDを配布する根回しをしました。

 

 

 

 07年9月に東京で、10月に彦根で行われた朝鮮通信使シンポジウムにも自費で赴いて、受付の横に机を置かせてもらい、自分のノートパソコンでDVDの再生画面を流し、チラシをまいて無料上映会の開催を呼びかけました。多くの人が関心をよせ、「5月に清水テルサで観て感動した」「自分の仲間にぜひ観せたい」と声をかけてくれました。関西のある大学教授からは「静岡市に、DVDを講義で使わせてほしいと再三問い合わせたが何の返事もない」と苦情を言われ、頭を下げ、自分が持っているDVDを貸出しました。

 隣のテーブルでは朝鮮通信使の専門書籍で知られる明石書店の編集者が、仲尾先生や金両基先生の著書を売りまくっています。このDVDもせめて実費販売できたら、どんなに静岡市のシティセールスに役立つだろう…ニーズがあるのに、なぜ市は市税を投じたプロジェクトを生かそうとしないんだろうと地団駄を踏みました。

 

 

 

Photo_4  それから一年。下請けライターが一人でやるプロモーションなんてたかが知れています。

 過去ブログで紹介したとおり、2月にしずおかコンテンツバレーのイベントで林隆三さんを招いて1回だけ上映会が行われましたが、公式にはそれ1回のみ。作品を知ってもらう場が広がる気配は一向にありません。

 ただし、一人で奔走したことは無駄骨にはならず、私自身は、たくさんの縁と、新しい映像制作への挑戦という大きな財産を得ることができました。

 10月に彦根でご一緒した縁地連のマドンナ的存在である小田切裕子さんとは、今も通信使行事の情報交換をする間柄。東京の某一流企業のキャリアウーマンでありながら、観光で訪れた対馬で朝鮮通信使行列に参加したことがきっかけでこの世界にハマったという小田切さんは、専門家や研究者とは違い、私のような一般人の目線で通信使を語ってくれるありがたい“先輩”です。

 

 

 久しぶりに鑑賞の機会を得た『朝鮮通信使』。藤枝は史料探しや撮影で苦労し、かなり時間をかけた(実際に使われた映像はごくわずかですが)、思い出深い街。その街を支える企業家の皆さんに観ていただけるのは大変光栄なこと。時間をかけ、苦労した町だからこそ、こちらも思い入れがあるというものです。

 

 

 ぜひ清見寺近辺の方にも観賞会の機会を作っていただきたいと思うのですが、清水地区は清見寺の存在があまりにも大きく、興津の屏風絵の件もプロデューサーが仕切っていたので自分が交渉等で苦労したという経験がなく、どうも気持ちが入っていきません・・・。それが鑑賞の機会のなさにつながっているのかも。「思い」というのは、やっぱり、不思議と、伝染するんですね。


「耐えてからこそ輝く」

2008-09-28 11:03:48 | アート・文化

Img_3991  昨日から始まったお茶の郷博物館の松井妙子染色画展(11月3日まで開催)で、ひときわ心に残ったのは、松井先生のもとに届いたファンの手紙でした。

 

 もちろん、作品は、先生の32年間の作家活動を通して選び抜かれたベストコレクションですから、何の解釈も要りません。人が持つ心の一番純な部分を写し出したような作品ばかり。ぜひお子さん連れで観ていただきたいと思います。

 

 

 私が目をとめた手紙というのは、中国医科大学の学生が、日本語の先生に紹介されて目にした松井先生の画集「森からの伝言」に寄せて、今年6月、中国から送ってきたファンレターでした。習いたての日本語とは思えない端正な文字と文章に、まず驚きます。

 

 

 

 

 私は中国医科大学の学生です。日本人の先生のおかげで、松井先生の画集がみられました。先生の染色作品をみたとき、なんとなく心が安らかになりました。明るい色と自然な景色が神父的な力を持つよに、私を静かな世界に送りました。勉強のストレスとか生活のなやみとか一瞬忘れてほんとうの自身と話せるようになりました。

