杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡そだちの造り手たち

2008-07-30 18:02:15 | 農業

 昨日(29日)は過去ブログでも紹介した静岡県の銘柄牛『静岡そだち』の生産者を訪ねました。奥浜名湖・猪苗代湖の西、三ヶ日町下尾奈で酪農を営む堀尾晴行さん。200頭近い黒毛和牛を育てています。

Dsc_0012

 

 『静岡そだち』は、JA静岡経済連が県内酪農家の所得向上と、静岡県独自の高品質銘柄牛を創り上げる目的で、平成5年から育成に取り組んでいるブランド。黒毛和牛の生後30ヶ月齢ほどのメスで、(社)日本食肉格付協会で等級3等級以上の格付を得たものとし、さらに経済連の指導員や銘柄認定委員がお墨付きを与えたものだけに認められます。この経済連による指導というのが、想像以上に厳しくて、堀尾さんたち生産者のもとには週1~2回は巡回指導にやってきて、牛の体調はどうか、牛舎内は清潔にしているか、餌やりは適正か等など、重箱のスミをつつくがごとく、細かくチェックするそうです。

Dsc_0056 

 美味しい牛肉は、配合飼料と粗飼料を牛の成長に合わせてバランスよく与え、健康に育てることがポイント。静岡そだち最大のウリは、経済連が研究開発したオリジナル配合飼料「クイーンビーフ」で、牛を大きくする大麦と、肉に甘みを持たせるとうもろこしを主体に、企業秘密の原料をブレンドし、口の中でとろける柔らかさと甘みがあるそうです。健康にいいからといっても、牛の舌に合わない栄養剤みたいな餌じゃ食べてもらえないんですね。

 

 静岡そだちを育てているのは、経済連と委託契約を結んだ県内11軒の委託農家と、31軒の認定農家だけ。とくに11軒の委託農家というのは、手がける牛すべてを経済連のマニュアルに基づいて育成管理し、1頭残らず静岡そだちに認定されるように育てなければならないのです。経済連とは1頭あたりいくらで契約するので、静岡そだちの基準に認定されない2等以下になってしまったらタイヘン。産地偽装や等級偽装などがニュースになってからは、よけいにピリピリムード。協働事業とはいえ、経済連と酪農家の真剣勝負、といった雰囲気です。こういう緊張感をキープし続けられる環境こそが、安心安全の信頼につながり、ブランド力を高めるのでしょう。

Dsc_0053

 

 堀尾さんは、平成5年のスタート時から「静岡そだちに賭けよう!」と腹をくくり、九州や東北など種牛の産地もこまめに回り、委託農家同士で研鑽を重ねながら、「静岡そだち生産者として恥ずかしくない牛やになろう」と努力し続けています。とくに仕入れた直後から3ヶ月ぐらいは、仔牛が風邪を引きやすく、夏場は熱中症も心配。ちょっとした微熱や食欲減退も見過ごさないよう、細心の注意を払います。「最初の年は一日24時間、牛舎から一歩も出られない時期が続いたね」・・・初めて赤ちゃんを授かった夫婦みたいな緊張感だったんでしょうね。

 

 今日(30日)は浜松の遠鉄百貨店地下食品売り場にある高級食肉専門店「柿安本店」を取材し、実際に堀尾さんが育てた静岡そだちが売り場中央にドーンと飾られているのを見てきました。店には個体識別表や生産履歴証明書も用意してあります。最高級ブランドの松阪牛や近江牛に比べたら、お値段的にはリーズナブルですが、専門家も「この味でこの値段?」と驚くほどの質、との評判です。

 

