杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

近江八幡~ヴォーリズの偉功を訪ねて

2019-06-24 10:55:18 | ニュービジネス協議会

 先月、静岡県ニュービジネス協議会東部部会のタウンウォッチングで、滋賀の近江八幡に行ってきました。近代日本に洋風建築をもたらしたウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の功績と起業家精神を学ぶというテーマ。静岡市葵区の静岡英和女学院旧宣教師館ミス・ハニンカムに実際に居住しながら、建物の維持管理や地域での利用促進に努める榎戸基人さん(トラヤテレビサービス㈱)の企画です。偶然ですが、私の英和時代の同級生榎戸真弓さんのご主人で、真弓さんはミス・ハニンカムの女主人として活躍中です!

 榎戸夫妻は「文化財を地域資源として利活用するために必要な知恵や工夫を、利用者目線を活かして考えたい」と全国のヴォーリズ建築管理者と相互交流を続けており、当日は基人さんのお膳立てで、公益財団法人近江兄弟社本部事務局長の藪秀実さんに、アンドリュー記念館(旧八幡YMCA会館)、ウォーターハウス記念館、ダブルハウス、旧八幡郵便局、一柳(ヴォーリズ)記念館、ヴォーリズ学園ハイド記念館&教育会館を案内していただきました。ニュービジネス協議会の機関誌に寄稿したレポートを、加筆リライトして再掲します。

 ヴォーリズ学園ハイド記念館&教育会館(近江八幡市)


「経済なき道徳は寝言」を実践したヴォーリズ

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、日露戦争最中の明治38年(1905)、24歳でYMCAの派遣英語教師として近江八幡の公立中学・高校(滋賀県立商業高校、彦根中学、膳所中学等)に赴任しました。放課後に開いたバイブルクラスが、英語習得に熱心な生徒たちの人気となりますが、宗教勧誘禁止の公立学校内でキリスト教の布教をしていると周囲の反発を買い、2年で教員契約を解かれてしまいます。しかしクリスチャンとなった教え子たちの支えもあり、キリスト教の伝道活動のため近江八幡にとどまりました。

 

 もともと建築家志望だった彼は、伝道活動の資金集めのため27歳でヴォーリズ建築事務所を設立します。財務課税上、伝道活動を『近江ミッション(のちの近江兄弟社)』という組織に分け、当時は珍しかったミッショナリーアーキテクトをリーズナブルに請負い、日本国内で活動するYMCAや宣教師から受注。「建物の風格は人間と同じで外見よりもその内容にある」を信条に、全国で約1600にも及ぶ建築設計に携わりました。

 代表的なものでは明治学院大学礼拝堂、大丸心斎橋本店本館、京都・東華菜館、関西学院大学キャンパス、軽井沢会テニスクラブハウス、神戸女学院、旧マッケンジー邸(静岡市)、静岡英和女学院旧宣教師館(静岡市)、日本福音ルーテル栄光協会焼津会堂等が挙げられます。

 話は逸れますが、私が英和在校時、親しみがあったのは、体育館の筋向かいにあった旧エンバーソン邸といわれる宣教師館で、宗教の授業を担当されていた木村先生がお住まいでした。もともと英和の創立者関口隆吉(初代静岡県知事・前々回ブログで紹介した〈広辞苑〉の新村出のお父様!)や徳川慶喜公の屋敷もあった場所で、慶喜公が東京へ戻られた後、キリスト教伝道活動のため静岡へやってきたカナダ人宣教師ロバート・エンバーソンの設計で、1904年に建設されました。ヴォーリズが初来日する前だったんですね。私が卒業した後、老朽化を理由に解体されかけましたが、当時の河合静岡市長が保存を決め、今は日本平に移築復元されています。

 

メンソレータムとメンタームの違いについて

 ヴォーリズは37歳のとき、当時不治の病として畏れられた結核治療専門の近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)を開設。40歳で近江セールス㈱を設立して建築部材・家具・楽器等の輸入販売を手掛けます。このとき始めたのがメンソレータムの輸入で、創業者で篤志家でもあるA.A.ハイドから直接ヴォーリズに極東地域での独占販売権(のちに製造権も)を与えられたそうです。

 今回、近江兄弟社本社で当時のパッケージの復刻版を購入したのですが、商標は「メンターム」です。

 1973年、近江兄弟社は経営不振によって会社更生法を申請し、メンソレータムの製造販売権を手放すことになりました。会社はその後、大鵬薬品工業の支援を受けることになり、メンソレータム製造販売権をアメリカ本社に再申請しましたが不可。1975年にはロート製薬に移ります。主力商品を失い、再建の道が閉ざされかけた近江兄弟社に大鵬薬品工業の小林幸雄社長が1000万円を贈呈し、「薬業史飾る男のロマン」として報道されました。