2008092809030000  全部の作品の中に私が一番好きのは「勇気」という画です。その画の詩も大好きです。

「耐えてからこそ輝く」。

 5月12日、中国の四川省で8.0級の地震が起きました。数万人が倒れた建物に埋もれています。つらいけど、埋もれている人の生きる希望が小さいです。でも救助隊やボランティアたちはずっとあきらめないで、余震の危険も考えず、行方不明の人を探しています。全国の人は被害者がもっと頑張って救助隊が探せるまで耐えて心から願ってやまりません。耐えてから生きる希望があります。命がもう一度輝けます。国を信じて私たちを信じて黒い環境であなたたちはひとりではありません。だからもう少し耐えて私たちがもう一度一緒に太陽の光に生きたいと四川の人に言いたいです。

 耐えてからこそ輝く。美しい絵をありがとうございました。

 

 

 

 

 先生の作品は、作品と短い詩が一体となって、観る人の思いや体験と重なるのです。今回の展覧会にも、どれか必ず、「自分」を映した鏡のような作品があるはず。ぜひ自分探しにいらしてください。

 

 

 

島田市お茶の郷博物館開館10周年記念・松井妙子染色画展

9月27日~11月3日(休館日 9月30日、10月14日、10月21日)

*松井先生来館日 10月5日、11日、19日、25日、11月2日、3日


文化の拾いモノ

2008-09-27 22:05:56 | アート・文化

 今日は、偶然が重なった素敵な一日でした。

 

Img_3990  染色画家・松井妙子先生の展覧会初日、前回、金谷図書館での展示会にご一緒した静岡新聞編集委員の川村美智さんにお声かけをしたんですが、美智さんはあいにくお仕事でNG。先生をご案内したことのある蔵元社長夫妻にもお誘いをかけたのですが、急用でNG。やむなく一人でお茶の郷博物館へ行ったところ、英和学院大学非常勤講師の小和田美智子先生(写真左)に、久しぶりにお会いしました。ご主人は歴史学者で名高い静岡大学の小和田哲男先生で、美智子先生も静岡の郷土史や女性史を研究されています。

 

 

 美智子先生とは、数年前、松井先生のお仲間が毎年企画するバス旅行で尾瀬にご一緒した間柄。友人や家族同士での参加が多い旅行で、一人で参加したのは美智子先生と私ぐらいだったので、いろいろとお話しさせていただきました。

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 お会いするのはそれ以来。茶室でお茶を一服いただくという美智子先生の後に付いて行ったら、茶室・縦目楼の内部―小堀遠州のデザイン感覚が冴え渡った透かし彫りの欄間、変化に富んだ棚や床の間の意匠や配置の意味を、スタッフが懇切丁寧に説明してくれ、数寄屋風の茶室・友賢庵の内部もじっくり見せてくれました。お茶も目の前でちゃんと点ててくれます。ずいぶん丁寧な応対だなと思ったら、松井先生が、美智子先生のためにお膳立てをしてくれていたのでした。

 

 

 午後から掛川で用事があるという美智子先生を、金谷駅まで車でお送りする途中、私が茶室の説明を熱心に聴いていたのにピンときたと言って、先生は「これから大日本報徳社で文化財保護のシンポジウムがあるけど、一緒に行く?」と声をかけてくれました。私が二つ返事で「行きます!」と答えると、「こんな地味なテーマのシンポジウム、女性を誘っても誰も乗ってこなかったけど、あなたなら乗るかなと思って」と、先生も気を良くしてくれました。

 

 

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 シンポジウムは財団法人伊豆屋伝八文化振興財団と静岡県教育委員会・静岡県文化財保存協会が主催する『文化財を守る~震災に備える―文化財の耐震化』。

 つい先日、県広報誌MYしずおかで地震対策の記事を書いたばかりの私は、大事なお寺や神社や酒蔵の耐震化が気になっていたところだったので、興味津々で会場の大日本報徳社大講堂に。ところが文化財の耐震化というおカタイ題目のせいか、やっぱりというか、女性の参加者はほとんどいません。〈大日本報徳社〉も〈報徳思想〉も、一般的にはカタ~いイメージがありますよね(私もその実、薪を背負って本を読む金次郎の像ぐらいしか思いつかないレベルだったんですが・・・)。