 案内してくれた経済連小笠食肉センターの柴本智彦所長は、「静岡県=食肉の産地というイメージはまだまだ低いが、飼育技術はトップクラスで、専門店の評価も高い。静岡の生産者は本当に真面目で一生懸命やってくれますからね。あとはブランド力をどうつけるかです」と腕を組みます。まるで静岡の蔵元の話を聞いているみたいで、思わず「静岡吟醸と一緒ですね!」とうなった私。静岡そだちのローストビーフに冷えた静岡吟醸・・・最高の組み合わせだなぁ、いや暑い時期にあえてぬる燗にしゃぶしゃぶ、なんてのもイイ・・・月末で懐が寂しく、柿安の牛肉弁当が買えず、帰路の電車内ではコンビニおにぎりを頬張りながら、ひたすら妄想し続けました。

 

 静岡の、大手ブランドに匹敵あるいはそれ以上の高い技術を持つ真摯な造り手の存在を、どうやってまっすぐに届けられるだろう・・・またひとつ、重みのある宿題をもらった気がします。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枯山水の創造性

2008-07-28 19:59:00 | アート・文化

 私は大学時代、東洋美術史(仏教美術)を専攻していたので、京都や奈良へは仏像や寺院建築や日本画を観に行く機会が多いのですが、都として繁栄していた時代背景のせいでしょうね、奈良は天平以来の仏像に目を見張るものが多く、京都は中世・室町以降の庭園の美に惹かれます。24日(木)に受講した佛教大学四条センターの講座「庭園の美~枯山水の精神性」の講師・作庭家重森千靑氏のお話で、そのことを再確認しました。

 

 枯山水庭園というと、禅寺の石庭に代表されるような、石や砂だけで表現された抽象的なデザインを想起しますよね。意味はというと、仏教的な解釈や精神論を聞かされることが多く、しばらく座ってじっと眺めていると、なんとなく禅の心が解ったような気分になります。そんな面持ちの若者や外国人、よく見かけますし、私も20代のころは、枯山水庭園ばかり巡って禅の気分に浸って満足してた時期がありました。

 

 枯山水という手法は、禅宗が広まるはるか前の、平安後期に書かれた世界最古の庭造りマニュアル『作庭記』に登場します。重森氏によると、水のないところにわざわざ石を組んで蓬莱神仙の世界を表現する枯山水的な意匠は、飛鳥期の滋賀県園城寺や平城京東院庭園に早くも見られるそうです。

 

 仏教の広がりとともに、より精神性の高い枯山水的意匠が発展しましたが、実際のところ、精神論だけで片付く話ではなく、寺にとって、植栽や排水工事が必要な池泉庭園を造るのは莫大な経費。とりわけ、応仁の乱の後は、多くの寺院が本堂など重要な箇所の再建を優先し、庭造りまで手が回らなかったというのが実情で、池泉庭園よりもはるかにコスト安で短期間にできる枯山水庭園が受け入れられたわけです。

 寺側にしてみたら、池泉の持つ自然美を何とか甦らせたい、カネがないからといって貧弱な庭にはしたくないというのが本音でしょう。一方、作庭家にとって、限られた条件のもと、高度な抽象性と具象性を凝縮する作業は、キツイ反面、やりがいもあったと思います。

 

 戦争というのは、すべてをぶち壊す一方で、焦土から立ち上がろうとする人間のとんでもない創造力や生産力を引き出す原動力になるんですね。もちろん戦争を肯定するつもりはありませんが、現代でも、軍事用に開発されたインターネットが世界を一変させたように、ある種の危機感というものが人の能力を進化させるという側面は確かにあります。そして、表現活動をしている者には、人には手の届かない、実際には見ることのできないものを創造し、表現したいという強烈な欲求があります。映像における高度なバーチャル表現はその典型です。

 

 

 重森氏によると、日本の作庭家は、自然の豊かな風景観を表現するだけでなく、自然の形態を保ちながらも、日本にはない、中国大陸にあるような山紫水明の縮景を加え、実際にはあり得ない超自然的な景観も表現しているといいます。

 これは、室町期に全盛を迎えた水墨山水画の影響や、大陸に渡った僧たちの見聞録が加味された結果。たとえば京都を代表する枯山水庭園として名高い大徳寺大仙院庭園は、雪舟の四季山水図の構図によく似ています。作庭家が、優れた水墨画の二次元空間を、大地に庭として三次元表現したくなる気持ち、解りますよね。