 同業他社の善意に発奮した近江兄弟社は、このお金を運営には使わず “大鵬基金” とし、以前からメンソレータムの略称として商標登録してあった「メンターム」で自力再建したのです。大鵬基金はその後、近江兄弟社の地域ボランティアや災害復興支援活動等に広く活用されているそうです。

 1988年にはアメリカの本社がロート製薬に買収されてしまったため、メンソレータムは完全にロート製薬のものとなりましたが、近江兄弟社のメンタームは純度の高い白色ワセリンを配合するなど創業当時の伝統製法を継承し、メンソレータムよりもお肌に優しくお値段も手ごろでいい!というファンが多いそうです。かくいう私も、メンソレータムとメンタームの違いをよく分からないまま、なんとなく〈製造元・近江兄弟社〉の表示に惹かれて今までメンターム派でしたが、今後は自信を持ってメンタームを買わせてもらいます!

 

戦後日本の復興に果たした功績

 ヴォーリズの話に戻ります。近江ミッションの活動ではヴォーリズの妻満喜子が教育文化事業に注力し、教会会館併設の幼稚園、農繁期託児所、女学校、近江向上学園(工場で働く従業員のための定時制学校)、そして現在のヴォーリズ学園(近江兄弟社高校・中学校)へと引き継がれています。

 満喜子夫人は子爵一柳末徳の娘でアメリカ留学経験を持つ才女。兄の一柳恵三が邸宅設計をヴォーリズに依頼したときに知り合い、華族と外国人の婚姻には高いハードルがあったものの、恵三の妻の母にあたる廣岡浅子が応援し、ヴォーリズ38歳のときに結婚しました。NHK朝ドラ『あさが来た』のモデルになった大同生命の本社ビルも、もちろんヴォーリズ建築。大正末期の最先端オフィスビルとしてランドマークになったそうです。

 

 日米開戦前、在日アメリカ人宣教師の多くは帰国しましたが、ヴォーリズは迷わず日本への帰化を選択。終戦直後、近衛文麿元首相の側近井川忠雄からマッカーサー近衛会談の橋渡し役を依頼されます。

 井川は、廣岡浅子を師と仰いだクリスチャン。ヴォーリズは井川に「マッカーサー元帥が日本の信頼を回復できる何より価値のある天皇の一言を入れた宣言」案を提示。さらにヴォーリズの旧知の宣教師の子息だったGHQ高官サミュエル・パートレットを介し、マッカーサーにその意が届き、天皇を戦犯ではなく人間天皇として受け入れる道筋の一因になったとされます。ヴォーリズは1958年、近江八幡市の名誉市民第一号となり、1964年に82歳で永眠しました。

 

文化財の活かし方

 近年、ヴォーリズ建築は再評価され、数多くの建物が国有形文化財の指定を受けています。近江八幡市では期間限定での特別公開やヴォーリズ建築ツアーを開催。『阪急電車―片道15分の奇跡』『君の膵臓を食べたい』『センセイ君主』等の近作ヒット映画でもヴォーリズ建築の学校や教会がロケに使われています。とくに昭和12年に設計された滋賀県豊郷町の豊郷小学校は〈白亜の殿堂〉〈東洋一の小学校〉とも呼ばれる名所で、人気アニメ『けいおん!』のモデル校としてアニメファンの聖地に。つい最近、WOWOWで観た『センセイ君主』ではロケに使われた神戸女学院のヴォーリズ建築を堪能できました。

 

 有形文化財となったミス・ハニンカムに住む榎戸夫妻によって知る機会を得たヴォーリズの功績。文化財の建物で実際に暮らし、維持管理していくには、機能性に富んだ現代住宅の快適さとは違う価値の理解や、ヴォーリズの遺志を継承する強い意思が必要でしょう。メンタームと同様、ヴォーリズ建築に対しても、縁のある静岡市民として応援していきたいと思います。

 


第三の茶、香り緑茶

2019-06-17 10:00:00 | 農業

 八十八夜から約1カ月経ち、一時はご祝儀価格だった新茶が手頃に入手できるようになりました。この春は、久しぶりにJA静岡経済連情報誌スマイルでお茶の取材をし、お茶を取り巻く時代の変化を現場で感じることができました。5月末に発行され、経済連のHPで全頁閲覧できますので、こちらをぜひご覧ください。

 

 今回の取材で最も印象に残ったのは「香り緑茶」です。女性に人気の、花や果実やハーブを使ったフレーバーティーの二番煎じか?と最初は穿ってみたのですが、聞けば、「煎茶」「深蒸し茶」に続く画期的な新製法による‶第三のお茶”とのこと。茶葉以外のもので香り付けをしたのではなく、摘み取った生の茶葉に温度を加えて萎凋(しぼんでシナシナになった状態)させてから従来の蒸し工程に進むと、茶葉が本来持っていたナチュラルフレーバーを発揮する、というのです。