 

 

 文化庁参事官(震災対策部門)の長谷川直司さんによると、文化財の耐震診断には3段階あって、第1段階の所有者診断(病院でいえば問診)は数万から数千円程度で出来るそうですが、第2段階の基礎診断(いわば人間ドック)ではいきなり350~400万円ぐらいかかり、さらに問題があれば第3段階の専門診断(いわば生物学的診断)に。今のところ、全国にある4234件の重要文化財のうち、第2段階基礎診断を受けたのはわずか390件で、うち100件あまりが静岡県のもの(さすが地震対策先進県!)。現在、第1段階と第2段階の中間的な「予備基礎診断」というのを作って、数十万円で受けられるような方法を県独自に考えているそうです。

 

 

 でも、文化財としての価値を損なわないように耐震補強工事をするのって、想像するだけでも難しそうですね。工事をするときには、①主要な部材を傷つけない ②従来の意匠・材質・構法をできるだけ損なわない ③付加的な部材補強をするときは、将来、新たな修理方法が確立されたとき、簡単に撤去できる方法で行うこと―という条件が課せられます。

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  大日本報徳社(県指定有形文化財)は、4億円余をかけて耐震補強工事を行いました。パネルディスカッションで、榛村純一社長に「いずれ国の重要文化財になる貴重な建物だからと言って寄付を集めた。可能性はありますかね?」と詰め寄られた長谷川さんが「私はその担当ではないので」と苦笑いする場面も。

 文化財保護法が改正され、自治体の登録制になってから、現在、日本には7000件ほどの文化財が登録されています。おもに築50年以上の、歴史的価値のある建造物を対象に、国としては浅く広く、トータルで2万件ぐらいを目標に登録制度を進めているそうです。

 

 磐田市の文化財審議会委員を務める美智子先生によると、審議会は「やっぱり登録を認めるにはそれなりに厳しい審査をしなければ」という雰囲気で、むやみやたらに増やせるものでもないみたい。財政の苦しい自治体は、本音のところ、文化財への補助負担が増えるのに及び腰なのかもしれません。

 それでも、日本はヨーロッパに比べて文化財の数がものすごく少なくて、ドイツは日本の25倍、イタリアやイギリスはその10倍もの数が文化財として保護されているとか。「文化財がたくさんある街では、新しい建造物を設計する際、周囲にあまたある文化財との調和をとらざるをえない。そうやってヨーロッパの街というのは、統一感のある街並みができるのです」と長谷川さん。

 

 

 前回のブログに書いた鞆の浦の一件もそうですが、突き詰めて考えれば、歴史や文化を現代の暮らしにどう活かすかを、我々は試されているんだと思います。

 

 

 

 報徳思想の有名な言葉に、「経済のない道徳は寝言」「道徳のない経済は犯罪」というのがあります。人間の欲を認めつつ、心も金も同時に豊かにはぐくもうという二宮尊徳の実践思想は、江戸末期の破綻した農村に活路を与えました。貧しい農村に生まれ、必死に農村を立て直し、その手腕が幕府の目にも止まって56歳にして幕臣となった尊徳は、吉田松陰や坂本竜馬のような幕末ヒーローとは対照的な評価を受けていますが、やがて渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫といった近代以降の実業家たちに多大な影響を与えました。

 

 

 榛村社長によると、中国の知識階級では、行き過ぎた市場経済主義を省みて、いま一度“道徳”を見直す動きがあるそうで、しかも、それは孔子ではなく二宮金次郎だとか。彼らはトヨタや松下の創業者が報徳思想を旨にしていたことに着目し、経済を道徳より下に見る孔子の思想は非現実的だと考えているようです。

 「北京大学の日本文化研究所で報徳思想を研究していると聞いて、不思議に思っていたけど、そういうことだったのねぇ」と美智子先生も合点が行ったようです。

 

 

 心も金も同時に豊かにはぐくむ。文化財がもたらす心の効用を、地域経済に生かす方法を、保護派も反対派も冷静に見つめ、地域に暮らすもの同士、知恵を出し合って考える・・・シンポジウムや審議会は、本来、そういう場であるべきでは、と思いました。