 

 特定の人しか大陸に渡ることができなかった時代、憧れの自然風景観を立体的に創り出し、その空間を実感として味わいたいという強烈な欲求・・・今ならさしずめ、宇宙旅行をバーチャルでも体験したいという欲求に近いでしょうか。

 

 寺側の思惑は別として、現場の作庭家が、「絵の中でしかお目にかかれない風景を見せたい」「水墨画の世界をどれだけカタチにできるか挑戦したい」と願っていたかもしれない、と想像すると、枯山水という表現が実に人間的でクリエイティブな表現に思えてきます。

 

 

 

 凡人が、石と砂だけの庭をアタマで解釈しようとしても、なんちゃって禅の気分で終わるのが関の山。今の私には、作庭家の表現活動として観るほうがすんなり入って行けそうです。それは、私が今、酒のドキュメンタリー作りを通して「多くの人が見たことのないものを見せたい、伝えたい、どこまで見せられるか挑戦したい」と強く願っているせいかもしれませんが…。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文禄・慶長の光と影

2008-07-27 09:16:43 | 朝鮮通信使

 23日(水)~24日(木)は京都で歴史学講座を受講しました。テーマは、23日は「日本歴史における光と影~秀吉政権と文禄・慶長の役」、24日は「庭園の美~枯山水庭園の精神性“成り立ちと美の構造”」です。

 

 

 

  

 学生時代は出席表を下宿仲間に頼んでサボることばかり考えていましたが、この年齢になって初めて勉強する楽しさや意味をかみしめるようになりました。そういう人、少なくないでしょう。私の周りにも、仕事を辞めて大学に入り直す人もいたり、子どもと一緒に語学留学する人がいます。アメリカにいる妹は、結婚後、30歳を過ぎてから向こうの州立大学に入って看護師になり、就職した病院では夜間ICU勤務をこなし、病院側の推薦で大学院へ進み、麻酔看護師の資格も取りました。彼女の頑張りを見ていると、生涯学習という言葉が、時間やお金のあるシニアの余暇活動ではなく、現役世代の自らの可能性を広げる生き方の一つだと実感します。

 

 

 

 

 

 それに比べると、私の京都通いは仕事の合間の余暇活動に過ぎませんが、今、通っている佛教大学四条センター(四条烏丸)の社会人講座は、11000円で誰でもいつでも受講でき、しかも申し込みは当日会場。。四条烏丸の交差点角という街のど真ん中にあり、ほぼ毎日、2~3講座を常時開催しています。200人はゆうに入る広い講堂で、飛び込み参加も問題なしです。

私のようなフリーランサーだと、取材や撮影の予定がキャンセルになったとか、午前中で打ち合わせが終わるとか、夜しか取材がない、なんて時がたびたびあるので、思いついたときに、パッと飛んで行けるのです。

 

 

 

1000円払えばだれでも当日受講できるという手軽さは、静岡ではなかなかありません。自治体の教育文化政策などを取材しても、ハコものを作ったり、有名芸術家や劇団を呼んで派手な公演を打つことはあっても、住民が日常、気軽に参加できるような学習や体験の機会はホントに少ない。民間カルチャー教室や公民館の講座は、定員も限られ、事前申し込みやら会員登録やらで手続きが煩雑です。大学や美術館・博物館・図書館あたりにもう少し頑張ってもらいたいと思うのですが・・・。

 

 

 

 