 現場取材をしたJAおおいがわ茶業センター金谷工場では、昨年『香り緑茶―宗平SOHEI 』を試作し、今年から本格的にデビュー。山内茂センター長によると、仕上がった香り緑茶を飲んだとき「茶農家だったわが家の茶部屋(茶を揉む部屋)と葉部屋(葉を保管する部屋)の匂いに似ている」と直感したそうです。年配の生産者も同様に「懐かしい香りだなあ」と反応したそう。というのも、現代ほど生茶の鮮度管理を厳密に行っていなかった昭和30~40年代、荒茶工場では摘み取った葉をひと晩くらい放置しておいたので、その間に生葉が萎凋し、独特の香りを発散していたのです。

香り緑茶―宗平は、静岡伊勢丹地下1階のおいしいふるさと村で絶賛発売中!

 

 山内さんが淹れてくれた宗平を飲んでみたら、なんとなく、小学生の頃、遠足で水筒に入れて持って行ったお茶の味を思い出しました。淹れたてのすっきりシャープな立ち香とは違う、時間が経って角が取れた甘い含み香というのかな・・・ひと言でいえばやっぱり「懐かしい」。

 「この香りが、うちの若い女性職員たちに大好評だったんですよ」と驚いた表情の山内さん。香り緑茶製法を開発した県茶業技術研究センターでも、東京在住のふだんあまりリーフ茶を飲まないという20~40代女性108名に試飲してもらい、嗜好調査したら、9割という圧倒的多数から「好き」「どちらかといえば好き」との回答を得たとのこと。年配者には「懐かしい」、若者には「新鮮」に感じるって、ファッションの世界か、昨年来ブームになっているボヘミアン・ラプソディーのクイーンみたいな音楽・サブカルの世界の話かと思ってましたが、香りもそうなんだ~!と、新鮮な驚きでした。

 と同時に「昭和の時代の荒茶工場で萎凋した生葉の香り」と聞いて、酒蔵で、厳密に低温管理を行う吟醸酒造りとは違う、生酛や長期熟成の香味の変化を思い浮かべました。


 道具や設備がローテクだった昭和以前の酒蔵では、杜氏が算段しきれない自然任せの要素が大きくて、失敗も多かったと思いますが、逆に思いがけない香りや味に仕上がる"偶然の産物”もあったでしょう。日本酒は冷蔵庫で低温貯蔵すると香味の変化はあまり見られませんが、常温で貯蔵すると香味はもちろん色も変わって見るからに熟成した!ってわかる。常温長期貯蔵酒の中には、上品なブランデーのような熟成酒に仕上がる酒もある。そんな醗酵醸造酒の鷹揚な温度管理が産む香味の変化が、不醗酵の緑茶にも存在するんだなあ…と二重の驚きでした。


 といっても、今回、県茶業研究センターで開発した香り緑茶製法「香気発揚処理」は、かなり厳密なマニュアルになっています。

 スマイルにも書きましたが、摘み取った生葉に①加温(20~25℃で30~60分)、②低温静置(15℃で12時間)と撹拌処理(静置の間に2時間間隔で5分の撹拌×3回)を行うもの。センターでは製茶機械メーカーと共同で独自の〈香り揺青機〉を開発し、大量に仕上げるマニュアルを確立しました。

 県茶研では様々な品種での試作を進捗中で、これまでの分析で〈香駿〉〈さやまかおり〉〈つゆひかり〉等で高い香気成分が認められており、JAおおいがわでは実際〈さやまかおり〉〈かなやみどり〉〈やぶきた〉で試作をしたそうです。今後、産地別・品種別に特徴ある香り緑茶が数多く出回れば、山田錦一辺倒だった酒造米の世界に地域に適した新品種が増えてきたように、やぶきた一辺倒だった静岡茶にも多様性が生まれることでしょう。

 米農家や茶農家にとって、品種を変えるというのはビッグチャレンジ。しばらくはいろいろな品種を少しずつ試す期間が続くと思われますが、これという手応えを得たなら、思いきって変えてみる・挑戦してみる・世に問うてみるという決断行動に期待したいですね。それを成し得た先人たちが、煎茶製法や深蒸し製法を開発普及させたはず・・・との思いを込めて、今回のスマイルの記事では、最澄が中国から茶をもたらした頃からの茶の歴史を、長いイントロダクションとしてつづってみました。

 

 