 

 

 

 それにしても、松井先生の展覧会をひとりで観に行くハメになったのは、こんな勉強の機会と出会うためだったと思うと、なんだか物凄い拾いモノをした気分。シンポジウム会場では、美智子先生の紹介で、去年、映画『朝鮮通信使』制作で史料ポジのレンタルに多大なご協力をいただいた常葉美術館の日比野秀男館長にご挨拶もできて、倍増の喜び! 松井先生と美智子先生には感謝の思いで胸一杯です。

 

 

 帰路、「モノを書く人は、家でじっとしてちゃダメよ。外に出て自分で見聞きして感じることが大事。何か面白いモノを見つけたら、また連絡してあげるわね」と美智子先生。この言葉が、今日の一番の拾いモノだったかもしれません!

 

 

 


ポニョと通信使の町

2008-09-24 20:34:15 | 旅行記

 青い壁が海に突き刺さっているようだ。その上に小さな庵がひとつ建っていた。鐘の音が空から響いてくる。一人の僧が、船を漕いで出迎えに来て、白い盆を渡した。盆の上には願掛けのおふだがあった。

 ここは海潮山盤台寺といい、往来する旅人の海上の安全を祈願する代わりに、米や食糧をもらっているという。前の通信使一行もそうしたので、我々も米一俵と紙、果物を与え送った。

 聞けば、この寺の僧は、西から来る人には西風を祈り、東から来る人には東風を祈るという。日本人はこれを「盤台寺祈り風」というそうだ。はなはだ都合のいい話である。

 

 

 

 夕方、鞆の浦に着いた。港の周辺には民家が密集していて、その数は700戸近くあった。港には絹の幕が張られ、埠頭には色鮮やかな船が並んでいる。見物人たちは街頭や路地を埋め、船に乗った一行が行ったり来たり、引きも切らないありさまである。弁当を持ったり、鍋釜まで乗せている船をあるところを見ると、ずいぶん遠くからも見物に来ていることがわかる。

 

 

 復路、日が暮れるときに鞆の浦に来て停泊した。正使が福禅寺を見学に行くというので副使とともに登って見学した。楼閣は鞆の浦の東南の崖の上にそびえ立つ。雲が通り過ぎ、月が上がると、蒼い波が絹を広げたようで、千百隻の帆かけ舟が岸の下に点々と灯火を掲げている。下界に星が光るようで、まるで仙人になって天に昇った気分になる。

 

 

 

 

 

 昨年、執筆した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の台本の一部です。昨日、ネットのニュースを読んでいたら、“ポニョの舞台でモメている”という項目を見つけ、急に思い出して読み返してみたのでした。映画では、林隆三さんが通信使になりきって朗読してくださった一文です。

 

 過去ブログでも書いたとおり、『朝鮮通信使』の中でとりわけ思い出に残ったロケ地が広島県福山市鞆の浦でした。地元の人々から、宮崎駿さんが家を借りてこの街を舞台に新作の構想を練っていたと聞き、宮崎アニメはあまり詳しくないんですが、鞆の古い町並みから想像して、千と千尋みたいな作品になるのかなぁと想像しました。

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 ニュースに書かれた“もめごと”とは、地元NPOが「ポニョの舞台になった町として鞆をアピールしよう」と頑張っているのに、なぜか福山市が及び腰で、「宮崎監督がこの街を舞台にしたなんて公表しているわけでもないのに、勝手にそんな町おこしはできない」と水を差しているとか。その背景には、江戸時代の遺構が残る鞆の港を埋め立てて高架橋を建設する計画があり、景観を守ろうとする市民と裁判沙汰になっていることを、不必要に注目されたくないというのがあるそうです。

 

 

 

 昨年2~3月の朝鮮通信使ロケ時には、「訴えを起こしている」、5月の公開時には「棄却されたので世界遺産登録を目指す」という話を聞き、今年3月、再び訪ねた時は、署名運動が始まっていて、NPO代表の方も「もうすぐ宮崎さんの映画が完成する。そうなれば鞆の価値を全国にアピールできる」と熱く語っていました。