佛教大学四条センターの講座を知ったのは、昨年、高麗美術館との提携講座で開催していた「朝鮮通信使」シリーズ講座がきっかけでした。

今回の「秀吉政権と文禄・慶長の役」は、朝鮮通信使とは逆の視点で考える興味深いテーマ。映像作品『朝鮮通信使』の脚本執筆時には、朝鮮半島を荒らした秀吉軍の蛮行を強調したような表現をしましたが、歴史は複眼・両眼で見るべしとの鉄則で行けば、秀吉側の事情ももう少し考える必要があります。彼の野心が招いた愚かな侵略戦争の一言で片づけてしまうのは、朝鮮通信使を単に友好使節団の一言で片づけるのと同じように、歴史の見方として浅いような気がするのです。

 

 

今回の講師・笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、軍事的に見た秀吉軍の実情とその後の関ヶ原への経緯について、人間行動学に基づいたきわめて合理的な解説をしてくれました。かいつまんで紹介すると、

 

●秀吉が全国統一を成し得た要因の一つは、秀吉軍の補給力(logistic)。支配下に置いた領土で太閤検地を行い、太閤検地蔵入地(直轄地)を必ず設け、さらにその先を攻め落とす際、補給地(ベースキャンプ)として活用。この手法で登山ルートを広げるように領土拡大を成した。補給を重視したのは、野戦型の信長や家康にはなかった発想。この戦術で、文禄の役(1592年)では陸上戦で明軍を圧倒した。

 

 

●明軍は大砲中心の部隊。秀吉軍の小回りの利く鉄砲と、大陸にはない日本刀の切れ味の凄さに明軍・朝鮮軍は恐れおののいた。

 

 

●陸上戦では優位に立ったが、命綱である海上の補給路を、李朝提督・李舜臣に断たれ、制海権を失い、戦線膠着。いったん講和を結ぶことに。

 

 

●講和が決裂し、慶長の役(1596年)ではまず巨済島沖の海戦で朝鮮水軍を撃破し全羅道を制圧。李舜臣は前回の活躍が同僚のねたみを買って戦線離脱していた。

 

 

●朝鮮軍はあわてて李舜臣を呼び戻す。漢城を目指して進撃していた秀吉軍は、李舜臣復帰の知らせに躊躇し、酷冬の到来を前に防衛重視に転じる。

 

 

159712月暮れ、釜山から北東50キロの蔚山に築城。加藤清正が城主となるが、城の竣工日に明・朝鮮連合軍57千に攻め込まれ、清正は兵2千で籠城。2日分の兵糧しかなく飢餓状態となったが、年明け3日に2万の援軍が到着。明の史書によるとこの戦いで明軍2万が討ち死にし敗走。ただし秀吉軍の現地武将らは追撃せず。好戦派だった清正も、過酷な籠城体験を機に講和派へ転身、蔚山城放棄に同意。

 

 

●現地武将の宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、黒田長政ら13名が、本国の石田三成らに送った秀吉への書状には「これ以上追撃せず。戦線縮小を現地の決定として通告する」とあった。秀吉に対し、要請ではなく決定を通告した(できた)のはなぜか。現地に裁量権が与えられていたのか? 研究は未だ進んでいない。

 

 

●三成は秀吉に現地武将の勝手なふるまいを訴え、蜂須賀、黒田の2名を首謀者とし、両名の領地を没収。秀吉は15985月から病床に伏し、818日に亡くなる。蔚山城放棄の処分問題はうやむやに。これも未だに研究は進んでいない。

 

 

●豊臣家重鎮の前田利家が亡くなったのを機に、993月、加藤清正、蜂須賀家政、黒田長政ら有力7将が三成襲撃クーデターを起こす。三成は家康のもとに逃げ込んだとされるが、実際は伏見城の自分の曲輪屋敷に逃げて難を逃れた。伏見城に手が出せない7将は城外に布陣。家康が仲裁に入り、三成に引退勧告。息子結城秀康に三成を佐和山まで護送させる。ここで7将の軍事クーデターを容認したら後に支障が出るとの政治的判断だった。蜂須賀、黒田の領地は戻され、名誉は回復。この7将は関ヶ原で東軍についた。

 

 

 

 

 