 ところで、縁あって酒や茶の生産現場を身近に知る立場となり、歴史を紐解いていくうちに、どうしても気になったのが『酒茶論』という古書。2種類あって、一つは茶の湯の席での客人の失言から端を発し、茶と酒のどちらが優れているかのケンカになって、茶にはお茶うけのお菓子や果物、酒には肴の魚鳥が加勢して、大軍団となった両者が大和の宇治川をはさんで大合戦に及んだという御伽草子。もう一つは中国の古典「茶酒論」をベースに、戦国時代に岐阜乙津寺の蘭叔玄秀和尚(のちに臨済宗大本山妙心寺53世管主)が漢文で書いた酒と茶の効能比べ。禅僧らしく「どっちも水がなければ存在しない」と丸く収めています。

 この『酒茶論』の研究が、私の次なるライフワークになりそうです。

 


広辞苑、重版の旅

2019-06-11 21:02:26 | 地酒

 6月7日(金)夜の静岡県朝鮮通信使研究会で、北村欽哉先生が『広辞苑の中の日朝関係』というお話をしてくださいました。

 1955年(昭和30年)の初版から2018年(平成30年)の第七版まで、過去63年間に7回重版された広辞苑の中で、日朝関係を示す言葉がどのように説明されてきたのか=日朝関係に対する日本人の意識がどう変わってきたのかを検証しようというもの。〈朝鮮通信使〉という言葉が登場するのは1983年(昭和58年)の第三版からで、初版・第二版には掲載されていなかったんですね。で、広辞苑第三版に掲載されてから、突如、学校教科書に取り上げられるようになったそうです。さすがの影響力!

 日本人の歴史観の変化が如実に判るのが〈鎖国〉という言葉です。1955年の初版では「国を閉ざすこと。外国との通商・交易を禁止すること」の22文字のみ。1969年の第二版になると「国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限する事。一七世紀から一九世紀中頃まで、東アジア諸国は鎖国政策をとった。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国・オランダ以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航とを禁じた」となり、第三版(1983)、第四版(1991)、第五版(1998)まで同じ記述となっています。

 2008年の第六版では第五版までの記述の前に『一八〇一年、志筑忠雄がケンペル「日本誌」を抄訳し、「鎖国論」と題したのに始まる語。』という一文を加え、最新の2018年第七版では第六版の記述の後ろに『この状態を「鎖国」と呼ぶのが一般的になったのは近代以降。近年では、幕府が四つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して国際関係を築いて来たという見解が通説』が続きます。対馬=朝鮮王朝の外交窓口だったってことが、日本を代表する国語辞書の中で認識されたのってつい最近なんだな・・・と痛感させられました。

 

 そんな北村先生の面白い研究手法をさっそく真似して、図書館をあちこちハシゴして〈清酒〉〈杜氏〉という言葉を過去の広辞苑で探ってみました。残念ながら、広辞苑初版を唯一所蔵する静岡県立図書館が老朽化の影響で倉庫を開けられないとのことで閲覧不可(涙)。第二版以降からのチェックです。

 まず〈清酒〉。第二版(1969)では「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。日本酒。↔濁酒」とあり、第三版(1983)、第四版(1991)まで同じです。

 第五版(1998)は「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。澄んだ純良な酒。↔濁酒」とあります。澄んだ純良な酒。というのが追記されたんですね。これが直近の第七版まで踏襲されています。吟醸酒ブームが影響したのかしら・・・?

 

 〈杜氏〉を見てみると、第二版から第四版まで「酒造家で酒を醸す男の長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」とあります。そして第五版になって「酒造家で酒を醸造する長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」となり、第七版まで踏襲されています。「男の長(おさ)」がただの「長(おさ)」に変わったのは、男女雇用機会均等法の影響なのでしょうか。確かに女性の杜氏が注目され始めた頃でした。

 私は手元に第四版を持っているのですが、これは、1993年にヴィノスやまざきさんの新聞全面広告を制作して静岡新聞広告大賞奨励賞を受賞したとき、河村傳兵衛先生がお祝いに「これからも誤字のない文章をしっかり書くように」とくださったものでした。でも第四版はまだ「男の長(おさ)」の時代。それから第五版が発行された1998年までの間、私自身、しずおか地酒研究会を作り(1996)、初めての著書『地酒をもう一杯』を出版(1998)することができたのは、酒の世界をはじめ、世の中の保守的な社会で必死に努力し、辞書から性別表現を排除させるほど社会を変えた人々の存在あってこそ・・・と胸が熱くなりました。

 

 図書館の職員さんに、3000頁近い広辞苑を何冊も倉庫から運び出してもらうのに気が引けましたが、版の異なる広辞苑を並べてみると、言葉の大群が「保守」と「革新」とに分かれて闘っているようでワクワクします。広辞苑初版…なんとか見られないかなあ。