 

 

 そんなこんなで、映画が公開されたら早く観にいかなきゃと思いつつ、なかなかタイミングがなく、ゆうべ、ネットニュースを見てすぐさま思い立ち、MOVIX清水までひとっ走り。やっと観ることができました。

 確かに市が言うように、実写じゃないので鞆の浦を舞台にしていると断定できませんが、港の風景や軽自動車じゃなきゃ通れない街中の入り組んだ細い道、海沿いに蛇行する道などは、鞆の浦そのものといった感じ。TOMOってスーパーの名前も、宮崎さんのペンサービスかしらと思ったりして・・・。

 

 

 『朝鮮通信使』では崖の上には寺があり、通信使がやってきて、日本の風習に戸惑ったり、雲上人になった気分で感動したりと、さまざまな異国体験をしたことを描きましたが、『崖の上のポニョ』では崖の上に住む人間たちに温かく迎えられたポニョが、人間になりたいと願うあまり、とんでもない天変地異を引き起こす。それでも人間たちは慌てず騒がず、自然に身をゆだねるような懐の深さを示します。大人はこうあってほしいという理想を、宮崎さんは描いたのかなぁと思いました。

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 鞆の浦でロケをしていた時、連日通った「おてび」という食堂があります。鞆の名物である小魚の干物がおいしく、塩ラーメンが絶品! おかみさんは地元の人も観光客も分け隔てなく迎えてくれます。しかも、ロケから1年以上経った今年3月、一人でフラッと入ったら、「今日は何の撮影?」とお馴染みさんを迎えるように、ごく自然に声をかけてくれたのです。

 

 

 店には、映画やテレビドラマのロケで来た有名スターやタレントのサインや写真がびっしり貼ってあり、私なんぞ“ギョーカイ人”の箸にも棒にも引っかからない薄~い存在のはずなのに、おかみさんはちゃんと覚えていてくれたんですね。「ああ、今日は雛祭りを観に来たんですよ」と、私もごく自然に、なじみ客みたいな顔で応えました。

 鞆の浦の郷土史家・池田先生のお宅へお邪魔したときも、地域の漁師さんや町の世話役の方々が、埋め立て問題では対立する立場ながら、一緒に飲んで騒いで、私も住民みたいな気分で楽しく過ごしました。瀬戸内らしい温かさと、風待ち港らしく外来の風をどっしり受け止める気質が、この街の人にはあるんだなと感じました。

 

 

 

 

 裁判がどうなるかは見当もつきませんが、ポニョを町おこしに生かし、景観を守る運動を盛り上げたいというNPOの気持ちはよくわかります。でも、ポニョの世界観を鞆の浦の実景に無理にはめようとしなくても、鞆には、歴史的に価値あるものがたくさんあります。私にとっては、おてびのおかみさんや池田先生のような、一度か二度立ち寄っただけの遠来の客を、家族のように自然体で迎えてくれる人も無形の価値。「また行きたくなる」と思う、最大の力って、こういった人の力じゃないかな・・・。

 もちろん宮崎アニメブランドの力はとてつもないパワーになるでしょうが、ゲゲゲの鬼太郎と鳥取県境港市みたいに作者と町が本当に密接なケース以外は、無理強いするのはどうかな、という気がします。宮崎アニメらしい無国籍感を大事にすべきではないかと。

 

 

 『崖の上のポニョ』は、異形の者や、見た目に危なっかしい子どもを自然体で受け止め、見守る大人たちの懐の価値を伝える作品だと思います。それは、私が鞆の浦で体験したことにも通じます。その意味で、この作品は、やっぱりこの町が舞台なんだなと実感できるのです。ポニョのモニュメントとか旗がなくても、誰もがそんな実感が持てる町になるのが理想なんですけどね。