 なお、家康が朝鮮に出陣しなかったのは、彼の深謀遠慮だとの見方もあり、私もその論点で脚本を書いたのですが、笠谷教授によると、朝鮮へは九州、西国、四国と朝鮮半島に近い者から優先的に出兵させられ、家康が出兵しなかったのは単に遠かったから。逆に小田原攻めのときは最も近い家康が先陣を務めた。それが当時の軍事上の常識だった、とのこと。言われてみれば道理かもしれませんね。

 

 

 秀吉が大陸へ野心を向けた背景には、信長のアジア統一思想があったとされています。スペインやポルトガルといったヨーロッパ勢の世界侵略の勢いを感じた信長が、アジア一丸となってこれに対抗すべしと考えた。16世紀の日本人としてみたら、やはりスケールの違う異能の戦略家です。秀吉はそれをどうやって実現するかを現場で考える実務・戦術家なんでしょう。

 

 

 

一方で、朝鮮に出陣した武将たちは、よかれあしかれ当時の常識人レベル。「朝鮮や明とは商売でうまくつきあって行きたいのに…」と思う商人上がりの小西行長や対馬の宗義智をはじめ、豊臣家に名を売りたい、功績を認めてもらいたい、領地を広げたい等、本音の部分で様々な思惑がうごめき、モチベーションもばらばら。いくら陸上戦で優位に立っても、慣れない異国での戦いで、「うわさじゃ明軍30万が攻めてくるらしい」「李舜臣が出てくるなら無理したくないなぁ」なんて弱気になるのも無理ありません。

トップのあまりにも突出した思想に現場がついていけない、現場のモチベーションがそろわず事業が膠着するという例は、現代の企業経営などでも時々聞く話ですよね。

 

 

 

今回、秀吉の朝鮮侵攻は、歴史学の上でも華やかな太閤伝の暗部として避けられ、冷静な分析や研究が進んでいないということを知りました。蔚山城放棄と処分問題に関する記述は、朝鮮から被虜として連れてこられた朱子学者の姜沆が『看羊録』に残しています。関ヶ原の勢力図にかかわる重要な出来事が客観的な立場で書かれているにもかかわらず、この史書を重視する日本史学者や歴史ファンがどれくらいいるでしょうか?

 

 

歴史を読み解くときは、さまざまな立場の者が残した史料をできるだけ丹念に調べ、その記述に人間行動学的な判断を加える必要があります。歴史人物の人間行動学的分析は、年齢やキャリアを重ねた者には実感として伝わり、若い人には教科書の記述とは違う面白さを感じさせてくれるでしょう。

私も、もしチャンスがあったら、秀吉の朝鮮侵攻と徳川政権の成り立ち、そして朝鮮通信使の存在意義を、もう少し人間的な面白さや実感を伴った読み物にしてみたいと思っています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寄付と補助

2008-07-26 10:55:59 | NPO

 今週は自宅デスクの前に座る時間がほとんどなく、今日(26日)やっとブログにログイン。更新のない日も訪ねてくださる方がいて、嬉しく思います。ありがとうございます。この1週間、ネタのオンパレードなので、少し頭を整理し、小分けに紹介していきます。

 

 22日(火)は静岡県NPO情報誌『ぱれっとコミュニケーション』の取材で、函南町平井のNPO法人芽ぶきを訪問。今年はNPO法が制定されて丸10年経ったことから、10年前、第一世代としていち早く法人化した団体を訪ねてこの10年を振り返ってもらうという取材です。芽ぶきは平成7年から任意団体で福祉サービス活動を始め、11年に法人化第1号として県に登録。同行したのは、やはり同時期に静岡県のNPO法人化第一号認証を受けた活き生きネットワーク杉本彰子さん。ぱれコミの発行総責任者でもあります。

Img_3776

 

 福祉系NPOの場合、もとはボランティア活動がベースになっていた団体が多いので、法人化によって組織力を強め、経営の透明性・効率性を高め、法人団体としての社会的信頼と経営の安定化を図る…と口では言っても、一朝一夕にはいかないのが現実。日本には海外のようなドネーション(寄付)の習慣が浸透していないので、経営的に厳しいNPO団体がほとんどだそうです。そんな中、まがりなりにも10年、安定経営に努め、周囲の信頼を得ている芽ぶきや活き生きネットワークの存在は、静岡県のNPO活動の質の高さを証明しているようで、取材者のはしくれとして頼もしく感じます。

Img_3783

 

 芽ぶきは、大手製薬会社を定年退職し、骨髄バンクのコーディネーターをしていた出口隆志さんが、妻と二人三脚で始めた訪問介護サービスからスタートし、福祉輸送の許可も取得し、函南と熱海の中間にある別荘地に介護センターを設けて、函南~韮山一円の利用者送迎を行っています。介護センターは、たまたま別荘地に独り住まいをされていた東京女子医大名誉学長だった太田八重子さんが全額寄付をされたもの。平成14年の完成直前に太田さんが亡くなり、その遺志を忘れないようにと、センターの名前は「太田八重子記念館・芽ぶき」にしたそうです。

 

 センター内は、ごくふつうの別荘の雰囲気で、利用者が、おともだちの家にでも遊びにきたという気軽さでくつろいでいます。周囲は自然豊かで散歩道も整備された一帯。お隣さんの庭樹の陰で暑さをしのぎながら、外の空気に触れてのびのびお散歩。デイサービス施設の環境としては申し分ありません。

 寄付行為が、特別な人間関係なしには成り立ちにくい日本では、貴重な事例かもしれません。介護施設を自前で建てた杉本彰子さんは、「ローンがないだけでも楽でしょう」とさかんに羨ましがっていました。

 

 日本で、寄付者に税制優遇のメリットがあるのは、認定NPO法人という、NPOの中でもハードルの高い条件をクリアできた法人のみ。国内で3万件以上あるNPOのうち、わずか74法人(0.2%)という少なさです(07年12月データ)。現在、超党派NPO推進議員連盟(加藤紘一会長)を中心に、条件を緩和し、認定NPO法人を増やそうという法改正が検討され、08年度中の改正を目指しているようですが、政治情勢いかんでどうなることやら・・・。

 

 

 

 

 私が作っている映画『吟醸王国しずおか』も80名余の会員寄付者の力に支えられています。昨年の今頃は、政府の中小企業対策や地域産業振興などに予算が付いたからと、補助金活用の話を勧められ、相談窓口を走り回っていました。しかしボランティア精神に基づいた活動を経営数値化することの難しさに直面し、初めから公費に頼るということ事態ちょっと違うなと感じて、とにかく自分が動いて汗する姿を見てもらって、それを純粋評価してくれる人の寄付を地道に募ろうと考え直しました。勇気の要る決断でしたが、表現活動をする上では気持ち的に自由になりました。

 

 

 

 社会的弱者のために心血を注ぐ彰子さんや出口さんの活動は、そんな悠長なことは言っていられないでしょう。映画づくりのような話と同列に語っては申し訳ないのですが、公的制度というものは、民間ボランティアが汗した後から付いてくるということが、お2人の話からもよく解ります。後追いでも何でも、制度化するのなら真に必要としている団体が利用しやすい制度にしてほしいですね。少なくとも福祉系NPOは、行政が対応しきれない地域の福祉課題を担う、社会に必要な存在なんですから。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有東木の草取り

2008-07-21 19:17:01 | 朝鮮通信使

今日(21日)は『静岡に文化の風を』の会の皆さんのお誘いで、わさび栽培発祥の地で知られる静岡市の有東木(うとうぎ)へ行ってきました。

Photo

 

 

 『静岡に文化の風を』の会代表・佐藤俊子さんとは、映像作品『朝鮮通信使』のロケで通信使の衣装を提供してもらい、実際に着付けも担当していただいたというご縁。

 15年前、金両基先生の呼びかけで芹沢銈介の作品を韓国に紹介しようという運動からスタートし、朝鮮通信使の研究や普及活動に長年尽力してきただけあって、通信使正使・副使の本格的な衣装(写真)も、自前でちゃんと作られたのです。