縁を大切にする生き方

2008-09-23 12:17:45 | アート・文化

 昨日(22日)は、金谷の松井妙子先生のアトリエをお訪ねし、27日から始まるお茶の郷博物館での展覧会準備に追われる先生に激励&10月25日のしずおか地酒サロントークセッションのご案内をしてきました。先生は、吟醸王国しずおか映像製作委員会の吟醸会員にもなっていただいている、大事なスポンサーのお一人。パイロット版は、本来、企画書一枚で会員になってくださった方への感謝&経過報告と、新規会員獲得を目的に作ったものですが、すべての会員や、関心がありそうな方にピンポイントに声をかけて観ていただく機会がなかなか作れず、歯がゆい思いをしているところです。

 

 経費がかかる公的施設での上映は、10月25日のアイセル21が最後になります。その後は、会員さんのもとへ戸別訪問するなどして、なんとか全員の方にご報告をと思っています。

  

 

 多くの人の手を借りて作り始めた作品ですから、手を差し伸べてくれた人へはできる限りの誠意を尽くして作品作りを続けたいというのが理想です。無関心や否定的な人を無理に振り向かせるエネルギーよりも、手を差し伸べてくれた人を裏切らない努力のほうがエネルギーの掛け方としては正しいかな、とも。

 

 

 

 松井先生との対話の中で、「自分の名前や手法や業績にこだわり過ぎると、人付き合いを狭くする」というお話がありました。世間の注目を集めれば、人は、つい、自意識過剰になるもの。酒の世界でも、クリエーターの世界でも、一度でも評価を得ると自分のモノサシを絶対視し、自分が裁判官にでもなったつもりで他人を“裁こう”とする人がいます。

 

 

 中には、まともに観ないで裁こうとする人もいる。無関心でいてくれるほうがずっと楽です。さまざまな裁きの洗礼を受け、精気のない私を見て、松井先生は 「人の縁を大切にする生き方には、裁判官はいらない。弁護士の心が必要よね」と温かい言葉をくださいました。・・・作家生活を30年以上続け、つねに評価と裁きの対象に身を置いてきた先生の言葉には重みがあります。

 

 

 

 

 

 夜は、浜松で、昭和50年から浜松ホテルにごり酒の会を毎月、一度も欠かさず、400回以上続けているホテルオーナーの諸川雅一さんを取材しました。継続・回数ともに、ギネスものの酒の会とのこと。私も過去に1~2度、誘われて参加したことがあります。酒通の集まりというよりも、財界人の社交場といった雰囲気でしたが、400回も続いているというのは、「人の縁を何よりも大切にしてきた」諸川社長の人徳でしょう。

 

 にごり酒というのは、昭和40年代に、かの坂口謹一郎博士が京都伏見の増田徳兵衛商店に試験醸造させ、太鼓判を押した『月の桂』のこと。有名政治家の甥であり、お若い頃から政界・財界の超一流の人脈を持ち、その縁を大事にしてきたという諸川社長だけに、「縁の重み」も人一番体感されてきたのだと思います。

 

 

 

 私のようなペーペーのライターだって、人の縁に育てられ、ここまで生きてこられました。新しいことに挑戦するときは、その重みをいっそう感じます。

 挑戦者には落ち度がたくさんあり、失敗もつきものです。松井先生、諸川社長のお話を通じ、懸命に努力する挑戦者には、落ち度や失敗を受けとめ、必要があれば弁護する懐を、自分も忘れないように持とうと思いました。

 

 

 

 繰り返しのご案内になりますが、松井妙子染色画展は、9月27日(土)から11月3日(月・祝)までの約1ヵ月間、島田市お茶の郷博物館で開催します。染色作家生活32年の中から、厳選した40点が再結集。松井先生の分身ともいえるフクロウ、カワセミ、魚などをモチーフに、自然や生き物や故郷への賛歌を温かく謳い上げる作品ばかりです。

 

 

 松井先生の大ファンである磯自慢酒造の寺岡洋司社長も、ご自身のコレクションを出展されるそうです。いつか松井妙子ラベルの磯自慢が出来るといいな!!

 先生は、27日(土)、10月5日(日)、11日(土)、19日(日)、25日(土)、11月2日(日)、3日(月・祝)に会場へいらっしゃる予定です。ぜひ足をお運びください。