 

 金先生や佐藤さんには、本来ならば、『朝鮮通信使』制作に入る前からちゃんとご相談をし、いろいろとご指導いただければよかったのですが、いざ衣裳の手配に困ったり、シナリオづくりに息詰まってから慌ててご相談に駆け込んだ有り様。会の皆さんは、さぞ不快に思われたかと想像しますが、その後、佐藤さんは寒くてキツイ長時間ロケに、会のスタッフの方々と最後までおつきあいくださり、金先生はシナリオ添削に多大な貢献をされ、韓国語版の監修までしてくださいました。

 いきさつはどうであれ、自分たちが地道に研究し、声を発信し続けてきた朝鮮通信使という文化交流の存在にスポットが当たることなら、喜んで手を差しのべたいという、心ある判断と行動を示されたのだと思います。

 

 

 それから1年以上経ち、『朝鮮通信使』の制作現場に関わった人たちとは、今、『吟醸王国しずおか』を撮ってもらっているカメラマンの成岡正之さんを除いてほとんど接点が無くなってしまいましたが、ありがたいことに取材やロケでお世話になった外部団体の方々とは、ご縁をつないでいられます。私自身の、興味を持ったテーマや人物には粘着質のごとく追っかけるという職業病的な習性かもしれませんが、それを受け入れてくれる方々の広~い心のおかげ。なんだかんだ言っても、最後は<人>なんですね。

Img_3766

 

 

 『静岡に文化の風を』の会は、当初、日韓交流専門の団体かと思っていましたが、活動舞台は静岡の地域課題や福祉、教育など多岐に亘っています。

 有東木とのかかわりは会の発足から間もない13年ほど前から。じっくり時間をかけ、地道に人脈を築き、住民との連携を深め、現在は里に蝋梅の樹を植える活動を支援しています。

 

 

 

 今日は植樹した場所の草取り。そうとは知らず、わさび田の見学にでも行くつもりで呑気に構えていた私は、佐藤さんに、「気の毒だけど手伝ってもらうわよ」と、軍手と携帯用蚊取り線香を手渡されました。「草取りするの、好きなの、土に触ってると、ホントに気持ちイイ」と佐藤さん。ふだんから園芸に親しんでいるようですが、こんなに気持ちよさそうに草取りする人も珍しいなぁと思えるほど楽しそうです。

Img_3768_2

 

 そもそも有東木を梅の里にしようというのも佐藤さんのアイディア。佐藤さんのもとには、有東木地区の主だった方々が、表敬訪問するかのように集まってきて、「こうして街と里の人間同士が交流することに意義がある」としみじみ語っていました。最初は、「わざわざ草取りだけしに行くの…?」と思いましたが、佐藤さんが、里の人々のそういう声を受け止める心と行動を示されたことに気づき、草取りだけで行く、ということに意味があると思えてきました。

Img_3770

 

 有東木地区は、約70世帯220人弱の小さな里。中山間地の限界集落が抱える様々な課題に、同じように直面し、行政を取り込んだ対策が不可欠とされています。ときには、地元の意向や、応援する街の人々の活動とうまく折り合わないケースもあるでしょう。そういうときにも、最後にモノをいうのは、まっとうな判断と行動を示せる人のチカラです。

 

 

 

 『静岡に文化の風を』の会のことも有東木のことも、まだまだ知らないことが多いのですが、気持ちよさそうに草取りをし、他の人がギブアップしても、「まだ終わりたくないよぉ」と拗ねてみせ、地区の人々に感謝されている佐藤さんを見ていたら、人のチカラで変えられることが確かにある、と実感しました。チカラとは、才能ある個人に備わるだけでなく、人と人が交わって生み出されるということも。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする